其ノ三 寝覚める月に幕間を読む

 土曜の午後は穏やかに過ぎていく。スチールラックから引きずり出したファイルを周囲に広げながら、過去に受けた仕事の内容を拾っていた。

「やっぱり、バクについての仕事はないのね」

 たまには社長代理らしくお仕事を――とはいっても、あたしの定位置は窓際に引っ張っていったソファの上で、お祖父ちゃんが使っていた執務机に身を置くことはほとんどない。ああ、たまに学校で課題が出たりして来客で応接机が埋まっているときなどは借りたりしているけれど、やっぱりまだ、あの席に堂々と座るには抵抗がある。


「ふわ」

 思わず欠伸が零れてしまう。丁度お茶を運んできた常葉とばっちり目が合った。

「大丈夫?」

「うん。結構慣れた気がする」

「それはそれで困るけど」

 受け取ったのはフレーバーティー、リンゴで香りづけされた緑茶。口元に近付けるだけでふわりと甘い香りが広がって、それで少しだけ、体内の眠気が薄まった気がした。

 リィン、と入り口のベルが鳴ったのは来客の合図。念のため言うけれど、ベルがなくとも常葉には玄関が開くより前から来客の気配などお見通しだ。それでもカウンターに設置したままなのは依頼者側の意志表示を確かめるための保険のようなもの。

 アレを鳴らした誰かは、本当に悩みを抱えているということ。


 常葉に招かれて入って来たのは私の母くらいの年齢の女性だった。両手で大事そうに抱えている小さな袱紗包み、きっとあれが彼女の困りごとなのだろうと、そろそろあたしにも見えるようになってきていた。

 立ち上がって歓迎の言葉をかける。薊堂を再開したとは言ってもここ数か月は再開の知らせを聞きつけたらしい昔馴染みからの仕事を請け負っていたものだから、紹介もない飛び込みの依頼というのは貴重だった。紅茶を差し出して、スラックス姿の助手が丁寧に頭を下げる。

「申し遅れました。薊堂の常葉香介です」

 穏やかに微笑んだままそう自己紹介するものだから、思わずソファの陰で笑ってしまう。

 うん、まあ確かに、どこからどう見ても日本人の成人男性だし、何も変なところはないけれど。

「……なにを笑ってるのかな」

 どうやらバレていたらしく、彼が側を通りかかったのを見計らって、お客様に聞こえない距離で窘められる。


 ティーカップを片付けた後のテーブルの上にはトレイがひとつ。そこに鼈甲で象られた手鏡が静かに横たえられている。余程大事にされてきたのだろう。疵も欠けも見られない、経年さえ感じさせない綺麗な光沢だった。

「この手鏡は、このまま預かるのね?」

「一刻も早く手放したいというのが先方の意志だからね」

「悪いものには見えないのにね」

 眺めながら首を振れば、すぐ横で何故か常葉が、ほうと息を吐く。

「翠仙も、だいぶ鍛えられてきたって感じだ」

「誰のお陰かしら」

 皮肉のつもりで言ったけれど、意に介せずに彼は頷いて、

「いやいや、君は元からそういう血筋だからね」

 彼の言うように、祖父も曾祖父も、その道を見通す目は持っていたのだという。骨董の目利きという意味だけじゃなく、それがどのようなものなのか――善いものなのか、悪いものなのか。生憎、父はそういうものを養えなかったようだけれど、あたしもこの仕事に携わり続ければ、いつか常葉の手を借りずに彼らを扱えるようになるだろうか。

 そうなりたいと思いながら、その道が遠く険しいことも、今は少しだけ覚悟している。

 応接テーブルの天板を一通り布巾で拭い終えて、常葉は部屋の隅に佇む柱時計に目をやった。約束の時間までもう間もない。


「さて、そろそろ行かないと」

「あ、ねえ、あたしも一緒に行っていい?」

「構わないけど……待っていたほうが身体の負担が少ないだろう」

 今の今まで欠伸をかみ殺していたのだから、彼が難色を示すのも当然といえば当然だけれど。

「いいの。久々に富貴さんにも会いたいし」



 玄関に鍵をかけて、プレートをClosedに直して、右手の小道に沿ってしばらく歩いていく。そうすると数分で垣根の途切れ目が現れて、ゆるやかな勾配の砂利道をゆっくり登っていく。

