第5話 動く死体
サラハが目を開いた。
ここははっきりと現実だとわかる。頭の中もはっきりしている。
ただ、何か大事な夢を見ていた気もするけれど、それは思い出せなかった。
豪華なベッドの肌触り。
自分は女物の寝間着を着ている。
それまでのことを思い出した。自分は本物のサラハ・オリアディス姫の身代わりとして、嫁入りの名目で人質になりに森の国へ来たのだ。
サラハの最後の記憶は、ゴウアジが死んだらしい、ということだけだ。その記憶も崖から落ちて意識朦朧としていた時のことで、その後どうなったのかがわからない。
いったいどれくらい眠っていたのだろうかと、サラハは考えていた。
この部屋はそれまでサラハたちが使っていた部屋ではなかった。
牢屋で鉄格子のなかに入れられていないところを見ると、まだ相手にサラハの正体が露見していないはずだ。
上体を起こして、窓の外を見た。
外には湖とその対岸に花畑、その向こう側に森が見える。城下町は見えなかった。
「よかった。目が覚めたのですね。
医者は大丈夫だと言っていましたけど、長く眠っていたので心配しましたよ」
「どれくらい眠っていたのですか」
「一週間くらいは眠っていましたよ。
ずっとサラハのことが心配で、私は付きっきりで誠心誠意看病してあげたかったのですが、そうできなかった理由があったのですよ」
サラハが疑問に思っていると、セザリオは窓の方へと歩いていく。
「もう気が付いているかもしれませんが、ここは首都にある王城ではありません。
そこから離れた山奥にある湖の城と呼ばれている古い城です。
眠ったままのあなたを運んでこちらの城に移りました。
反乱が起きたのです。ベク・ストラートによる軍事クーデターです。
砂の国の部族たちと敵対していた当時から内通しており、着々と準備を進め、ついに反旗を翻しました。
王である父は討たれ、私と私の派閥に属した家臣たちやその家族、関係者たちはこの田舎にある古城へと命からがら逃げ延びたのです」
舞台上で俳優が演じるように、声を張り、セリフ回しを強調した説明だった。
自分の従兄の反乱で、自分の父親が亡くなったというのに、落ち着きすぎているようにも見えた。
サラハは、王族は家族同士でドロドロした争いの中で生きているせいで、セザリオの感覚も麻痺しているのだろうか、と思った。
「家族を失ってつらい時は、泣いた方がいいぞ」
サラハは頭の中の言葉をそのまま口から漏らしてしまった。ついうっかり、お姫様が言いそうにないことを言ってしまったのだ。
「しまった!」と思ったけれど、口から出て行ってしまった言葉は、流れ出た汗のようにもう戻らない。
「もう、何日も前の出来事です。でも、ありがとう」
セザリオは窓の外の世界を見ながら、サラハに背中を向けてつぶやいた。彼はもう泣いたのだろうか。ふと、泣いている彼の側に誰かがいてくれただろうかと考えた。
大げさに演技しているような言い回しは、事件が起きたさなか眠っていたサラハに気を使ったのかもしれなかった。
セザリオが何かを言いにくそうにしている。
「ああ、そうだ。サラハの侍女のことも言っておかないと……」
セザリオが手招きすると、一人の侍女が入ってきた。
それは、剣で腹を貫かれたはずのキジカだった。
話はあの夜に戻る。
セザリオを透明の暗殺者から守り、ゴウアジ達に組織を裏切ったと誤解されてしまった。
もちろん、サラハにはそんなつもりはさらさらなかった。
「……どうしてこうなった」
サラハは絶望の顔をして全身で絶望を表していた。
「それは私が聞きたい。
それよりもどうする? 先輩たちが動き出すのは、城の者たちが寝静まってからになるだろう。
このままでは確実に明日の日の出を見ることなく我々は処分されるぞ。
もう、諦めて遺書でも書くか? でも、私が出す相手はお前しかいないから、それも無駄か」
「このまま黙って殺されるのは嫌だ。なんとかならないかな?」
「……お前だけなら、あの二人から逃げきれるかもしれない。
私たちが魔法を使えることを知っているものは誰もいない。特にお前の魔法は移動術だからな。
私のことは気にするな。
お前だけで逃げれば、裏切り者はお前一人だと判断してくれるかもしれない。
そうしたら、一人だけ置いて行かれた哀れな使用人として、この国で第二の人生をスタートできるかもな」
もちろん、キジカが言う希望的観測が実現される可能性が無いことをサラハも理解している。
二人で一組。片方が裏切れば、連帯責任で必ず残りの一人も処分される。
キジカは自分を見捨てれば、サラハだけなら生き残れると言っているのだ。
足手まといになるくらいなら、命がけで時間稼ぎをする方が良いと思っている。
相棒に助かって欲しいという思いは、暗殺組織に植えつけられたものではなく、自分たちの心から芽生えた感情であり、願いだ。
けれど、キジカがそう思うように、サラハもキジカには生きてほしいと思っている。
キジカを見捨てる選択肢は選べなかった。
「じゃあ、どうする?
