第9話 霧の中の女



キジカは、湖の城近くのあの村に向かっていた。馬を一頭、黙って借りてきた。

王都はベクと砂の国の部族たちの反乱軍が支配している。国外にも逃げることはできない。となるとキジカの家出先はここぐらいしか残されていなかった。


夜は怖くて眠れなかった。朝日が昇ってからやっと眠り、サラハの安らかな寝顔を見て起きた。

新しい森の国の侍女の服には、暗殺仕事としての武器をまだ二、三個しかとりつけていない。帯や紐はデザインの面から取り付けにくく、毒薬などの小瓶も服の収納が少なくて服に収まりきれない。それまでは服の下にベルトで結びつけ、なんとか持ち歩いていた。

しかし、砂の国の衣装の方が使いなれているから、とっさの時に使いやすい。

城の外、その上単独行動になるので、万が一に備え、身の安全を守れるようにと判断してこちらの衣装に着替えてきた。サラハのひらひらスケスケドレスと違ってそれほど露出もないから問題ないだろう。何よりこっちの方が幽霊城のことを思い出さなくていい。


サラハについてきてもらいたかったけれど、立場上そういうわけにもいくまい。その侍女たるキジカも本当ならば、 勝手に外出することは許されないはずだ。

それでも我慢できなかった。

ただの噂話の怪談だけでも嫌だったのに、キジカは体験してしまったのだ。

昨夜の体験をサラハに詳細に話したのに、サラハときたら「若い女の幽霊に連れ去られずに済んで、運がよかったじゃないか」などとふざけ調子で、重く受け止めてはくれなかった。出会ったのは霧の幽霊で、若い女の幽霊ではないと繰り返し説明しても軽く流された。

まあ、サラハなりに気遣って変に重たくならないように努力した結果だったのだが、思いやりは伝わらなければ意味が無い。



「所詮あいつにとっては他人事。自分は絶対に幽霊に連れ去れないと思っていやがる。偽者野郎だからな」

キジカはいつもと同じような表情だったけれど、非常に気が立っていた。




サラハは、セザリオに会いに行った。

サラハとしては、どうせそのうち帰ってくるのだから放っておいてもかまわなかった。けれど、自分の侍女が家出してしまった時は、普通のお姫様なら誰かに頼るだろう。近い将来の夫で、城の主ならばなおさら、そうした方が自然だ。外国で独りとり残されて、心細い少女をイメージしながらセザリオに会いに行った。


会議、会議、会議。

毎日誰かしらと何らかの資料を見ながら会議をして忙しそうだったのに、サラハが会いたいと言えばそれが簡単に叶ってしまった。セザリオがなにを大切にしているかがよくわかる。

遠慮して仕事の邪魔にならないように努めていたけど、これなら何度か機会を作った方がよかったのではないだろうかとサラハは思った。ひょっとすると、ずっとずっと会いに来てくれるのを待っていたのかもしれない。


「家出ですか……」

「家出です」


セザリオにとってみれば、やっと会いに来てくれたと思ったら、業務報告のような相談だった。

セザリオはサラハから視線を外し窓の外の風景を見て、間を置いてから話を続けた。唯一残った使用人がいなくなってしまったというのに、堂々と宣言するお姫さまに圧倒されたのかもしれない。


「それで、家出の理由に何か心当たりはありますか? 雇用条件に何か問題が?」

「……セザリオ様は古城の幽霊の噂は御存じで?」


ダラハン医師から口止めをされていたけれど、怪談を抜きにしてこの状況は説明できない。なにより、ダラハン医師が相談しに行った相手はセザリオだったはずだ。秘密を漏らすなという意味では問題あるまい。


急に話題が飛んで、セザリオ王子は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに受け入れた。この王子さまは、サラハ相手に予想が裏切られるのをどこか喜んでいるところがある。


「噂は聞いたことがありますよ。

その噂は最近出回ったものではありません。何年も前、昔この湖の城の周辺で流行った噂なのです。

世間の流れから取り残された村だから、その噂も消されずに残っていたのでしょう」


それがどうしたというのですか、というようにセザリオが首をかしげる。


「村に行った時、キジカが偶然その怪談を聞いて信じてしまったのです。

城に帰ってからも、若い女の幽霊に連れ去られてしまわないか不安がっていました。

噂の真相を突き止めて、不安から解放させてあげようと思ったのですが、ダラハン医師から調査を中止するように注意されました。

昨日の夜です、キジカが幽霊を見たと大騒ぎしたのは」

サラハは、キジカから聞いた白い霧の心霊体験をセザリオに説明した。

「それで、今日目覚めるとこの置き手紙だけが残されていましたの」


手紙を渡されたセザリオは、その簡潔な文を読んで机の上に置いた。

「それで、あなたはどうしたいですか?

