第2話
二
顔馴染みの浮浪者たちが数人、水飲み場で手足を洗っていた。夜の食漁りから戻ったところなのだろう。彼らは、深夜営業の飲食店が夜毎排泄する生ゴミを夜通し漁り、ようやく腹を満たす毎日。
「兄ちゃん、蒸し暑いね。これから職探し?」その中の一人、ダボさんが声を掛けてきた。痩せぎすの体に、いつもサイズが合わないダボっとした格好だから、そう呼ばれていた。
「いや、まだ」丁寧に両手を洗いながら答えた。はたからは、神経質な男と思われても手を洗い続けた。
「裏門の人だかり。手配師、来るみたいだ。あんた、若くてガタイいいからきっと引っ張ってくれるよ」上顎に生えていたはずの前歯は抜け落ち、垢で黒ずんだ顔の中でダボの白い目が笑った。
「ああ、行ってみるよ」目を細めて言った。
怖かった。自分もその内、こいつになるのか?両手を手拭いで丁寧に拭いながら、裏門へ向かった。もう七時近くだが仕事に飢えた浮浪者が集うだけで手配師らしき姿はない。皆、今日の仕事はアブれになるだろう。
公園の錆びた鉄柵に座って、路地の向こうを何気なく眺めていた。救急車がサイレンを鳴らし、古びたマンションの前に止まった。煙はないから火事ではない。何か事件か事故だろう。
「ちょっと、兄さん」
遠目の視線をその男がいきなり塞いだ。男は両手をズボンのポケットに突っ込んで、薄笑いを浮かべていた。粋がっているが、よくいる使いっ走りでしかないような奴だ。
「仕事、欲しい?」
黙って頷いた。男も頷くと、耳に空けたピアスが光った。ズボンから右手を引き抜くと、ざらついた中指一本を突き立てた。日当のつもりなのだろう。黙って頷くと、鉄柵から腰を浮かせかけた。やばい仕事だろうが、一枚なら、まずまずだ。
「今じゃない、夕方だ。五時に、ここにいろよ」男は他に使えそうな奴を漁りに離れていった。
ベンチまで引き返すと、また横になった。夕方まで、ここで時間を潰すしかない。だが、今日は、あいにく日曜。公園には普段より人が集まる。浮浪者は植え込みの奥に引っ込み、ここを明け渡さないとならない。日曜日、公園は未だ生気を残した生活者達のものになる。子供に手を引きずられた家族連れ、散歩犬に綱を引きずられた中年女、それと金属バットを振り回す少年。これじゃ、一日ベンチで寝転んではいられない。といって、遊ぶ金など持ち合わせてはいない。またベンチに横になった。多分、夕方までこの格好のままだろう。ちょっかい出してくる奴は、誰もいないと願いつつ、いつの間にか眠っていた。
うとうとした頃、何かの金属音で目が覚めた。起きあがって見ると、少年がゴミ箱の横をバットで叩いていた。その少年を無言で睨んでやった。少年は非難の視線も感じず、何かに取り憑かれたように叩き続けた。狂気じみた何かが、少年を駆り立てているようだ。そのうち、少年は大上段に構えるとバットを大鉈に振り下ろした。ゴミ箱の縁がしなって傾くと、中からゴミが散乱した。少年はバットの先でゴミを蹴散らすと目当てのものを見つけたようだ。あの二度捨てた携帯電話。少年はその携帯電話をバットの先で確かめるように小突くと、納得したように頷いた。そして、バットを振り下ろし、それを粉砕した。液晶は割れ、プッシュボタンは飛び散り、朝顔に似た小さなスピーカーが顔を出した。その残骸を、少年は無表情に見つめた。一瞬、こちらに目を向けた。その目に怒りはない。少年は放心したようにバットを地面に放り出した。
「うるさかったんだ・・・」言い訳でもするように、少年は小声で呟いた。睨み付けると、少年はバットを拾い引きずって向こうへ行った。砂利を敷き詰めた地面に、その捩れたような跡が続いた。
この辺じゃ、こんな風にキレたガキは珍しくもない。棲みついた浮浪者の方が、まともに見えるくらいだ。だが、さっきの少年はまだ幼かった。十歳くらいだろうか? しかし、ゴミ箱を叩き続ける様子は、どこか鬼気迫っていた。何がそうさせたのか?わかるはずはない。
またベンチに横になった。人は眠る前に、自分に足りないものを思い浮かべるという。腹を空かせた奴は食い物を、金がない奴は札束を握りしめ、女を抱きたいは・・・。今の俺には、何も思い浮かべるものなどなかった。
