第8話
八
久しぶりに戻った公園は、いつの間にか晩夏の湿った匂いがした。いつものベンチに腰掛け、曇り空を見上げた。二重の虹、ダブルレインボウだ。こんな所で見るとは。
ベンチから立ちあがると、ヒロシのマンションに向かった。その部屋の前に立ち、ドアベルを鳴らした。すると、思いがけずドアが開き、すごんだ感じの若造が顔を覗かせた。
「なんだ、テメエ」若造がいきり立った。
「荷物を取りに来ただけさ」手慣れた感じでドアを開け、ずかずかと廊下に上がった。若造は俺の肩をつかんで引き留めようとした。みぞおちに一発入れてやると、若造は急におとなしくなった。
最初の部屋がヒロシの部屋だ。野球選手のポスターと野球グッズ。ありきたりの少年の住処。勉強机には立てかけた教科書と、崩壊する前の家族三人の写真。ここで知らない顔は、ヒロシの父親だけだ。椅子の背に掛かったランドセルを取ると教科書と写真立てを詰め込んだ。
廊下の奥に進むと狭いリビングルーム、部屋の中は荒れ放題で窓辺の鉢植えは枯れていた。廊下を引き返すと、まだ伸びている若造を跨いで部屋を後にした。
ランドセルを担ぐ俺の姿を見たら、人は変と思っただろうか。だが、どこかのコスプレおやじみたいに、女装だけはしてなかった。
公園に戻ると、いつものベンチに腰掛けた。暫くして、あの若造が公園に駆け込んできた。周りを見回し、ベンチの俺を見つけた。携帯電話を耳に当て何かを喋りながら、若造は俺の方にやってきた。助っ人でも呼ぶのだろう。先手を取って若造に飛びかかると、携帯電話を引ったくりゴミ箱に放り込んだ。何でも文明の利器に頼るのはよくない。何か貴重なものを失ったかのように、若造は一瞬惚けたような顔をした。だが、我に返ったのか若造はゴミ箱を漁り始めた。ゴミ箱に突っ込んだ若造の首筋を掴み、放り投げた。若造は尻餅をつくと俺を見上げた。すかさず、その顎を蹴り上げた。
「機械に頼っちゃいけないよ」優しく教えてあげた。それで、また、若造はおとなしくなった。
ベンチに置いたランドセルを肩に担ぐと、公園を見回した。何も起こらなかったように、ここの湿った空気は淀んだままだ。
所轄の警察に向かった。玄関で立ちんぼうの警官は、俺を怪訝そうに見つめた。肩に背負ったランドセルが気になったのか。
署内に入ると、受付の婦警に言った。
「民事相談は?」
「どんな内容です?」
「住居の不法占拠」
「二階に上がって左の突き当たりの部屋へ」
民事相談窓口と書かれた表札。ドアを開けると、初老の男がデスクから顔を上げた。デスクの上には宇井参事官の表札。
「どうしました?」宇井は椅子を勧めた。ランドセルを下ろし腰掛けた。
「マンションが不法占拠されてるようで」
「ご住所は?」
膝に置いたランドセルを開き、裏蓋に書かれた住所を宇井に見せた。
「あなたの家?」それを宇井は書き留めた。
「いや。そこの住人、このランドセルの持ち主と知り合いで」
「じゃあ、どうして不法占拠と?」
「子供の荷物を取りに行ったら、知らない奴がいたんだ」ランドセルを軽く叩いた。
「そう、この間、事故があったようだね」宇井はデスクからファイルを引き抜いた。
「そう、その事故と不法占拠との関係は?」
「事故として処理が終わっているようだ。不法占拠といわれても警察としては手が出しにくい。ところで、そのお子さん、今どこに?」宇井はファイルを閉じ、俺に目を向けた。
「なんで?」
「手続き上の問題で。遺体確認が残ったままの状態でね」
「休みたい奴はいつ迄も休ませておけばいい。そう思わないか?」
立ち上がるとランドセルを肩に掛けた。宇井もデスクに手を突いて立ち上がった。
「どこへ?」
「さあね」ドアを閉めると、すぐに電話が鳴った。
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