其ノ四 狐雨降れ、夢の路

 夢うつつとソファに沈んでいると、どこかで賑やかな喧騒がした気がした。

 本通りから外れたこの建物は車の音も電車の音も遠い。だからこそ転寝には快適で、来客がない限りはこうして時間を潰すことも少なくなかった。

 応接室と事務室が併合した部屋。あたし達の生活する薊堂の中心部。部屋の奥には滅多に使わない社長机、入り口傍に据えた事務机には一人の青年が座って雑務をこなしている。

 依頼客がないときは、あたしのために淹れられるお茶の香り、それが夏の今は麦茶の気配と摩り替わって、からり、涼やかな氷の衝突音に夢が薄れる。

 午睡の中の、喧騒。

 それは神楽舞の伴奏に似ていた。

 太鼓の振動に篠笛。鈴の音。僅かに伝わる人々の声。

「お囃子……?」

 我知らず呟く。それが声になったことを実感して、途端に夢から引き剥がされて、元の事務室のソファに戻る。

「そうだよ」

 あたしの呟きに別の声が応えた。悩む必要はない、事務机に向かっていた常葉だ。

「明日から夏祭りだから、予行演習かな」

「あーそっか、もうそんな時期なのね」

 聞いてから、自分がまだ寝ぼけていることに気付いた。慌てて身体を起こす。おはよう、と苦笑の顔が向けられる。

 小規模なものだけど、出店に、御神輿に、花火。結構賑やかなものだと彼が言う。

 現実か夢か、分かったのか分からないのか曖昧に頷いた。正直言って世間一般に言う“夏祭り”に精通していない。お祭りといえば本家の手伝いで社務所に詰めたり、千早姿で舞を奉納したりといった経験しかない。舞手に選ばれれば何週間も前から練習し通しで、前日や当日ばかりかその前後までも忙しさくらいしか心当たりがないのだ。今年は……今年も、顔を出さなければいけないだろう。

 そんなことを考えていると、また少しお囃子の調子が近くなった。それから、明日の開催を知らせる硝煙花火の音。

「花火はいつ上がる予定なの? 明日、明後日?」

「二日目だから明後日だね」

「ここからも見える?」

 聞いてから、はっと我に返る。振り向いてみればやはり彼の視線がこちらに向いている。

「屋上からなら見えると思うよ」

 ふうん、なんて、今更しらばっくれても遅いのは気づいていた。細められた目に思わず睨み返す。微笑まれて余計に居心地が悪くなる。

「見えるけど、そうだね、河原まで行った方が綺麗に見えるはずだよ」

 それから、ボールペンを置いて常葉が付け加える。

「露店も出てるだろうし、折角だから見に行ってみようか」

「本当?」

 ぱっと顔を上げる。一体あたしはどんな顔をしていただろう。嘘をついても仕方ないよ、と常葉が笑う。苦笑は既に気にならなくなっていた。


 じゃあ、明日の夕方に出ようか。常葉にそう約束を貰ってから、当日のその時間までが一苦労だった。だって、必要なものだけ持って来た身の上だから浴衣なんて持ち合わせがあるはずもない。本当は普通に洋服で行くつもりだったけれど、常葉が「実家にならあるんじゃないの」「電話して聞いてみようか」などと言い出したのだから大変だ。

「べ、別にいいよ」

「数少ない僕の期待を奪うなんてどうかしてる」

 珍しく重苦しい溜息を吐かれると、どうも突っぱねることが出来ない。

 だいたい、そんなことを言いつつもどこまでが本気なのか冗談なのか分からない。本性を知ってからは随分打ち解けた(と個人的には思っている)ものの、彼とあたしが“違う”のは決定的な事実だった。理解できない部分も多い。もっと言えば、まだまだ見えない部分がきっと沢山残ってる。

 お祖父ちゃんが居たときはどうだったのだろう。気になっているけれど、わざわざ電話してまで尋ねる気になれないのは、きっと気後れしてるせい。


 夕刻、外に出れば既に太鼓や笛の音が聞こえていた。祭りの中心となる神社と商店街は駅とは反対方向だから、いつもは足を運ばない東側へと道を曲がる。途中通りかかった古本屋の主人が軒先から手を振っていたので頭を下げる。お祭りには行かないんですか、尋ねれば、私は庭で涼んでいるのが性に合うからと笑っていた。

