1章

(ここは一体……?)

 最初に目に入ってきたのは、黒に近い深緑の大きな木が、どこまでも生えている光景だった。少年は、木の間のわずかに開けた場所に立っていた。木漏れ日の柔らかな光が降り注ぎ、少年の周りを明るく照らしている。

 少年の年齢は十代後半ぐらいで、少し長めの黒髪に平均的な背丈。服装は長袖のシャツとジーンズ、カジュアルなスニーカーを履いている。その歳にしては、落ち着いた雰囲気をしていた。

 見知らぬ場所に突然放り出された状況の上、いくら思い出そうとしても、少年は気が付く前の事が思い出せなかった。そこで一先ひとまず、身の周りを確認する事にした。

 その場から見上げると、ちょうど窓の様に木々の間から、青い空と太陽が見える。

(……あれ? 眩しくない)

 直接の陽の光は、じっと見ていられないほど強いはず。しかし、それほどの眩しさは感じられない。薄雲が太陽にかかっている訳でもなく、少年には理由が分からなかった。

 足元の地面を見れば、木の葉と対照的に鮮やかな黄緑色の苔に覆われ、足が数センチほど沈み込む。まるで、柔らかい絨毯じゅうたんの上に立っている様だ。しゃがみ込んで苔に触れてみる。

(これは、結構気持ち良いな)

 ジメッと湿っているかと思ったが、触った感触は芝生に近かった。   

 少年は、地面から手を離して立ち上がる。周囲は全くの未知の場所だったが、不安どころか、心はやけに落ち着いていた。

 これからどうしようかと考え始める。すると斜め前方から「ザーーーー」と、断続的な音が聞こえた気がした。

(今の音は?)

 もう一度聴こうと耳を澄ませた時、少年は不思議な事に気が付いた。

周りの音が全く聞こえないのだ。

(えっ! 何でだ!?)

 風で枝や葉が揺れていたり、鳥達が木から木へ飛んでいたりするのが見える。しかし、木々のさやめきや鳥の鳴き声は、全く聞こえて来ない。

「……! ……!」

 それどころか、自分の声すらも聞こえなかった。

 自分の息づかいさえ聴こえないのは不気味で、不安な気持ちが途端に襲ってくる。無音の中、視界に入らない後ろや横が気になり始め、少年は居ても立ってもいられなくなってきた。

(耳がおかしくなったのか? でも、さっきの音は……)

 少年は音のした方向に注意を向ける。するとまた、「ザーーーー」と音がしてきた。遠くでしている音の様で、はっきりとは聞き取れないが確かに聞こえてくる。

(しょうがない、音のする方へ向かうしかないか)

 闇雲に動くよりは良いと思い、少年は音のする方へ歩き始めた。

 森の中は、所々木の隙間から陽が差してはいるが薄暗かった。木々の一本一本は、二~三人で手を繋ぎ、周りを囲んでも足りないほど大きい。

 足元に気を付けながら、大きくなる不安を押さえつける様に無心で進んでゆく。途中、手頃な大きさの硬い木の枝を見つけ、杖と武器の代わりに拾った。

(こんな物でも無いよりましか。頼むから何も出てくるなよ)

 もし何かが近づいてきても、音が聴こえない状態では気付くのが遅くなる。そう考えると、どうしてもゆっくり歩く様になってしまう。かといってじっとしていたり、進むのが遅くなったりし、森の中で夜を迎えるのは危険だろう。急ぎたいのに急げない状況に、少年の気持ちは焦る。

(安心できる場所を見つけないと! この音も一体何の音だ? どこかで聞いたことがあるような……)

 聞こえてくる音に既知感を覚えながら、少年は深い森の中を慎重に進んで行った。



(何時になったら、着くん、だ……)

 出発してから数時間は歩いただろうか。少年の足は、だいぶ前から重い棒の様になっていた。陽の光は傾き、空の色がわずかにオレンジ色になり始めている。

(まずい、夜になる!)

 少年が、一夜を過ごす覚悟を思い始めた時、目印の音が少し大きくなってきた。

(! もう少しか!?)

 やっと辿り着くかと思うと、自然と歩みも速くなる。そして遠くで森が途切れ、明るくなっているのが見えてくると、気付けば少年は走っていた。

(これは……)

 ついに森を抜けると、目の前に美しい川が現れた。

その川は幅十メートル位で、少年が立っている岸の左の方から流れてきている。右の方を見ると、少し離れた所から崖になっていて、川の水はその向こうに落ちていっていた。そして滝壺からだろう、「ザーーーー」と大量の水が落ちる音が聴こえてくる。

(あの音は滝だったのか。それにしても、とんでもなく綺麗な川だなぁ)

 少年は川辺に近づいてみる。流れはそれほど速くないが、驚くほど水は澄んでおり、川底までよく見える。川岸は岩が多少転がっているがほとんどは砂で、岩も砂も真っ白だ。そして、夕日にそれらが照らされオレンジ色に染まるだけではなく、赤、青、黄、紫、水色など様々な色に光っていた。まさに宝石のオパールの様に輝いている。それは、少年のさっきまでの不安や恐怖を忘れさせ、つい見惚みとれさせる光景だった。

 どれ位見ていただろうか、少年はやっと我に返り、これからどうするかを考える。

(ここじゃあ、森の中とあまり変わらないし。道路か何かに出られればいいんだけど)

 安心して夜を越せそうな場所を探すため、少年は滝のある崖のそばまで近付き、そこから眼下の景色を見る。その瞬間、さっき以上の衝撃を受けて固まってしまった。

 ゆっくりと、確認するかの様に少年は見渡す。少年がいる場所は、山の中腹の少し外に突き出た場所で、左右には大きな山々が見える。山々の終わりは見えず、山脈のように果てまで続いていた。

 数十メートル崖下には、真っ黒に見える森が広がっている。その森の中を、川の続きがオパール色に輝く光の帯の様に、遠くまで伸びていた。

 おそらく数キロメートル先だろうか。森はそこで終わり、そこから地平線まで黄金色の草原が続いている。

 草原のはるか遠くには、小山の様な城があった。ちょうど夕日の逆光で、黒いシルエットになっている。その城の下には、同じく黒いシルエットに見える街が広がっていた。

(何なんだここは、……えっ!)

