Dead Head 流転禁止

翳間 皓

第1話

 盛夏。熱帯夜明けの朝、その湿った熱気はじわじわと宙から押し寄せてきた。見えない硝子の重しのように、慢性的な寝不足の倦怠感が体をベンチに押しつけた。宇宙に放り出されたアストロノーツのように。頭を流れる血管は、どこかで滞留しているようで筋肉も重かった。ベンチに頬を置くと、幾分、冷たさが伝わって来た。これでも、少しばかり心地よい。

 淀んで滞っていた熱気が、少し動いた。横になったまま、首を少しのけ反らした。横目で、その女の通り過ぎるのを眺めた。女の背中は、じっとり汗で濡れていた。肌に貼り付いた白いブラウスの下で、ワイン色のブラジャーの紐が小島を結ぶ架け橋のように浮かんでいた。女はショルダーバッグに手を突っ込むと、何かが入ったビニール袋をゴミ箱に放り込んだ。

 それがゴミ箱の空き瓶にでもあたったのか、何か鈍い音がした。女はその音に驚いたとでも言うように、足を早めて歩き去った。タイトスカートに貼り付いた、丸く突き出た女の尻を目で追いかけた。女の尻が見えなくなると、寝返りを打ち丸くなった。もう一眠りしようと。イイ夢が見られそうだ。

 唐突にゴミ箱の中から黒電話のベルが鳴った。どんよりとして目が覚めた。数十回鳴っても、ベルの音はおさまらない。増して、留守番電話にも繋がらない。ベンチから起きあがり、ゴミ箱を覗いた。あの女が捨てたビニール袋が、死にかけた甲虫のように震えていた。袋を取って開くと、新聞紙に包まれたそれがあった。新聞紙を開くと、玉を掴む獅子のストラップがついた、赤い携帯電話。間違って何かのボタンを触ったのだろう、ベルが止み甲高い男の声が流た。「遅いじゃねえか。あんた、まだアレの最中かよ?」  

 その時、風の音を聞いたような気がした。重い物が何かにぶちあたるような鈍い音。周波数が合わないような雑音が続き、男の声は流れなくなった。咄嗟に携帯電話をゴミ箱に投げ込んだ。

 携帯電話が普及して、世の中、景気はよくなったのか。それとも。今の自分にはわからない。メールが楽しいから、本を読まなくなったって?何でも携帯電話で事足りるようになって、人と会わなくても済む。だから、己の格好さえ気にしない。今の自分の生活そのもの。そんなどうでもいいことを考えつつ、うとうとし始めた。

 数分後、また、ベルの音。ゴミ箱の中のものは、また息を吹き返したようだ。今度の呼び出し音も、どうでもいいくらい長い。少しは空気を感じろよ、と。そう思ったが、所詮、機械じゃないか。鳴っているのも、鳴らしているのも?ベンチから跳ね起きると、ゴミ箱に片手を突っ込んだ。指先で携帯電話らしきものに触れたが、指が滑った。それは、何か濡めっとした液体に覆われていた。ゴミ箱に投げ込まれた、何かどろっとしたものと混ざったのか。ようやく携帯電話をゴミ箱から掴み出した。掴んだその手から、何か異様な臭いがした。携帯電話を左手に持ち替え、手拭いで電話を拭う。また、何かのキーを押したらしい。今度は甲高い女の声。

「朝まで人待たせといてさ。どこにいるんだよ。まさか、別の女とやってるんじゃないだろうね。あんた聞いてんの・・・」

 今度はキレた女だ。この携帯電話の持ち主は、どうも疑われやすい質のようだ。あの汗っぽい背中をした女、これを捨てていった女が持ち主ではないのだろう。持ち主は男?だが、どうして?携帯電話をゴミ箱に放り込んだ。これで二度目だ。両手を鼻先に持っていき、臭いを嗅いだ。腐敗した食い物が、饐えて混濁した臭いとでもいうのか。枕代わりにした紙袋を掴むと、公衆便所へ向かった。

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