第8話 動く影


二人は城に付いてすぐに調査を開始しなかった。

厨房に来ていた。腹が減っては戦ができぬ。まずは食事をすることにしたのだ。

「いつもの」

「私も同じ物を」

二人がそう注文するだけで料理長には伝わる。


「料理長殿、少しご相談があります」

礼儀正しく、一人の女性が厨房に入ってきた。もちろん彼女はまかない飯を食べに来たのではない。


「あっ」

彼女の目に出来たてのまかない料理を、今まさに厨房で食べようとしている二人の人物が目に入った。

サラハには彼女の顔に見覚えがあったけれど、名前を思い出せない。

「なんだっけ? 森の中の儀式の時の神官? みこ、巫女?」

サラハは横にいるキジカのこっそりたずねているつもりだったけど、その声は彼女の耳にも届いていた。

「イリリヤです。イリリヤ・ストラート。名前を覚えていないなんて、頭が良くないのですね、サラハ・オリアディス」

森で神事を執り行った時とは違う、サラハ達が着ているような森の国の貴族の女性服を着ていた。

サラハに対して遠回しにおまえはバカだと言っている。神事の前に祭壇で眠っていたことをまだ根に持っているのだろうか。

サラハは売られたケンカを買わずに無視することにした。

おいしい料理の前では些細なことである。実に平和だ。

それよりも麺料理が冷めることの方が、サラハ達にとって何百倍も重要だった。


下手に言い返されるよりも、無視される方が何倍もいら立たせる。

イリリヤ・ストラートは、厨房に置いてある長い麺棒でサラハの頭を叩き、伸ばしたい衝動を我慢しながら話した。


「あなたたちはなぜ厨房で食事をしているのです?」

貴族なら貴族らしい行動をしろと遠回しに言っているのだけれど、サラハにはそう伝わらなかった。

「おいしい料理が食べたかったからです」

「おかわり!」

イリリヤにサラハが的外れなことを言った側で、侍女の立場であるはずのキジカがイリリヤの言葉を遮って追加注文した。


イリリヤ・ストラートは、沸騰した料理を直接キジカの口に注ぎ込んでやりたい衝動をなんとか我慢しながら話そうとしたのに、次はサラハに遮られた。間が悪い。

「ところで、イリリヤ様はわざわざ厨房まで何のご用で?」

「……ッッ!

…………儀式の前には決まった料理を食べることになっていますの。その件について御相談に!」

イリリヤ・ストラートは、口から出かかった罵倒の言葉と湧き出た怒りを噛み殺して笑顔で答えた。


「イリリヤ様はそう言ったことにお詳しいのですか?」

「ええ、この国の信仰や儀式については一通り」


サラハはさらに質問を続けた。

「では、幽霊の噂も御存じで?」

「はい?」


サラハは、キジカが村で聞いてきた怪談をイリリヤに一から説明するのが面倒だったので、この古城に若い女性の幽霊が出るという噂を聞いたとだけ説明した。


サラハにとって、イリリヤから一番聞きたい言葉は「そんな噂、聞いたことも無い」だ。

キジカは気にしているようだけれど、調べて回るのは非常に面倒だ。出来ればここで否定してもらいたかった。


イリリヤは何も答えずに、キジカの方を見る。見られたキジカはビクッと反応した。

ニヤリと笑うと、「……急用を思い出しましたので、失礼させてもらいます」と言って厨房から出て行ってしまった。


「やっぱり、噂の幽霊は実在するんだ……」

それまで順調に料理を口の中へ運ぶ作業をしていたのに、キジカは夢を否定された子供のように暗い表情をしている、ようにも見えないことも無い。まあ、客観的に見ればいつもの無表情であるが。


「いや、違うだろう。イリリヤはきっとそんな子供っぽいバカ話を信じているお前を笑ったのだ。堪え切れずに物陰で爆笑していると思うぞ」と言ったところで、今のキジカはそのサラハの言葉を受け入れてくれそうにない。


そして、キジカの強い希望により調査は続行されることとなった。

キジカが経験豊富で知識のある人の心当たりがあると言うので、ついてきてみるとそこは医務室だった。

医者の名は、ダラハン・キダオレト。彼の立場はセザリオの主治医だ。その時意識はなかったけれど、怪我したサラハも診てもらっている。意識を取り戻してから何度か問診された時に見ただけで、サラハの記憶にある彼は、白髪交じりの頭をした、高齢で気難しそうなじいさんだ。