 呆然ぼうぜんとなった少年が遥か彼方の空に目を向けると、鯨の様な生き物が空中を泳いでいた。遠くからでも分かる大きさで、とてつもなく巨大だ。他にも距離が遠くて形は分からないが、黄緑色にキラキラと光る鳥の群れの様なものが、夕日側から空が暗くなり始めた方向へ飛んで行っていた。

 更に一番遠く、地平線の辺りだろう。巨大な入道雲が立ち上っているが、夕日側はオレンジ色、反対側が紫色、その間が青色になっている。なんとも他には例えられない、美しい景色が広がっていた。

 この光景で、少年はある確信を持った。自分のいた世界ではないと。

(……あり得ないって、こんなの)

 少年が景色に見入っていると、突然両脚が後ろに引っ張られ、うつ伏せに倒されてしまった。その拍子に持っていた棒を落としてしまう。

(痛っ! 今度はなんだ!?)

 驚いて上体を起こし振り返ると、数メートル先の森から大きな倒木が突き出ていた。そして、その両側面から植物のつたの様なものが伸び、少年の足に巻き付いていた。

(なんだコイツは……)

 蔦を取ろうと手で引っ張るが、不思議と力が入らない。

 そうしていると、蔦の表面の質感が徐々にぬめり気を帯び始め、肌色の触手の様になってきた。本体の方も、どう見ても倒木の様だったのが、表面の凹凸は無くなり動物の肌の様に変わっている。まるで巨大なミミズの様だ。

(うわっ、きもち悪っ!)

 少年が早く逃れたくて足の蔦と格闘していると、本体の頭らしき部分が持ち上げられ、先から花が開く様に三つに割れた。

(……やっぱそうくるかぁ)

 少年の嫌な想像通り、恐らくコイツの口なのだろう、割れた内側は沢山の牙が生え、粘液を垂らしながら近づいてくる。

 少年は再び巻き付いている触手を取ろうとするが、やはり取れそうにない。

(くそっ! こうなったら!)

 触手を取ることを諦め、落とした棒を拾おうと後ろに振り返る。力の入らない手で必死に掴み取り、巨大ミミズに振り下ろそうと、急いで向き直った。

 しかし、少し遅かった。振り返った先には、視界いっぱいに異形の口が広がっている。

 生暖かて酷い臭いの吐息が、少年の顔に吹きかけられた。



「うわあああ!」

 水無瀬碧月みなせ あつきはベッドの上で飛び起きた。ハァ、ハァ、と息切れして、何とも嫌な気分だ。はっきりしない呆ける頭で周りを見る。カーテンから朝日が漏れ、床には本が散らかっていた。そこは決して綺麗とは言えない部屋だ。

 すると、誰かが階段を駆け上がってくる音がして、ドアが勢い良く開いた。

「アツキどうしたの!? 叫び声が聞こえたけど!」

 入ってきたのはアツキの母、すずなだ。セミロングの黒髪に凛々しく整った容姿で、大和撫子と表すのがぴったりだ。料理中なのか、服の上にエプロンを着ている。

「えっ!? あー……ここ、俺の部屋だよね?」

「? そうよ、水無瀬碧月様の部屋よ」

 怪訝けげんな表情で、スズナは応えた。

 スズナはアツキの実家兼、麗影流れいえいりゅう槍術の道場で、師範をやっている。麗影流は約千年前から伝わる古武術の一つであり、長刀なぎなた術を起源とした槍術だ。現代でも、かなり実践的な鍛錬を行っている流派でもある。

 スズナのその華奢きゃしゃな体からは想像出来ないが、歴代師範の中でもずば抜けて強いと言われ、一個人では世界最強の一角と噂されていた。

「そうだよなぁ、うん……」

「まったく、何事かと思ったら寝ぼけただけなのね。びっくりしたわよ」

 フー、とスズナが溜息をついた。

「いやぁ、凄い夢だったなぁ……あれ? どんな夢だっけ?」

「そんな忘れるくらい凄い夢はいいから、早く下りてきて朝ごはん食べなさい」

「うん。あと、汗かいたからシャワーも浴びたい」

 アツキは自分のシャツを、うへぇーと軽く指で引っ張る。

「ご飯が先よ。冷めちゃうわ」

「わかってるよ」

「それと、帰ってきたら部屋の片付けをちゃんとしなさい」

「へーい」

 スズナは散らばっている本を見て二度目の溜息をついた。そして、さっさと一階へ下りていった。

 アツキはベッドに腰掛け、今日の夢の事を思い出そうとする。

(んー……やっぱりよく思い出せない。やけにリアルで変な夢だったのはわかるんだけど)

 一人、腕を組んで悶々とする。

「アツキ! また寝たのー!?」

 一階から、スズナの大きな声が響いてきた。

「今下りてくとこー!」

 アツキは急いで部屋から出る。しかし、階段を下りながらも、今朝の夢が気になってしょうがなかった。


「あ、おはよう。お兄ちゃん寝ぼけたんだって?」

 リビングのテーブルには、妹の紅美くみがパンを片手に座っていた。からかう様にニヤニヤしている。

 クミは母親ゆずりの端正な顔立ちで、黒髪のポニーテールに中学の制服を着ていた。麗影流の門下生で、いずれ道場を継ぐと言われている。スズナと同じ様に華奢な体とは裏腹な、結構な体育会系女子だ。

「おはよう。それがすごい夢でさ。よく覚えてないんだけど何かすごかった」

「なにそれ? 本の読み過ぎでおかしくなってないよね?」

 今度は半目で、じっとアツキに視線を送る。なんだよ失礼な、とアツキは言い返して、朝食が置かれた自分の席へ座った。

「本は関係ないさ。読むほど頭が良くなる、はず」

「本ねぇ……。私は身体を動かしてる方が好き。本なんて授業で開くだけで十分よ!」

 そう言うとクミはパンをかじった。アツキも同じ様に、少し冷めたパンにかじりつく。

 クミは性別問わず人気がある。だがアツキは、直情的で体育会系なクミが人気だとは、あまり実感がない。クラスメイトの男子が「妹さんは、そこがルックスとの絶妙なバランスで良いんだろうが!」と熱心に語っていたのを、アツキは思い出した。

