其ノ六 狐が嫁を取るということ (下)

 ぼんやり歩いているつもりはなかったし、それほど人通りの多い時間帯でもなかった。

 ましてや通い慣れた駅のホーム、学校から家までの帰り道。

 なのに後ろをから歩いていた誰かの肩にぶつかってしまって、慌てて顔を上げて、まばたきを繰り返した。

「あ、すみません――って」

「よかった。やっぱり翠仙ちゃんで合っていた」

 知人に笑顔を向ける彼女は、深藍の着物姿。薊堂裏の古本屋店主、富貴さんだった。

 こんにちはと微笑まれて、あたしも慌てて会釈を返す。あたしよりずっとさらさらの横髪が秋風に揺れる。こんな街中でも彼女のスタイルは変わらないらしい。

 袱紗で包んだ長持さえ富貴さんが持つのであれば違和感もない。女性にしては少し高い身長とその徹底した似合い具合はホームを行く女性を振り向かせるに至っている。

「声をかけていたんだが、反応がなくてね。人違いかと心配していたところだ」

「ごめんなさい。ちょっと、考え事をしていたみたいで。富貴さんはお出かけですか? それとも、帰り道?」

「両方だ。宅配の帰りで、仕入れの道すがらといったところだ。どっちにしろ仕事さ」

 そう言って片手で袱紗を持ち上げて見せる。どうやら中身は空っぽらしい。仕入れというからにはこれから何処かに古本を買い付けにいくんだろう。

 電車を待っているのは同じホームの反対側のようだけれど、お互い待ち時間があるのは変わらない。富貴さんがあたしの隣に立ち、他愛ない世間話を始めるのはとても自然な流れだった。

「聞いたよ。香介くん、家を空けているんだってね」

「はい。でも元から仕事が多いほうでもないし、なんとかなってます」

「その割には、上手く行かないと顔に書いてあるようだが」

 思わず両手で頬を触ってみる。けれどそんなもので分かるはずもなく、富貴さんが、ふふ、とどことなく悪戯気に笑っている。

「毎日忙しなくしているのが急にいなくなると寂しいものだろう」

「そんなことは」

「ない?」

「ある……かもしれません」

「翠仙ちゃんは、少々頑張りすぎるところがあるからね。たまにはそうして少し我儘を言うくらいが可愛らしいと思うよ」

 相手が女性だと知っていても、頬が熱くなってくる。

 見透かされているせいなのか、単純に“可愛らしい”と言われてしまったせいなのか、でなければ、この感情が“寂しい”というものだと気付いたせいなのかもしれなかった。



 少し転寝をしてしまっていたらしい。

 気が付いた時にはもう扉が開いていて、それが薊堂の最寄り駅だと気付いて、慌てて鞄を抱えてホームに飛び出した。背後でドアが閉まって、大きく息を吐く。それからいつも通りに改札口を目指して、漸くその違和感に気が付いた。


 ――いつにも増して人がいない。

 元々乗り換えも連結もない駅だ。朝夕のピーク時だってそれほど混雑することはない。けれどいつもなら通学時間にとらわれない大学生の一人や二人は歩いているものなのに。

 始めはそれが、あたしが最後に降りて来たせいだと思っていた。しかし通りがかった喫煙室にも待合室の中にも人の気配はなく、自動改札を抜けて、ターミナルでバスを待つ人も、停車しているタクシーの姿さえない。