肩の上が冷たい何かで重かった。ハッと目を覚ました。目先に、傷だらけの金属バットの先。バットを咄嗟に握ると、それを引き寄せた。すると、少年の顔が間近に迫った。どこか途方に暮れたような少年の顔だ。
「今度は俺か?」バットを離して言った。
少年は後ずさり、駆け出した。バットを宙に振りかざし、何かわけのわからないことを叫びながら。
寝起きに、急に力を出したせいか、腹が鳴った。朝から水道の水しか飲んでいない。食い物を手に入れたいが金はあるのか。この時間じゃ残飯などあてにできない。ズボンに手を入れると、指先で小銭を探った。コンビニに入れるだけの小銭はあるようだ。
公園の灌木を抜け柵を乗り越えると、コンビニに向かう路地。トルエンの売人達が道端に止めたライトバンの中で眠りこけていた。路地に放置された車は朽ち果て、死なずして朽ちた人間の捨て場所がここだ。
路地の向こうから缶を蹴る音。さっきの少年が、今度はバットで空き缶を叩きつぶしていた。
「よお」声を掛けると、少年はこちらを見た。「バットって、球打つ棒ってこと知らないのか?」
少年は興味なさそうにバットを振り上げ、空き缶を叩きつけた。空き缶から飛び散った液体が、アスファルトに流れ出した。その先に白線で描かれた人型。頭部に黒いシミが拡がっていた。上を見ると古ぼけたマンション。
「なんだ、飛び降りか」
少年は一瞬非難めかした目を向けると、白線をなぞるようにバットを引きずった。
「そんなとすると罰あたるぜ。これだけ血流したら、この白線の奴、たぶん助からなかっただろう」
少年は動きを止めこちらを睨むと、バットを放り投げ路地の奥へ駆け込んで行った。子供のやることは、やはりわからない。
コンビニの前には、自動販売機が連なった壁。その端に、証明写真を撮る写真箱。箱の中で、二人の足が絡まっている。笑い声とフラッシュ。何故、今の子たちは写真を撮り合うのだろう?昔、映画で見た、人造人間が残り少ない生でも記録するように。きっと、自分達の寿命が短いことを知っているからだろうか?
店に入ると、爬虫類系の嫌な目をした女店員といつも目が合う。女店員は首を伸ばし、のぞき込むようにこっちの様子を窺うのだ。
目当てのものを掴み、レジに行くとそれを放り投げる。女店員の怪訝そうな目つきを見据えながら、勘定の小銭を放り投げる。その代わりに女店員は釣り銭を投げつけてくる。いつもながらの慣れたやりとりだ。今日は投げられた釣り銭が飛んでいかない分、良い方だ。
公園に戻ると、広場は太陽の光で白く滲んでいた。ベンチも光を反射して熱そうだ。植え込みにのっそり腰を下ろした。
あの夏、蜻蛉のように歪んだプラットホームを思い出した。まだ鉄道学校に入る前、中学生だった。ホームの表示板には回送列車の文字。列車を待つ間、ホームの下に敷き詰められた砂利を見下ろしていた。油に薄汚れた砂利の間を、灰色の子鼠がうろうろ這い回っていた。砂利の上は、流転禁止と書かれた立て札が突き刺してあった。線路の向こうでは、交代の運転士が夏の日差しを避けるように鉄塔の細い陰に隠れていた。DEADHEAD、流転禁止。今では何でもない鉄道用語。その時は言葉の意味を知らぬまま、その言葉が何故か心に引っかかった。すり減った線路の表面が、一瞬ぎらついたように思えた。その時、車輪が軋る金属音と何か挽きつぶされる鈍い音。見ると、列車はホームの途中で止まっていた。駆け寄ると、赤く染まった砂利、車輪に潰された日傘、車輪の下には着物の裾。向こうのホームには、こちらを見つめる群衆達の好奇心の目。反対ホームに列車が滑り込むと、その目をようやく遮った。
いつの間に寝てしまったのか、カメムシをつぶしたような脂汗の嫌な臭いで目が覚めた。植え込みの間を、幾分涼しくなった風が抜けた。夕方近いのだろうか。立ち上がり、待ち合わせ場所に向かった。
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