異界の短編集

@shiromiso

母さんの味

「祐ちゃん、ご飯できたよ」

「はあい」

祐ちゃんとは半年前この家に引き取られた孤児である。歳は15くらい、もうこの家にすっかり馴染んで可愛い笑顔を振りまいている。

奥さんはまだ若い。去年夫を亡くし、寂しさから祐ちゃんを引き取った。他に子はない。

彼女が祐ちゃんに作ってやったのはビーフシチューである。もともと料理は得意でもなかったが、これは独自のアレンジがしてあって、祐ちゃんの好物である。

ばくばく、むしゃむしゃ、

「おいしい!」

「ふふふ」

祐ちゃんが本当に美味しそうにご飯を食べるのを眺めるのが、彼女の至福のひとときである。

ともかく若くして夫を失った彼女は、一抹の幸福を掴んでいる。


ドアを叩く音がする。

祐ちゃんはスプーンを止めて顔を上げる。

「はあい」

母が応対に出た。

「ああ、奥さん。ご主人はまだ戻られませんか」

「ええ、すみません。あの人、手紙の一つもくれないで......。」

「いえいえ、いいんですよ。大変ですなあ、旅行好きの夫を持つと......」

「ふふふ、まあ慣れてますから」

夫が死んだことは誰にも話していない。近所の人にも、祐ちゃんにも。遠くに旅に出て、何か用事で帰ってこられないのだろう、と話している。旅行好きは本当である。長い時は一ヶ月、半年も旅に出ることがある。だが去年の今頃、彼は屍体となって送られて帰ってきた。事故だったらしい。何か高いところから落ちて頭を打ったとか、彼女はよく覚えていないが、ともかくその後彼女は、夫はもう一度すぐ旅に出て、それきり帰ってきていない、と話している。本当のことは誰も知らないし、彼女自身も半ば認めていない。

来訪者の用事は町内の些細な連絡だった。

「それでは、ご主人によろしく」

「ええ。さよなら」

ドアを閉めた時彼女の顔は心なしか青ざめていた。

祐ちゃんが心配そうな目で見ている。

「母さん、大丈夫?」

「ええ、大丈夫よ。ありがとう」

「お父さんのこと?」

「そうよ。でも、きっとすぐ帰ってくるから、心配しなくていいわ」

祐ちゃんは、お父さんのことを母の話からしか知らない。この家に引き取られたころには既に「旅行に行っている」からである。お父さんのことを語る時、母さんの目がうっとりとするのを祐ちゃんは知っている。お父さんの話をしているときが、母さんは一番幸せそうだ。でも話し終えて必ず寂しそうに遠くを見る。祐ちゃんはそれを知ってどうすることもできない。ただ心配そうな顔で母を見つめる。だがそれが母の心の救いになっていることを、祐ちゃんは知らない 。

「お父さんはね、かっこよかったのよ。祐ちゃんも大きくなったら、お父さんに似たかっこいい男になるよ」

「へへへ」

もちろん血が繋がっていないのだからそんなはずはない。だが彼女がそう言うと二人はそんな気分になる。幸福で単純な空間である。


夕食を終えて、二人は一つのベッドで眠る。ふたりでひとつの命のように、丸くなって眠る。

だが祐ちゃんは、ごくたまに、夜中、物音に目が覚めてみると、隣に母さんがいないことに気づく。起き出して、母さん? と聞くと、遠くの部屋から、祐ちゃん、待っててね、と母さんの声がする。祐ちゃんには、来るな、と言っているように聞こえた。一度だけ、その部屋まで行こうとしたことがある。そばまで行くと、母さんが部屋から顔だけ出して、祐ちゃん、向こうで待っててね、と低い声で言う。暗がりの中、ほのかに見えた母さんの顔が怖くて、なんだか母さんの顔じゃないようで、祐ちゃんは逃げるように寝室へ帰った。それ以来、夜中目が覚めて隣に母さんがいなくても、祐ちゃんはそのまま寝ているようになった。その代わりに思い出す。あのときの怖かった母さんの顔と、部屋から流れてきた妙な冷気、あれは確か、父さんの部屋だから入らないで、と言われていた部屋だ。そんなことを思い出して、怖くて、母さんが戻ってくるのを震えて待っている。待っても待っても来ないので、小さな声で、母さん、母さん、と呼ぶと、母さんは優しい声で、はあい、ごめんね、すぐ行くね、と言って、しばらくして戻ってくる。それから祐ちゃんを優しく撫でて、眠るまで祐ちゃんの顔を見つめている。それでやっと祐ちゃんは眠れる。そんな日が、ときどきある。