 これはさすがに少なすぎる、と首を傾げ始めた頃に、ふいに、

「浅見様ですか」

 声に振り向けば、軒先に日傘を差す女性が立っていた。

「浅見翠仙様ですか」

 女性だと思ったのは、背格好と声の高さ。傘の陰で顔は見えない。

 空はもう薄暗いのに、どうして傘なんか、と思った。

 あたしは立ち止まって、

「どちら様ですか」

「浅見翠仙様ですか」

「そうですけど、でもどうして――」


 口にしてから、息を呑んでも遅い。

 そうだ、不明のものに名乗るなとあんなに常葉に教わったのに。

 女性が頷いた――頷いたと思ったのは、そこ傘が小さく上下したから。けれどそれがそのまま、地面に触れるまで大きく下げられる。

 まるで溶けるみたいに。音もなく、傘の向こうから顔が見える。長い髪。白い髪。目は血のように紅く。

 にやりと笑う口角が、ぱっくり顔を裂くまでに広がって。


『浅見翠仙様ですね』


 護法が間に合わない距離だと判った。だからせめて、頭を守るように腕を上げて態勢を低くする。

 雪崩るほどの情報量。膨張した影が、あたしを呑み込むように。

「――っ、」

 せめて目は反らさぬようにと。

 その時だった。


 何かがあたしの横をすり抜けて、あたしの前に立ちふさがった。

 それが人の姿をしたものだと判ったのは、見慣れた制服の後姿をしていたから。

 あたしの学校の、セーラー服。

 けれどその顔に見覚えはなく――いや、どこかで見たことがある。学校以外のどこかで――

 振り向きもしない横顔、黒よりは灰色に近い短めの髪。


「結くん……?」

「全く、手の掛かる小娘だ」


 彼が盾になってくれたおかげで、そのがそれ以上襲い掛かってくることはなかった。

 結くんが腕を振る。ふわりと火が浮かんで、彼の仕草に合わせて大地を奔っていく。

 行き着く先は勿論獣の足元。そこには既に落ちたはずの傘もなく、その何かさえ火に追い立てられて姿を眩ませる。

 いつしか空は晴れ、元通りの斜陽前のじりじりした日の光。

 それから彼が漸くあたしを振り向いた。

「常葉様に嫁取りの話が持ち上がれば、その傍に居る女が疎まれるのは道理。お前も少しは身を慎め」

「そんなこと言ったって、私は薊堂の社員だもの。ここを離れるわけにはいかないでしょう……それよりも貴方、その姿……」

 改めて確かめる、結くんの姿。いつもの水干姿でないばかりか身長さえ頭一つ分ほど高い。話し声はいつもとあまり変わらない。凛と通った、そう、まるで同い年くらいのみたいに。

「もしかして……女の子だったの?」

「見れば分かるだろう」

 彼、いや彼女は何処か憮然とした様子で、

「人間の女ならこちらだと、冴に言われて仕方なく選んだのだ。お前が“高校”になど通っているせいで、普段の容姿では不自然だった」

「……もしかして、わざわざ見張っていてくれたの」

 ということは、最近帰り道に感じていた視線は彼女のものだったらしい。

「常葉様の頼みを無碍には出来ない」

 その言葉を最後に、ふいと顔を反らしてしまう。

 相変わらずあたし自身のことは好きではないようだ。それでも、

「あの……どうもありがとう」

 返事はなかったけれど、歩き出した速度を合わせてくれているから、今はこれでいいことにしよう。



「もう、戻ってこないのかな」

 玄関の鍵を開けていつも通り、事務室のソファに身体を預ける。どうせ仕事も入らないし常葉もいないし、本当なら真っ直ぐ部屋に上がればいいんだろうけど、習慣だった。

 あのまま二人で薊堂に帰って来て、今日はどうやらそのままいてくれるようなので、二人分の緑茶を淹れた。ついでにコンビニで買ってきたどらやきも二つ。結くん……結ちゃん……いや、元のままでいいか――結くんはそれを物珍し気に一瞥しながら、

「当然だろう。あの方は嫁を貰い神仕としての格を上げるんだ。戻ってくるとしたら、その後になるだろう」

「でもそうしたら、この場所には」

「帰らないだろうな」

「そう……だよね」

 想定通りの返答に、自分でも驚くくらい肩が下がる。

 行ってくる、という言葉を鵜呑みにしていたけれど、神に仕える狐としてはそれが当然だ。しかも何百年単位で保留してきた話なのだから、一度了承してしまえばトントン拍子に事態が進むに違いない。