(静かに食べてる姿なんかは、アイツの言う事もわかるかも。あくまで喋ってなければだが!……まぁ、見た目フツウだよねと、よく言われるよりは羨ましいが)

 アツキは、容姿がフツウな父に似てしまった自分に、小さく溜息をついた。

「大丈夫! 男は顔じゃないよ!」

 いい笑顔でクミがこっちを見ていた。

「うるさいわ! てか、なんでわかるし!」

「私の顔見た後に溜息ついてたし。顔にそう書いてあったし」

「ああ、そうデスカ」

 やれやれと、アツキは食事に集中することにした。ニゲタナ! アキラメルノカ! などと前から聞こえてくる。

「もー、朝から騒がしい二人ね! 黙って食べろとは言わないけど、もう少し静かに食べれないの?」

 作ったお弁当を手に、スズナが台所からやって来た。

「のんびりしてると、二人とも遅刻するわよ」

「私は平気~。稽古けいこで早く起きたし、ごはん食べてゆっくり出ても余裕~」

「あ、そうだ! シャワー浴びるんだった!」

 アツキは、パンとスープを急いで食べだした。


 アツキが慌ただしくシャワーに行ったあと、スズナとクミの二人は、リビングでニュースを見ていた。今日は穏やかな天気で過ごしやすいでしょう、と言っている画面を、クミはぼんやり見ながら違うことを考えていた。

「お兄ちゃん、もう槍術やらないのかなぁ……」

「やっぱり、アツキにやってほしいの?」

「まあ……うん。槍術をやってたお兄ちゃんの姿を見て、私も始めたし。お母さんも道場に戻って欲しいと思ってるでしょ? 今は私が次期師範だけど、お兄ちゃんの方が全然強いし。お母さんの後は、お兄ちゃんが継ぐべきだと思う」

 クミの話を聞いている間、スズナは悲しそうな、少し寂しい様な微笑を浮かべていた。

「確かに、アツキは私が教えてきた門下生で一番才能があるわ。でもね、それだけじゃ駄目なの。自分の中での意味を見つけないと」

「意味?」

「そう。目標でもいいわ。クミもあるでしょ?そういう意味とか目標が」

 テレビでは五分間クッキングが始まった。シュールなショートカットで、五分以上かかる料理があっという間に出来ていくのを見ながら、クミは自らの事を考える。

「……私は、お兄ちゃんの槍を振るってる姿が格好良くて、何よりお兄ちゃんが楽しそうだった。それが羨ましくて自分もやってみたら、ほんとに楽しかったから。かなぁ?」

「うん、そんな感じでいいのよ。そういう自分なりの意味があれば」

 スズナは嬉しそうに、クミに微笑んだ。

「やっぱりお兄ちゃんがやらなくなったきっかけは、お父さんの事だよね?」

「そうね……。あれはどうしようもなかった事なのに」

 クミは今にも泣きそうな表情で下を向く。スズナも再び寂しそうな表情になった。

「でも、槍術をやらないと決めて別の選択肢を選ぶなら、私はそれでいいと思うわ……。それに、優秀な門下生がもう一人いることだしね?」

 スズナはそう言って、笑顔を作ってクミを見た。

「それは任せて! でも、道場……いや、人類最強レベルのお母さんに追いつく自信、あんまりないなぁ」

「そんなことないわよ。クミの目標をしっかり持っていれば、私なんてすぐ抜かせるわ」

 大会の試合中、槍さばきが速過ぎてスローカメラ常設の人が何を言うか、とクミは思った。

 テレビの中はスポーツコーナーに切り替わり、ガタイの良い暑苦しいアナウンサーが喋り始めた。私この人嫌だ、とクミは言う。そう?よく鍛えてる人じゃない、とスズナは少し外れた答えで応じた。

「あ! 私そろそろ出ないと」

「もうそんな時間? 話し込んじゃったわね」

 クミは弁当と水筒をカバンにしまい、椅子から立ち上がった。

「今日も学校終わったら道場に行くね」

「夏の大会まであと少しだから、稽古増やしていくわよ」

 スズナが師範の顔で、気合入れなさい! と喝を入れた。

「うわ~、午後に地獄が待っているなんてサイアク」

「大丈夫よ! やってるうちに、苦しいとか感じなくなってくるから」

 スズナは腰に手を当て、ニコニコ笑っている。

「何それコワイ」

 鬼の良い笑顔に若干引きつつ、クミはカバンを肩に掛けて玄関に向かう。その途中で、スズナが呼び止めた。

「クミ。アツキならきっと大丈夫よ」

「……ちょっと気になっただけだよ」

「フフ、そうね」

 スズナは優しく笑った。

「行ってきます!」

 クミは少し顔を赤くし、早足で学校へ向かった。

「行ってらっしゃい」

 スズナはクミを見送り、リビングへ戻っていった。



「おはよう、父さん」

 自己最速のスピードで、シャワーを浴び終え制服に着替えたアツキは、仏壇の前に座っていた。二本の短い線香と、今立てたばかりの一本の線香から煙が上っている。仏壇の中には、アツキの父、誠月まさきの遺影が置いてあった。

 写真のマサキは、男性としては少し長めのボサボサ髪で、眼鏡をかけて笑っている。生前は大学で教授をしていて、年若いが優秀な学者だった。研究に対しての真剣さを子育てにも発揮し、子供と真剣に向き合う良い父だった。ただ、生来の穏やかさから威厳のある父とは程遠く、スズナからは「もっとビシッと子供達に言いなさいよ」とぼやかれることもあり、その度に、「頑張ります」と頭を掻きながら笑っていた。

 アツキは小さい頃、マサキの研究ついでに海や山に連れて行ってもらったり、試合の送り迎えをしてもらったりしていた。

 父の遺影を見ながら、アツキは一家全員が揃っていた頃の事を思い出す。クミとしょっちゅう喧嘩しては母に二人で怒られて、父が緩衝材の様に間に入ってなだめる。そんな騒がしくも楽しい日常は、突然一変する。