祐ちゃんは、好きな食べ物は、と聞かれると、母さんのビーフシチュー、と答える。ふふふ、お母さん思いなのね、と言われるが、そうではない。外でビーフシチューを食べる機会があっても、ろくに箸をつけない。理由はわからない。一口食べてみて、なんだか違う、違う、と思う。母さんのビーフシチューはもっと美味しいのに、と思う。他の料理ではそんなことはない。母さんのカレーは美味しいが、外で食べるカレーも美味しい。だがビーフシチューだけは、母さんのじゃなきゃだめなのだ。


ある日、家に警察が来た。

ご主人の遺体はどうなされましたか。祐ちゃんは聞いて意味はわかったが理解はできなかった。母さんも、一度、いえ主人は旅行に、とまで言いかけたあと、しばらく呆然として、ええと、人に頼んで他所の土地に埋めてもらいました、と言った。警察の人は、届けが出ていないんですよ、と言った。母は、半ば気を失ったような、死んだ声で、では、明日、そちらへ伺います、と言った。警察は本当は今日署まで来て話をしてもらおうと思っていた。だが奥さんのあまりの様子を見て、では、明日、と引き下がってしまい、そのまま帰っていった。ドアを閉めるなり彼女は床にへたり込んだ。祐ちゃんが駆け寄る。母は祐ちゃんを抱きしめて、ごめんね、ごめんね、と繰り返している。


明日。明日になったら警察が来る。そればかり考えていると、母は知らないうちにレストランに来ていた。街でもかなりよいほうのレストランだ。母は魂の抜けたような足取りで、しかし同時に、苦しみや葛藤も抜け落ちたような、透明で穏やかな笑顔のまま、席に着いた。祐ちゃんは困惑した顔で、同じように席に着く。

「祐ちゃん、何が食べたい? なんでも食べられるよ」

祐ちゃんはすぐには答えられなかった。

何を言えばいいのだろう? 母さんは何と言ってほしいんだろう? 祐ちゃんにはわからなくて、口をもごもごさせながら黙っていた。

「じゃあ、ビーフシチュー食べる?」

母さんが聞いた。

祐ちゃんは、大きく一度うなづいた。

母は魚料理とワインを頼んだ。

やがてビーフシチューが運ばれてきた。

「いただきます」

レストランでも行儀よく手を合わせてから食べる。格式ばったテーブルや盛り付けにそぐわない、あどけない手つきで、料理を食べる。その様子を、母は満足そうに見ている。


ああ、こんな知らないレストランに初めて来て、きっといいところなのだろう、美味しい料理なのだろう、けれど、祐ちゃんは、いま口に入れたばかりのビーフシチューを、思わず吐き出しそうになった。どうして? 祐ちゃんにはわからない。どうして、どうして美味しくないの、変な味がする。違う、母さんのビーフシチューは、もっと、なにか、ああ、祐ちゃんは混乱して、泣きそうな顔で、いやもう泣き始めている。

「祐ちゃん、どうしたの?」

いやに優しい声で母さんが言った。

「食べられないの?」

こくこく、と祐ちゃんはうなづいた。

「じゃあ、吐いちゃってもいいよ」

仕方ないなあ、というふうに、優しい手つきで、母さんは紙ナプキンを広げた。

うええ、と口の中のものを吐く。それを母さんが包む。

「ごめんなさい」

「いいの。違うものを食べましょう」

「母さんの」

「うん?」

「母さんのビーフシチューが食べたい」

祐ちゃんは自分でも知らないうちにそう言っていた。母さんは、いままで見たことのないような嬉しい顔をして、

「ふふ、いいわよ」

と言った。


二人は帰ってきて、祐ちゃんはテーブルについて待っていた。母さんがビーフシチューを作ってくれている。

やがて運ばれてきた。母さんの手にはなにか赤いものがついている。血? わからない。祐ちゃんは何か見えない力に支配されたように、何も考えずビーフシチューを食べ始めた。

