其ノ五 狐が嫁を取るということ (上)
窓を叩くかすかな音に気付いてソファを立った。
ある土曜の午後だった。薊堂は午後からお休みで、常葉はいつもの買い出しに、あたしは一人お留守番。電話もならないし急ぎの仕事もないし、秋の気配の漂う日差しは暖かい――と、のんびり目をやった窓ガラスが濡れているのに気付いて、おや天気雨か、と思い当った次の瞬間に、屋上の洗濯物がフラッシュバックしたのだ。
さっきも言ったけど常葉はお出かけ中、それに洗濯物の大半はあたしのもの。だから階段を駆け上がって、シリンダー式の鍵をぐるりと回して、どうにかこうにかシーツやバスタオルを引き摺り剥がした。
「常葉、大丈夫かな」
乾きかけだったはずのそれらはやっぱり濡れてしまっていて、浴槽の上に洗濯紐を張って吊るし直しながら、今頃スーパーのハシゴをしているだろう彼に思いを馳せる。
「って、もともと狐なんだから濡れても大したことないか」
それとも化け狐でも風邪をひくんだろうか。
再び事務所のソファに背中を預けようと、目を遣った窓の外。
「あれ、止んでる」
試しに窓枠を少しずらして、庭先を見下ろしてみる。やっぱり水たまりを打つ波紋は見当たらない。
「通り雨だったみたい。――じゃないや、こういうのを確か、狐の――」
その時遠くで、トントン、と何かを叩く音がした。
堅い板の表面を、つまり誰かがドアをノックしている音に違いない。入り口に呼び鈴はついているものの、どうやら気が付かなかった来客がいるらしい。
コンコン、と間をおいて繰り返されるノックの音。けれど今日はもう仕事を入れることはできないし、それでも何か急ぎの用ではいけないと、途切れないそれに急かされる形で階段を下りていく。
――もしかして、常葉かも?
鍵を忘れてしまったのだろうかと一瞬疑ってみる。しかし擦りガラスの向こうの影は僅かに小柄で、何より二つあるように見える。
あたしより少し低い背丈。置き換えるなら小学生か中学生くらい。
「はい」
押し開けた先にはやっぱり二人分の人影。すみません今日は休みで、と断りを入れる隙もなく、一人が深々と頭を下げる。
「お忙しい折に失礼いたします。薊堂の社長様ですね」
「ええ、はい……?」
誰だろう?当然だけれど見覚えはない。いずれかの依頼主のお孫さんかお子さんか、あたしのことを社長だと知っているということは――正しくはまだ社長じゃないけれど、というか継ぐことが出来るかも分からないけれど――道に迷った迷子という線は限りなく薄そうだ。
「初めまして。わたくしのことは冴とお呼びください。同じく、こちらは結。どうぞよろしくお願い致します」
それから、言葉にしきれない違和感。それを深く追及するより先に、髪の長いほうの子が笑顔を浮かべ続けざまに、
「常葉様はいらっしゃいますか」
給湯室から来客用のお茶碗を二つ出して、日本茶注いでテーブルの上に並べた。
「お構いなく」
黒というよりは灰色に近い髪。背中の中頃までの長い髪の子、肩につかないくらいの短い髪の子の二人組。背丈は同程度、顔はあまり似ていないけど雰囲気は似通っている。しかも、あろうことか水干姿。神社のお祭りのときには見るけれど、日常生活でお目にかかることはほとんどない。
外見に似合わず大人びた口振りで喋るのはやはり冴という少女(それとも少年だろうか?)ばかりで、もう一人の結という子は一言も口を開かない。それにどことなく落ち着かなそうで、目の前に差し出された日本茶もじっと湯気を目で追うばかり。緊張しているんだろうか?でなければ、
「あの……二人はその、常葉、の知り合いですか?」
「ええ。かの方にはそれこそ、生まれた頃からお世話になっています」
生まれた頃から、か――長生きしているらしい狐では、人間の知り合いの一人や二人珍しくもない。やはり何かの理由で彼を頼って来たのだろうか。それにしても、あたしのことまで知っているとなると――再びぶり返す違和感。静かに茶碗を手にする少女、沈黙。手持無沙汰なあたし。
「そろそろ帰ると思うんですけど」
愛想ばかりの話の切り口には、急ぎではありませんので、と返答がある。
「寧ろ、ゆっくりと話し合いたい事柄ですので、いつまでもお待ちします」
伏しがちな睫毛が日を透かしても長く、まだ細い指先は白い。見た目に似合わない落ち着いた態度に口振り。――そうだ。この二人、どことなく、彼と似た気配をさせている。
彼?誰ってそれは勿論、今薊堂を留守にしている――
その時、漸く勢いよく扉が開いて、エコバッグを二つ抱えたその人がドア枠越しに言葉を失っている。
きっと建物に入るより前から、来客に気付いていたのだろう。それにしては顔つきはまさに愕然と言えるもの。たちまち少年たち二人の顔つきがすっと整えられ、立ち上がったかと思えば視線を彼へと注いだ。
あたしがこっそり胸を撫で下ろしながら、彼に助けを求めようと声をかける、
「おかえりなさい。貴方に来客――」
「お前達、こんなところで何をしているんだ」
「――が……」
あるの、と招き入れようとしたのを、きっと言葉尻どころか全般さえも聞き逃がしたまま彼――常葉は客人の二人を見詰めていた。
「常葉様!」
常葉……様?
