第4話 ゴウアジ殺し


すべてが眠りについてしまったかのように静かな夜明け前。

ゴウアジは鍵開け用の道具を器用に使いこなした。キジカが眠っている部屋の扉が音も無く開いた。闇の中から二人の暗殺者が部屋の中へと入る。


この二人ならばセザリオ王子の暗殺も可能だろうけれど、彼女たちにとって殺しは仕事に過ぎない。

殺害を命令されてもいない相手をわざわざ殺したりなんかしない。

今回の彼女たち二人の任務は、あくまでも監視と裏切り者の処分だけなのだ。


サラハが裏切ったとなれば、その相棒であるキジカも裏切り者と判断される。

ゴウアジとユマヤにとっては彼女も処分の対象だ。

キジカはベッドに仰向けの体勢でスヤスヤと眠っている。

ユマヤが魔法を使って体内に隠し持っていた大剣をずぶりと背中から引抜く。ユマヤが笑顔で頷いてゴウアジに合図を出すと、ゴウアジは部屋の中にあったクッションをキジカの顔に強く押し付けた。

ユマヤはキジカの真上で持ち上げた大剣を、彼女めがけて突き刺した。


キジカは腹を大剣で貫かれ、もがき苦しんでいるようだ。

しかし、悲鳴を上げようにも顔をクッションで塞がれており、その声は誰にも届かない。

しばらくすると、キジカは動かなくなった。


ゴウアジとユマヤの二人が、キジカを始末したと確信した時だった。

すぐ隣の部屋からガラスが砕ける音がした。

侍女キジカの隣の部屋にいるのは偽者の姫サラハだ。

暗殺者二人はお互いに頷き合い、隣室のサラハに自分たちの行動が気付かれてしまった認識を共有する。

すぐさま隣の部屋へ向かう。

大剣は引き抜かれず、キジカの体はそのままベッドに縫い付けられたまま放置された。

殺した証拠として首を切り取り、持ち帰らなければならないほどの人物ではない。


一刻を争う状況に、隠密で行動することを諦めた。城内に音が響いてしまうが、標的に逃走されるよりマシだ。

鍵のかかった扉をユマヤが蹴破り、中の様子を見回した。

ガラス窓が破られており、バルコニーにガラス片が飛び散っている。

破片を踏みつぶしながらバルコニーへ出ると、はるか下に動く影が見えた。

サラハが降りるために使ったはずの縄や梯子は見当たらない。

ユマヤが体内に隠し持っていた鎖鎌を魔法で腹から取り出し、バルコニーにひっかけるとそれを伝ってある程度の高さまで下り、そこから地面に飛び降りた。二人は地面を転がり落下の衝撃を殺す。

城の窓には見回りの兵士のものであろうか、ろうそくの明かりが増えてきた。


影が走り去った方向へゴウアジとユマヤの二人が向かうと、馬が城下町の方へと駆けて行くのが見えた。

ゴウアジがそれを追いかけようとした時、ユマヤは背後の森の方で何かが動く気配を感じた。

二人はお互いの意見を言う。

「ゴウアジ、待って。馬の方は囮で、森の方へ逃げたのかもしれない。何かが葉を揺らす音が聞こえた」

「ユマヤ、お前の勘違い、気のせいだったらどうする? 馬に乗って国の外まで逃げてしまうぞ」


蹄の音が遠ざかっていく。決断を急がなければならない。

「じゃあゴウアジが城下町へ逃げた馬を、私が森へ逃げた影を追う」


ユマヤ達はすぐさま二手に分かれて追う決断をした。

言い争わせて、逃げる時間を稼ぐことはできない。

この暗殺組織の二人組制度で結ばれた絆は、単なる相棒という言葉では言い表せない、仲間や友情なんかとは比べ物にならないくらい深い。互いの命を預け合う絶対の信頼関係だ。