 それを見かねたのか、結くんが咳払いをする。

「俺は常葉様の眷属だが」

 ちなみに薊堂に戻ってからは水干姿に戻っていたので、何度か聞いたメゾソプラノの声で続ける。

「あの方が薊堂このみせを愛しみ、思い入れているのはよく分かっている。土着の神に上がるのは喜ばしいが、何より――あの方の望む生き方をしてほしいと思っている」

「結くんって」

「なんだ」

「ううん。思ったより優しい良い子だね」

 外見が年下に戻っているせいだろうか。なんとなく、年の近い弟や妹のように感じてしまう。

 だからつい口にしてしまったけれど、これには、

「小娘のくせに」

 そうしてまた顔を背ける。けれど耳の端が少しだけ赤くて、やっぱり素直じゃないな、とこっそり笑ってしまった。

「小娘ついでに、あたしのお願いも聞いてくれる?」



 真っ白な路だった。


 冴くんに促されて目を閉じて、気が付いたらここを歩いていた。

 あたしの手を引いてくれるのは冴くんで、振り向けば鈴を持つ結くんの姿がある。彼らの水干姿がこのためにあるのだと、そして、あたしの姿さえ巫女のものに準じている。

 天は暗く、地も影がない。境界を保つのは朱色の灯篭。改めて場の神聖さに息を呑んだ。

 おそらくここは、人が入るべきでない領域。絶対に手を離さないでくださいという言葉に、思わず指先に力が入った。


「あまり気負うと転ぶぞ」

「だって」

「常葉様の前に辿り付くまでの辛抱ですから」


 二人に宥められながら、一歩一歩と道を進んでいく。

 しゃん、しゃん、と、結くんの打ち鳴らす鈴の音だけが響いている。


 やがて辿り着いたのは大きな観音開きの扉。鮮やかな朱色に、見覚えのある透かし模様。ああそうだ、薊堂の庭にある社の扉と同じだった。

 つまりこの先が阿佐の地。阿佐稲荷――祖父の実家で、店を離れた今は神主として一端を担っている場所。その社の奥ということになるのだろうか。


 扉の先にも白い路が続いていた。それがいつしか石段に変わっている。見上げた先には朱色の鳥居。闇の先に蛍にも似た蒼い光が漂っているのが分かった。

 黙ったまま石段を登り終える。最後の一段を踏んだ途端、目の前に大きな社が現れた。やっぱり、阿佐稲荷の拝殿に似ている。思わず立ち止まって見上げる。

 じゃあ、この先の本殿に、常葉の仕えている神様がいるのだろうか。

 と、拝殿の扉が音を立ててこちら側に開いた。誰かが出てくる――身構える前にその顔が見えて、視線があたしのものとぶつかるかぶつからないかという速さで、彼が駆け出してくる。

 あたしの名前を呼びながら。


「翠仙!」

「常葉」


 そう応えながら。ああ、久々に呼ばれた名だ。久々に口にした名だ。たった数日合わなかっただけなのに、それこそあたしの人生の中で数えれば顔を合わせていた歳月のほうが短いのに、懐かしさと安堵。

 彼は、常葉は何か言いたそうにしながらも、まずはあたしの様子を気遣ってくれる。

「冴くんたちに頼んで連れて来てもらったの」

「余計なことを……」

「お叱りならあとで十分にお受けします」

「ごめんね。それと、叱らないであげて」

 大丈夫だからと精一杯笑いかける。本当は眩暈がひどかった。乗り物酔いをしたときに似ている。空間酔いとでも言うのだろうか。

 慎ましく首を下げる二人を前にして、常葉が髪を掻き上げる。

「いや、違うんだ。そうじゃなくて――こんな曖昧な場所に君みたいな子がくるべきじゃない」

「でも、あのまま会えなくなるのは嫌だったの」

 彼が纏う藤紋の白袴。その色を見ればどれだけ位が高い立場に居るのかが判る。出会ったのが薊堂でなければ本当はあたしのような若い人間が言葉を交えることもなかったのかもしれない。

 それでも。


「あのね。あたし、まだまだ貴方に教わりたいこともいっぱいある。頼りきりは良くないって分かってる。けど」


 慣れた角度で常葉を見上げる。彼がまだ困惑の最中にいるのが少し勿体なかった。

 自分でも驚くくらい素直な言葉が零れた。

 会ったら何を言おうかは考えていたつもりだけどそれ以上に、きっと聞き返す日が来たら恥ずかしくなること間違いなしだけれど、今はどうでも良かった。それよりも常葉に会えなくなる方が嫌だから。

 どんな返事でも仕方ない。でも、これだけは伝えておかなくちゃ。


「あたしがあのお店に相応しくなるまで――ううん、もう少しだけでいいから、薊堂に居て欲しいの」


 もう、真っ直ぐ立っているので精一杯だった。それでもなんとか、笑顔だけは絶やさないように。

 常葉の両眼があたしを見詰めて震える。それからまた髪をかき混ぜて、まいったな、と呟いたのが分かった。


「まさか、こんなことになるとは想定してなかった」

「迎えに来たの、迷惑だった?」

「そうじゃなくて。凄く驚いたけど、嬉しいよ。けど」

「けど?」

 心許なくなって尋ねれば、彼が力なく首を振る。

 それから、あたしの手を取って支えて、

「今回の縁談は最初から断るつもりだったし、むこうからも反故を申し出られたよ。なんでも既に好いた相手がいるらしい」

「―――え?」

 大きくて、頼もしくて暖かい掌――そんな感想を持つよりも早く、また別の眩暈が強まった気がした。

 ――断るつもりだった? 最初から?