 目指す場所は薊堂の真裏にある。ご近所さんというか、お隣さんというか。うちの敷地なんてすっぽり入ってしまうほどの日本庭園に咲くのは萩の花と桔梗。薊堂の庭まで届く金木犀の香りはこの木のものだろう。


「いつ来ても素敵な庭ね。まるで街中じゃないみたい」

 途中で門を潜り庭園を抜けて、二階建ての木造家屋が見えてくる。しっとり黒い瓦屋根、開け放たれた玄関には“商い中”の暖簾と“深砂鷺”の屋号。

 人様の庭だというのに気負わず進んでいく常葉の背中を追って、屋根の下へとお邪魔する。「こんにちは」と、声をかける。廊下の奥でなにやらがさがさ物を掻き分ける音がしている。

「お邪魔します、薊堂です」

 根気良く呼びかける常葉の声が届いたらしく、襖の間からひょいと顔が覗いた。

「いらっしゃいませ! 富貴ふきさん、お客さんだよ」

 予想していない相手の出迎えがあったものだから、ちょっとだけ瞬きを繰り返す。顔を出したのは少し赤い髪の青年。ここの家主とは似ても似つかない。けれどすぐ、

「ああ、来たね」

 その背後から一拍遅れで姿を見せたのがこの店の主人。にこにこと爽やかな笑顔を浮かべてあたしたちを迎える、古書店深砂鷺みささぎの主人、雪村富貴さんだ。


 最寄り駅から十分弱の街中に居を構えつつ、着ているのはいつも和服だった。濃紺の小紋に帯の着流し姿。文豪や時代劇でよく目にするあれだ。男性独特の細い帯は角帯と言うのだと以前教えてもらったのを思い出す。

「お久しぶりです、富貴さん」

「うちに来るのは紫陽花の件以来かな」

 光も吸い込んでしまう黒髪、線の細い輪郭。背は常葉よりは低く、落ち着いた身形と口調のお陰で年齢不詳に見える。いくらか年を召しているような、反対にもっと若いような。

 髪と同じで漆器のように黒い瞳。それがあたしを捉えてふっと和んだ。

「まずはお茶でもいかがかな。ちょうど睡蓮が綺麗に咲いているよ」

「いいんですか?」

「こら、翠仙。今日は仕事だよ」

「相変わらず香介くんは生真面目だな」

 何よりの素性を隠してしまうその姿と口調。

 そう、いくら落ち着いて見えても、穏やかに口角を上げていても、少し粗野な言葉遣いも男物の和服でも――声も顔付きも、彼女はまごうことなく女性なのだった。



 雨戸を開いた縁側には軽やかな秋風が吹き抜けていた。

 繁華街から外れた立地も、外界から隔絶された雰囲気も、ここが一般的に言われるリサイクルショップとしての古本屋と異なるのは明らかだ。版画絵から和綴じの写本まで手に入る、正真正銘、古い本を扱う店。それを証明する、廊下から座敷まであちこちにひしめき合う木枠の本棚。

 庭が一望できる客間に通される。楢の一枚板の机に、茶托に乗った緑茶が三つ。二つは四角いテーブルのこちら側で、もうひとつは店の主人の前に添えられる。持ってきたのは、さっき出迎えてくれた赤髪の青年だった。

