第二話 落ち込み中、萩野実夏

 昼下がりの眠くなる時間。

 昼食後の教室の人数はまばらでどこか落ち着く。

 窓際の席に座った萩野実夏は窓の外をぼんやりと眺めて物思いに耽ていた。

 時折ため息をつきながら、時間が過ぎていくのを待つばかりだ。


「また、ため息ついてる。幸せが逃げていくよ?」

「あ、由奈ちゃん……」


 図書館に本を返しに行っていた吉原由奈が戻ってくると、実夏の正面の席に座って彼女へ身体を向けた。

 すると由奈に気づいた実夏も彼女の方を向き、またも深いため息をつく。


「一昨日からずっとその調子。そんなにあの人に振られたのが応えてるの?」

「だって……」


 由奈の言う「あの人」とは二日前に二人を助けてくれたライドデルタのことだ。事件のことを口外しないと誓約した都合上、二人はこのようにぼかしながら当時のことを話すようになった。

 そしてあの時、ライドデルタに面と向かって弟子入りを申し込んだ実夏だったが、結果として断られてしまったのだ。

 冷静に考えれば当然の話だ。相手は極秘裏に設立された部隊の一員。ヒーローなどという大層な呼び名も、自分たちが勝手に囃し立てているに過ぎない。そんなライドデルタが助けたとはいえ初対面の相手の、それも高校生の申し出を二つ返事で受け入れるはずがなかった。

 それが理解できないほど実夏も子供ではない。

 だが、頭では理解していても感情のレベルで納得し切れていないのだ。

 その辺りはまだまだ子供なのである。


「仕方ないでしょ、向こうは仕事でやってるんだから」

「それはわかってるよ。わたしがショックだったのは、やっぱり理想と現実は違ったんだなってこと」


 アニメなどでならば、子供がヒーローに弟子入りして成長する、という月並みな展開になるだろう。だが現実はそう簡単にはいかないものだ。

 そう、これが現実。自分がずっと甘い夢を見ていたのだと打ちのめされた気分である。


「放課後どこか行く?」


 気分転換にと由奈が提案するが、実夏は首を横に振った。


「……ううん、ごめん。今日は買い物だ。食料品が切れちゃって」

「ああ、そういや両親が海外出張中なんだっけ。今度手伝いに行くよ」

「ありがとう、その時はよろしくね。まあそういうわけで今回は……」

「わかったよ。でも、何かあればいつでも連絡していいからね」

「ごめんね。……はぁ」


 相変わらず暗い顔でため息をつく実夏を見て、由奈は肩をすくめた。

 理解しているのならば後は本人が気持ちに整理を付ければいい話だ。むしろ第三者が無理に解決させようとすると悪化する可能性がある。

 だったらこの際は一人にさせてみよう。由奈はそう決意していた。


◆ ◆ ◆


 今日は牛肉が安くて助かった。

 海外にいる両親から生活費は逐一振り込まれるが、それでも安いに越したことはない。

 他にもニンジンや玉ねぎ、ジャガイモにナスを買った。後は家にあるカレールーを使って、今夜はカレーにする予定だ。カレーならば数日は持つから後が楽になる。

 馴染みのスーパーマーケットで買い物を終えた実夏は買い物袋を片手に夕暮れの道を歩いていた。

 人通りはそこそこ。車もそれなりに走っている。だけれどもうるさすぎず、今のように気分が落ち込んでいる時に歩くには最適なのかもしれない。

 他の駅で降りる由奈と別れてから今まで、考えていたことのほとんどはライドデルタのことだ。

 他人からしてみたら鬱陶しいくらいに引き摺ってしまっている。それは自分でも判っているが、どうしても踏ん切りがつかずにいた。


「はぁ……どうしてわたしって、いつもこうなんだろ……」


 思い切りはいい癖に、いつまでもうじうじと悩むところが自分の悪い所だ。

 いつまでもこの調子だと、また由奈ちゃんを心配させてしまう。

 早めに自分の気持ちの整理をしなければ。


「キャー! ひったくりよー!」


 ボーっとしながら歩いていた実夏は前の方から聞こえてきた女性の甲高い悲鳴でハッと我に還った。

 ふと正面を見上げる。

 すると前方からこちらに全力で駆けてくる男がいた。その腕には女性の物と思しきカバンがある。

 いまどきひったくりか、などと考えている余裕もなかった。

 突然の出来事でそもそも実夏の頭が混乱している上、彼女に気づいたひったくりが懐からナイフを取り出したからだ。


「そこのガキ! 怪我したくなければ道を空けろ!」


 ナイフを振るって実夏を脅すひったくり。

 このままだとナイフの刃が刺さってしまう。

 そうしたらどうなる? 痛いで済む? 入院? 手術?

 最悪、死―――。

 ぞくりっ、と悪寒が実夏の背筋を逆撫でする。

 道を譲らなきゃ、逃げなきゃ。

 でも足が動かなかった。

 どうして?