何かと不自由でしょうから、とりあえず代わりの侍女を用意しましょうか」


サラハは考える。

もしも、代わりの侍女がやって来たら……。


部屋で気楽に過ごすことはできない。一日中演技を続けなければならなくなる。

着替えや入浴を手伝われたら、即アウトだ。

もし正体が知られたら、先輩暗殺者の二人がキジカやサラハにしたように、秘密を守るために口封じしなければいけなくなる。

口封じに成功した場合、また侍女がいなくなる。そうすると、その代わりの侍女がやって来て、また正体がばれて、また口封じして、また代わりの侍女がやって来て、正体がばれて、口封じして…………。ループ!


「いりません。キジカが帰ってくるまで一人で過ごします」

負の連鎖に陥りたくない。その先に待っているのは身の破滅だ。


「では、キジカさんを呼び戻す方向で話を進めましょうか。

この城の近辺で家出先になりそうな場所は近くにあるあの村だけですから、それほど心配はいらないと思いますよ」

セザリオはサラハを安心させるように微笑んだ。


「……セザリオは優しいのですね」

サラハは思ったままを話した。


「私は優しくなんてありませんよ。その対極にいる醜い存在です」

セザリオは小悪党を演じるようにひひひと笑った。

先ほどのサラハを思いやるような笑顔とは違い、その微笑みはひどく薄っぺらで、自身の心の内にあきれ返っているかのようだった。


「話を戻しましょうか。白い霧を怖がるのならば、捕まえてみてはいかがですか? そうすればもう安心でしょ?」


セザリオのいきなりの提案にサラハ疑問を持った。

「どういうことですか? 幽霊のことは調べてはいけないはずでは? というか、捕まえられるものなのですか?」


「かまわないでしょう。若い女の幽霊と白い霧は全くの別物ですから。ダラハン先生も許してくれますよ」

セザリオはあくまでもサラハに何かをやらせたいようだ。


「白い霧のことも、幽霊の正体もすべてわかっているのですか? さすが王子さまはこの城のことを何でも御存じなんですね」

セザリオが答えを知っているのならば、よいしょしながらちょっとずつ聞き出して行けば、わざわざ自分一人で行動するのが面倒だし、楽に正解にたどり着けると横着なことをサラハは考えていた。


