第7話

 俺達は駅前の食堂に入った。空いたテーブルはなく、先客の親子が座るテーブルと相席になった。若い父親と幼い娘。その若い父親に軽く頭を下げると、二人の正面に座った。ヒロシもどこか恥ずかしそうに、俯きながら椅子を引いた。娘は俺達に向かってにこっと微笑むと、父に向き直った。そして、歌い始めた。

「ハッピーバースデー トウ ユウ、ハッピーバースデー トウ ユウ・・・」

と何度も繰り返しながら。この若い父親が誕生日なのか、それとも・・・。壁に貼られた煤けたカレンダーを見た。そうか、自分の誕生日はとうに過ぎていた。「ありがとう」と、心の中で呟いた。

 俺はカツ丼、ヒロシはカレーライス。食べ終え、俺達は壁の隅に吊られたテレビをぼうっと眺めていた。昼の連続ドラマは、まだ終わっていなかった。

「まだ随分時間あるな。どうする?」

「海に行こう!駅の反対側、すぐ海岸だから」と、ヒロシ。

 俺達は線路を潜るトンネルを歩いていた。暗いトンネルを進むと、その先がだんだん明るくなった。そして、潮の香り。トンネルを出て、湾岸道路を越えると砂浜だ。

 ヒロシは、もう波打ち際まで駆け出していた。俺はズック靴を脱ぎ、それを両手にもって砂に踏み出した。

「早く!」ヒロシが波打ち際で叫んだ。

「気をつけろよ!」そう叫んだ途端、ヒロシは波に足下をすくわれ尻餅をついた。

「大丈夫か?」ヒロシを抱え起こした。

「大丈夫だよ」ヒロシは少しばかり挑発的な目を向けた。  

 俺達は砂浜に腰掛け、海を眺めていた。

「かあに会ったら、どうする?一緒に暮らすの?」

「わからない」

「かあとは、どのくらい会ってない?」

「どのくらいかな・・・」

 砂浜を横切って、野球のユニフォームを着た少年達が駆け抜けていく。ヒロシは憧れにも、恥ずかしさに似た表情で彼らを見送った。

「野球、好きなんだ?」

「うん、おじさんは?」

「俺は・・・。さて、行くか?」あの事故のことを思った。立ち上がって尻の砂を払った。

「うん」ヒロシも立ち上がった。ヒロシのズボンは、とうに乾いていた。

「砂払っておけよ。かあとは久しぶりだろう?」 そう言うと、ヒロシはズボンについた砂を丹念に払った。      

 俺達は駅の待合室に戻った。公衆電話台の下から電話帳を取ると頁を捲った。その店は真砂町という場所にあるらしい。電話番号と住所をメモした。

「あった?」ヒロシは電話帳を覗き込んだ。

「ああ。行くか」

 改札口の駅員に、真砂町の行き方を尋ねた。そこは、夕べ逃惑った飲屋街がその場所らしい。

 俺達は、飲屋街に足を踏み入れた。配達のトラック、出勤のお姐さん、酒浸りのオヤジ達が路地を行き来していた。

 店の扉には、確かに『再会』という看板。

「この店らしいぜ」俺は扉のノブを掴んだ。

「閉まってる」ヒロシに振り返った。

「まだ、店の人、来てないんじゃないの?」

「ああ、店の裏にでも回ってみようか」

 俺達は数軒先の路地を曲がって裏通りに出た。どこか見覚えがあった。夕べ逃げ込んだ路地だ。あのビール箱もそのままだ。

「夕べ、あのビール箱の上で居眠りしててさ」

「知ってたの?この店」

「偶然だよ、偶然」

 裏扉に手をかけた。それは、すんなりと開いた。ヒロシを見た。ヒロシは入れとでも言うように顎をしゃくった。

「ごめん下さい」声を掛けたが返事はない。だが、どこかで衣擦れするような人の気配を感じた。

 俺達は裏手の調理場から店に入ると、カウンターを中を覗いた。数席のボックス席しかないような、こぢんまりした店だ。ボックス席から、横たわった女の足が覗いていた。俺達は恐る恐るそこに近づいた。

「かあ!」ヒロシが駆け寄った。それはヒロシの母、幸緒だった。そして、夕べ見た、あの女だ。幸緒は脂汗を流し、苦悶の表情を浮かべていた。なれた手つきでヒロシが背中をさすると、幸緒はゆっくり目を見開いた。

「大丈夫ですか?」声を掛けると、幸緒は大丈夫とでも言うように軽く手を振っ た。そして、その手をヒロシの頭の上に置いた。ヒロシは安心したように幸緒の顔を見つめた。幸緒はヒロシを抱きしめた。

「俺のかあ、だよ」ヒロシは恥ずかしそうに幸緒の手から離れた。

 幸緒はぎこちなく立ち上がると、カウンターに入った。俺とヒロシはそんな幸緒の様子を見守った。幸緒は麦茶と水の入ったコップを盆に載せボックス席に 戻った。俺とヒロシの前に麦茶のコップを置くと、あの優雅な手つきですすめた。

「すいません」コップを取って頷いた。

 気にしないで、とでも言うように幸緒は手を横に振った。幸緒は水の入ったのコップを取ると、ゆっくり口に含んだ。飲み終えると幸緒はヒロシを膝に乗せ微笑んだ。片手で感謝を示すような手話を交えて。

「ヒロシ、手話は?」

「できるよ」ヒロシは自慢げに言うと、両手をぎこちなく動かした。そのうち、 不安げに幸緒の顔を見つめた。

「でも、忘れちゃった」ヒロシは手を引っ込めて俺に視線を移した。

 幸緒は俺とヒロシのやり取りを、どこか愉快そうに眺めていた。そして、カウン ターに立つと紙と鉛筆を取ってテーブルの上に置いた。

「ヒロシ、書けよ。とうが死んだこと、知らせてあげないと」俺が言うと、ヒロシは鉛筆を握りしめ書きはじめた。

『とうが死んだ。だから、かあにあいに来た。ぼく、かあに会いたかった。さびしかった』ヒロシは手を止め、うつむいて涙を堪えた。そんなヒロシの肩を幸緒はそっと包み込んだ。そして、俺の顔を見て頭を下げた。

 お役御免だなと思い、立ち上がった。幸緒は待ってとでも言うように片手を挙げた。どこか曇った表情で。それから、幸緒との筆談が始まった。

 幸緒は元亭主の飯野の死が理解できないでいた。自殺などするような男ではな いとも。二年ほど前まで、幸緒もあの公園脇の古びたマンションで暮らしていた。俺があの公園の住人なった頃と入れ替わりに、幸緒はこの街に戻ってきた。 飯野との間に何があったのか、筆談に記すことはなかった。最後に、幸緒はこう書いた。飯野は本当に死んだのか?そして、自分にはヒロシを預かれないと。    

 幸緒は立ち上がり、店の支度を始めた。俺はヒロシをなだめ店を出た。幸緒は 『すまない』とでもいうように顔の前で手刀を切った。ヒロシは名残惜しそうに幸緒を見つめていた。

 ヒロシは駅にとぼとぼと引き返した。

「かあには、また会いに来ればいいさ。暫く爺さんの家から学校に通うんだな」

「うん・・・」ヒロシはつまらなそうに下を向いた。

「公園に帰ったらマンション寄ってみるよ。教科書とか、送ってあげるからな」

「とうを殺した奴、捕まえて」ヒロシはズボンから財布を取り出すと俺に手渡した。

 ヒロシとはバスターミナルで別れた。ヒロシのバスを見送ると、その足で駅へ。ヒロシから預かった札入れを懐に触れながら。


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