 薄闇になり始めた参道を上れば、道の両側を朱色の提燈が縁取っている。所狭しと屋台、幟、その間を埋める沢山の人の姿。それが延々と鳥居の向こうまで続いている。

「思ったより混んでるのね」

 少し声を張りながら言うと、常葉も負けじと耳を寄せてくる。

「言ったろう、結構賑やかなものだって」

 そうして合った視線は、どこか意外そうな気色を含んでいる。へぇ、と嘆息したように聞こえたけれど、この喧騒の中では例えそうでも耳に届くはずがない。

「……なによ」

「ううん。やっぱり似合ってるなぁと思って。まるで……」

 言葉の先はお囃子の影に消えたのか、それとも元から発声されなかったのか。あたしは咄嗟に反発する。そうすると一瞬だけ焦点が睫毛の先に帰ってくるけれど、またすぐにどこか遠くを眺めてしまった。

 ――時々、気づいてしまう。常葉は、あたしでも目の前の生活でもない何処かを見ている瞬間がある。

 杞憂であって欲しいと願いながら。だから、あたしは努めて虚勢を張る。

「それにしても、あなたも着るとは思わなかった。それ、自前? 富貴さんに借りたの?」

 そっと指を伸ばして、紺色の浴衣の袂を握ってみる。彼はにいっと口角を上げて、

「僕を誰だと思ってるのかな」

 嘯きながら、どこからか狐の面を出してきた。冗談か本気か分からない小道具に思わず噴き出してしまう。

「化かされないように気をつけなきゃね」

 夜が深まる。からころと、下駄の音を響かせて。



「ところで」と風情ある浴衣青年姿の彼が、林檎飴を齧りながら首を傾げる。

「ところでさ。折角の夏祭りなのに君はいいの? 寂しくない? 僕なんかと来ていて。もっと他に一緒に来る異性はいないの?」

「なっ……常葉が誘ったんじゃない」

 予期しないことに慎みも忘れて大声を上げる。どうせお守り気分で誘い出してくれたんだろうとは思っていたけれど、まさか、そんな心配をされているなんて。

 そうだけどさあ、などと肩を竦める横顔といったら、なんて忌々しいんだろう!

「来たそうにしてたから提案したんだけど、あとで思ったんだよね。もしかしたら、他に来るべき相手がいるんじゃないのかなって」

 性質が悪いのはその言葉と表情。あたしと常葉が別の生き物だということを十分に自覚した上での、一滴の悪意もない気遣い。

 息を吸う。反射的に浅く強く吸い込んで、すぐに声と共に全て吐き出した。

「いないわよ、どうせ。馬鹿っ」

 思いの丈を言葉ごとぶつければ、益々鷹揚とした表情になる。気遣わしげで申し訳なさそうな態度が余計に口惜しさを呼ぶ。

 いないわよ、どうせ、生まれてこのかた!

 だから……だから余計に分からないっていうのに。

 馬鹿みたいだ、本当に。ただでさえ暑いのに熱量を使って余計に汗が滲む。

 ごめんごめんと、どこもすまなそうじゃない笑顔が先を歩いていく。拗ねた意思を表そうと歩調を遅くすると、何気なく歩幅を合わせてくれる。こういう所が年輪の違いで、あたしが不必要にありのままで居てしまう原因だ。

 長く永く生きる青年と、生まれて十数年ばかりの少女あたし。対等でいられるとは思っていないけれど、いつか覆してやりたいと懇々と画策している。

 ううん、それが叶わなくても、せめて、指の先くらい触れる場所に。

 だから、ぽつりと心の内を吐露してみる。

「寂しくなんてないわ」

 露わにする。心に蟠る、感謝を。

 だって、誰かのお陰であたしは孤独じゃないから。

 歩きながら零した声は、今はまだ、喧騒に紛れて届かない。


 ***


 夜闇に大輪が打ち上がった。喧騒の面々が魅入られた様に空を仰ぐ。傍らの少女も同様で、若やかな表情が閃光に彩られている。

「きれい……」

 とっさに呟いたであろう言葉に頷く。

「もう少ししたら河原に行ってみよう。そのほうがきっと良く見えるよ」

 嬉しげに微笑む。普段の意地っ張りな気配――といっても、あれは僕に言わせれば背伸びの象徴でしかないけれど――それすら夜に隠れてしまったのか、純粋に祭りを楽しんでいるようだった。

 喜んでくれているのなら何よりだ。

 たった十六年やそこら生きた少女が、年齢にも風貌にも似合わぬ無理をしているのは一目瞭然だ。勿論それを指摘すれば彼女は憤慨するし、少しでも庇おうとすれば忽ち後悔する。

