対決(3)

 ジュニア女子の最後のグループが一つ残っていたけれど、僕たちは時間の都合で帰ることになった。

 来た時よりも荷物がずっと重かった。

 陽向さんの母親が、疲れただろうからお弁当を買ってあげると言ってくれた。僕はありがとうございますと答えた。南場さんは、お金は持って来てるので大丈夫ですと言った。僕は自分が随分間の抜けた返事をしてしまったことを恥ずかしく思った。


「最後の試合で十四位が取れてよかったよ。これ、最高記録」

 隣を歩く南場さんが小さな声で言った。寂しいような、明るいような、不思議な声だった。

「俺はもう大学生だしね。スケートで生活していけるほど上手くもないし、そろそろ趣味程度にしとかないとって。シニアをいつまでも無駄に目指すのもね」


 会場を出ると外はもう日が暮れていた。夜明け前からずっと会場にいた長い一日。太陽を見なかったその日は長かったのに、まるで失われてしまったかのような気がした。少し雨が降っていた。僕たちは立ち止まって、荷物から傘を出した。

「お前はまだ――これからだな」

 南場さんは傘を開くと、そう残して僕から離れていった。


「日が暮れるとこの季節はもうすっかり寒いわね」

 先生は鞄から、傘と一緒に手袋を取り出した。

 開いた傘の向こうに通りまでをつなぐ広場が見える。暗い中、そこにたたずんでいる一人の人影に目が留まった。雨の中、何をするでもなくただ立ちつくすその人物が、果歩だと気がつくのにそう時間はかからなかった。

 どうしたんだろう。

 みんなが歩き始めた。僕も行かなくては。でも、そこを離れられなかった。僕がぐずぐずしていることに気づいた陽向さんが、こちらをじっと振り返った。

「すみません。僕ちょっと、別に帰ります」


 果歩はリンクから出てくる人や、通りを行き来する人にゆっくりと目をやっていた。誰かを探しているみたいだった。肩と髪がうっすらと濡れていた。僕は果歩に近寄ると傘を差しかけた。

「果歩」

「制覇! ねえ、ママ見なかった?」

「おばさん? なんで? あ……」

 果歩の母親は、一人東京に出てきている。ここで会っていたのだろうか。

「さっきいたんだよ、観客席に」

「観客席に?」

「でも、いつの間にかいなくなってて。慌てて追いかけてきたんだけど」

 どうしよう。一緒に探してやった方がいいのかな。でも……

「果歩、そろそろ帰らないと新幹線が……」

「でも、ママがいたんだよ?」

 一瞬考えて、僕は果歩に傘を預けて代わりにスマホを借りた。

「おばさんの連絡先は?」

「……知らない」

 それを聞いて、僕は大急ぎで番号を押した。

「あ、おじさん? 僕。ねえ、おばさんの電話番号、教えてよ」

 僕は果歩の家に電話をかけた。


「あれ? 制覇君? あのさあ、果歩には早く帰ってくるように言っておいたんだけど、まだそこ東京だよねえ? これだから遠くには行くなって言ってるのに。まったく」

「そんなことはいいから、おばさんの電話番号教えてください」

 横から果歩が割り込んだ。

「制覇! なんでママの番号なんかがいるの?」

「やみくもに探すより直接電話した方が早いから」

「やめてよ、電話なんてするの」

「なんでだよ」

 果歩は僕からスマホを取り上げようとしてきた。果歩ともみ合いながら、とにかく早く番号をよこせと僕はおじさんをせっついた。


 電話を切ると、僕は果歩に向き直って言った。

「今日中に帰ろうと思ったら、あんまり探すのにかけられる時間がないんだよ。今ならまだ近くにいるかもしれないんだから、とにかく電話させてくれよ」

 さっきいなくなったんだとして、駅まで移動されてしまったら探すのも追いかけるのも大変になってしまう。

 それだけ説明すると、僕はおばさんの番号を押した。果歩は心配そうにこっちを見ている。電話がつながると向こうから陽気な声がした。

「はい、もしもし。あれ? 制覇?」

 果歩の番号から僕がかけていることに気がついて、少し驚いたようだった。

「今日はお疲れさま~。かっこよかったよー。って、実は制覇とは小学校の時以来会ってないから、どれが制覇かよく分かんなかったんだけど~。成長しすぎてて。ごめーん!」

 しゃべり方が果歩とまったく同じだ。そして内容の馬鹿さもそっくりだ。

「おばさん、今どこにいるんですか?」

「今ー? さあ、どこかなー。あ、会社見えた。会社の前だったみたいー。じゃあ、もう仕事あるから電話切るねー。バイバーイ」

「あ! ねえ、ちょっと!」


 そして電話はあっさり切られた。何か一言くらいしゃべりたいから果歩に代わってとか、そういうことはないんだろうか。

「そういう人なのよ」

 果歩はぽつんとそう言った。


 折り畳み傘は二人で入るには小さくて、近くの駅に着くころには二人とも半身びしょびしょになっていた。タオルは持っていたけれど、ホテルで使ってくしゃくしゃのまま鞄に入れていたから、それを出してやるわけにもいかなかった。果歩も何も持っていなかったのか、びしょびしょのままホームに立っていた。暗いし、寒いし、おばさんには会えなかったし、僕は今にも果歩が泣き出すんじゃないかとびくびくしていた。