「そうですね、幽霊の正体はあなたになら教えてもかまわないでしょう。

幽霊となった少女と共に生まれたのは私です。このことは極秘事項ですから、他言無用でお願いしますね」


「はい??」


「これ以上を詳しく知りたければ、私の妻になってから質問してください」

セザリオはニコニコ笑った。冗談なのかもしれないが、「おもしろい冗談ですね」などと言って、その言葉が否定されたら、サラハが困るのでそれ以上踏み込まないことにした。





彼女は、再び悪辣な罠にはめようと相手を待っていた。

けっして悪用すべからず、と教えられた国防の魔法の技をもって相手を惑わすのだ。

「やって来た」

彼女は誰の声ともわからぬくらいの小声でつぶやいた。


彼女は義務を果たさなければならないと突き動かされて行動していた。

もはや守る必要のない約束、消えた契約だ。

幼いころから、そうすべきだと言い聞かされて、彼女の人生はその道以外にないものと思っていた。

指されていた道は途切れ、もはや道の痕跡さえ見当たらず。こうすることは間違っているのだと彼女は理解している。

大義のない復讐は、無意味なやつあたりに過ぎない。しつけの無い子供のわがままと同じだ。

すべきこと、こうあるべきだと示された生き方が、間違いだったと誰かに否定してもらいたいだけなのかもしれない。


今この城の大魔法陣がほぼ完成している。

城の魔法陣は敵に奪われた時を想定して、戦の無い平時は意図的に壊してあった。

この国の王家の人間しかその修復方法は知らされていない。つまり、この城こそが王家を継ぐ者の証だ。


この湖の古城にいるセザリオ側の者たちの魔法は、魔法陣で高められる。

彼女の魔法も、本来の場所で使うのと同じくらいこの地に馴染む。

白い霧の魔法の正しい使用法は、戦場すべてを飲み込み、千や万を超える軍勢相手に使う。

王城を守る要の一つだ。


一人の女性を迷わすために使うのは間違っていることが、彼女にはわかっている。


本来のとても長い呪文はいらない。今回も相手は一人だけだ。

彼女の小さな口から白い気が、細く吹く吐息とともに広がって行く。


廊下いっぱいに広がって、別世界に造りかえられていく。

限りはあるが果てはない。さまよい続け、自身の影にさえ恐怖する。心の中の恐怖をかき乱す。

魔法と死と不安に耐性の無い者ならば、白い霧を浴びただけで狂い死してしまう。


キジカでなければ、死んでいてもおかしくはなかった。

家出ではなく、たとえ無残な死でも、サラハを一人にできればそれでよかった。

彼女にとって、使用人の命の重さなど羽のように軽い。その認識は無自覚なものだ。彼女は根っからの貴族。

純真で残虐で、一途なのに愛していない。


白い霧は彼女にとって自分の身体の一部。包まれたサラハは彼女の手の中にいるのも同じ。

優しく頭を撫でるか、その細い首をねじ切るか。


知らない。どうすればよいのか。自分の感情がわからない。答えを知らない。

身体、社会的立場も大人なのに、見方を変えれば自分で考えない子供だ。

親の言いつけをいつまでも守る子供。




魔法は魔法によって破られた。

彼女の太ももに細いナイフがかすめた。スカートを切り裂き、露わになった左太ももから血が滴る。

はじめての感覚に彼女は戸惑った。はじめは熱く感じた箇所が、血が流れる傷を見ると途端に激しい痛みへと変わった。彼女は立っていられなくなって廊下に座り込んだ。

白い霧の魔法は解いてしまっていた。自分の傷のことで頭がいっぱいで、魔法のことを考えていられる余裕が無くなっていた。集中できない。


何者かが壁を通り抜けて彼女の前に現れた。

その正体は歪み、影は薄影と乱れて、身体は透けて向こう側がぼんやりと見えている。何か言葉を紡ぎだそうとしているけれど、その者の声は聞こえない。


「噂の幽霊、本当にいたなんて……」


白い霧の魔法を操る女、イリリヤ・ストラート。初めて感じる痛み、流れる赤い血、現れた幽霊。彼女の心は容量の 限界を越え、気を失った。




サラハは霊体化の魔法を解いた。


「幽霊? 本当? 俺はまだ死んでないから、やっぱり偽者だよ」


夜の廊下、白い霧を捕まえようとおびき出した。サラハは、キジカを追い出した犯人を捕まえた。




キジカは村にたどり着いたけれど、前回の訪問のように村人の歓迎はもちろん無い。

急な来訪、一使用人に特別扱いはない。彼女自身もそれを期待していない。

時間がゆっくりと流れる様な平和な村だけれど、ひとつ問題がある。

この村に宿屋が一軒もない。

当たり前だ。観光地ではない田舎の村に、宿屋があればあっという間につぶれてしまう。

前回のように村長の家に泊めてもらうわけにもいくまい。アレは特別な存在のおまけとして歓迎されていたに過ぎないのだ。さて、どうしたものだろうかとキジカが考えていた時だった。