(もう三年近く経つのか……)

 目を閉じて、アツキは静かに手を合わせた。

――アツキが中学二年生、真夏の大雨の日だった。その日も試合が終わり、マサキに車で迎えに来てもらっていた。

「今日の相手も楽勝だった! もうこれは金でしょ、このままトロフィーでしょ!」

「そうだな、さすがアツキだ。またトロフィーの置き場所を考えなきゃな」

 助手席で得意げなアツキに、マサキは微笑みながらハンドルを握っている。

「今日はお母さんにも、最後の踏み込みは良かったって言われたんだ!」

「へぇ、すごいじゃないか! 槍では滅多に人を褒めないのに」

「まぁねぇ~、才能ですかねぇ~。あ、そうだ。お母さんとクミは少し遅くなるってさ」

「それじゃあ、帰って夕飯の準備をしておこうか」

 二人はいつもの様に喋りながら、いつもの様に帰っていた。ただ、外は昼前辺りから滝の様な大雨が降り続いていた。そして、山沿いの道に二人を乗せた車がさし掛かった時、木々をなぎ倒しながら斜面を下って来た土砂が、察知する間も無く車を飲み込んだ。

 助手席で気を失っていたアツキが目を覚ますと、車はほとんど土砂に埋まっていた。奇跡的にアツキの座る助手席は土砂に埋まらなかったが、運転席のマサキは車と岩に挟まれ重傷を負っていた。

「父さん!」

「アツ……キ……」

「待ってて! いま助けるから!」

 アツキは、試合で使った木槍を後部座席から見つけると、岩の隙間に挿し入れ、テコの要領でマサキを助けようとする。

「このぉぉ! 動けぇぇぇ!」

 岩はびくともしない。全力で力を込め、手の皮が破れて鮮血が槍の柄を真っ赤にする。激痛が、アツキの両手から腕を突き抜けた。しかし、そんな事を気にする余裕は無く、アツキはさらに力を込める。蒸し暑さと痛みから、大量の汗が噴き出してきた。

 アツキの必死の救出をよそに、マサキの顔から見る間に血色が失われてゆく。

「くそぉぉ……頼むからあぁぁぁぁ!」

 涙と血でぐしゃぐしゃになりながら、アツキは岩を退かそうとし続けた。だが、自分の怪我が酷くなるだけで状況は何も変わらなかった。

 救助後、マサキはすぐに病院へ搬送されたが、既に手の施し様がなく、三人に見守られながら静かに息を引きとった。四十七年間という短い人生だった。

 父マサキの死は、アツキの心に大きな傷を残した。


 それまでアツキは、スズナから槍術を教わって試合で勝ち、鍛錬をしてさらに強い相手に勝つ。そうやって自分が強くなる事が楽しかった。門下生の子供たちの中では一番強くなり、大人にも勝つほど麗影流槍術に打ち込んでいた。

 そして、漫画やアニメに登場する英雄に強く憧れ、強くなれば同じ様に大切なものを守ったり、誰かの助けになったり出来ると、その頃のアツキは本気で信じていた。しかし、父マサキは目の前で死んでしまい、アツキはただ傍で見ている事しか出来なかった。

 それからアツキの中で、槍術をやる意味が全く分からなくなった。

 ただ無意味に木の棒を振っているだけなのか。『強さ』とは一体どういうことなのか。自分がやってきた事に、何の意味があるのか。アツキの心には、疑問が渦巻く様になってしまった。

 そうして、アツキはあんなに好きだった槍術を、辞めた。


 読書に目覚めたのは、槍術を辞めて学校と家の往復だけの暇な毎日が続き、なんとなくマサキの書斎の本に手を伸ばしたのがきっかけだった。

「あれから父さんの置いてった本を読んでるんだけど、まだ半分しか読めてないよ」

 マサキの書斎には自然科学を主に、文庫、図鑑、歴史、伝記、などの数千冊はゆうに超える本があった。スズナ曰く、何時床が抜けるかヒヤヒヤする位らしい。

 改めて写真の中のマサキを見ると、いつも通りのボサボサ頭にヘラヘラした笑顔で、これだけの知識を持って教壇に立っていたとは思えない、覇気の無い顔だ。

「そういえば最近、色々な事に詳しい爺さんと知り合って、よく話をするんだ。とにかく色んなことを知ってて面白いんだよ」

 アツキは父の遺影に語りかけながら、今日も学校が終わったら話をしに行こうと決めたのだった。

「アツキ、時間大丈夫なの!? クミはとっくに出たわよ!」

 和室の障子を開けてスズナが顔を出した。

「やば! こんな時間か!」

「リビングで待ってたのに、なかなか来ないんだから。はい、お弁当と水筒」

「忘れてた! ありがとう」

 仏壇に、行ってきますと言って、アツキは玄関へ急ぐ。

「今日も寄り道して帰ってくるから。夕飯までには戻るよ」

「また例のお爺さんの所? あんまりお邪魔しちゃだめよ」

「それは平気だよ。「一人でやることないから話し相手になってくれ」って言ってたし」

 素早くローファーを履いて、ドアに手を掛ける。

「行ってらっしゃい! 本人が良いって言っても、程々にね」

「わかってるって」

 アツキは持ち前の運動神経をフルに使って、猛ダッシュで走っていった。

「気を付けなさいよー!」

 スズナはアツキを見送ると和室に行き、仏壇の前に座ってマサキの遺影を静かに見つめた。

(マサキさん。あの子はまた、昔の様に自分を信じて前を向けるわよね?)