事前に何の連絡もせずに思い付きで来てしまった。

部屋の中に入ると、彼の助手の一人なのだろう若い女性がサラハ達二人を通し、お茶まで淹れてくれた。


椅子に座って待っていると、ダラハン医師は書類をパラパラ読みながらやってきた。今までずっと書類仕事をしていたようで、指先にわずかにインクが付いている。

「それで、今日はどうしたのかね? またどこか怪我したか?」

他に重要な仕事のある中わざわざ時間を作ってくれた真面目そうな老医師に、「別に怪我したわけじゃないのです。

幽霊の噂について何かご存じありませんか?」とか馬鹿げたことを尋ねにくい。


サラハが何と切り出したらよいものか言いあぐねていると、キジカがサラハを押しのけてしゃべりだした。

「古城の幽霊の噂を知っている?」


キジカは村で聞いた怪談をそのままダラハン医師に語った。

横で聞いていたサラハは、こんなくだらないことに時間を割かせて申し訳ないなと思っていた。

しかし、ダラハン医師は違った。

元々気難しそうな顔が、さらに影が深くなったように見える。彼の顔から冷や汗がツーっと流れた。

尋問のような口調でダラハン医師が聞いてきた。

「その話を、他の誰かに話したのかね?」

「えっと、先ほど厨房で偶然出会ったイリリヤ・ストラート様に……」

サラハが戸惑いながら答えると、「あー、イリリヤ・ストラートかぁ」とダラハン医師は、眉間のしわを指で押さえながらため息をついた。彼女に幽霊について話すのは、何やら問題があったようだ。


「サラハ様、どうかこれ以上この噂を誰にも広めないでいただきたい」

「……なぜでしょうか?」

「理由は申せません。どうかお願いします」

深刻な顔で頭を下げてお願いされると、断れなかった。ケガを治してもらった恩もあった。


その後すぐ、ダラハン医師はセザリオ王子に至急相談しなければならないことができたと言い残して、医務室を後にした。

取り残されたサラハとキジカは、互いの顔を見合わせた。

ただ事ではないと思わせる彼の行動にサラハも、ひょっとして幽霊の噂は本当なのかもしれないと考えを改め始めていた。

これから他の貴族や使用人たちにも質問して、噂を否定してもらおうとしていたけれど、それも諦めた方がいいようだ。

キジカはこの世の終わりみたいな心持だったけれど、こういう時感情表現が下手だと損をする。サラハには彼女の気持ちがなんとなくわかったから、ポンと頭に手を置いて慰めるのだった。









人の心がどうであろうと、夜は必ずやってくる。

使用人同士の情報交換会のようなものがあり、キジカも一応参加しなければならなかった。もっと早く終わると思っていたのに、廊下に出ると日は沈んで窓の外は暗くなっている。

他の使用人たちとは帰る場所場違う。侍女であるキジカが、お姫様のサラハに迎えに来てもらうわけにもいかず、蝋燭の明かりを頼りに心細くなりながらも独り暗い廊下を歩いていた。

これまでも何度かこのような状況はあった。しかし、古城の怪談を聞いてからでは、初めてのことだった。

蝋燭の明かりでゆらゆらと揺れる自分の影にさえ怯えながら歩く。

これまで誰ともすれ違うことなく、誰かの話声が扉越しに聞こえてくることも無い。

石の床をコツコツと自分の足音だけが響く。

キジカは怖くて漏らしてしまいそうだったけれど、残念ながら第三者には平然と歩いているようにしか見えなかった。彼女は感情表現が苦手だ。


物音が聞こえた。

風の音に近いけれど、どこか違う。シューっとすきま風のような音が聞こえた。

人間の恐怖心は、時に説明のできない行動を起こさせる。

生物としての本能を押さえつけて生きている人間の行動だ。

危険を身体が感じていても、そちらの方へと引き寄せられて行くのだ。恐怖を感じてそちらへ向かうべきではないとわかっていたのに、どうしても止められない。自分を抑えきれない。

死を真正面に見据えて、常日頃から向き合うことをせずに人は生きる。当たり前だ。最期に必ず向かう底なし沼の現実を、日常から意識しては生活できない。生きるために現実と向き合うことと、死を見つめて生きることはきっと違う。だが何も考えずに生きていることも、死を避けられているわけではない。