「どうぞ」

「ありがとうございます。初めて見る方ですね?」

「永春紫苑です。夏からここでバイトしてます」

「おいおい、雇った覚えはないんだけれどね」

 腰を下ろした富貴さんが、お茶を飲む代わりに溜息を吐いて彼を見上げる。

 確かに今時の大学生然とした彼の雰囲気からしても、このお店には似つかわしくないかも、とは思ったけれど。

「キミの学友の雨原くんもよく顔を出しに来るが、此処を寄合所か何かと勘違いしているんじゃなかろうね」

「でも、賑やかなのも悪くないでしょう」

 そうして人当たりのいい笑みで、彼女の小言さえ吹き飛ばしてしまう。

「それに富貴さん、茶葉の場所も美味しいお茶の入れ方も知らないでしょ。そんなんで来客があったときどうするんですか」

「どうせ高いものでもなし、色がついて味がすればいいだろう」

「よくありませんって!」


 それからも富貴さんと新しいバイトさんのやりとりを微笑ましく眺めながら、少しの間ゆったりとお茶を味わった。

 どうやら、思った以上にこの店に、富貴さんに馴染んでいるらしい。

 それに心なしか、富貴さんのほうが押し負けている気がしなくもない。

 さて、件の品物だけれど、と空になった茶碗と彼を台所に追いやって、あたしたちはそのまま隣の座敷へと移動する。


「この本棚のどこかにあるはずなんだがね」

「この本棚って――」


 言いながら開かれた障子の向こうには、畳敷きの間なのに壁一面の本棚。それどころか床の上にまで積み上げられた本の山。

「ええと、目星はもう、ついているのかな」

 もう随分人間の姿で生活するのに慣れているはずの常葉が、現代日本語を言い淀みながらも店主を振り返る。

 日課の掃除含む家事が趣味同然の彼には眩暈案件間違いなし。かくいうあたしでさえ気が遠くなりそうだ。

「だから、この本棚の何処か、だ。裏の書庫でも表に出してる棚でも蔵の中でもない。大分絞り込めたはずだ」

「……午前中のうちに来れば良かったかな」

「……あたしも来て正解だったでしょう?」

 あとは、夕飯が深夜の出前にならないことを願うばかりだった。



「あったあった。これだろう」

 それから更に一時間が経過したころ、流石は古本屋の主人という鑑識眼のもと一冊の本がテーブルの上に招かれる。

 年月が経っているはずなのに表紙の紺色も真新しい和綴じの本だ。

「ご希望通りのものだと良いのだけれどね」

「翠仙」

「うん、平気」

 彼に促されなくても、表紙に触れる前からでも分かる。これが、が必要としていた場所なのだと。

 震える指先を叱って、人差し指の腹が和紙の柔らかさに届く。

 ゆっくりと、一枚一枚と開いてみる。そして辿り着いた最後のページ。

 星の瞬く中に雄大に広がる綿雲の挿絵を確かめて、深く頷いた。



 月の見えない夜だった。

 薊堂の裏庭、稲荷の小さな社の前。朱色の鳥居のこちら側。一歩離れた背後には、見守るように彼が静かに立っている。

 いつも通りのスラックスにシャツの青年姿。違うとすればその双眸が、月陰のないまま金色に輝くこと。

「頃合いだ」

 彼の声を待って、胸元に抱えていたそれを胸の前で掲げる。紺色の和綴じの本。表面を一度だけ名残惜しく撫でてから、台座の上に広げる。

 まだ学生のうちは制服が正装だからと彼に教わって、セーラー服に袖を通していた。榊は使わない。その代わりに手を合わせて。深く目を閉ざした。


「たかあまはらにかむづまります かむろぎかむろみのみこともちて」