「あれ? 怖がりなおねえさん!」

背の低い少女が彼女を指さした。たしか彼女の名前はツガだったはずだとキジカは思い出した。


「なにしているの?」

隣に立っていた背の高い少女、イルデーが首をかしげる。


「ようこそ!キジカさん」

歓迎の言葉を叫んだ少女がスクーだ。


家出して来たことをまろやかに隠しながら、この村にやってきた理由をぼかしたけれど、なんとなく察せられたらしい。

「よろしければ家に泊まりませんか?」

スクーが気遣ってくれた。


その後ろで残りの二人の少女たちが「家出かな?」「たぶん家出だ」とか小声で言っていたけれど、キジカの耳には届かなかった。


今夜は前回の仕返しに、湖の城での自身の心霊体験を話して怖がらせてやろうとか大人気ないことを考えていたけれど、見た目からはその心の内は読めない。

そんなダメな大人の前を歩く少女三人は、恋愛について話していた。キジカが聞き耳を立てていると、彼女たちより少し年上の娘が結婚した影響があるみたいだ。

「キジカさん。お姫さまと王子さまの仲はどうなのですか?」

のんびりした感じの少女イルデーが尋ねた。


少し考えてから「ボチボチ?」ととりあえず言ってみた。

サラハの正体を知っているキジカ。セザリオから好意を向けられているのは間違いないが、状況は極めて複雑だ。

「少し時間をくれないか。今、上手く言えないから、この件はまたあとで話そう」

少女たちはそれでも待ち遠しそうにきゃっきゃっとはしゃいでいる。

村の中を歩いていると、急にスクーが走り出して何処かへ行ってしまった。

残りの二人もスクーがどこへ向かったのかよく知らないみたいで、特に何も言わずそのままキジカを案内している。


「ところで、三人のうちで誰が一番に花嫁衣装を着られそうなのだ?」


スクーが突然いなくなり、会話に少しの間ができていたから、間を持たせるためにも人生の先輩として話を振ってみることにした。キジカには特に知りたい情報ではないけれど、恋に恋するお年頃の少女たちには、この手の話題ならば話がはずむと考えたからだ。

なにより、この前みたいにいきなり怪談をはじめられてはたまらないとも思っていた。折角忘れようとしているのに、怪談だけは阻止せねばなるまい!


ツガとイルデーはお互いの顔を見合わせてから、声をそろえて言った。

「「スクー」」


「スクーが村の男の子たちに一番人気あるよ」

「余所の村から来た人がわざわざ見に来たこともあった」

「本人はそのことあまり気にしてないみたい」

「最近は、特にお姫さまのことで頭がいっぱいみたいだし、侍女としてお城で働くのが夢だって言っていたから、村の男の子に興味無いみたい」


ツガとイルデー、二人の話を聞いて今度は侍女の先輩として話をしてみることにした。

「どれほど男たちに持てはやされていようとも、説明も無くいきなりいなくなるようではだめだ。

王宮に使える侍女を目指しているならなおさらだな。客をほっぽり出すような無責任な人間には務まらない。お前たちは、そんな風になるんじゃないぞ。

良い結婚をするのに大事なのも、相手への思いやりだからな」



「盛り上がっていたようですが、何の話をしていたのですか?」

ちょうど話題に上っていた人物、スクーが息を切らして戻ってきた。


「急にいなくなって、どこへ行っていたんだ?」

キジカがそう尋ねると、スクーが持ってきた物を差し出しながら答えた。


「お茶とお菓子を持ってきました。湖のお城から村まで結構距離があるから、喉が渇いていると思って」

水筒に入ったお茶と、手作りのお菓子をわざわざ準備して来てくれたようだ。

スクーは特段美少女というわけではないのに、その明るい笑顔と優しい気づかいは、たしかにお嫁さんに欲しくなる感じの女の子だった。


「何の話をしていたかだって? ちょうど、お前のことを褒めていたところだ。

なぁ?」

スクーから渡されたお茶を受取りながら、キジカが何のためらいもなくそう答えた。

それを見ていた残りの二人は、「何言ってんだこいつは」と言いたげな胡散臭い大人を見る表情で固まった。





白い霧の正体をサラハに教えたのはセザリオだった。

「これだけだと意地悪なので、そうだな……。

イリリヤ・ストラートについて話しましょう」


「巫女の? なぜいま彼女の話なのですか?」


「イリリヤはあなたが来るまで私の妻の第一候補だったのです。

ね、おもしろそうでしょ。続きが聞きたくなりませんか?」


その情報を聞いて、彼女のあの態度にサラハは少し納得がいった。

サラハに対してあまりよい感情を持っていないのは、なんとなくわかっていた。


「イリリヤは私の従姉なのです。

苗字に気付きませんか?」


サラハはイリリヤ・ストラートのストラートに聞き覚えがある。どこかで耳にした気がする。


「今王都を占領している私の従兄殿の名前を覚えていますか?」


「たしか、ベク・ストラート。…………!」


セザリオは劣等生をかわいがる優しい教師の表情で笑った。


「そうです。ベクとイリリヤは兄妹です。

わたしはイリリヤと結婚する気はなかった。彼女個人に対して悪い感情はないけれど、政治的にいえば婚姻関係は結ぶべきではない立場だったのです。

あなたの登場は私や父にとっては渡りに船でした。王も天国で感謝していることでしょう」


別の疑問が浮かんできた。

「なぜ、彼女がこちらにいるのですか?

