第4話

 公園に着いたのは、翌日の夕方だ。自転車を漕いで汗だくになっていた。もちろん、あの水飲み場へ。

「暫く見なかったな」ダボが声をかけてきた。

「ちょっと、フケて港に行ってたんだ」

「観光か?」

「そんなわけないだろう」

「それでも優雅なこったな。それ、もしかして新品?」ダボは自転車を羨ましそうに見つめた。

「いや、まさか中古だよ」

「港に行くと、物持ちになれるの?」

「まあね。だから、そっちに移ることにしたよ」

 体を洗うと荷物の隠し場所を確かめた。荷物は元通りだ。ほとんど価値のない荷物を自転車の荷台に結わえると、ハンドルを握ったまま公園を見回した。ここに棲んで、どのくらい経っただろう。何か胸にくるように懐かしかった。いつも座っていたベンチを見ると、少年がぽつんと座っていた。あのバットを振り回していた少年だ。どこか、しょんぼりしてあの元気はなく、心なしか体も細くなったように見えた。自転車を押しながらベンチに近付いた。

「元気ないな。バットはどうしたんだ?」からかい半分に声をかけた。そして、自転車を止め少年の隣に腰掛けた。

「盗られたんだ」少年は横目で見返した。

「だれに?」公園を見回した。いつもと変わらない。そう思っていた。

「とうを殺したやつさ。とうは、あいつが突き落としたんだ」少年は目に涙を滲ませた。その視線は公園の木立の向こうを見据えていた。あの事故があったマンションだ。

「とうって、お前の父親のことか?それで、お前、その身柄確かめたのか?」

「ううん・・・」少年は首を横に振った。  

 俺達はコンビニの写真箱に入って食い物を貪った。ジャンクフードが少年の口に呑み込まれていく。少年は、あれから殆ど食べていなかったようだ。

「あんた達、なにやってるの」女店員に見つかった。そして、写真箱から放り出された。  

「元気でな」自転車を押しながら少年に振り返った。俺は、あの湾岸に戻るんだ。

 自転車を押しながらまた振り返ると、少年がとぼとぼとついてきていた。

「帰れよ」せめても怒鳴ったように言った。このまま自転車を漕ぎだし、遠くに走り去ってもよかったのだ。

「帰れないよ。あいつらいるし」

「警察呼べよ。不法占拠だろ?」

「借金のカタだって。かあの所に行きたいよ」

「かあ?」少年は静かに涙を溜めていた。少年は、それから何もしゃべらなくなった。

 自転車に飛び乗って、この場から逃げ出したかった。だが、どうしても少年を見捨てることができなかった。どうしても・・・。気がついたら、あの公園から、とうに離れていた。どうして、こんな夜更けて少年に帰れと言えるだろうか。

 俺達はあてもなく歩き続けた。向こうから、あの音が聞こえた。踏切の遮断機が落りかけていた。あの警笛音が堪らなかった。あの赤い光の点滅もいたたまれない。今になっても。

 自転車のハンドルを握りしめたまま、見えない遠くを見つめていた。こっちの様子が変に思ったのだろう。少年が俺の顔を見上げた。

「どうかしたの?」少年は俺の目を真っ直ぐに見つめた。  

 目を逸らし返事もせず黙って歩きはじめた。そして、横丁を右に曲がると警笛音が次第に遠のいていった。開かずの踏切の遮断機がようやく上がったからだろう。

「踏切が嫌いなんだ」そう言うと、少年はぽかんと俺の顔を見上げた。子供なりの優しい目をしていた。  

 ぼうっとして歩くうち、また踏切に差し掛かった。どう、道を間違えたのか。だが、いずれは踏切を通らねばならなかった。踏切の手前で自転車を止めた。踏切の竹竿は上がったままだ。横を見ると、少年は何か言いたげに立ち尽くしていた。少年を無視すると、踏切に入っていった。それは、踏切を渡り終えようとした時だ。警笛音がいきなり響き、竹竿が降りはじめた。振り返ると、踏切の真ん中で少年が達観したような表情で立ち尽くしていた。何のつもりだ。前を見た。前の竹竿も降りはじめていた。振り返った。自転車のハンドルから手を離す。自転車の倒れる金属音。それに構わず走り出すと、少年を抱きかかえた。