その第一声で彼らが単なる知人以上の間柄だということは知れたし、何より常葉が戸惑っている様子など、ここ薊堂ではひどく珍しい光景だった。
「それは勿論、貴方が一向に御社に戻っていらっしゃらないのでお話を伺いに上がったまでのことです」
「そのことなら、少し待つように言っただろう」
「いいえ、常葉様。そう仰ってから何年が経ったかご存知ですか? 数日や数ヶ月ならまだしも、何百年も待たされ続けていることを少しとは申しません」
違和感のあるフレーズがちらほらと出てきて、それを確信したのは冴さんの言った“何百年”という台詞だった。
もしかして?首を傾げながら、常葉を見上げる。呼びかければやっと気が付いたようで(恐らくあたしが此処にいること自体を)、結局困惑を隠せない眉間の皺のまま、二人に目配せした。
「あの、この子たちは?」
「彼らは結雲と冴月。僕の弟たちのようなものだ」
「弟とは恐れ多い。眷属でございます」
「眷属?」
「ああ。つまり、狐だよ」
「わたくし共のことはいいのです。それよりも常葉様、お相手の方がお待ちです」
「だからその件は」
「何度でも申しますが、番の縁を結んで得は多くあれど損などございませんよ」
新たな狐の登場にさえ状況把握力が上手く働いていないのに、積み重ねられていく遣り取り。
つまり彼ら二人は、何らかの理由で常葉を呼び戻しに来たのだということはなんとなく分かったけれど。
けれど、なに?番?縁?
それってもしかして――花嫁問題?
「阿佐の地を出てこちらへ移ってから幾星霜。地に着くつもりであれば、しかるべき手順を踏んでいただきませんと」
「だから、僕は、土地神になるためにここにいる訳じゃない」
「では、何故いつまでも人間側の地を踏むのです? それともやはり、拒む理由こそがその娘でしょうか」
「え? あたし?」
急に矛先の間合いにあたしが引っ張り出されて、思わず声をあげてしまう。
とっさに常葉を見上げるのに、何故か視線さえ合わない。
「常葉様。結は悲しゅうございます」
それははじめて聞く声色だった。無理もない。最初に会ってからこの事務所に招き入れた今の今までたった一言も喋らなかった少年が、ここにきて常葉に向けて口を開いたのだから。
「よりにもよってこのような小娘とこのような狭苦しい場所で寝食を共にするとは。しかも自ら側仕えを担うなど」
「いや……でも、家事は楽しいし」
「つまり、この方が花嫁候補ということですね」
「え、ちょっと」
なんか話が飛躍しすぎてない!?
