十一. 春が来るまで。

 春が来るまで(1)

 試合の結果から、内定の決まっていた私立の奨学金を受けられないことが確定した。僕は内定を辞退し、公立高校を目指す普通の受験生になった。これまで勉強を後回しにしてきた分のつけは大きい。試験が終わるまでの間、僕はスケートを控えるよう両親に言われた。

 本当だったら、今まで以上に練習したいところなのに……。


 リンクに着くと陽向さんが冷たい表情で僕を見た。今から告げることをすでに知っているのかと思った。

「あの……」

 恐る恐る声をかけると、「昨日はお疲れさま」と無表情に言われた。

「あ、お疲れさまでした。えっと……先生は?」

「先生?」

 陽向さんの表情が変わった。

「どうかしたの?」

 心配そうに聞かれる。僕が告げようとしていることを知っていたわけではないのか。

 僕は苦い思いで、口を開いた。

「その……受験のことで」


 僕の話を聞いた先生は戸惑いながらも、でも僕を責めるのではなく心配してくれた。

「週に一回か二回滑ることができれば、現状維持はできるから大丈夫よ。ああ、でも気にしないで。いっそ合格が決まるまで、ずっと休んでらっしゃい」

「えっ!? 休むなんてとんでもない!」

「分かるわ。昨日の今日ですものね。でもほら、合格できなくては困るでしょ?」

 先生は僕の手を強く握った。

「いえ。大丈夫だと思うんで」

「思うじゃ困るのよ? 公立に落ちたらどうするの? 私立に行くことになったら、スケートはやめなくてはならないのでしょ?」

 もしかして先生は、落ちるの前提で話をしているのだろうか。

 陽向さんも涙目になっていた。

「ほんとにごめんね。うちの学校厳しくて。どうして奨学金出してくれなかったのかしら。ああ、これで万一私立にまで落ちたりしたら……。もう遠慮なく休んで。そして全力で勉強して」

 陽向さんなんて、私立にまで落ちると思っているのか……。


「あの、そこまで心配されなくても合格できると思いますし、連日はどうせ勉強できないと思うんで週三くらいは練習に来ます」

「ちゃんと勉強して!!」

 二人に思いっきり反対されて、僕は合格が決まる三月まで練習を禁止された。

 向こうは世界ジュニアに向けて練習を続けているというのに。

 さっさと合格して、練習に戻らねば。そして陽向さんのことも早く安心させてあげたい。

 そう思うと三月がとても遠く感じられて、僕の毎日は苦しくて苦しくてたまらないものになった。


 しかし練習に行かないとなると、他に何も用事はない。いくらやる気があったって、毎日ずーっと家にいて何を勉強すればいいというのだろうか。

 決して暇ではないはずなのに僕は時間を持て余していた。そんな時、果歩からメールが来た。

「受験勉強してる? 一人で勉強してもはかどらないんじゃない? 練習がないんだったら、モミの木に来てよ」

 リンクになんて行ってる場合じゃない、そう思ったんだけど、なんだかすごく行ってあげないとならないような気がした。来てよ、という文字に、すがられているような感覚を覚えた。全日本の帰りの新幹線で見た果歩の横顔がちらついた。気がつくと僕は、モミの木へと足を運んでいた。


 モミの木の入り口を抜けると、フードコートやなんかの匂いに混じってリンク独特の匂いがふっとした。落ち着く……いや、落ち着かない匂いだ。ああ、練習したい!

 僕は中の方へと進んでいった。

 しかしそこで待っていたのはスケートではなく、なんと勉強だった。

「あれ? 制覇、靴なんか持ってどうしたの?」

「お前なー。自分が来いって言ったんだろ」

「やだなあ。勉強するのに靴はいらないでしょ。さあ、座って、座って。今日は特別にシャーペン貸してあげるから」

 そう言ってフードコートへと招かれて、僕はなぜか果歩と並んで勉強をすることになった。理系科目を吉田さん、文系科目は吉田さんがパートナーをしていた飛鳥井さんが見てくれた。


