第5話

 俺達は、また歩きはじめた。向こうにラーメン屋の赤い提灯が揺れていた。

「食べる?」ヒロシが俺を見上げた。

「金がない」首を振ってズボンをまさぐる真似をした。

「じゃ、これ」ヒロシはズボンの中に手を入れると、分厚く膨らんだ札入れをぎこちなく取り出した。

「それ、どうした?」

「とうのだよ。持って出たんだ」ヒロシは、その札入れを躊躇なく手渡した。  

 札入れの中を覗くと、一万円札がびっしりと四、五十枚くらいはあったろうか。一枚抜くと、札入れを閉じた。このまま、これを掴んでフケることもできた。一瞬迷った。だが、札入れはヒロシに返した。

「悪いが一万円、借りっていうことで・・・」

「うん」ヒロシは気にもしないように頷いた。俺の一瞬の迷いを感じただろうか?「金持ってたんだったら、食えばよかったのに。公園にいたとき、何も食ってなかったんだろう?」

「うん・・・」

 俺達のラーメンの丼は汁も残さず空になった。暫く、二人はぼうっとしたまま動かなかった。

「飛び下りるところ、見たのか?」と尋ねてみた。

 ヒロシはバットを振り回していた時のキレた目を向けた。だが、俯くと首を横に振った。

「じゃあ、なんで殺されただなんて?」

「朝早く、パン買って来いって、とうに追い出されたんだ。女の人が来る時は、いつもそうなんだ」

「女の人って?」

「白いシャツとスカート、先生みたいな」 

「あの女か。それで?」公園で見た女のことを思い出した。

「帰ったら家に誰もいなかった。一人でパン食べてたら、暫くしてサイレンが聞こえて、家の下で止まった。窓から下を見たら、救急車に誰かが運ばれてた」

「それが、お前の親父だと?」

「わからない。でも、とうは帰らなかったし」ヒロシはカウンターにうつぶせた。

「行くか」俺はヒロシの背中を軽く叩いた。

「どこへ?」ヒロシは眠そうな目を向けた。

「かあのところに行くんだろう?お前、さっき、そう言ってたじゃないか。それで、かあはどこに?」

「知らない」また、ヒロシはうつぶせた。

「知らない?じゃあ、探しにいこうぜ」

「どうやって?」ヒロシは顔を上げた。

「さっきの札入れ、貸してみな」

「なんで?」ヒロシは怪訝そうに俺を見た。

「大丈夫。盗みゃしない」

 ヒロシから札入れを受け取ると、中身を改めた。札以外にはレシートの束、クレジットカードが数枚、免許証。免許証は本籍も現住所も、あのマンションのようだ。ほかに住所録らしきものはない。今は携帯電話で事足りるからか。

「携帯電話は持っていたんだろう?あのゴミ箱のやつか?」

「そうだよ・・・」ヒロシは何か言いかけたが口を閉じた。

「かあの電話、登録してあった?」

「電話なんか、できないよ」

「どうして?」

「聞こえないんだ」ヒロシは耳を押さえた。

「そうなのか・・・」

 札入れをもう一度改めた。レシートの束をパラパラやっていると、その中につるっとした紙切れが畳んで挟んであった。その紙切れを手に取って拡げてみた。それは離婚届の切れっぱしに見えた。一度書いた覚えがある。配偶者欄の薄れた文字が、かろうじて読めた。そこには『幸』という名前と住所の下半分が。

「かあの名は?」俺はヒロシに尋ねた。

「さちお、だけど」

「どんな字だ?」

「幸福の幸、それと緒方君の緒」

「幸緒。幸せが永く続く、か」

「なんのこと?」

「名前に込められた意味さ。行こうぜ」ヒロシに札入れを返し、例の一万円で勘定を済ませた。

「かあは、静岡にいるかもしれない」自転車を押しながらヒロシに振り向いて言った。

「静岡?どうして?」ヒロシは俺を見上げた。

「あとで話すよ。それより、今夜の宿だ」

 ヒロシみたいな子供連れじゃ、公園で野宿っていうわけにもいかない。俺達は暫く歩くと、あのビニールの目隠しカーテンに潜った。平日の夜、駐車場には車

が数台。部屋は空いているだろう。泊まり四千円也か。

 前金を払うと、ヒロシを背におぶい部屋に入った。ヒロシをダブルベッドに寝かせ布団を掛けると、風呂場に入り久しぶりの熱湯を体に浴びせた。備え付けの髭剃りで髭を剃り、そして頭を剃った。終わると鏡を見た。痩せてはいたが、幾分、昔に戻ったような気がした。

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