「俺は認めません!」
あたしの混乱ぶりを丸ごと打ち消すような、切羽詰まった彼の大声。
ともすればビリビリと硝子を揺らしそうな。言い切って、肩で息をしている。
「結」
彼を窘めたのはその遣り取りに口を挟まずに聞いていた冴さんのほう。静かにたったそれだけ、名を呼ぶだけで彼の動揺を諫めてしまう。
それからその視線がゆっくりとあたしに向けられて、小さく頷いた。
「なるほど、まだ幼いですが聡明な顔をされている。それによい目をお持ちだ。この方ならよもや……」
「違う」
低い声が部屋の空気を裂く。
常葉だった。相変わらずあたしを見ないまま、
「その子は関係ないんだ。巻き込まないでくれ」
ようやくほんの一瞥だけ視線が交差して――あたしが安心感を覚える間もないまま、また離れてしまう。
「ともかく、どうあれ話をつける必要はあるわけだ」
「ええ。その通りです」
「向こうから催促が来ているのか? それともお方様が?」
「どちらからもです」
いつもなら座ることのないソファに深く腰掛けて、眉間をつまんで息を吐く。諦めたような響きをさせる常葉の言葉と、微笑みながらも淡々と事実確認を進める冴月の言葉。あたしはそのどちらにも割って入れないまま――だってまさか、彼の事情に口を挟めるはずもない。
「それに、実はもういらしていただいております。皆々様、常葉様のお帰りをお待ちです」
「分かった」
「――え?」
「直接会って話をつけてくる。今はちょうど急ぎの仕事もないし」
だから、分かっていても心細げな声をあげてしまったけれど、それを引き留めることなんて出来ない。
とにかく荷物を置いてくるから、と常葉が部屋を出て行って、残されたのはまたあたしたち三人、もとい、一人と二匹、といった具合だろうか。
――それにしても、やっぱりこうして見ても常葉同様獣には見えない。
それでも幾らか違和感を覚えられるようになったのは、少なからず常葉と生活する日々の積み重ねだろうか。
「ええと……結くん?」
「気安く呼ぶな」
「私は冴で結構ですよ」
対照的な二人の返答。
改めて見れば、髪が長くてアルト声の微笑みを絶やさないほうが冴くん、髪が短くてメゾソプラノ声の不機嫌そうなほうが結くんということになる。
と、頬に刺さる眼差しの気配に気が付いて、じっと冴くんを見詰め返す。何か変な態度をとってしまっただろうかと、尋ねようかやめようか考えあぐねているうちに彼のほうが首を振った。
「ああ、失礼しました。やはり翠仙様は似ていらっしゃるな、と考えていただけで」
あたしはあたしで、その眼差しの種類を知っていた。ときどき常葉がしてみせる、はるか昔の思い出をあたしの後ろに見ているような、居心地の悪さと少しの淋しさを感じる種類の。
だからもしかしたら常葉も、あたしに似た誰かを見ていたのかもしれないと。
「声や風貌ではないのです。いえ、血筋からか面影は幾分有りますけれど」
「似てるって、誰に――」
「要らぬことを吹き込むんじゃない、冴」
けれどその好奇心は、戻って来た彼の言葉に押し留められてしまう。
振り向いた先に立つ、彼。常葉香介と名乗る人間の姿のまま。けれど今はそれさえ――そう、よそよそしい。
庭の稲荷社の前に立つ彼と、見送りたいとワガママを言ったあたし。空は相変わらずからりと晴れていて。垣根や水溜りを風が揺らさなければ、さっきの天気雨さえ嘘だったように感じてしまう。
やっと目が合って、困ったように眉根を寄せて微笑んで、その仕草に問い詰める気力も勇気も掻き消えて。
「じゃあ、ごめんね、翠仙。しばらく不便をかけるかもしれないけど」
「大丈夫。こう見えても掃除だって料理だって出来るし」
常葉にはかなわないけどね、なんて軽口を叩いてみるけど、果たしていつものように茶化すことができたかどうか。
そう、天気雨は確か、狐の嫁入り。
「行ってきます」
「――気をつけてね」
その夜の出来事は、きっと夢の中で起こったのに違いなかった。
部屋のベッドに体を沈めて、夜の静けさをひとり噛みしめて、ふと視界の端が淡く光っているのに気が付いて体を起こして。
光源は窓の外、カーテンの向こう。三階建ての更に屋根の方、空に浮かぶ月以外の真っ白な光。
まるで呼ばれている気がして、階段を昇って、屋上のドアを開けて。――鍵が開いていたから、やっぱり夢なんだろう。
真ん中に降り立ったのは、牛車。いいえ、それを牽く生き物の姿が見えない。ただ車だけが音もなく着地している。
御簾が僅かに上がって、その隙間から着物の端が見えた。古典の中のお姫様みたいな十二単。
『入れ違いかしら』
「あなたは……」