キジカは物音のした方へと向かう。

そちらは危険だ、そちらは恐怖だ、と本能は語りかけるけれど止まらない。抑えきれない。

事実を確かめなければという理性的な思いがキジカを動かす。自分は間違っているとわかっていても、意識の底から浮かび上がった思考は消えてはくれなかった。


どこからだ。

どこから間違えたのだろう。

気が付けばキジカは、白い霧の中を歩いていた。自分の手の届く範囲の視界さえ曖昧で、なにもわからない。

足元の意思の感覚さえあやふやに感じられて、上手く歩けない。

どこにも辿りつけずにしばらく歩かされた。


キジカの視界の端で何か人影が見えた。心臓の音が高鳴り、身を固くする。

手に持った蝋燭の明かりに照らされたのか、白い霧に影が映ったのだ。

手を振ると陰も同じ動作をする。キジカはこれが自分の影だとわかると、それまでの動揺を抑えるように胸に手を当てて目を閉じて深呼吸した。

その時、目を閉じていたキジカは気が付かなかったけれど、影が立ち止まったキジカから離れるように動いた。

目を開けてキジカが再び歩き出すと、影も黙ってついて来た。

音も無く影が付いて来るのは当たり前のことだ。しかし、その影が背後で次第に大きくなっていくのは、まともなことではない。

後ろに何者かの気配を感じたキジカは、ゆっくりと振り返った。背後には、普通の大きさをした影が霧に映し出されてただ立っていた。


歩いても、歩いても、白い霧の中から出られない。

キジカは、何度でも、何度でも、後ろを振り返った。

なぜなら前を向いて歩いている時にも、影が見えるようになったからだ。

背後にいるはずの影が大きさを増して、ついにはキジカを飲み込んでしまいそうなほどに大きくなったのだ。


キジカは走り出した。

走るせいで起きた風で蝋燭の灯が揺らいで、明かりはさらに頼りのないものへとなっている。

この世界に生きているどんなに速く走れるものでも、影からは離れられない。けっして逃れられないだろう。

それでもキジカは走らずには居られなかった。まっすぐ走っているはずなのに、壁にぶつかることもない。

白い霧の世界から出ることができなかった。

霧に映し出された影は広がり、ついに蝋燭の火も消えた。


暗くなった。

まっくらだ。

悲鳴さえも塗り潰されてしまいそうだ。





遠くで、自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたサラハは、部屋を出た。

部屋を出てすぐの廊下に、キジカが倒れていた。蝋燭の蝋はまだ固まっていない。

火が消えてからほとんど時間が立っていないということだ。

サラハは駆け寄って膝を付き、倒れているキジカを軽くゆする。目立った外傷も、着衣の乱れも無い。


「おい、起きろ。こんなところで寝ころんでいたら変なヤツだと思われるぞ」


サラハの見立てでは、気を失ってさえいない。眠る時間さえなかった。

扉の前で転んで、とっさに声が出たのだとサラハは思った。受け身のやり方はわかっているから、この程度のことではすり傷一つ作らないはずだ。

キジカは、いきなり目を見開いて跳ね起きた。

「うわぁっっ!おどかすなよ!もっと普通に起き上がれよ!」

突然のことにサラハは驚かされた。


キジカは周囲の様子を見回して、不思議そうに首をかしげた。

「夢だったのか? いや、でも……それにしては現実そのものだった」


夢だか何だか言っているキジカの頬をサラハがなにげなくギュッッとつねった。

「痛い。何をする」とキジカは言ったつもりだったけれど、頬を引っ張られているので上手く喋れていない。


「一般的にはこうやって、痛いかどうか調べるらしいけどさ、夢かどうかを確かめるのに、痛みで確認するのって当てにならないんだよね。

暗殺業の訓練の一環でボロボロにされた時とか、夢の中にまで苦痛を感じたもの。

夢の痛覚で飛び起きた時は、目覚めてからも夢か現か判断できなかったし。

斬りつけられた傷跡が無いから夢だったって、なんとか思えたくらいだ。ああ、あの時は怖かったなぁ」


ダラダラしゃべっている間もずっと頬を引っ張られていたキジカが、サラハの手を振り払った。

「いつまでやっている」

「……少し落ち着いた?」

サラハが落ち着いた声でつぶやいた。不安に押しつぶされそうになって、混乱していた心が少しだけ落ち着いたけれど、あんな適当でいいかげんな方法で安心させられた自分が少しだけ恥ずかしくて、照れたのだけれど相変わらずわかりにくい表情だ。


「それじゃあ、おやすみ」

先ほどまで優しくしていたのに、突然突き放すようにサラハが言った。

バイバイするように手を振ってから扉を閉めようとした。


「ちょっと待ってくれ……」

閉じようとしている扉の隙間にガッと靴先を突っ込んで、手でサラハが閉じようとしている扉を押さえた。


「何?よくわからんが、おまえは疲れているのだろ?

こういう時まで侍女に仕事をさせて酷使しないはずだろ。優しいお姫様はさ?

部屋に戻って休めばいいじゃない。

ひ・と・り・で」

長年の付き合いから、こういう時のキジカの相手をするのは面倒だと理解しているサラハは、キジカを閉めだそうとしている。


「いやだ。また理解不能な現象に巻き込まれたく、ない!」

怖いから一人で居たくないと素直に言えないキジカは、力づくに部屋の中に入った。


その後、恐怖体験を一人で抱えきれないキジカは、サラハの部屋に泊まり、先ほど体験した不可思議現象を詳細に報告するのだった。

サラハが眠ろうとすると、キジカが邪魔をして眠らせない。

自分だけが眠れずに、夜に取り残されたくないのだ。そのやり取りは夜明け前まで続き、窓の外が明るくなるまで終わらなかった。




「ぅあ?」

次の日、やっと眠ることのできたサラハが起きた時。日は高く昇り、もう昼を過ぎていそうだ。

ふと隣を見ると、広いベッド上サラハの横にいたはずのキジカがいなくなっていた。

ベッドには、侍女の洋服が脱ぎ散らかして置いてある。触ってみると温もりを感じた。まださほど時間は経っていないようだ。サラハは寝起きだったけれど、とても冷静だった。


昨日キジカが何度も語っていた白い霧や、古城の幽霊に連れ去られたわけではないと確信していた。

サラハの思っていた通り、机の上に置き手紙を発見する。

几帳面すぎる筆跡は間違いなくキジカの物で、これは彼女からサラハへの手紙だった。




『しばらくこの城を離れようと思います。探さないでください』



















キジカが家出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る