万が一の可能性にかけて、二人に戦いを挑むか?
でも、先輩二人と違って、私たちは真正面からの戦いに向かないぞ。
特に私なんか、事故死や病死に見せかける技術の訓練が主だったから、お前のサポートすらできそうにない。
並みの殺し屋が相手なら何とか戦いになったかもしれないが、あの二人は組織内でも別格の二人だからな」
サラハは少し考えてから、二人とも生き残る可能性があるけれど、少し危険性の高い案を提案した。
暗殺組織内では、魔法は限られたものだけにしか与えられない、ある種の特権だった。
実力のある者の中から、さらに組織への忠誠心がある者たちだけに授けられる。
しかし、それはより危険な任務を割り振られる可能性も高まることになる。組織の内外で恨みもかって敵も増える。
サラハとキジカが魔法を使えるのは、組織に魔法を授けられたからではなかった。
サラハが組織には秘密で練習したのだ。それをキジカにも教えた。
もしそれが組織に知られたら、危険分子として処分される。処分されなかったとしても、確実に危険な任務を割り振られるようになる。
サラハは、組織内での地位を高めることに全く興味が無い。自分とその相棒が楽に生きることの方が何倍もよいと考えていた。
キジカが使う魔法は、攻撃魔法でも移動魔法でも無い。
元々魔法の才能があまりなかったキジカに使える魔法では、これくらいしかできなかったのだ。
その魔法は、自分の体の一部に魔法の見えない穴を開けるというものだ。
たとえば、胴体にこの魔法をかけると、その部分がナイフで刺されようと、矢で射ぬかれようとも、怪我も痛みも無い。そのわりに、相手には攻撃した時の手ごたえがはっきりと伝わるのだ。
つまり、キジカの魔法は死んだふりをするための魔法だ。
あの夜、キジカは胴体に魔法をかけてゴウアジとユマヤを待っていた。
ユマヤが大剣を取り出して、胴体を貫いてくれた時は、思わずガッツポーズをしてしまいそうになった。
もし、首を斬り落とされていたら、本当に死んでいた。
苦痛に筋肉を硬直させ、もがき苦しむ迫真の演技で二人を騙したのだ。
タイミングを見計らい、ガラスを割ってサラハが逃げ出してくれた。
出血の有無や瞳孔、脈拍なんかを冷静に確認されたら、キジカはあの二人を騙せなかったに違いない。
当初の予定では、サラハは自分の魔法を使って、先輩二人から逃げることになっていた。キジカが無事に逃げ延びるまで森で時間を稼ぐ。
キジカを守るために囮になったのだ。
逃げるだけならば、自分一人だけ方が生き残れる可能性が高い。
サラハは、キジカにそう説明して納得させていた。
サラハが完全に国外へと逃げ延びた後で、キジカと合流して二人で逃げる。
でも実は、サラハの本当の目的は違っていた。
少しでも二人で生き残る可能性を高めるために、ゴウアジかユマヤのどちらか一人は殺すつもりだった。
二対一ならば勝ち目はない。でも、一対一で魔法を使った奇襲ならば、サラハにも十分勝つ見込みがあると思っていた。
ユマヤ達が城の外へ出て行ったあと、城内はセザリオを中心とした王の派閥の兵士たちが集まっていた。ベクの派閥よりも行動が早かったのは、騒ぎの中心がサラハ達の部屋だったからだ。
サラハの部屋は扉が壊されて、窓ガラスも割られている。
バルコニーの手すりには鎖鎌が刺さっていた。
たとえ鎖を伝って下りたとしても、一般兵たちにはサラハ達の部屋の高さからは降りることはできない。転落死してしまう。兵士たちが状況をつかみかねている時、精鋭の護衛兵たちを連れた王子セザリオがやってきた。
「サラハが見つからないだと?
