第6話

 朝、ヒロシが不思議そうに俺の顔を眺めた。

「髪、どうしたの?」

「こざっぱりしたかったんだ。もう、行こう」

 自転車をホテルに残したまま、俺達は近くのバス停から最寄り駅へ向かった。物にはこだわらない質だ。自転車は、また、いつか取りに来ればいいだろう。

 俺達は、あの離婚届の紙に残された住所を手掛かりに、その家に向かった。その家は茶畑が敷き詰められた丘の上にあった。

「ごめん下さい」玄関の引き戸を叩いた。

「なんだね?」扉が開くと、老人が不機嫌そうに俺の顔を見た。次に、ヒロシの顔を。「ヒロシか?」老人の顔が緩んだ。

ヒロシは怪訝そうに老人の顔を見上げた。

 西瓜の食べかけがころがった縁側に座って、俺達は茶畑を見下ろしていた。暫く、誰も口を開かなかった。気が付いたら、ヒロシは縁側に丸まって眠っていた。

「あの男、死んだか・・・」ヒロシの寝姿を見て、老人がおもむろに口を開いた。

「ええ・・・。で、ヒロシの母親はどこに?」

「ここには、おらん」

「じゃあ、どこに?」

「ヒロシは預かる。ここまで連れて来てくれて、あんたには世話になった」

 老人は立ち上がると、俺の顔をじっと見下ろした。もう帰っていい、という意味なのだろう。ヒロシに目を向けた。ヒロシは眠ったままだ。

「じゃあ、ここで」ヒロシの寝顔を眺めると、ここ数日のつき合いなのに何故か寂しかった。

 バスターミナルまで戻ると、ベンチに腰掛けた。コンクリート製のそれは、冷たくざらついていた。座ったまま夜になり、やがてバスも来ない深夜を迎えた。街は健全なのか、ベンチで夜明かしする浮浪者はいない。ただ、夜を知らない若者達がふらついているだけだ。

 それは、油断したまま丸まって眠りに入ったころだ。

「おっさん」何か固い物で背中を小突かれた。

「ヒロシか?」寝ぼけていたのだろう。 薄目を開け上半身を起こすと、周りには若者が数人。その一人は鉄パイプを握っていた。

「なんだ?」冷静に言った。

「あんたプーだろう?うざってえんだよ」

「わかった」静かに立上がった。狩られる身には、いつもあるトラブル。相手を刺激しないのが、一番の得策だとわきまえている。

「待てよ」鉄パイプの若造が叫んだ。後ろを振り返らず駆け出した。いつものように。

 いくつもの暗い横丁を抜け、飲屋街にたどり着く頃には連中の足音は聞こえなくなった。ようやく諦めたらしい。飲屋の裏に積まれたビール箱に腰掛け、息をぜいぜいさせた。もう歳だと思った。その時、裏扉が開いた。中年の女がビールの空瓶を両手に垂らして俺を見た。一瞬びっくりした表情を見せたが、すぐに顔がほころんだ。ビール箱から腰を浮かせかしこまった。空瓶を戻すと、女はビール箱を軽く叩いた。座れとでもいうように。

「さっちゃん」店の中から声がした。女は手を振ると裏扉の向こうに消えて行った。

 明け方近く、どこかで鳥の声が聞こえ目を覚ました。ビール箱で腰を屈めたまま寝ってしまったようだ。腰を上げかけた時、裏扉が開いた。あの女だ。女は俺を見て軽く手を振った。どこか優雅な動き。

「すいません」腰をさすりながら軽く頭を下げた。女は首を横に振って微笑むと、白々あけた飲屋街を後にした。

 駅まで歩くと公衆便所に入り、用を足して顔を洗った。いつから顔が脂ぎってきたのだろう。中年の域に入っていた。

 駅の待合室に入ると自販機で缶コーヒーを買って、ベンチに座って飲んだ。そして、次第にうつらうつらしていった。

「おじさん」脇腹を誰かが小突くと、ビクッとして目を開けた。横を見ると、にんまりした顔のヒロシ。

「どうした?」

「どうせ、この辺だろうと思って。爺ちゃん、かあのところ、ようやく教えてくれたんだ」

「かあは、どこにいるんだって?」

「『さいかい』っていう名前の店だって。お酒を飲むところ。一緒に探してくれるよね」

俺が暇だっていうことを見越した言い分だ。

「まだ、昼前だぜ。飯くわないか?腹減ってるんだ。お前から借りた金も、底ついちゃってな」こんな子供にたかってる自分に、もう嫌気など起こすことなどなかった。

「いいよ」ヒロシはベンチを立った。


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