兄を支えるために王都に残るべきでしょう」


「彼女の心のことは彼女に聞くのが一番だと思いますよ」


セザリオはおどける様に笑った。


「白い霧に会いたければ、昨日のキジカさんを参考にしてみたらいかがでしょう」





罠を張って待ち構えていたのはサラハの方だったというわけである。

サラハにとって恐ろしいものは、自分より強い殺し屋のような生きている人間のほうだ。死んだ人間ではない。もし本当に幽霊だったとしても、恐ろしくない。

だから、キジカが白い霧に遭遇した時と同じ状況に、自分の身を置くことに何のためらいも無かった。


「殺すというのなら殺しなさい。それだけのことをしたのだから、覚悟はできています」

サラハは、気を失ったイリリヤを捕らえ、手当して自分の部屋に運び込んでいた。


「なぜ、あのようなことをしたのですか?」


「あなたに話すつもりはありません!」


「ひょっとして、自分でも理由がわからないのではありませんか?」


イリリヤは、自分でも気付かなかったことを指摘されたように驚いた。しかし、すぐに冷静にとりつくろう。


「あなたに、私に気持ちがわかるはずがありません」


「当然です、私はあなたではない。ですから、あなたにも私の心がわからない。

さあ、話し合いましょう。言葉はそのためにあるのです」

サラハは清楚なお姫さまスマイルで、敵意が無いことを表している。


「…………。

私の霧の魔法を誰から聞きましたか。この国の人間、それも高い地位にいるものしか知らぬ情報です」

険しい表情でイリリヤが会話に応じてきた。


「詳しいことは何も聞いておりません。

セザリオに幽霊のことを相談したら、あなたの名前を聞いた。ただそれだけです」

サラハがセザリオ王子を呼び捨てで呼ぶのを聞いて、彼女の顔に一瞬嫉妬が浮かんだ。

「なぜ、あなたは怒ったのですか」


「貴様が嫁いで来なければ、兄は反乱など起こさず、私はセザリオと結婚するはずだったのだ!

すべての予定は狂い、人生は私の手を離れた。

すべて貴様のせいだ!」


「あなたはセザリオを愛しているのですか?」


「そうだ」


「本当に?」


「なぜ、疑う」


「あなたの行動にセザリオへの愛を感じません。

ならば、王妃の地位が欲しかったのですか?」


「違う!私は名誉や権力を求めたわけでは!」


「では、何を欲しがったのです?」


「私は……私は!」


次の言葉は出てこなかった。イリリヤは、自分で選択してこなかった。彼女の人生は家が、親が、兄が決めた道だった。

彼女自身で初めて選んだことが、兄との決別という重たいものだった。

自分でもなぜこちら側を選んだのか、理由はわからない。

時を戻し、選択したあの場面へと戻れたとしたら、もう一度同じ決断ができるとは限らない。


自分の霧の魔法のように形の無い曖昧な選択だ。


「セザリオをお譲りいたしましょうか?

その方がセザリオの幸せにつながるというのならば、あなたと共にあるべきなのかもしれません」


「でも、私に譲った後、あなたはどうするのです?

祖国を裏切り、もはや帰る国はないというではありませんか!」


「そうですね、使用人の一人として働くのもありかも知れません。

それとも、村で動物たちを世話して暮らすのも楽しそうです。先日村で筋がいいと褒められましたの」


サラハの表情に嘘偽りはない。本気で田舎の村で暮らす生活も悪くないと考えているみたいだ。サラハ姫には、自分の立場をイリリヤに譲るのに何のためらいも無い。


「…………。

あなたは、あなたはそこまでセザリオ様のことを思っているのですね……。自分を犠牲にすることもいとわない。

私は、自分が求めるばかりで、彼に何を与えられるかという考えが欠落していたのですね。そんなことに気付けずに、この気持ちを私は愛と誤解していたのですね。

だから、迷い、行き詰まる」


イリリヤはサラハの手を握り、真っ直ぐサラハを見つめて言った。

「セザリオ様の妻となるのは、あなたの方がふさわしい。

どうか王子を支え、これからの人生を共に歩んでください」




イリリヤと和解した、ように見えるけれどサラハの内心はそれどころじゃ無かった。


結婚したらどうやっても正体はばれてしまうのだから、なんとかしないといけない。

目の前に、元々結婚する予定だったやつがいるじゃあーりませんか。

よし、そいつに面倒を押し付けて自分はこの城を去ろう。キジカの後を追いかければ何とかなるだろう。

さらば女装生活。さらば偽りのお姫様!

清楚で純真なお姫様っぽい演技をしつつ、親身になって相手にとって都合のいいことを語ったのに、残念ながら面倒を押しつけ損なったのだ。




「よければ、これからは私の親友となっていただけないでしょうか?」

「はい、喜んで」と言ってサラハは慈愛に満ちた笑みを浮かべたけれど、内心はさらに逃げ出しにくくなったと困っていた。


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