「間も無く全部片付くから、そうしたらすぐに戻るって、君に伝えるよう二人に託けておいたんだけど」

 ふらつくあたしを支えて、大丈夫かいと尋ねてくる。

「だって、二人が……」


 もう常葉は戻らないし、そのほうが常葉のためだ、みたいなことを言っていた。

 だから無理を言って、こんな人間の立ち入れるギリギリの場所まで連れて来て貰ったのに。

 常葉の視線につられてゆっくり振り向く。粛々と佇む二匹の狐。灰色の髪をした、まだ子供の面影の抜けない輪郭の。

 それが目元と口元だけを柔らかく寛げて、或いはどことなく意地悪く綻ばせて。

 冴くんが穏やかな口振りのまま、


「わたくしどもが常葉様の御心を汲めないわけがございませんでしょう?」

「騙したのね」

「騙されるほうが悪かろう」

 失笑と言わんばかりに結くんが言い添える。


 だって、じゃあ――どうしてあたしはわざわざ此処に来たんだろう。

 自分には珍しくワガママを言って、身の丈の合わない環境にふらふらになりながら。

 そして、臆面もなく、戻って来て欲しい、なんて口にしてしまった。


 耳が熱くなってくる。あたしの手を取ってくれている彼がどんな表情をしているのかが怖くて――恥ずかしくて、元通り首を巡らせられない。

 こんなの、どうせだったら笑い飛ばして貰った方がずっと楽だ。

 いつもだったら言い返す余裕もあるのに、それさえ出来ない。

 だって、だって――

 聞きようによっては、これじゃあ、まるで。

 頬を抑えるための両手は、常葉にしっかり繋ぎ止められている。


「さて、じゃあ」

 その掌の一方が解けて、あたしの頭を撫でる。

「迎えにも来てもらったことだし、予定より少し早いけど、帰ろうか」

 そこからするすると熱が薄れて行って、やっとのことで見上げた彼の顔が、照れ隠しに微笑んでいるのが見えた。

 だからあたしも気付かないふりをして。

「うん」


 なんだか迷子みたいに片手を繋いだまま。

 そういえばこんなこと昔もあったな、と、ぼんやり思い返す。

 ううん、あの時は、今とはすっかり逆だったけれど。



 常葉に手を引かれて石段を戻る。

 ここまであたしを連れて来てくれた二人は、常葉の言伝を受けて代わりにここに残るらしい。

 ほとんど話がついているとはいえ、中途退席に変わりはない。でも、そのための眷属なのだから、と二人も、言いつけた常葉も平気そうな顔をしていた。

 蛍に似た蒼い光。境界を染めるあれは狐火だ。鈴の音は守ってくれないけれど、隣に彼が居る限り何も心配はない。この手を繋いでいる限りは安全だから、と、つまり向こうに戻るまで手を放すことは出来ないらしい。


「ところで、迎えに来てくれた理由なんだけど」

 一歩一歩ゆっくりと踏み下ろしながら、ふいに常葉が口を開いた。

「まだ一緒に仕事がしたいとか、習いたいことがたくさんあるとか言ってたけど。他には?」

「え?」

 見詰めた横顔は澄ましたまま。それがどうやらあたしの視線に気付いたようで、感情の読み切れない両眼が、すうと細められる。


「一緒に居たいとか、考えてるのは僕のほうだけなのかなって」

「え――え?」


 速度の弛む足取り、強く握り返された手。まるで獲物を睨む獣の眼。当然だ。彼は元々狐なのだから。

 それが、またたきの後に柔らかさを取り戻す。


「なんてね?」


 その言葉と笑顔に、また顔に熱が戻る。

 ぱくぱくと露店の金魚のように酸素を探して、それから精一杯の抗議の言葉。


「ま、た、騙して……っ!」

「なにせ狐だからね」


 くつくつと笑う彼と、それでも繋いだままの掌。

 もう、観音開きの扉が道の先に見えている。


 あれを潜ればやっと、あたしたちの薊堂だ。



                                其ノ六 終

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