 彼女はどうやら甘えたり支えられたりという立場に慣れていないらしく、僕のフォローは全て自分が足を引っ張っている所以だと思い込んでしまう。幾ら「社長を護るのも助手の仕事だ」と言い含めても納得しない。「祖父ならこんなミスはしない」と、先人と新人を比べては声を荒げる、肩を下げる。それすら若い証拠なのだと、口にすれば酷く落ち込むのは目に見えているから、それすら僕は飲み込んで微笑する。

 ――早く思いのままに生きられればいいけれど。

 この年端行かぬ少女の生き方を、不憫だと思って仕様がない。


 そして、重なるのは誰かの姿。何十年も何百年も前に、僅かな時間を共有した一人の人間のこと。

 『貴方は、貴方の好きな様に生きなさい』。

 僕の従ったその人は、僕の慕ったその人は、一人で全てに立ち向かい、凡そ周囲を支えるまでに強かった。一匹の狐が傍に控える必要も無い程に迷いがなかった。けれど、言葉に表されずとも知っていた。気付いていた。夜空の月がいつもこちらに美しい面を見せているように、その裏側には脆さも危うさも秘めていたのだろうと。


 だから、僕の遣える二人は、どこか似通っている。

 血縁だとか年頃だとか、そういう類似点は無しにして。つい手を差し伸べてしまいたくなる程度には、思い入れを持ってしまう程度には似ているのだ。

 或いは、僕自身が重ねたがっているだけなのかもしれないけれど。


「    」

 花火の音に紛れて名前を呼んでみる。少女は気付かずに空を仰ぐ。ぼんやりしたそれを可笑しく思って、もう一度、こっちだよと立ち止まってしまった横顔を呼ぶ。

「翠仙」

 今度はどうやら声が届いたらしい。

「ほら、金魚すくいがしてみたかったんだろう? 空いているうちに急ごう」

 居心地悪そうにからころと下駄を鳴らす彼女。この子は本当に良い意味で小さい頃と変わっていない。手招きすれば、心許無い表情がすぐ引き締められる。


 ああ、もしかしたら。

 もしかしたら、夏祭りに来たかったのは自分なのかもしれない。

 そう考えると途端に笑いが込み上げてくる。


 ***


「あ、雨」

 彼の発する声より早く、頬を叩くものがあった。揃って空を仰ぐ。見えもしないのに、その降り落ちる果てを眺める。

「降ってきたね」

 無数の雫が出店の屋根やコンクリートを叩く音。それは次第に早く強くなっていって、比例して人混みからも慌てた声がぱらぱらとあがる。あたしたちもその内の二人だった。さすがに急ぎ足になって、どこか凌ぐ場所がないか探した。

「おいで、向こうの屋根まで急ごう」

 常葉があたしの腕を引いて、石畳の先へと促した。追いていかれないように、少しだけ小走りでその横顔に付き従った。その刹那。

 なんだろう、どこか懐かしい気がする。心のどこかに憶える既視感。

 あたしは……私は、こうしてお祭りに来たことがある。こうやって藍色の背中を、襟足を尻尾のように括った後姿を見たことがある。振り向いた微笑に覚えがある。私の名を呆れたように呼ぶ声を、聞いたことがある。私の名前を――そこまで考えて、それが思い込みに違いないことをすぐに悟った。

 だって、あたしは夏祭りを傍観したことがない。あるとすれば物心もつかないくらい幼い頃で、だいいち、常葉と一緒に夏祭りに来たことさえ今回が初めてなのだ。なのにその後姿に懐かしさを覚えるなんて、お囃子の喧騒に懐古の情を覚えるなんて、どうかしてる。

 だってその証拠に、その感覚は彼の手が離れていった途端薄れてしまったから。

 すぐに止んでしまった通り雨は、花火を打ち消すこともないまま束の間の涼を運んだ。どおん、喉の下辺りに響く音に驚かされ、また空を仰ぐ。

「常葉?」

 彼が手に提げた獣の面が青白く光る。その影に、あるはずない耳と尾の姿を見る。

 この光景は幻想ではないのだろうか。あたしは知らず知らずのうちに化かされてしまったのではないだろうか。

「どうかした? 翠仙」

 幻でないことを祈りながらその袖を引いた。

 花火の影の中で、振り向いた狐が笑った。


                              其ノ四 終

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