ユマヤが一方的に告げただけなのに、阿吽の呼吸でゴウアジは馬を追いかけて走り出していた。

単純な速度ではかなわなくても、路地を抜け、屋根を走り、道をショートカットできれば、ゴウアジならばまだ追いつける距離だ。


走り出したゴウアジの後ろ姿を確認せずに、ユマヤもまた走り出していた。

ゴウアジとは反対方向、儀式の執り行われた神殿のある森の方へ走り始めた。


「どちらが当たりを引くか競争だよ」

これからサラハを殺そうと思うユマヤの顔に、艶のある笑顔が浮かんだ。

ユマヤは影の気配を感じた森の中へと入っていく。


しばらくして、ユマヤは逃走者の痕跡を見つけた。

「私が正解だったみたい!大当たり!」

楽しくて、その場で踊るようにくるりと回った。

木々の枝葉が折れている。まだ新しい。そのすぐそばの苔が人間の足跡の形にへこんでいる。

足跡から、足の大きさ、歩幅で身長を、めり込み具合から体重を推測する。

足跡はさらに情報をくれる。どれくらいのスピードでどっちに逃げているのかがわかれば、ユマヤならすぐに追いつくことができる。

人間離れした驚異的な脚力で、一直線に標的を目指す。

ユマヤは気分が昂って、笑い声を抑えきれない。標的に自分の位置情報を知らせてしまうが、それでもかまわないと思った。格下の新米暗殺者を完璧に舐めきっている。格が違い過ぎる相手を見下していた。


「キジカをブッ殺した時のことを教えてあげたら、いったいどんな顔をするのかな?

絶望する? 泣くかしら、それとも怒るかな? 楽しみだなぁ」


暗殺組織は親のいない路上生活の子供や、親に売られた子供を組織の道具に育て上げる。

その方法が二人組制度だ。お互いを家族以上に大切にするように教え込む。

組織にとって、裏切らないようにするための保険や、命を捨てる任務を強要するための脅しの材料に過ぎない。

それでも、当人たちにとっては、かけがえのない存在なのだ。


自分の命と同等か、それ以上に大切なものを奪われたと知った時、サラハがどう壊れるのか想像すると、自然と笑顔になるユマヤだった。

「みーつけた」


森の木々を盾にしながら逃げるサラハが目障りに感じられた。

「私から逃げられるなんて、本気で思っているのかしら?」


ユマヤは両膝の側面から魔法で体内に封じてあった武器の柄を出した。

その柄を引っ張ると、腰骨から太ももの辺りまでの中に収まっていた斧がズルズルと引き出される。

二本の斧を両腕でそれぞれ構えると、力任せに木に叩きつけた。木の皮の表面がはじけて飛び散り、木が切り倒される。ユマヤが斧で打ち据える衝撃はそれだけで収まらず、切られた木が前方で逃げるサラハの方へ弾き飛ばされて向かってきた。

サラハは一瞬だけ後方を振り返り、足を止めずに木をかわして逃げ続ける。


「これならどうかな!」

回り込むようにサラハを追いたてながら、ユマヤは斧で木を切り倒し、岩を砕き散らし、その破片をサラハへ雨のようにばら撒いた。


ただ力任せに攻撃を仕掛けているのではない。サラハの進路は徐々に誘導され、選択肢が狭められていくのがサラハにもわかった。このままでは、すぐに追いつめられてしまう。


サラハが倒木の陰に隠れた。

ユマヤの位置からはサラハの姿が直接は見えない。しかし、そのサラハの影はしっかりと確認できた。


ユマヤは静かに笑った。しっかりと隠れているつもりの新米が可笑しかった。笑いが止まらない。

二本の斧を上段に振りかぶりながら間合いを詰める。

一瞬、サラハの影が薄くなり、地面に吸い込まれるようにして消えたように見えた。


そんなはずはないと判断して、迷わず二本の斧で倒木ごとサラハの身体を叩き割った。



「あれ?」


ユマヤの想像では、斧に砕かれ弾け飛んだ木片でズタズタになった血まみれのサラハの死体が転がっているはずだった。


「おーい。どこに逃げたのかな?」


ユマヤはひどく重い斧を振り回して、手当たりしだい目につく限りの障害物を破壊して回る。自分で切り倒した倒木、砕いた岩、抉られた地面。


音も気配も感じない。


「あれれ? 木に登って逃げたはずはないよね?」


ユマヤの周辺の木々は薙ぎ倒され、サラハが消えた場所から跳び移れるような木は残されていない。

消えたサラハを探して、上を見上げていたユマヤの内心は、その顔に浮かべていた笑顔とは違い動揺している。その焦りがかえって視野を狭め、彼女自身の命を亡くす結果につながる。