部屋の中で手がかりになりそうなものを探せ、なんでもいい」
セザリオが命令していると、隣のキジカの部屋から「きゃー!死人が動いた!」という悲鳴が聞こえた。
腰を抜かしていた悲鳴の主はセザリオの護衛を務める精鋭の一人だった。
隣の部屋で起きたことを説明する。
サラハ姫の専属侍女であるキジカが大剣で貫かれて、ベッドで息絶えている。
戦士として働いていると、死体の一つや二つ嫌でも目にする。これは彼が今まで見た中でも特に凄惨なものであった。昆虫標本みたいに殺されている。きっと必要以上に苦しませて殺したのだと、犯人に対し吐き気や嫌悪感を抱いて、被害者である彼女の冥福を祈っていた。
そうしたら、どうだ。死んだと思っていた若い女の死体と目があったのだ。
目が合っただけではない、手足を動かして、自分に刺さった大剣を引抜こうとしているではないか。
彼女が異国の邪教の呪いで、地獄から復讐するためによみがえった怪物に兵士には見えた。
日頃、寡黙で真面目な精鋭兵士であったとしても、女の子みたいに絶叫するのもしかたがない。
「抜けない……」
蝋燭の薄暗い明りに照らされてボソッとつぶやく声は、おびえた心の持ち主にはあの世からの亡霊の手招きに聞こえた。
セザリオが兵士の悲鳴を聞きつけて、キジカの部屋に来るとその光景に驚いて、目を見開いた。
「セザリオ王子、手伝ってくれないか。ユマヤが思いっきり突き刺したから、自分の力では引き抜けない」
どこから見ても完璧に死んでいるはずの人物が、冷静に話しかけてきた。
「その剣が出血を抑えているようだから、医者が来るまでそのまま待ちなさい」
セザリオは落ち着いているように見えたけれど、頭の中はパニックだ。死体が動いたわけではなくて、奇跡的に一命を取り留めているのだと判断していた。
「ビクともしない。これ、ベッドを貫通して床まで刺さっているんじゃないか?」
キジカは引き抜こうとする動作を続けながら、ブツブツつぶやいていた。
彼女自身にとっては、痛くもかゆくもないのだから余裕だ。動けないから困っているだけなのだ。サラハのためにも早く逃げないといけないと思っていた。
しかし、見ている人間には全くそうは見えない。
スキップするツチノコレベルの超常現象が目の前で起きていた。
ここにいる何人かは、この光景が夢にまで出てきてうなされることだろう。
そんなことをさっぱり理解できていないキジカは、暇な待ち時間の間、兵士一人一人の顔をじっくりと見て時間を潰していた。
暗闇で死人にじっと見つめられるという更なる恐怖を、心の奥底に植えつけているなんて思いもしなかった。
「ひ~ま~だ」
大の男が三人がかりで引き抜くと、医者は傷のないことに驚き、セザリオは状況説明をキジカに求めた。
もしここですべてを説明してしまうと、自分やサラハの立場が危うくなるのがキジカにだってわかっていた。
嫁いできたはずのお姫様の正体が、暗殺者が化けた偽者、しかも男だなんて、正直に話せばこの場で斬り捨てられても文句は言えない。
組織には裏切り者だと認定されてしまった。セザリオにはサラハの味方でいてもらわねばならない。とりあえず、居場所や後ろ盾になってもらうのだ。
キジカは所々嘘を織り交ぜながら、自分たちにとって都合のいいように改変して話した。
セザリオを助けたせいで、サラハとキジカが裏切り者として命が狙われていること。
この国に寝返ったり、祖国にとって不利なことをしたりしない様に見張りが付いていたこと。
その見張りがゴウアジとユマヤで、魔法も使える凄腕の暗殺者であること。