「美味しい!」

食べるなり、意思とは関係なく口が動いた。いや、実際美味しい。口に入れた途端、ああ、これだ、これでなくちゃ、と思った。不思議な味。

「祐ちゃん、美味しい?」

「美味しい!」

ほとんど無意味なやりとりをもう一度繰り返した。

「そう。お父さん、美味しい?」

「うん、美味しい」

反射的に答えた。意味は全くわからない。理解もしていない。言葉は耳に入っていない。

「あのね、本当はね、お父さんね、隣の部屋にずっといたの」

祐ちゃんは何も答えない。考える能力を失ったように、張り付いた笑顔でビーフシチューを食べている。

「氷で腐らないようにすれば、すごいのよ、まだ生きてるみたいなのよ」

祐ちゃんは何も答えない。

「私ね、お父さんのことほんとに好きだったの。愛してるの。あの人のためなら死んでもいいわ」

ビーフシチューも半ばを過ぎた。じゃがいも、にんじん、ブロッコリー、祐ちゃんは順々に口に運ぶ。母さんの声は聞こえていない。いや、聞いている。だが彼の頭は一体何が起こっているのか理解する寸前でとどまっている。

「私ね、......ふふふ。食べちゃったの。お父さんのこと」

祐ちゃんは目の前がぐらぐらしてきた。まわる椅子に座ってぐるぐる目を回したときのように、ビーフシチューを食べて母さんの声を聞いているだけなのに、視界がぐらんと揺らいできた。

「美味しかったの。それでね、祐ちゃんにもね、食べてほしかったの」

ああ、何も聞こえない。僕は何も聞いていない。嘘だ、これは夢なんだ、何だ、何を言っているのだ。

「ごめんね、祐ちゃん。でも、美味しいでしょ? 許してくれる、......ね?」

母さんの甘えたような、優しい声を聞きながら、僕は、食べていたビーフシチューの、ひときわ大きな具材が、口の中でもごりと歯に当たったのを感じた。いつも食べている感触、にんじんかな、切り忘れたにんじんかな。飲み込む寸前、すんでのところで吐き出すと、それはちぎれた指だった。祐ちゃんの瞳孔がかっと開く。祐ちゃんは初めてビーフシチューをまともに見つめた。浮いた皮のようなもの、油、それから細切れの肉、野菜のような管、これは、まるで、血管のようじゃないか。知らぬ間に胃の中のものがせりあがって吐き出していた。食べかけのビーフシチューと、胃液と混じり合って、自分の口から吐き出された、輪切りの肉、肉、これが、お父さんの肉、それからぷかりと器に浮かんだひとつの目玉と目があったとき、祐ちゃんは死んだように気を失った。



何日か経って目が覚めると白い病室にいた。隣には、前にいた孤児院の先生がついて、起きると喜んで手を握ってくれた。それから、心配そうに体調のことを聞いてくれた。頭はぼうっとする、まだ少し眠い、体がだるい、そんなことを答えた。三日くらいして、孤児院に戻った。

誰も進んで話そうとはしなかったけど、聞いてみたら、母さんは警察に捕まったらしい。死体遺棄、損壊。詳しいことは知りたくなかった。僕は物心ついたときからこの孤児院にいて、今までずっと住んでいる、そう思い込もうと思った。母さんなんて知らない、父さんなんてもっと知らない、遠くの土地を旅行しているんだ。そう思うことにした。

僕は精神異常を疑われた。頭のおかしい、死体を犯したり死体を食ったりするやつのもとで半年も暮らしていたのだから、どんな悪い影響を受けているかわからない、と。それでいろんな人が僕のことを心配してくれた。そのおかげか、僕は優しい人たちに構ってもらって、すぐに元気になった。今では前と変わらないように孤児院で暮らしている。