空にはまだ太陽は登っていないけれど、明るくなってきていた。

彼女が感じたのは森の中に吹く風が自分を通り過ぎる感覚だった。


「…………」


土で汚されて黒っぽく目立たなくされた細いナイフが投げられて、ユマヤの眉間を刺し貫いた。彼女の瞳に最期に映ったのは、地面から生えているナイフを投げた後の腕だった。





サラハが隠していた生き残るための切り札は、魔法が使えるということだった。

戦闘能力で劣るサラハがユマヤを倒す機会は、使えないと思われている魔法を使った一度きりの奇襲しかなかった。


サラハは、魔法を使って潜っていた地面からスーッと出てきた。自分の身体にかかった魔法を解くと、薄くなっていた影も元の濃さに戻った。


魔法を解いた後のサラハの呼吸は荒い。四つん這いになって呼吸を整えることだけに集中する。


サラハの勝利はそれだけ紙一重だったということだ。

ユマヤが油断して遊ばなければ、魔法を使う前に殺されていただろう。

暴力と強力な殺意の圧力に心身ともに緊張していた。




けれど、サラハの判断は間違っていた。たとえ呼吸が止まり、どんなに苦しかろうともすぐにその場から離れるべきだった。



「なぜ、おまえが、生きているのだ?」


二手に分かれ馬を追っていたゴウアジが、馬は囮であったと気が付いてユマヤを追いかけて森へと入って来ていた。


ユマヤが暴れる音が止み、殺した時の感想でも聞こうかとゴウアジがやって来たら、死んでいたのは彼女の方だった 。


ゴウアジは自分自身の髪をつかみ、引っ張る。

ありえないことが起きて、それが受け入れられない。絶対に。彼女にとっては受け入れてはならないことだ。

自分の行動が許されなくて自分を引き裂いてしまいたい。

ゴウアジは髪の毛から手を離すと、一気に距離を詰めて四つん這いになっていたサラハを爪先で思いっきり蹴り飛ばした。


サラハの体はボールのように飛ばされて、離れた木の幹に叩きつけられた。

サラハは動けなかった。

ぶつかった衝撃でそのまま気を失ってしまった。


ゴウアジにとって、サラハはもはや仕事の標的ではなく単なるゴミだった。不要なもの、無用なもの。目の前にあって邪魔だから処分する。

まだ動くようなら自分の中の全ての感情をぶつけて、動かなくなるまで切り裂いて、動かなくなってからも粉々に壊す。


ゴウアジにとって大事なものは、生きているサラハを殺すことではない。

優先すべきは、大切なユマヤだ。

家族や恋人、愛なんて言葉だけでは全然足りない。

体が引き裂かれるよりもつらく、肺が潰されるよりも苦しかった。


ユマヤの顔をゴウアジは愛おしそうに両手で撫でる。

もう話すことのない唇を人差し指でなぞった。ゴウアジの両目から流れる涙が止まらない。


「ああ、愛しいおまえ。すぐに止めを刺して、帰ってくるから」


ゴウアジが指を絡めユマヤの両手を握り、自分の魔法を使った。

重なり合った互いの手のひらに魔法の力が集中している。その付近の空間にわずかな亀裂が走ったように見えた。


ゴウアジとユマヤの二人は同じ魔法を使う。

体内に武器を収納し、隠す魔法だ。互いの武器も共用の品で、こうやって手のひらを重ね合わせると、外に出すことなく体内の武器のやり取りができるのだ。

ゴウアジは今、ユマヤの武器の全てを自分の中へと受け入れようとしていた。

ゴウアジとユマヤが使う魔法には限りがある。それぞれの体内に隠しておける武器の貯蔵量の限界だ。

いくら魔法とは言っても、人一人の身体の中にしまえる武器の量は決まっていた。

ゴウアジもユマヤも常に自分が持ち歩ける量ギリギリの限界を隠し持っていた。


ゴウアジは理性で判断することを止めていた。

ユマヤの武器をすべて引き受けようとしていたのだ。


ズブリ、と一つの刃が身体から突き出た。人間一人分という器から、刃金があふれ出したのだ。

たとえこぼれ落ちようとも、ゴウアジはやめるつもりは微塵も無い。

服を、その下の皮膚を突き破るように飛び出た刃は一つでは終わらなかった。

魔法で武器を受取るたびに、刃がズブズブと体から生えてくる。

体中が刺し貫かれたようになってもまだすべての武器の受け渡しが終わったわけではない。

まだ、数本の剣がユマヤの体内に残っていた。とうにゴウアジは限界を超えている。


無理に無理を重ねて、ついには額が裂けて血が滴る。

最後の数本は、もはや自ら傷を刻むために魔法を使っていた。


すべての武器を受取ると、ゴウアジは立ち上がった。

武器の刃と刃がぶつかり合いガチャガチャと心地よい金属音が響き合う。


もはや刃の鱗を身にまとった怪物。その顔の血の流れた後は、血の涙の様だ。

ゴウアジはまだ気を失ったままのサラハのもとへ一歩一歩近づいていく。



サラハが目を覚ましたのは偶然に過ぎない。意識を取り戻して最初に見たのは、目の前に立っていた武器の怪物の姿だった。


考えるより先に体が動く。それでも、かわしきれなかった。

避けられなかった腕がかする。怪物の腕に生えていた刃に傷つけられて、複数の切り傷がサラハの左肩から腕に付けられる。しかし、この傷は浅く致命傷ではない。


サラハは出来る限り目の前の怪物から離れたかった。

向けられる殺意に恐怖して、目を合わせているだけで負けてしまいそうだ。


サラハは叫ぶ。

雄叫びや、威嚇などの格好の良い物なんかじゃない。

こういう時は声を出さないと、動けなくなってすぐに死んでしまうとわかっていた。

弱さの悲鳴だって出せるだけましだ。


ゴウアジは急がない。

ゆっくりと、でも着実に歩みながら体内の剣を四本抜きだして、片手で投げ放った。


風を切る音を感じて、走って逃げだしていたサラハは前方に全力で跳んだ。

それが無ければ、剣に貫かれて死んでいただろう。


それでも完璧に攻撃を避けることができなかった。体が思うように動かないのは斬りつけられた傷だけのせいではない。むき出しの殺意におびえ体が思うように動かない。それでもなんとか致命傷は避けられた。