推測になるがと言って、その二人の魔法の正体も伝えた。
「ところでサラハは、今どこにいるのですか」
ダラダラと説明を続けるキジカを遮って、セザリオは自分が今一番知りたい質問をした。
「森の中、ゴウアジとユマヤに追いかけ回されている」
何よりも先に言っておかなければならない、一刻を争う情報が、どうでもいいおまけみたいにつぶやかれた。
セザリオに限らず、周りにいたものすべてが固まった。
「だ、大丈夫。まだ逃げているはずだ。きっと生きている。……たぶん」
周りに人間たちが全員固まったので、キジカは取り繕うように言ってみたけれど、その言葉で安心できた者はいなかった。
「精鋭の兵士は急ぎ武装して、私と共に森へと向かうぞ。サラハ姫の命の安全を最優先とせよ!
急がねば、サラハの命が危ない」
セザリオの鋭い命令に従い、兵士たちの間にも緊張した空気が戻ってきた。
走って部屋を出て言った兵士たちを見送り、キジカはサラハの無事を祈りながら、二度寝することにした。
眠たくて頭の回転が鈍くなっていた。
先ほどまで自分が串刺しになっていた穴空きベッドに寝転がった。
薄情に見えるかもしれないけれど、魔法の才能に乏しいキジカは魔法の使用で疲れきっている。すぐに解くつもりだった魔法をずっと使い続けていたから、もう限界だった。
「おやすみなさい」
回想終了。
キジカが自分の対応を美化した、キジカにとって都合がよい説明をセザリオがきっちりと訂正して、事実に近い情報がサラハにも届いた。
一応、感動の再会である。
どちらとも命を落としてもおかしく無い状況だった。
熱く抱きしめ合って、先輩暗殺者から生き延びた喜びに騒ぎたいところであったけれど、王子の前であったから二人は自粛した。スマートに。クールに。
サラハは改めて自分はお姫様なのだと心の中で言い聞かせた。私は姫君。自分に暗示をかけて、演技に気合を入れるのだ。
暗殺組織の先輩二人の監視の目が無くなっても、全然問題は解決していない。
もしサラハが身代わりの、偽者の姫でなければ、おとぎ話のお姫さまと王子さまみたいに、二人は結ばれて末永く幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし。という王道の結末があったかもしれない。
二人の殺し屋の次は、王子様とその愉快な兵士たちに命を狙われて、追いかけ回される展開もありうる。
サラハとキジカは視線で合図をかわす。
二人きりになってから、今後の身の振り方を話し合うことにした。
その結論は、まずは体調を整えること。
そして、情報を集めるとこ。
それまではしばらく、王子様のご厚意に甘えてみると決めたのであった。
サラハの回復は早かった。
本物のお姫様だったならば、こんなに早く立ち上がれない。
サラハが手足を動かして調子を確かめていると、その様子を見ていたキジカがつぶやいた。
「まだ戦闘は控えた方が良いな。万全ではない」
「何を言っているのです、キジカ。私はサラハ・オリアディス。お姫様が戦いに参加する状況など来るはずがありませんよ」
サラハは「おほほ」とそれっぽく笑ってそれらしいポーズを取っている。
これからは、清楚なお姫様路線で行くつもりのようだ。
変わったことといえば服装であろうか。
それまで、サラハは砂の国風のドレスを着ていた。肌の露出が多く、スケスケひらひらな布もたっぷりと使ってある官能的とも見える衣装だった。
しかし、今は森の国風の衣装を着ている。
改めてこの国の人間として再出発する意思表明なのだ。
もちろんキジカの衣装もこの国の一般的な侍女風である。