ただひとつたまに困るのは、食事がおいしくないということだ。孤児院の食事はこんなに貧しかったのだろうかと、不思議に思う。いやそんなふうに考えちゃ先生やみんなに悪いな。でも事実なのだ。せっかく焼いてもらったパン、ケーキ、それからスープやシチュー、どれも砂やゴムを噛んでいるのと変わらない、泥水をすすっているのと変わらない、妙な味がする。外で食べてもそうだ。どうしてこの街の料理はどこもおいしくないのだろう。前はもっと美味しいものを食べた気がする。どこでだっけ? 思い出せるのは、触感、舌触りと深い甘みのあるあの味だけ、一体どこで食べたのか思い出せないけど、ああ、ビーフシチューだ。なんだか、すごく幼いころに食べた気がする。きっと物心つく前、僕がここへ預けられる前、お母さんが作ってくれた料理だ。懐かしいなあ。今でも思い出せるなんて、不思議だ。ああ、もう一度食べたい、どうすれば、あれはどんな料理だったろう? 確か、ああ、ああ! ここで思い出す。僕はあの人のもとで人間の肉を食っていたのだ。

がばり、と起き上がる。時計を見ると深夜2時、みんな寝ている。先生も寝ている。みんなの寝息が聞こえる。うなされて、嫌なことを思い出して目が覚めたのは僕だけだ。あれは人の肉だ。僕は、僕が食べたいのは、人の肉で作ったビーフシチューだ。がばり、と布団を被ってもう一度眠ろうとする。しかし、あの味が、舌にからみついて蘇るようで、ここでの無味乾燥な食事とは違う、もっと生きた、そう、あの懐かしい味、母さんの味、いや、父さんの味というべきか、なんでもいい、どうすれば食べられるだろう? 墓を掘りかえせば? 僕は想像する。自分が墓を掘り返し、遺体を切り取り、その肉で料理をするところを。おぞましい、吐きそうになって口を手でおさえた。しかし、その後、食べるところを想像すると、僕は死体を食う想像をしているというのに、よだれがでて、ああ、羨ましい、と想像の自分に思う。いや、死体ではいけないかもしれない。墓に埋まって時間が経ったものじゃあ腐っているに決まってる。新鮮な肉でなければ。そのためには、どうしても、死んですぐのものでなければ......。ああ、僕は恐ろしいことを考えている。どうしようもない。いま無事に眠りおおせても、翌朝、味のしない食事を無理やり嚥下するときがくれば、どうしようもなくビーフシチューが食べたくなるに決まっている。いつまで耐えていられるだろう? それとも、いつかやるとすれば、こんな深夜、どうにか誰かを連れ出して......。一体、誰を? どうやって? 街の家はどこも親子で住んでいるから襲うのは難しいだろう。それに遠くまで行くと朝までに帰ってこれなくなる。第一、そう、殺人なんて、気づかれずやり遂げられるものだろうか? ああ、これはきっと叶わない望み、僕はいつまでもこの苦しみを背負って、味のない食事をして生きていくのだ。そう思い至ったとき、

「祐介にいちゃん」

隣で寝ていた男の子が眠そうな目でこちらを見た。

「トイレ」

「ああ、いいよ」

トイレに連れて行ってくれと言っている。いつもなら起こされてついていくのだが、僕の方が先に起きているのは珍しい。だがこの子はそんなこと気にしてはいない。

この孤児院の寝室は大部屋にみんなで眠るようになっている。僕らはみんなを起こさないように慎重に部屋を出た。

扉を開けて、閉めた瞬間、僕は彼と二人きりになったことを感動的に実感した。二人きり。彼の体を眺める。肉付きのいいお尻、ほっぺ、健気な足、しなやかな腕。可愛らしい首は、まるで僕の力でも締め上げることができるくらい弱々しく見える。それから、振り向いたときの、かわいい目玉。

「どうしたの」

「ああ、なんでもないよ」

彼はてくてくと歩き出した。

僕は生唾を飲み込んだ。腹の底から何か得体の知れない気分が湧き上がってくる。その不思議な、勇気にも似た感情に身を任せて、僕は彼の後を歩く。

深夜2時過ぎ、物音ひとつない孤児院の夜。二人は闇に溶けていった。

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