「早く向こうへ渡ろう」そう言うと少年は素直に頷いた。  

 踏切の向こう側に少年を降ろすと、あたふたと自転車を取りに戻った。落ちた荷物を戻し自転車のハンドルを掴むと、向こうの竹竿を目がけて駆け出した。竹竿は殆ど落ちかけていた。自転車を斜めに傾け、ようやく竹竿を潜った。そして、背後に長い貨物列車が通過していった。

「気をつけるんだぞ」

「うん」 

 また、何もなかったように歩きはじめた。何を思ったのか、登り坂で少年が駆け出していった。俺は自転車をゆっくり押し上げるしかなかった。坂の上で少年が呆然と腰を下ろしていた。

「腹、減った?」

「うん。ここ、どこ?」

「県境だろう」周りを見渡すと、電柱の住所表示を見つけて言った。

「けんざかいって?」少年は俺の顔を見上げた。こっちが保護者だとでも言うように安心した表情で。

「向こうは、まるっきり知らない土地さ」  

いつの間にか、この少年のことが気になっていた。あの公園では、ただキレたガキとしか思っていなかったのに。公園を離れ、何かの呪縛から解き放たれたとでもいうのだろうか?俺も少年も、どこか少しずつ何かが変わってきたというのだろうか。

「名前は?」そんな感情を悟られないよう無表情で言った。大人げないとは思うが仕方ない。

「ヒロシ」少年は素直に答えた。

「モテそうな名前だな」少し無理しておどけて返した。

「おじさんは?」

「おじさんか・・・。俺は、何でもいい。さて、これからどうする?」

 ヒロシは立ち止まって前を見つめた。向こうに大きな橋。川を越えれば東京からお別れだ。とぼとぼと橋の欄干を歩きはじめた。車道を行く車の中から、二人はどんな風に見えるのだろうか?親子?でも、こんな夜中に?

 一瞬、足を止めた。ヒロシもだ。二人は欄干から下を覗き込んだ。墨色の川面は、月光を照らしギラギラと光っていた。「いつでも飛び込んでおいで」とでも言うように、まるで、何か獲物でも待っているかのようだ。ヒロシの顔に車のライトが反射した。そのつるっとした顔は、一瞬、セルロイド製のお面のようにも見えた。

 橋を渡り終え、その先は暗い夜道が続いていた。遠くでラブホテルの電飾が灯っていた。俺達は歩き続けた。どこへ向かっているのか、そんなことはどうでもよくなっていた。

 後ろから来た自転車が追い抜いていった。ブレーキのきしる音。自転車は急に止まると、警官が降りて近付いてきた。

「それ、あんたの自転車?」警官は懐中電灯で俺達の顔を照らし、その光を自転車に移動させ、無線で自転車の登録番号を送った。

「そうだよ」俺は警官の顔を見つめた。

「あんたのお子さん?」

「ああ、そうだ。自転車も、この子も、俺のだ」ヒロシの顔を見たが、ヒロシはそっぽを向いた。

「こんな遅く、どちらへ」

「かあのところ」ヒロシが顔を上げ、平然と言い放った。その顔を見て、何故か苦笑いがこぼれそうになった。

「かあって誰のこと?」警官が膝を折り、ヒロシに顔を近付けた。

「かあは、かあだよ」ヒロシは警官を毅然として睨んだ。バットでゴミ箱を叩いた時のように。

「夜勤の母親を二人で迎えにいくところなんですよ。夜道は危ないんでね」そう当てつけがましく言うと、何気なくヒロシの頭に手を置いた。  

 無線の音が鳴った。警官は立ち上がり俺達にそっぽを向いて無線に頷いた。

「では、気をつけて」警官は機械的に納得したかのように自転車に跨った。確固たる登録情報が生身の人間にも及ぶとは、警察も大したことはない。警官の背中を見送りながら、俺とヒロシは顔を見合わせてにんまりした。

「行っちゃったね」

「ああ。俺達も、それなりにいい親子らしく見えるんだな」


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