 スズナは、最愛の夫の笑顔に問いかける。きっと大丈夫さ、と言っているような気がして少し安心したのだった。


 陽が真上よりもやや傾き、学生は授業の後の部活動へ向かう頃。アツキは電車に揺られて学校から帰っていた。クラスの友人達は、みんな部活へ行ってしまっている。アツキも槍術をやっていた頃は門下生達と道場へ行っていたが、辞めてからは一人だった。

 当時は一人で家に帰るのは落ち着かなかったが、今は良い話し相手がいて、むしろ放課後が待ち遠しかった。

 家の最寄駅の改札を出て、家とは逆方向にある自然公園へ向かう。元々あった森や小川を利用して作られていて、一周三十分程の散歩コースがある比較的大きな公園だ。公園の道をジョギングする人や犬の散歩をする人がいて、野鳥が飛んでいたり、芝生で猫が寝ていたりもする。

 その自然公園の池の傍にあるベンチで、アツキはお爺さんといつも話をしていた。

 ベンチが見えてくると、今日もお爺さんが座っている。

 髭を長く伸ばした外国人のお爺さんで、白髪にグレーのスーツの上下と同じ色の帽子。焦げ茶色の革靴を履き、おしゃれなネクタイを締め、木製の杖を持っていた。

「こんにちは」

 傍に行って挨拶をすると、池の鳥を眺めていたお爺さんがアツキを笑顔で出迎える。

「おー! こんにちは。今日も来たのかい?」

「爺さんの話は、聞いててすごい面白いからね」

 そうかいそうかいと、嬉しそうに隣を勧めてきた。アツキはいつも通りそこに座る。

「さてと、今日はどんな話をしようかねぇ」

 うーむと、お爺さんは杖に顎を乗せて考えだす。

「聞いて欲しいことがあるんだけど、いいかな?」

「なんじゃい? ガールフレンドについてなら、このジジイはあまりあてにならんぞ?」

「そういうのじゃないって! 今朝見た夢のことなんだけど……」


 アツキはお爺さんに、気にかかっている夢のことを聞いてもらった。内容はほとんど忘れていたが、その妙な現実感について話した。

「なるほどのぅ……妙な現実感の夢か」

「うん。覚えてないけど、実際に身体を動かしている感覚とかは、現実と変わらなかったから」

 今でもその時の感覚が残っていて落ち着かないと言い、アツキはフゥと深呼吸をした。

「お前さん、夢とはどういうモノか知っとるかのう?」

「えーっと確か、レム睡眠中に記憶が再生されて、それに沿うようにストーリーを脳が作っていく事。あとは、その時見る内容は、無意識下の願望や関心を持っていることが出てくる。だっけ?」

「その通り、正解じゃ! じゃが、今現在そうであろう、と言われている事じゃがな」

「え? てことは確かなことじゃないわけ?」

 アツキは好奇心を刺激され、自然とお爺さんに身体を向けた。

「脳内での活動が関係しておるから、ある程度は現代医学で分かっておる。じゃが、まだまだ解明されておらんのじゃよ」

 例えばじゃな、と言ってお爺さんは話を続ける。

「なぜ願望や興味ある事が夢になるのか。心身状態や記憶が夢に影響するのはなぜか。 視覚以外の感覚を感じる事もあるのはどうしてか」

 そこで一旦お爺さんは言葉を切った。そして、アツキの目をじっと見る。

「そもそもなぜ夢を見るのか。そして、なぜ忘れてしまうことが多いのか。…………お前さんはどう思う?」

 問われたアツキは腕を組んで空を見上げ、本で見たこと聞いたことを思い出しながら考えを巡らせる。

 その間、わずかにお爺さんの瞳が褐色から金色に変わった事を、アツキは見ていなかった。

「記憶の整理とか、心の整理とか? 忘れてしまうのは現実と夢をはっきり区別するため、かなあ?」

「ふむ。それらも有力な仮説の一つじゃな。他にも昔から言われておる説があるんじゃが……」

 そう言ってお爺さんはもったいぶる。それは何? とアツキは次を促した。

「何かからのメッセージじゃよ」

「何かから? ……ほとんどオカルトじゃん」

 その通り、と言ってお爺さんはニヤっと笑った。

「自分の内面からのメッセージなら普通な方じゃが、神や悪魔、あるいは死者からのメッセージだと考える者もおるんじゃ。中には宇宙人からだと言う者もおる」

「それはまた信じられないな」

「まあ、一般的にはそうかもしれんのぅ。じゃが、記憶に無い、見た事もない物が出てきたりもする。某有名な美術家なぞは、夢で見た光景を絵にして多くの者から絶賛されておる。他にも、夢の中で天使のお告げを受けたと言った司祭が建てて、今では世界遺産になっている修道院もあるんじゃ」

 へぇー、とアツキは驚いた。

「もしかして、爺さんは何かからのメッセージだと思ってる?」

 口ぶりから、そう考えているのかとアツキは思った。しかしお爺さんは横に首を振る。

「面白い仮説の一つだと思っているだけじゃよ。単なる脳内の電気信号のやりとりだけじゃ、つまらんじゃろ?」

 そう言ってまた、ニヤッと笑うのだった。

「生命活動は電気信号によって行われていると言ってもよい。じゃから、外から信号が入力されても、おかしくはないと思うんじゃ。脳は眠っている時も完全には休まん。もし外からの信号が弱いものであるなら、受け取るために眠って、余計な情報をカットしていると思えなくないかの?」

 それを聞いてアツキは、あり得ない話ではないなと考えた。

「もし何かからのメッセージだとしたら、少し怖いけど面白いな」

「そうじゃろ? わくわくするじゃろ?」

 うむうむ、とお爺さんは満足そうに頷いた。

「まぁ、夢はよく分かってなくてじゃな、自分自身あるいは外の何者かそれは分からんが、メッセージ性を持っている事は恐らく確かじゃ。そして現実に影響を与えていると、わしは考えているんじゃよ」

「じゃあ、今朝見た夢も何かしらのメッセージがあるって事?」

「多分そうじゃな。お前さん自身からか、何者かからか、もしかすると両方からかもしれんがの」

 アツキは考え込む。しかし、夢の内容を覚えていない以上、いくら考えてもメッセージなんて分かる訳がなかった。

「ダメだ。さっぱり分からない」

「また今度見た時、忘れんうちにメモにとっておくんじゃな。わしも夢の内容に興味あるしのぅ」

 気になる女子に関係していることかのぅとニヤニヤするお爺さんに、だからそれはない! とアツキは言い切った。

 それから二人は、読んだ本の話をした。科学、オカルトは勿論、スポーツ、文学、経済、伝承、果ては漫画やゲームの事もお爺さんはよく知っていた。本だと分かりづらい所も、アツキに説明してくれたのだった。