落ち着きのある、大人びている、といえば聞こえはいいけれど、このデザインを地味だと人によっては言うだろう。
「私はこっちの方が好きだな」
サラハは、またスカートの端を持ってヒラヒラしている。
今度は踝まである丈の長いスカートだ。
サラハが一番気に入った理由は、ナイフなどの武器を隠す場所が増えた所だ。お姫さまらしからぬ合理的なだけのつまらない理由だ。
「ヒラヒラが無くなった分、体のラインが出やすいデザインだな。安心しろ、偽乳は前回よりも気合を入れて作ったから」
大丈夫とでも言いたげなキジカだった。表情は相変わらず変化がわかりにくい。
歩き回れるようになった今日のサラハの予定は、この古城内の探険である。落ちた体力を取り戻すリハビリでもあった。一応は王子様から保護されることになったけれど、暇なのだ。
ちなみに明日の予定は古城の庭園等の探険である。
「キジカが案内してくれるのか?」
「いや、無理だ。お前を看病するためにずっと付きっきりだったから。知っている場所は、お前の部屋と、医者の部屋と、食堂、あとトイレぐらいだ」
サラハはキジカの後ろで歩きながら考える。
「じゃあ、またセザリオに案内してもらおうか?」
「それはやめておいた方がいい。詳しくは知らないけれど、会議、会議で大変お忙しい様だぞ。王子様はここで一番の偉い立場なわけだから。
ずっとお前の側にいたかったのに、出来ないと嘆いていた。愛されているなー」
男性に愛されてもうれしくないサラハを、キジカは棒読みでちゃかしている。
サラハは少しだけ足を速めてキジカの前に出た。
「二人で探検しよう」
探険隊の二人は階段を上っている。
「最初は高いところに行こう!」
というサラハの煙と何とかは高いところが好きを体現した発言によって、古城の最上階、塔のてっぺんを目指している。キジカがいちいち段数を数えていたけれど、途中、サラハが話しかけて邪魔したせいでわからなくなってしまった。
「サラハは眠っていたから知らないだろうが、あの山を越えて来たんだ。あの向こう側の道をずっと進むと、王都がある。今はベク将軍の反乱軍と、砂の国の各部族の軍隊が占拠している。
あのまま、王城にいたら大変なことになっただろう。
部族の中にはサラハ・オリアディス姫様の顔を知る者がいるはずだ。正体がばれたら、どちらも私たちにとっては敵になってしまう。
ただでさえ暗殺組織から裏切り者として追われている。味方は一人でも多い方がいい」
キジカが思い出しているのは、王城の中の戦争のにおい、そしてそのさらに遠くにある祖国の風景。
血の流れた先にある未来を思って、これからの日々に真正面から向き合っていた。
無表情な顔がさらに厳しくなっていたかもしれない。
サラハが眠っている間、相談相手もおらず、ずっと一人で考え続けていた。
二人が生き残る可能性は残っているのだろうか、と。
「あっちは、なんだ?」
キジカが渋い顔をしている反対側、サラハが遠くを指さした。
ちらほらと質素な建物が並んでいる。塔の上からでは、おもちゃのように小さく見える。
そのそばを動く点がある。家畜だろうか、それとも人か、ここからでは区別はつかない。
「そういえば、知らんな」
サラハの問いに、彼女は一言で答えた。
感情のわかりにくいキジカであるが、サラハにはその顔は少しだけ驚いているようにも感じられた。
「そか。じゃあ、あとで見に行こうぜ」
「ああ」
キジカは遠くを見ているサラハの後ろ姿を見て、短く返事した。
塔の階段を下りていると、登る時とはまた別の発見がある。
この古城は、天気や災害の影響か、それとも経年劣化なのか所々壊れている。