 風のない夜にあたしの声だけが流れる。

 そうするとやがて、声が秋風に変わる。

 ふわり、頬の端を涼やかな気配が撫でる。

 心臓も頭の中も指先も、自分が思っていたよりずっと静かだった。

 見えているのは目の前の本だけ。考えているのは。


「かけまくもかしこき いざなぎのおおかみ」


 風が強くなる。ひとりでに、ゆっくりと表紙が持ち上がる。

 ぱらり、ぱらり、誰かが開いているみたいに繰られていく。

 光もないのに、浮かび上がるように。


「はらへたまひ きよめたまへともうすことを」


 そうして最後のページ。墨で書かれた星空に浮かぶ綿雲の挿絵。

 あたしは静かに顔を上げる。瞬きをゆっくり一度。それで視界が切り替わる。


「きこしめせと かしこみかしこみもうす」


 それを確かめて、ふ、と息をはいた。

 綿雲の上に眠る小さな獏の子。ついさっきまで、あたしの肩に乗っていた子。

 あたしの夢を食べて待っていた、迷子の仔。


 全てを見届けていた常葉がすぐ傍にやってくる。あたしの肩に手を置いて、本の中に戻ったその子を確かめる。

「うまく、出来た?」

「ああ。もう、桂一朗にも劣らない」

 今はお世辞でも素直に嬉しい。それでも立っているのが辛いからか、上手く言葉にならないり

「あとは持ち主に返すだけだ」

「うん。でもなんだか少し、寂しいね」

 ちょっとちぐはぐなあたしの言い分に、常葉は黙ったまま笑って頷いてくれる。

 もう眠気はないけれど。喜んで悪夢を食べる子はいないけれど。

「どうか良い夢が見られますように」




 *



 深い森の中にいて、心細さに涙を堪えていた。

 耐え切れずにしゃがみこむ影を木漏れ日の中にあった。物心ついたばかりほどの幼子が、大人の目から取り零されて迷い込んだ鎮守の森。好奇心で探検に来たはずの勇ましい少女はもう存在しない。そこにいるのはただ、大好きな家族にもう一度会いたいと願う幼い子。

 ――おじいちゃん。

 ――だれか。

 これこそが最期の別れだと思っていた。良く知った土地の片隅なのに、小さな少女にはついぞ今生の別れに感じていた。悲しみはひとりでに溢れていた。

 堪え流れる涙の糸が頬を横切れば、俄かに新緑の陰がくらりと明るんだ。

 太陽の白ではなく、蒼色の灯火。陽炎に似た。呆然と振り向いた先には一人の青年がいる。

 少女には決して見覚えのない人の影、薄色のスーツに黒檀色の髪の男。少女は未だ知らぬ、覆ることのない運命の邂逅。


『迎えに来たよ』


 差し出されたてのひらが少女の涙を留める。その時少女は悠長にも、彼のワイシャツの釦がきっちり留められている様子を見て、夏なのに暑くないのかなと見当はずれなことを考えていた。

 蝉時雨が賑やかだった。引かれる指先が冷たく心地良い。薄青のワイシャツが日差しに優しかった。


『皆心配してる。おいで、さあ、  さんも探しているよ』


 柔らかな微笑みが、少女の心を穏やかにさせる。

 ふと、足許に目を向ける。瞬きを繰り返す。手をつなぐ彼の影はまるで、耳の立った獣のように見えて。



 *



「ああっ、来た来た! スイちゃん!」

 教室の扉を開けた途端、驚くような声量であたしの名前が叫ばれた。おはようと言うのも忘れて、あたしは困惑しながらもわらわらと飛び掛ってくる友人達を見渡した。あっという間に埋め尽くされる視界。制服の色。昨日一昨日の疲労が取れていない朝には少し重たい。