 数時間後、話し疲れた二人は公園の景色を眺めていた。すっかり日が暮れて夕方になっている。アツキは、そういえば夢の中でも夕日を見た気がすると、ぼんやり思った。

「もうこんな時間じゃな」

 お爺さんは腕時計を見る。夕方の六時を過ぎていた。

「話をしているとあっという間だ。そろそろ帰らないと母さんに怒られる」

「それはいかん! 最強と言われる者を怒らせるのは避けねばのぅ」

 うむうむ、と何度も頷く。アツキは、これはきっと冗談で言っていないと感じたのだった。

「また来るよ。夢を見たら今度はメモを取る事にするさ」

「うむ。楽しみにして待っておるよ。あと、お前さんのお母さんに、息子を借りて申し訳ないと伝えておくれ」

 わかった、と返事をしてアツキは立ち上がる。

「それじゃあ、おやすみなさい」

「気を付けるんじゃぞ。最近は物騒じゃから」

「爺さんこそね」

 アツキは、手を振るお爺さんに振り返しながら、家に帰っていった。



 お爺さんは、アツキの姿が見えなくなっても、まだベンチに座っていた。今は夕日に染まる公園を、静かに眺めている。街灯が点き始め、お爺さん以外の人はもう周りにはいなかった。お爺さんは、まるで何かを待っている様な、そんな雰囲気だ。

「そちらの様子はどうだ?」

 突然、お爺さんが先ほどとは違う固い口調で呟く。するといつの間にか、白い猫が隣に前足を揃えて座っていた。

「よくないわ。このままだと近いうちに壊れてしまう」

 猫がお爺さんの問いに、人の言葉で答えた。その声は、少女とも妙齢の女性とも聴こえ、不思議な声色だ。ただ、誰もが美しいと感じる声をしていた。

「そうか、予想以上に早いな」

 猫が喋るのが当たり前の様に、お爺さんは会話を続ける。アツキと喋っている時にはあまり見せない、真剣な表情をしていた。

「止められる者を見つけられたの?」

「ああ、見つけたさ」

「本当に?……あ、さっきの子の母親ね! あなた自分で言ってたものね。最強クラスだって」

 そうでしょ? と猫がお爺さんを見上げる。しかしお爺さんは違うと答えた。

「まさにさっきまで話をしていた少年のことだ」

「え? 本気なの? 素質はある様だけど、戦力になるの?」

 猫から懐疑(かいぎ)の目を送られ、お爺さんは言い聞かせるように話す。

「まぁ、今はくすぶり気味だがな。だが、我々の相手は我々と同等の力を持っている。それ故にこちらの動きも予想し、対応してくるだろう」

「ええ、そうね。それで何であの子に?」

「少年は未知なる事へ、強く関わろうとする意志を持っている。我は感じたのだ。我々の予想以上の成長をする、その可能性をあの子の中に。あの子の母親は、ほとんど完成した強さであろう? どれほどか分かってしまえば、何らかの対策をされてしまう。最強を無力化する方法など、幾らでもある」