その攻撃、投げられた剣の一本にサラハは左足を切りつけられている。かわしていなければ、足が斬り落とされてもおかしくはなかった。

足の怪我は走れないほどではない。それでも、逃げる速度はどうしても制限される。

血を滴らせながらサラハは必死に逃げた。


次に繰り出してきたのは、ゴウアジの右胸から生えていた刃である。

自分の手が刃に斬れるのもかまわずに、つかんで武器を引きずりだした。

ゴウアジが無理矢理引きずりだした武器はユマヤの槍だった。


サラハはこの先が崖になっているのを知っている。

次の攻撃を避けるには、怪我した足をさらに悪化させる危険性があっても、そこから飛び降りるしかない。


ゴウアジが大きく振りかぶって、槍を投げてきた。

覚悟を決める間も無く、サラハは槍を避ける。実際は避けて飛び降りたというより、崖から落ちるしか逃げるすべが無かった。

槍の一撃をなんとか避けられた、とサラハは思っていたから油断した。

サラハの左胸に槍と同じ軌道で、それに隠れて飛んできたもう一本の武器が突き刺さっていた。


目立つ槍の方に、サラハの意識を向けさせていたのだ。

崖から落ちるサラハには、その武器がユマヤに止めを刺した自分のナイフだと確認することは出来なかった。


崖の上からゴウアジは崖下を見下ろす。

サラハにはまだわずかに息がある。サラハが万全の状態で飛び降りたのならば、怪我することなく降りられる程度の高さでしかない低い崖だ。

でも今は、ナイフで胸を貫かれて、ろくな受け身も取れずに落ちた。

まだ生きてはいるけれど、もう自分で立ち上がる力も残っていない。




あとは簡単に殺せる。

でも、ゴウアジは止めを刺しに崖を降りなかった。


複数の人間が薄闇に紛れて木々の間を隠れながら向かってくる。

一定の距離を保ちつつ、ゴウアジを囲むように移動している。


やってくる敵を迎えるように、体中の刃が皮膚を妖しく這うように、ずずずと動いた。


「邪魔をしなければ、見逃してやったものを」


周囲に殺気を向けながら、崖下のサラハのもとへ駆け寄る人物に話しかけた。


「無駄だ。セザリオ・サフェメント王子。それはもうじき死ぬ。私が殺すと決めたのだから!」


ゴウアジの周りを囲っているのは、セザリオ王子の兵士たちだった。黒っぽいマントを羽織り、弓を構えている。

崖下ではセザリオが自分の携えていた弓を地面に置き、自分のマントを脱いで、血や泥に汚れたサラハを包み、愛おしそうに抱きしめた。

サラハを優しく寝かせると、セザリオは立ち上がって冷たく命令した。


「……やれ」


セザリオの命令に従い、兵士たちは次々とゴウアジに矢を放った。

高く風を切る音をさせて、矢は怪物と化したゴウアジへ向かう。

その様子を見て、ゴウアジは避けようともせずに笑い声を上げる。


「無駄だと言っただろう。その程度の攻撃が、この私に!通用するはずがないだろうが!」


矢尻が金属音を立てて弾かれた。

全身を鎧のように覆う刃の群れが、矢を防いでいる。

武器と武器の隙間を狙おうとしても、ゴウアジが魔法で武器を動かして弾く。

かわさないのはそうする必要のない相手なのだと、自分との実力差を示しているのかもしれない。


崖のへりに立って見下ろしているゴウアジの狙いは、サラハだ。


セザリオの目には覚悟が宿っていた。

自分を曲げない決意。

セザリオは自分の持ってきた弓矢を構えた。


そんなセザリオの意思を見下し、無駄な足掻きとあざ笑うかのように崖の上に立つゴウアジ。


「お前の行動など無意味だ!」


そして、矢は放たれた。