飛鳥井あすかいさんは留学を考えているほど英語が堪能なのですよ」

 英語のハンドブックを読み解く手伝いをしていた吉田さんに、そこまで言わせるとは。

「そして、とても穏やかに見えますが、実はかなりのSです」

 そう紹介された飛鳥井さんのおかげにより、僕たちの英語の点数は恐ろしいほど上がった。飛鳥井さんが言うには英語に苦手なんて概念はないのだそうだ。

「だって、毎日英語に接している国では五歳でもみんな英語をしゃべれるのよ。ということで、これからは英単語を毎日二十ほど覚えてきてもらいましょうか」


 僕の両親は、大学生に勉強をただで教えてもらえるなんてラッキーだと喜んだ。あまりにも喜びようが激しいので、吉田さんにただで教わってていいんでしょうかと思わず確認してしまった。すると、僕がスケートをすることで逆に自分たちも楽しませてもらう部分があるからいいのだと言ってくれた。

「あなたが貴重な体験をすればするほど、私たちにも貴重なものが回ってきますから」

 だから僕たちがスケートをやめることにならないように、リンクの横で練習の合間に勉強をみるくらい大したことではないのだそうだ。



 そして三月。やっと入試も終わり、僕たちは卒業式を迎えた。

 公立高校の合格発表は卒業式のあと。式に参加する生徒のほとんどは進路がまだ決まっていない。万一落ちていたらと考えると、僕もまだ大阪のリンクには戻れずにいた。

 式が終わり外に出ると、雨だか雪だか分からないものがちらちらと風に吹かれていた。みんな卒業証書とアルバムを抱え込むようにして胸に抱き、クラスごとに中庭に集まって、先生の最後の話を聞いた。解散になってもみんなそこにとどまって、アルバムにメッセージを書き込み合った。

 僕のアルバムに集まったメッセージは「高校に行ってもよろしく!!」だらけだった。小学校から仲良くしてる奴らはすぐ近くに住んでいたし、同じ高校を受験している奴も多かったからなんだけど、合格発表前なのによく不安もなくこんなことを書けるものだ。そんなことを考えながらも、僕も書くことが思いつかなかったのでみんなと同じメッセージを書いた。

 違う学校に行く流斗からも、「これからもよろしくね」と書かれていた。

 僕は流斗のアルバムへは何も書かなかった。


 友だちと一緒に写真を撮っているうちに、色々な部活の一、二年生が中庭に入ってきた。部活の仲間同士での撮影が始まったので、帰宅部の僕は帰ることにした。

 中庭を後にして、正門へと向かう。

 正門の横の物陰で向かい合ってる男女がいた。こんなところでよくやるよなーと思って見たら、果歩と流斗だった。僕は思わず近くの木陰に隠れてしまった。

 何を話しているんだろう?

 こういうのを見るのってよくない、そう思いながらもどうしても気になった。でも、こんなみんなの通る所で会ってるんだから、別に見たっていいよね。

 よし、見るぞ。そう思ったけど今度は見るのが怖い。何をやっているのか見るのが怖い。

 そっと耳を澄ますと、果歩の「全日本以来、なかなか会えなかったね」という声が聞こえた。


「あのあと忙しかったんだ。年明けにミニマムスコアを取りに行って、それから世界ジュニアのために仕上げもしなくちゃならなかったから」

 人が勉強している間に、どれだけスケートしてんだよ。恨めしい気持ちになったけど、話の内容が普通にスケートのことだったのにはほっとして、様子を覗き見ることにした。


「世界ジュニア、もうすぐだね。がんばってね」

「ありがとう。今日帰ったらすぐ出発だから、ここで話ができてよかったよ」

 ついに、世界ジュニアか。

 本当にそんな試合が世の中にはあるのだ。

 僕自身がそれに出る権利をかけて試合をしてたなんて、とても遠い、噓みたいな話に思えた。


「ネットで見て応援するね」

「うん……」

 流斗の声が、突然自信のないものに変わった。

「でも、無理して見ないでもいいよ。そんなに面白いものかどうかわからないし……」

 こんな態度は、流斗らしくない。世界という大きな舞台を前に、自分に自信が持てないのだろうか。それとも、未だに流斗はアイスダンスという競技に胸を張れないでいるのだろうか。