「なるほどね。あなたも実の父親相手にそうしたのだったわね」

 フフフ、と猫が笑って茶化した。お爺さんは少し気まずそうな、不服そうな表情を浮かべる。

「そんな大昔のことを……。あの時はそうするしかなかったのだ」

「ハイハイ、大体知ってるわよ。有名な話だものねぇ~。よくもまあ、挑もうと考えたわね」

 尊敬しちゃう若気の至りね、と更にからかう。お爺さんは、我の話はもういいだろうと不機嫌だ。

「理由はわかったのだけれど、可能性の確実さはちゃんとあるの? 少なくとも母親より強くならなきゃだめでしょ?」

 本題はここからよ、と猫が言う。お爺さんはまだ何か言いたそうな視線を猫に送るが、改める様に目を閉じる。

「我にもそれはわからん。可能性が『ある』としか言えん。これまで数多く候補の者達と話したが、唯一あの子だけがロスメタリアの夢を見たのだ」

「それは本当!?」

「間違いない。今日話しながら頭の中を覗いた。しかも、かなり鮮明な夢だったようだ」

 猫は考えこみ、地面をじっと見つめた。

「メッセージに反応したと言うことは、その子が最善だという事ね……」

「そうだな。だが何も手助けがなければ、可能性はついえてしまう」

「ええ、わかってる。人も私達も、孤独では限度がある。予想の上をいく成長を期待するのなら、なおのこと必要ね」

 そこら辺は任せなさい! と猫は胸を張った。

「まあ、直接何かをしてあげることは出来ないけど」

「それは仕方のない事だ。我らが大きく動けば、それだけでバランスを崩しかねない」

 お爺さんは小さく溜息をついた。猫もやれやれと首を振る。

「我々に出来る範囲でやるしかない。……まるで命綱無しの綱渡りの様だな」

 お爺さんは眉間みけんにシワを寄せ、夕闇に浮かぶ目の前の池を見つめる。しかしそれは少しの間で、直ぐに厳しい表情を収め、隣の猫の方へ顔を向けた。

「ところで一つ聞いて良いか?」

「何?」

「なぜ、猫の姿で来たのだ?」

「これ? 私の好きなムアに、そっくりな動物を見かけたからこの姿にしたの! ネコって名前なのね!? 可愛いでしょ?」

「ああ、まあ……」

「何よその反応」

 猫はお爺さんをじーっと睨んだ。

「噂に名高い美少女だと聞いていたものでな。実際来たのが猫だったからなぁ」

「本来の姿で来たら、みんなが騒いで目立っちゃうでしょ?」

 猫はフフンと、得意げに片目を閉じた。

「楽しみだったんだがな」

「それは残念だったわね。あなたも噂通りね~」

 はぁ~と溜息をつくお爺さんに、猫は冷めた視線を送った。

「そんなことより、あの子の見たロスメタリアの夢の内容を知りたいのだけど。こっちも準備があるから」

 そうだなと言って、お爺さんは猫の頭に掌を当てて目を閉じた。

「…………うんうん、分かったわ。最初の場所としては好都合ね。後は私が、遠くからフォローしなきゃ」

 猫は前脚(?)を組んで何度も頷く。

「そうか。だが、着くまでは阻まれぬ様に注意を。我は送るまでしか守れぬからな」

「大丈夫よ。でも、気付かれはするでしょうね」

「それは避けられない事だ。おぬしの力は決して弱くない。それであるのに劣勢なのは、相手がかなりの力を持った者である証拠だ。十分に警戒する様にな」

「もちろん出来る限りの事はやるわよ。ハァ~、相手の全貌ぜんぼうが分かればまだ楽なのに……。好き勝手してくれるわねぇ、まったく!」

 苛立ち気に、ガリガリと爪でベンチを引っ掻き文句を言う。そして猫は、ベンチから軽やかに飛び降りた。

「もう行くのか?」

「ええ。やらなくちゃいけないことは沢山あるからね。綱渡りの綱を、せめて細くても道にしてあげなきゃ! 何時こちらから送れそうなの?」

「望むなら直ぐにでも」

「さすがね」

 猫は笑顔(?)を作って尻尾を振った。

「それじゃあ、こちらの時間で明日の午後以降でお願いね」

「承知した」

 猫は視線をお爺さんから足元に向け、地面にポスっと尻尾を垂らした。そして、少し言いづらそうに口を開く。

「あの、ごめんなさいね。巻き込んでしまって」

「気にするな。今の我の役割だからな。それよりも、その台詞は少年にこそかけてやるべきであろう?」

「……そうね。いずれはちゃんと話すわ」

 そうして猫は背を向けた。

「じゃあ、お願いね」

「ああ。お主もしっかりな」

 猫は直ぐに歩き出し、お爺さんもすっかり暗くなった池の方へ向き直る。そして、二人の姿は音もなく夜の闇へ掻き消えた。

 公園からは誰もいなくなり、所々を街灯が照らしているだけだった。



「今日は何を話そう」

 お爺さんと夢について話した翌日、アツキは午後になって、また公園に向かっていた。今朝は同じ夢を見るかもと思っていたが、あいにく何の夢も見なかった。

 公園に到着し、芝生に挟まれた歩道をゆっくり歩く。昨日よりも日差しが暖かく、風は撫でる様なそよ風だ。左右にある芝生で寝そべったら、あっという間にうたた寝が出来そうだった。

(そういえば、お爺さんと出会ったのもこんな日だったな)

 ――数ヶ月程前、まだまだ寒く桜も咲いていない頃、その日は上着も必要じゃないほど暖かく、アツキはふと、近くの公園に行こうと思いついた。

 父親の書斎から読みたい本を持って公園に行き、気持ちよさそうな池のほとりの芝生に寝転んだ。予想通り、心も身体もスーっと軽くなるような気持ち良さで、本を読み始めたはいいが直ぐに眠気に負けて寝てしまった。

 しばらくして目が覚めると、少し離れた所に、お爺さんが杖を横に置いて座っていた。そしてアツキと目が合うと、ニコリと微笑んだ。

「こんにちは。今日は特別に気持ちの良い日じゃのぅ。お前さん、よかったら老いぼれと話でもせんか? ワシも本が好きなんじゃ」

 お爺さんはアツキの持っている本を指差し、そうたずねた。

「えっ? ああ、はい。いいですけど」

 アツキの返事を聞くと、お爺さんは満足そうに頷き、隣へやって来て腰を下ろした。

「水無瀬碧月、です」

 アツキは、取りあえず自分の名前を名乗る。

「わしの事は、ジジィ、クソジジィ、爺さん、老いぼれ、好きなのをお選び」

 予想外の返答が返ってきた。

「……じゃあ、爺さんで」

「ハッハッハ!」

 お爺さんは大笑いした。


(変な爺さんだよなぁー)

 そんなことを思い出しながら歩いていると、気付けば何時ものベンチまで来ていた。

「あれ?」

 座って居るはずのお爺さんがいない。驚いていると、おーいと呼ぶ声が聞こえ、アツキは声がした方を見た。すると、ベンチの斜め左奥、池から道へなだらかな坂の途中に一本の木があり、その下の芝生にお爺さんが座っていた。

「ベンチに座ってないなんて、珍しいね」

 アツキはお爺さんの近くに行き、そう言って隣に腰を下ろした。

「お前さんと初めて会った時も、こんな日じゃったなぁと思い出してな。つい、気持ちよさそうな芝生に吸い寄せられてしまったんじゃ」

「あ、俺も同じことを思い出してた。丁度今日みたいな日だったなぁって」

 うむうむ、と笑顔でお爺さんは頷く。それから二人は、会話をせずに芝生に座り、しばらく心地良い風と柔らかな陽の光を静かに感じていた。

「お前さん、多世界解釈は知っておるかのぅ?」

 そんな時、ポツリとお爺さんが尋ねる。

「パラレルワールド、平行世界とかだよね? この世界とは別の世界が存在していて、全く違う世界だったり、よく似た世界だったりするやつでしょ?」

「そう、それじゃ。夢と一緒で仮説の一つじゃがの。もし存在しておるとして、そこにわしらと同じ様に、感情を持って考える者がおったら。そして出会ったら。お前さんはどうする?」