聞いたことのない声、けれどそれを、あたしの知り得る言語として聞き取ることが出来た。同時に、彼女が誰を訪ねて来たのかも。
『ほんとうは、白狐さまにお願いしておきたかったのだけれど――仕方ないわね』
――やっぱり、常葉を。
ではもしかしたらこのひとこそが、彼の――
そう思うだけで、何故か言葉が喉奥に詰まって出てこなくなる。
代わりに彼女が、顔も見えないままの彼女が――それでも声色がとても優しく、穏やかなひとなのだと判って。
『ねえ、あなた。どうかあの方を、わたしと――』
「どうかした?」
突然顔を覗き込まれて、その近さに少しだけ仰け反る。
けれど覗き込んで来た相手は他でもない、この春までは同じ家で生活してきた弟で、彼の不思議そうな眼差しに、ふうと息を吐いた。
「な、なんでもない」
少しだけ、ちりちりとした違和感を覚えただけ。誰かに見られているような、鋭くも小さな気配。食堂に入ってからは消えてしまったので、気のせいかもしれないと辺りを窺っていただけだった。
否定するあたしを見ても、怪訝な彼の視線は変わらず、
「翠ちゃん、最近元気ないんじゃない?」
あれからもう一週間になる。
昼食の途中だというのに欠伸が漏れそうになって口元を隠した。元々早起きは苦手だった。それを遅刻せずに出席出来ているのだから、それだけでも随分の成長だろう。
あたし一人でもなんとかなるのだ、だいたい今までが常葉に頼りすぎていただけ――そんな自信を、弟の茜音が見透かしてくる。
「仕事忙しいの? もしあれなら手伝いに行こうか。どういう仕事か分からなくても、お茶汲みや書類整理くらいなら手伝えるし」
「大丈夫、むしろ今はほとんど仕事が入ってないの。その、社員の人も休みでいないし」
「え、そうなの。ならむしろ、一度帰ってくればいいじゃん」
――それもそうなんだけど。
でも、いつ常葉が戻ってくるか分からないし――そう、考えてしまうとどうしても事務所を空けられなかった。
待っていて、と言われたのではない。けれど、彼は確かに『行ってきます』と言い置いたのだ。
話を付けてくると。それに、助手の帰りを待つのも上司の務め、だと思う。
上司、社長。
だというのに、彼が居なければお店さえ開けられない自分が不甲斐ない。
屋根を藁箒で掃いて、鳥居を布巾で拭う。
社の扉は一層丁寧に。それからお供えに牡丹餅。
残念ながらあたしの手作りではないけれど。
一通りを終わらせて、社を見上げた。薊堂の庭にある小さな稲荷。掃除の大半は常葉がしているけれど、社を清めてお供えをするのはあたしの日課だった。
これは、あたしが初めてこの薊堂に来てから……常葉が狐だと知るよりも前からずっと続けて来たことだった。
「精が出ますね」
声に振り返れば、勝手口を降りて来たらしい冴くんが立っている。
「家主が留守でも綺麗にしておきたいし」
「さすがは浅見の血の子ですね」
常葉が薊堂を去ってから三日した頃だろうか。彼の
「常葉がうちと関わりを持つようになったのは、何代も前からなんでしょう」
「ええ。ですがそのお陰であの方は、ただの
「じゃあやっぱり、嫁を娶ることは必要なのね」
「格を上げれば分社を任されることになります。わたくしどもはその折に阿吽として社にお仕えするつもりです」
「そうしたらこの社はどうなるの」
「元よりただの窓口です。ここに居た常葉様が好んで身を置いていただけですから、元通り神仕の必要ない小さな社に戻るだけですよ」
その横顔に、ふと思い出すことがある。
――血筋からか面影は幾分有りますけれど。
「ねえ、前に“似てる”って言ってたことだけど、聞いてもいい?」
事務所に続くドアを開けて、足を止めて。あたしより少し低い視線を辿って思い切って聞いてみる。
もしかしたら、と思いながら。
そうすると冴くんは俄かに瞬きをした後に、ああ、と小さく顎を引いた。
「少しならば構いませんでしょう。あまり話すと常葉様に叱られてしまいます」
思わず目を遣る、今は主不在の事務机。元は一階の倉庫に眠っていたのを、彼のために引っ張り出して来た、少し錆の浮いた天板。
「わたくし共も直接お会いすることはありませんでしたが」
冴くんはあたしから目を反らすことはなく。だから余計にこちらが戸惑ってしまうけれど、どうにか堪える。
聞いてしまいたいという好奇心と、知りたくないという焦燥感。
「あの方を、ただの野干だった常葉様をこちら側に繋ぎ止めた人間が居たのです。とある神社で神職に着いていた人間でした。名前は、浅見真那賀」
其ノ五 終
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