「ちょっと、見たよ」

「どういうことなの、あれ。釈明を要求します」

 囲まれて、今度は口々に何かを訴えてくる。けれど彼女達の言葉はどうも抽象的で、起きてから間もない脳では、ちょっと思考が追いついていかなかった。

「見たって、釈明って、何を」

「昨日の放課後」

「駅前のクラウンダイナーで」

 昨日の帰りに立ち寄ったファミレスの名前だ。それはすぐに分かった。だからやっと、彼女達が言おうとしていることの全貌が形を成してくる。

 つまり、放課後に常葉と待ち合わせをした場所。友人達がこぞって聞きたがる質問の意味。

「ねぇねぇ、あの男の人誰? 黒髪で、すこーし釣り目の、笑顔の爽やかな美人さん!」

 あれをと言える着眼点に素直に尊敬する。確かによく笑っているけど、思い浮かぶのは幸せそうに事務所の掃除をしたり幸せそうにきつねうどんを食べたりする場面ばかりだ。

「あー……あれは」

「兄弟じゃないよね。確か弟だけって言ってたし。てことは、」

「もしかして」

「「「カレシ?」」」

「絶対に違う!」

 これには思わず反論した。


 だって、狐だよ?人間社会順応(主に家事)が好きな狐だよ?そのくせ未成年を預かる上で祖父に恥じないようにと、宿題学業特訓と厳しい監視役。

 後半はともかく前半を口に出来るわけはないので、あわあわと言い訳を考えていれば、いつのまにか周囲には生温かい微笑達。


「またまた、照れちゃって。隠さなくっていいのに」

「隠さなくていいから、包み隠さず教えなさい」

 最後だけはちょっと殺気が篭っていた気がする。

「本当に違うの。あれは……ええと、バイトの先輩で。というか、保護者?」

 我ながら適切な表現を思いついたと思う。バイトの上司兼保護者。一ミリたりとも嘘は混じっていない。

 あからさまに残念そうな三人を見て、反対に胸を撫で下ろす。なんとか冷静さを取り戻してきて、余計なことを口走らないようにと心がけながら顛末を説明する。

 自分が今、祖父の店でお世話になっていること。あの青年はもともと事務所で働いていた人間で、今は一通りの仕事を教わっているところだということ。

「だから、昨日もそれの一環」

「えー、どうして事務所の外で会うの?」

「それは、そのまま外での仕事があったから、一度戻るより待ち合わせたほうが時間が有効的だったからで」

「つまり、あの人とデートだったってことかぁ」

「ちょっと、話聞いてた?」

「だって、“二人きり”で“外を歩く”ならデートでしょ」

 軌道修正したはずが再び逆戻りだ。おかしい。どうしても彼女達には“素敵な年上男性”に見えるらしい。うんまあ、“年上”なことは間違いないか。――あれ?そういえば常葉って何年くらい生きてるんだっけ。薊堂は確か、明治維新頃に創設したって話だけど。

「いいなぁ、優しそうだったもんねぇ。きっと丁寧に教えてくれるんだろうなぁ」

 そんなことない、過保護だし完全に子ども扱いだ。喉の奥で言い訳はするけれど、夢を壊すのも忍びなくて口を閉ざした。

 その無言を友人達は一体どのように捉えたのか、ここぞとばかりに浴びせられる好奇心の言葉達。

「ねぇねぇ、名前は? 年齢は?」

「住まいは? 趣味は? 彼女はいるの?」

 次々と飛び出してくる質問には全て黙秘を貫くことにした。



 相変わらず深砂鷺の庭には四季折々の植物が顔を揃えていた。

 まだ青さの強い柿の実に伊呂波紅葉。次第に移っていく季節に合わせて、花の顔ぶれも賑やかになっていくのだろう。

 今回もやはり庭を突っ切って深砂鷺の本邸に向かう。軒先には商い中の暖簾と看板。開け放した玄関にはやはり呼び鈴は見当たらないので、少し声を張って主人を呼ぶ。今日は間を置かないうちに富貴さんが顔を出した。

「おや、今日は翠仙ちゃんだけのご来店かな」

「常葉は、蔵の整理が忙しそうだったから」

「働き者の狐を持つと仕事が捗るだろう」

 夏の琉璃青の浴衣姿も素敵だったけれど、小豆色の袷に羽織姿はまさに秋も只中といった風情でよく似合う。しかしその手には何故か折り目のある包装紙とハサミが握られている。不思議に思いながらも、あたしは丁寧に頭を下げる。