 アツキはその問いに、木から飛び立つ鳥を眺めながら真剣に考える。

「まずはよく観察するかな?」

「観察?」

「うん。向こうに害する意思が有るかどうか観察する。それで無ければ、話しかけてみるかなぁ、多分」

「怖がったりはせんのか?」

「だって他の世界の住人でしょ? すごい面白そうじゃん! あ、でも見た目が人型とは限らないか……。虫みたいだったり、訳分からない形だったら逃げるかも」

「ハッハッハ! それは確かに、わしもヒくかも」

 そう楽しげに言ったお爺さんは、猫が喋るしのぅと呟いた。

「猫?」

「あーいや、猫とか犬が喋る世界もあるんじゃないかと想像してのぅ」

「そんな世界なら、犬猫好きは大はしゃぎかな?」

 ちょうど近くの道を、犬の散歩をしている人が通るのを見ながら、アツキは似たようなコマーシャルがあったなぁと思い出して想像した。

「そうじゃなぁ。人間も一緒にいる世界なら、人に対して文句ばかりかもしれんのぅ?」

「ハハハッ! そうかも! 首輪とか噛んで、俺は何者にもとらわれないんだ! とか、こんなキャットフードは舌に合わねぇ! とか?」

「ハッハッハ! なんてややこしい世界じゃのぅ」

「確かに!」

 それから二人はどんな世界が在りそうか、漫画やゲームを引き合いに、ふざけながら、時には科学的に真剣に考えながら話をした。

 しばらくして、話の盛り上がった二人はその熱を冷ますように、再び静かに公園の風景を眺めていた。今度は、アツキの方が口を開く。

「爺さん」

「ん? なんじゃい改まって」

 池のほとりで、網を持った小さな子供とその両親だろう。父親と子供が、何かを必死で捕まえようとするのを、少し離れて母親が見守っている。それを見ながら、アツキはお爺さんに聞いた。

「強くなるってどういう事なんだろう」

「んー、それは難題じゃのぅ。腕っ節と精神でも全く違うしの。わしもずいぶん歳をとったが、未だ模範解答は見つからん」

「……そっか」

 アツキは両手足を芝生に投げ出し、仰向けに寝そべった。

「一つだけ分かる事は、一人ひとり答えが違うという事じゃ。お前さんの答えは、お前さんが見つけるんじゃよ」

「それ、ある意味模範解答だよね?」

 アツキは頭の後ろで腕を組んで、隣のお爺さんを見上げた。

「ハッハッハ! そうじゃのぅ。まあ、焦らず追っていれば必ず見つかるものじゃ」

「そういうもん?」

「そういうもんじゃ。……大丈夫、お前さんなら見つけられるて」

 お爺さんは、心配するなと大きく頷いた。

「俺の事、買いかぶり過ぎだよ」

「わしは、人を見る目にはそこそこ自信があるんじゃ。そんな若者に、ジジィから言葉を贈ろう! のたうつほど大いに悩め! 若いうちなんぞ何かにつけ、悩んで答えを探すこと以外ないじゃろ。そんでもって日々を楽しめ!」

 びしっと指さし、お爺さんはニヤリと笑った。

 アツキは道場での日々を思い返したが、あの時感じていた自信や充実感は、今では感じられない。感じているのは虚しさだけだった。読書はただ面白く、虚しさを紛らわす様なもので、違う事に思えた。

「……わかんないよ」

 滑ったかのぅ? と独り言を言っているお爺さんに、アツキは不貞腐ふてくされた様子で言った。

「大丈夫じゃ。悩みながら進めば、そのうち分かる」

「そんな気はしてこないよ」

「それこそ気のせい、気の迷いじゃ」

「そうかなぁ……」

 アツキはそれ以上答えず、空に浮いている雲を目で追った。

「ふわぁぁ~」

 雲を見ていたら急に眠気が襲ってきた。沢山喋って疲れたのかもしれない。

「素晴らしい欠伸じゃのぅ。起こしてやるから寝てもよいぞ」

 アツキは一瞬悩んだが、眠気に逆らうのは大変そうだと思い、お言葉に甘えます、と言って目を閉じた。


 寝息を立ててアツキは深く眠っている。お爺さんは憂いを帯びた表情で、寝ているアツキを見ていた。

「そろそろ時間じゃな」

 そう呟き、お爺さんは空を見上げた。お爺さんの瞳の色が、褐色から金色へと徐々に変わっていく。すると、周りの揺れている草木、飛んでいる鳥、散歩している人、あらゆる物の動きが遅くなっていく。

 やがて全ての動きが停止した。正確には、お爺さんを除く全ての時間が止まっていた。

 お爺さんは、寝たまま時を止めている隣のアツキを見る。そして、頭を撫でながら語りかけた。

「こんな形になってしまって、すまない。きっとお前さんは、理不尽だと思うかもしれん。じゃが、何も知らなくても困難を乗り越え、きっと成し遂げてくれると信じておるぞ」

 お爺さんはゆっくりと立ち上がり、アツキから数歩後ろへ下がった。そして、右手でスーツの内ポケットから、ボールペンと同じ位のサイズの、角の無い丸みを帯びた金属棒を取り出した。

 その金属棒は、黄金に光る金の様な材質で、中央部に握りやすいよう彫刻が施されている。表面には呪文の様な文字がびっしりと刻まれていた。

 それを握りしめると、お爺さんは頭上に高くかかげる。

「ケラウノス、久々に頼むぞ。世界を繋ぐ道を創る」

 そう言い終わると同時に、凄まじい光と稲妻、雷鳴が、ケラウノスと呼ばれた金属棒から発せられた。やがてその光が収束すると、ケラウノスは長さ二メートルほどの、白く輝くいかずちで造られた矛になっていた。

 雷矛らいぼことなったケラウノスを、お爺さんは腰の高さで構え、空に向かって素早く突き出す。

 突き出された先端から、先ほどの数倍の規模の光と雷鳴が発生し、巨大な光の柱と成った雷が放出された。雷は空を真っ直ぐ昇ると、視界が白一色になる強烈な閃光と轟音を発し、上空で大爆発を起こした。

「少々強引だったが、無事繋がったな」

 爆発の光が消えると、空中に淡く光る直径五メートルほどの、白い穴の様なものが空いていた。穴のずっと奥には何かが見えるが、地上からでは確認できない。

 お爺さんはシュパッという音と共に、ケラウノスの雷を消して金属棒に戻すと、左手をアツキに向ける。

 すると、アツキの身体は地面から浮き上がり、上空の穴へゆっくり上昇していく。そして、全身が穴の中へ入って行くと、穴は徐々に閉じていき、最後は光の粒を残して消えてしまった。

「頼んだぞ……」

 上空で散っていく光の粒を見つめながら、お爺さん――ゼウスは呟いた。


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