石垣の一部は崩れ、紋様は苔生したり、泥で汚れたりで見えなくなっている。
見張り台も、もっとしっかりとしたものに造り直す必要がある。
塔の階段に窓から外を見下ろすと、石垣の周りで計測をしている集団がいた。
森の国でも、土木作業は基本的に男の仕事とされていた。力の必要な作業であるし、何より危険だ。
しかし、そこには若い女性たちの姿もある。計測機器を覗きながら他の作業員と何かを話している。
「女子供も働かせなければならないほど、この城は人手が足りていないのか?」
キジカはその光景を見ながらつぶやいた。
体力が戻ったら、サラハを連れて早めに見切りをつけて、外国にでも逃げだそうかと考えていたけれど、表情の変わらない彼女がそんなことを考えているなんて、隣を歩いていたサラハでさえ気づかなかった。
この城の最高責任者はセザリオ・サフェメント王子だ。
ベクの反乱が無ければ、王の死後その跡を継いでいたことだろう。
だから、微妙なのだ。
サラハ達の立ち位置が定まらない。
サラハとキジカは砂の国の人間である。今回ベクの反乱に協力したのも砂の国の部族たちだ。
つまり、この古城にいる人間にとっては、自分たちを王都から追い出した連中の片割れである。
敵であるのならば、辛く冷たく距離を取って接すればよい。
しかしその一方で、サラハはセザリオの未来の妻であり、暗殺者から守った命の恩人でもある。
だから、城内の者たちは距離を取りかねているのだ。どう接すればよいのかわからない。
サラハ本人にも良くわかっていないのだから、仕方が無い。
サラハが眠っている間は、この居心地の良くない雰囲気はキジカだけに向けられていた。
でも、キジカは元から他人に対してあまり興味関心を示さない性格だった。
人間関係は、人と人との難しい距離間から問題が大きくなるものである。
なので、関わろうとしなかったキジカだけでは問題が表面化しなかった。
サラハがすれ違う人に対して、清楚なお姫様を演じてさわやかにあいさつをしたからこそ問題が発覚したのだ。
「おい、キジカさん。あいさつをするとその相手が逃げるのだけれど、何か心当たりはないかしら?」
一定距離からこちらの様子をうかがう視線があるため、サラハは営業スマイルを顔に張り付けたままキジカに話しかけた。
「知らんよ。私は何もしていないからな」
キジカはどうでもよいと聞き流すように、けれど自分には非が無い所だけははっきりと主張する。
「私が眠っている間、何もしなかったことが問題なんじゃ!」と怒鳴りつけながら、その両頬をつかんで思いっきり引っ張ってやりたかったけれど、周囲の目があったのでサラハは我慢した。
二人が探検を中断して、自分たちの部屋に戻ろうとしていると、兵士の一人とすれ違った。
サラハにはその兵士に見覚えが無かったけれど、その兵士はキャッと叫んで、小さく跳び上がると回れ右して逃げていった。
キジカはその顔を覚えていなかったけれど、先ほどすれ違った兵士は死んだふりをしていたキジカに驚かされた兵士である。
あの夜の恐怖体験が目の前に立っていたのだ。そりゃ怯えて逃げるさ。
もし覚えていたとしてもキジカは、自分に非は無いと思っただろう。でもこの場合に限っていえば、それでよかったのだ。もし、キジカが罪の意識を感じて、謝罪しようと兵士を追いかけたのなら、彼はきっと泣いてしまったに違いない。
「……問題は深刻だわ」
お姫様は深く悩んでいた。
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