 差し出したのは紙袋。その中身はさらに包装紙で包まれた紙の箱。隣町の和菓子の老舗の人気商品だった。

「これ、この間のお礼に。くず原の“錦秋”と“もちづき”です」

 おお、と迎え入れるように広げた両手が受け取りやすいよう、もう一歩前へ出る。わざわざ悪いねと微笑まれて、いえと首を振った。

「良かったらお茶を一緒にいかがかな。ちょうど花茶を頂いてね」

 ここでやっと、彼女の持っていた包みとハサミの意味を知る。どんなに頑丈な包装だったのかは分からないけれど、どうやら悪戦苦闘していたようだ。

「じゃあ、あたし手伝います」

 暖簾をくぐって台所までお邪魔する。思った通り綺麗に片付いている――と思ったんだけど、たぶんお茶を用意するのに苦戦していたせいだろう、茶箪笥が開けっ放しだしテーブルの上が包装紙やリボンで散らかっている。

「これを開ければいいですか?」

 言葉尻をかき消す大きな音がして振り返る。見れば戸棚の下で埃に噎せている富貴さんの姿があった。

「ど、どうしたんですか!?」

「いや……確か茶器が仕舞ってあったなと思ってね」

「遅くなりました――って、何してるんですか、富貴さん!」

 絶妙なタイミングで暖簾を分けて入って来たのは自称バイトの紫苑さんだ。彼もまた、富貴さんを見るなり驚いたらしい。

「空箱だからよかったものの……怪我でもしたらどうするんです」

 埃と一緒に辺りに散らばった、飾り棚の上にあったらしいお中元やら贈答品やらの箱を拾い集めてまた棚の上に重ねていく。富貴さんの方は珍しく肩を落としている。こうしてみるとますます女性らしくて可愛らしい。

「全く。本当に、富貴さんは俺がいないとだめだなぁ」

「これでも努力はしてるんだ」

 埃を払ってくれる紫苑さんの手を掻い潜りながら、どことなく口調が拗ねている。

「いつまでも、君に任せきりには出来ないだろう」

 そんな様子を少し離れたまま眺めて、あれ、と思う。

「はいはい。そういう頑固で負けず嫌いなところも俺は好きですよ」

 言い聞かせるように笑う紫苑さんに、余計に顔を背ける富貴さん。

 少しだけ、彼がここで働いている意味が、富貴さんが彼を追い出さない意味が分かったような気がした。



 薄の葉がゆらゆら、窓の下で揺れている。

 空はもう暗く、風もほのかに涼しい。窓を開けた時にふわりと香る金木犀。

 看板を下げて、常葉の作る夕飯を食べて、彼がまだ働いている応接室まで、お盆の上にお茶を乗せて運んでいく。

「今日もお疲れ様」

「ありがとう」


『だって、“二人きり”で“外を歩く”ならデートでしょ』


 お茶を受け取った横顔を眺めているうちに、いつだったかクラスメイトに言われた言葉が戻ってくる。そのせいで少しだけ、常葉がこちらを振り向いたのに反応が遅れてしまう。

「なに?」

「なんでもない」

 でも。

 最初のころに比べて、今はだんだん、こうして一緒にいることが嫌じゃなくなってる。

 相変わらず過保護だし、仕事に関しては口煩いくらいだし、そもそも人間じゃないけれど。

「あたしも、ちゃんとしないとなあって」


 この店のこと。お祖父ちゃんが大切にしている場所。

 それから。


 獏はもういないのに、思わず欠伸が漏れてしまう。

 穏やかな時間だった。一日の終わり。太陽が昇るまでの小休止。

 だから常葉に手を振って、あたしは三階へ続く階段を昇る。


「おやすみ、翠仙。良い夢を」


「常葉もね」


 きっと狐だって夢を見るだろうから。

 そうして次の朝が来るまで、次の仕事が始まるまで、少しだけ目を閉じてみる。


                                其ノ三 終

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