ゴウアジはやはり避けようとしない。セザリオの狙いを察知し、体から生えた刃を動かして左胸に刃を集める。


セザリオの狙いは心臓。矢は鋭く、まっすぐに飛んだ。


金属と金属のぶつかり合う音が夜明けの森に響いた。


はじめ、ゴウアジは余裕の笑みを浮かべていた。

たとえ毒が塗ってあろうとも、その矢が身体に当たらなければ無駄だからだ。

このあとどうやって殺そうか、と考えていた。


そのゴウアジの笑顔が破れた。


自分の両の手が自分の刃によって切りつけられるのにもかまわずに、左胸を押さえている。

ろくな呼吸ができずに、もがき苦しむ中でわずかな声が漏れた。

「おまえは、いったい……。わたしに、私に、なにを!」


ゴウアジは苦しみながら崖から落ちて、セザリオの足元で事切れた。


「それを、死者に教えてやる必要は無い。無意味だ」

セザリオは凍りついたかのような表情で、ゴウアジを見下していた。










サラハにはそこが夢なのか現実なのかよくわからなかった。

記憶は途切れ、今がいつなのかも判断できない。

痛みに苦しむ夢を見て飛び起きたことのあるサラハは、自分の頬をつねって夢かどうかを確かめるなんてことはしない。痛みを感じる夢を見ているのか、それとも現実だから感じられるのか。

自分たちの馬車に乗って、何処かへ移動しているのだろうか、カタカタと揺れているのを感じた。


「私が誰だかわかるか?」


その声はサラハには聞き慣れていた。侍女の格好をしたキジカがサラハの耳元で話しかけている。

キジカの腹には大剣で貫かれたような傷は無い。自分よりも元気そうだなとサラハには見えた。


「いま、どうなっている?私は死んだのか?ここは地獄か?それとも天国か?」

サラハは、絞り出すような声で尋ねた。


「今、ちょっと忙しい。食事中だから。

見てわかるだろう。パンの生地に細切りにした果物の果肉が練り込んで焼いてある。

表面はこんがりと、中はしっとり。もちもち。

でも、私には少し物足りないな。

果物が旬ではないのか、少し甘みが足りない。香りはほのかでいいとは思う。

砂糖か蜂蜜を足せばもっと美味しく……」


「待て、待て、待て」

サラハはもっと甘くした方が美味いとキジカが言い出したあたりで、話を遮った。


「私が聞きたいのは、その食べ物のことじゃない。

もっと重要なこと。過去と未来のこととか」


「食べること以上に重要なことがあるか!バカ者め!

そこに正座させて説教するところだぞ。まあ、今回は見逃してやる。

私と一緒に、ここでゆっくり休め」


「休んでいられないよ」


「いいや、休むのは大事な仕事だぞ。

才能のないやつは、努力しないとできない非常に困難な任務だ。

がんばらないと休めないのさ」


「でも、これからのことを考えるとこんなところで休んでいられない」


「先のことばかり考えるな。

大きな夢や目標を立てると、そこにしかたどり着けなくなるぞ。

もっと目先のことだけ考えろ。

無意識の声を聴け。本能に正直に生きろ。

お前が今やりたいことは何だ?」


「えーと。

体がだるい。疲れているのかな?眠い」


「それでいい。

お前は休む才能あるぞ。そういうやつは、死なない!

ぐっすり眠れ。ずっと私が側についていて見守ってやるぞ」


そう言うとキジカはまた食事を再開する。

そんな幸せそうな相棒の様子を見ながらサラハの意識が遠のいて、深い眠りの中へと再び落ちていった。


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