 そんな流斗に、果歩はとても華やいだトーンで言った。

「全日本見たけど、面白かったよ。また見たいな~って思った」

 それを聞いて僕は、ひやっとした。

「ありがとう。じゃあ次も、楽しんでもらえる演技を目指してくるよ」

 流斗は嬉しそうに笑った。


 ああ果歩。お前はなんてことを言ってくれたんだ……。


 その言葉はきっと流斗の力になる。

 僕たちの演技にはまだない何かが、いっそう磨かれていく予感がした。


「東京へはいつ行くの?」

「四月に入ってすぐかな」

「家族と離れても、元気に過ごせそう?」

「家族? うん、大丈夫だけど?」

 流斗はなんでそんな話が出てくるのだろうというような、不思議そうな顔をしていた。多分あいつは果歩の家のことを知らないんだ。

「そうなんだ。あの……こんなこと聞いてもいいのかわからないんだけど、もしかして蒼井君って家族と離れても平気なの?」

「平気だよ」

 流斗はさらっと答えた。果歩はすごくがっかりしたような顔をした。

「そう……」


「どうしたの? そんな顔して。家族なんて離れてても、つながってるものなんじゃないの?」

「え?」

「だから一人で遠くにいても、平気でがんばれるんでしょ?」

「そうなの? そういう考え方があるの?」

 果歩はとても興味深そうな顔をした。

「ないの?」

 流斗は、果歩に何を悩んでいるのかを尋ねるようにそう聞き返した。

「家族っていうのは、嬉しい時も悲しい時もそばにいて、一緒にご飯を食べて一緒の屋根の下に寝て、支え合わなくちゃいけないんじゃないの? 愛のある家族はそうしたいって思うのが、普通なんじゃないの?」

 果歩は自分の母親に対する何らかの答えを、きっといつも探しているんだと思った。やりたいことのために東京に行った母親のことを、応援してるといって日頃は平気な顔をしてるけれど、心の奥底では、家族と連絡も取ろうとしない母親のことをどこか疑い続けているのだろう。

「ああ……」

 果歩の言葉に流斗は何かを考え込んで、それから言った。

「そういう段階は確かに必要かもね。そうやって安心できる土台みたいなものができたら、そこから離れられる時が来るのかもね」

 その言葉に果歩は「そっか、そうなのか」と静かにうなずいた。それから納得したように、嬉しそうに笑っていた。


 その顔は、僕の中では、新幹線の中で見なくちゃいけないものだった。

 東京からの帰り道、僕が流斗のような言葉を言えていたら。

 流斗はどうしてこんなにも果歩が欲しがっている言葉が簡単に分かってしまうんだろう。流斗は果歩のことなんてほとんど知らないはずなのに。今の言葉だって、絶対果歩の事情を知っててかけた言葉じゃない。多分あれは、あいつとあいつの母親がたどってきた話をしただけだ。いつもいつも、意図せずして果歩とどこか似たような悩みを持っているなんて。なんか、ずるいよ。


 正門まで行くと、流斗は振り返って果歩に手を振った。

「いつでも君はあのリンクにいるんでしょ? 僕は実家はこっちだし、スケートをしていればまた会えると思うから、だからこれからもよろしくね!」

 その手には卒業証書を入れた筒が握られていた。

「うん! またメールするね!」


 去り際に、突然流斗が卒業証書の筒でこちらの方を指さした。

「そこで隠れてる人も、これで終わりと思うなよ」

 果歩がはっとしたように僕の方を振り返った。

「何してるの?」

 思いっきり変な目つきでこっちを見る。

「えーと……」

 見つかってしまった。というか、流斗はいつから僕の存在に気がついていたんだろう。

 なんと言ってごまかせばいいものか。


「そっちこそ何してたんだよ!」

 こんな感じで適当にごまかせないものだろうか。

「聞いてたんじゃないの?」

 果歩はいぶかしげに僕を見てたけど、しばらくして「今日でしばらく会えなくなると思ったから、少し話をしただけよ」と言ってくれた。

「それだけだから。だからもうほっといて!」

 果歩は語気を強めてそう言った。急に突き放された感じにびっくりしていると、まわりで人が動く気配がした。僕以外にも何人もがこの様子を見ていたらしい。

 みんないったい何やってんだよ。人のこと言えないけど。


「さて、じゃあもう帰ろうか。制覇に言いたいことは特に何もないからね」

 まわりから人の気配がなくなると果歩はつんとして僕に言った。


「だって私たち、これからもずっと一緒でしょ」

 そしてにっこり笑った。

 冷たい春風の中に、ほんの少しの温かさを感じた。


 翌日。

 公立高校の入試結果が発表された。

 僕は無事、北山高校に合格した。


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