 死ぬのが怖くて、怖くて、足が竦んで動けない。


「ちっ!」


 走る速度を落としたひったくりが眼前に迫る。

 振り上げられたナイフの鋭利な先端が夕焼けに煌めいた。

 それを見て実夏は冷静にも考えていた。


 ―――ああ、恐怖に負けて自分の身すら満足に護れないわたしが正義のヒーローになろうなどと、最初から無理だったんだ。


「どけつってんだろ!!」


 ナイフが落とされる。

 実夏は咄嗟に目を瞑った。それしかできなかった。

 だがその直後に、実夏は何者かに強く引っ張られる感覚を覚えた。


「え―――?」

「がぁっ!?」


 あっけなく引き倒され、尻餅をついた実夏。

 続いて聞こえたひったくりの悲痛な叫び。

 恐る恐る目を開けてみた。

 すると、スーツをビシッと着こなした清楚な雰囲気の女性がひったくりの右腕を背中に回して固めていたのだ。

 関節を固められたひったくりの手から落ちたナイフを、女性は彼の手に届かない場所まで蹴飛ばした。

 そしてひったくりを地面に押し付けて組み伏した女性は実夏を見上げると口を開いた。


「何をしているの、早く警察に連絡なさい」

「あ……は、はい!」


 数分後、実夏の通報を受けた警察がパトカーで現場に到着。スーツの女性の協力によってひったくりは現行犯で逮捕されたのだった。


◆ ◆ ◆


 ひったくりを署まで連行するべく、彼を乗せたパトカーが現場から走り去っていく。

 被害に遭った女性や襲われかけた実夏、そして民間協力として犯人逮捕に貢献してくれたスーツの女性については連絡先を確認した上で、後日改めて事情聴取をすることになっている。

 後部座席で二人の警官に挟まれたひったくりは大人しく縮こまっている。

 あとはもう楽な仕事だな。運転手の警官は楽観的に考えていた。

 しかしその余裕は、あらぬ方向から打ち崩されることになる。


「先輩、前!」


 助手席の警官がフロントガラスの向こう側を指差して声を上げた。

 その人差し指の延長線上に存在するのは、ひとつの人影だった。

 道路のど真ん中に四つん這いになっているそれは、まるで地を這う獣のようだ。

 それに気づいた運転手の警官が慌ててブレーキを踏む前には、その人影はすでに空中に跳んでいた。

 そして、ズシンッと大きな震動が車体全体を激しく揺るがす。

 続いて、急に掛けられたブレーキによりタイヤが道路を焼く。

 その衝撃で頭をぶつけた警官たちはひりひりと痛む額を気遣ったり、ずれた帽子を正したりと各々の状態を確かめていた。

 だが次に目撃したモノは、全員で共通していた。


「せ、先輩、なんスか、これ……」


 助手席の警官の問いには、誰も答えられなかった。

 それの全身にはぬめりのある黒い光沢の鱗が覆われており、さらに岩のような外殻が所々に備えられている。

 なにより目を引くのは、ぎょろりとした目と鋭利な眼孔、そして大きく発達したエラを持つ下顎。

 地上から跳躍してパトカーのボンネットに着地したそれは、人間とは言い難い姿をしていた。

 もはやトカゲと呼ぶべきだろうか。

 そんな怪物は車内の人間を見ると、品定めするかのように両あごの隙間から細長い舌をチロチロと出す。

 そして腕を大きく振り上げ、パトカーのフロントガラスに叩きつけた。


「あ……うあああああぁぁぁぁぁ!!」


 フロントガラスが叩き割られ、警官たちが絶叫する。

 防犯用ブザーによる警報がけたたましく鳴り響く中、怪物はフロントガラスに割れた穴から手を差し入れて助手席の警官を引きずり出した。


「な、なんだよこれ、なんなんだよ!!」


 怪物の両手でがっしりと腕ごと胴体を掴まれ、足をじたばたとさせることしかできない。

 車内に残された警官が慌てて外に出て拳銃を怪物に向けるが、怪物は気にも留めず捕まえた警官を見つめている。

 今撃てば捕まっている警官を巻き添えにしてしまう。警戒中の警官たちは手をこまねいていた。

 そして怪物の顎があんぐりと開かれる。

 爬虫類特有の口内から喉の奥までがはっきりと見えた。

 ここから何が起こるか、その想像は容易い。


「や、やめろ……やめてくれ!!」


 助手席の警官は必死に抵抗するが、怪物は涼しい顔をして警官を徐々に近づけていき。


「い、いやだ、いやだぁぁぁあああ!!」


 ごきゅんという小気味好い音を上げて、頭からつま先まで一気に丸呑みにしたのだった。

 呑み込まれた警官は、怪物の体内で分泌されている溶解液であっという間に溶かされ、怪物の養分となって全身に染み渡る。服も金属類も例外ではなかった。 

 そして怪物の眼球は蠢き、次の標的を探す。

 ここにはまだ、四体の獲物が残っているのだ。

 するとこちらに拳銃を向けている警官の一人を見つけ、怪物はにたりと口元を歪ませた。


「……セ・ン・パ・イ」


 まるで言葉を憶えたばかりの赤ん坊のように一語ずつはっきりと述べる怪物。

 その両腕が、に向かって伸ばされた。





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