 どの電車に乗ったらいいのか分からないまま、行き当たりばったりで東京駅について、たまたま止まっていた新幹線に乗り込んだ。新幹線の中はいていて、僕たちは入り口近くの三人掛けの席に座ることにした。果歩は上着を脱ぐと通路側の席において、窓際まで寄った。僕は果歩の隣に座った。僕は遠慮がちに端の方に腰を下ろしたのに、果歩はシートに深々と座った。ビロードのような手触りのシートに、果歩は安心したように背中をもたせかけた。


「よく傘なんて持ってたね」

 果歩はこちらをみてうっすらと笑った。寒かったせいか、唇の色がとても薄かった。

 傘がどれほどの役に立っただろう。果歩の髪は半分サラサラだったけど半分濡れていて、そのアンバランスな感じが、なんだか雨に打たれたみじめな猫みたいだった。

 胸が締めつけられるようだった。こいつには僕がいてやらなきゃ駄目なんじゃないだろうか。

「泊りだったから、念のため持って来てたんだ」

 僕が傘を持っていたのは、陽向さんが用意しておいた方がいいと教えてくれていたからだった。でもそれは言わなかった。


 車内にアナウンスが流れ、外の景色が動き出した。

「あのさあ、心配してるかもしれないけど、私、全然元気だから。ママはやりたいことにハマっちゃう人だから、あんなものよ」

 果歩が言うには、おばさんは出て行ったっきり盆にも正月にも帰ってこないらしい。電話もかかってこないし、メールも送ってくるのはほんとに食べ物の写メだけ。

 そんな調子だから別に何にも気にしてないのと果歩は言った。でも僕は、西日本の帰りに聞いた「東京って所には一度行ってみたいと思ってた」という果歩の言葉を思い出していた。果歩はおばさんを求めていたんだと思うし、おばさんだって僕なんかを見に今日リンクに現れたわけじゃきっとない。果歩が来ることをあらかじめ知っていたに違いないのだ。

 相手から連絡がなくても自分から連絡すればいいんじゃないかなと、僕は言った。だけど果歩は、別に言いたいことなんてないしね、と言った。きっとママだって私にしゃべりたいことなんてないと思うよ、とも続けた。

 でも、会いたいんだったら会いたいとメールすればいいじゃないか。そうすればたまには帰ってきてくれるだろう。

「それで忙しいって返事が返ってきたら、私はどうしたらいいのかな」


 クラスの奴らをリンクに誘う時の果歩の積極さが頭に浮かぶ。あの積極さで母親に迫ることはできないんだろうか。果歩はここぞという時に臆病なのかもしれない。


 窓の外に、明かりの灯ったビルがたくさん見えた。雨が降って寂しい景色だったけど、きれいだった。窓に雨が当たっては、すっと軌跡を残して後ろに流れていった。

「向こうが食べ物の写メを送ってくるんなら、こっちからも送ってみれば?」

 深刻になりすぎないように気をつけながら、気楽な調子でそんなことを言ってみた。

「食べ物の写真なんて、何の役にも立たないじゃない。どうせ食べられるわけじゃないんだし」

 果歩は気乗りしない調子で僕の話を聞いていた。


 少し経った頃、後ろの扉が開いて車内販売が回ってきた。果歩はぱっと後ろを向いた。

「ねえねえ、お腹空いてない? あのお姉さんから何か買おうよ」

 思いついたようにそう誘う果歩の声は、少し明るかった。

 連れ帰った捨て猫が元気を取り戻していく姿に、こちらが逆に満たされるような気がした。

 果歩は売り子を呼び止めるために張り切って立ち上がった。その時、ちょうど他の席の客が売り子を呼び止めた。果歩の目がその客へと向けられた。

「あ。今日はおめでとう」

 果歩の口からそんな言葉が漏れた。

 僕もその客の方を向いた。三人の目が合った。心臓が一瞬止まった。こんな所で会うなんて、不意打ちだ。僕はどんな顔をしたらいいんだろう。

 固まっていると、相手はこちらに向かって言った。

「一緒に帰ってるんだ。悪いとこ見ちゃった?」

 その言葉に、果歩は大きく首を振った。

「ううん。そんなことない、蒼井君。ここで会えてよかった」

 そして果歩は、とんでもなく嬉しそうな顔をした。

「ねえ、こっちの席に移らない?」

 果歩がそう誘いかけた。

 こいつには僕がいないとだなんて、勘違いもいいとこなのかもしれない。こいつは誰に対してもこんな態度なのかもしれない。


 流斗は僕の方を見て嬉しそうに言った。

「いいの?」

 よくねーよ。

 そう思ったけど、果歩は「むしろお願い」と答え、その上さらにこう言ったのだ。

「制覇。ちょっと悪いんだけど、席、隣に移ってくれる?」

「え?」

 車内販売の人から弁当を受け取ると、僕は端の席にずらされた。

 果歩は手招きして流斗を自分の隣の席に迎えた。そしてどこからか英語のプリントを出した。

「ごめん。宿題ができてなくて、どうしようかと思ってたの。教えてくれない?」

 なんだ。そんなことか。

「いいよ。こんな宿題出てたんだ?」

 僕と流斗は果歩のプリントをのぞき込んだ。

「これって、確かこの前のテストで二十五点取れなかった奴だけに渡されたやつじゃ……」

 僕の問いに果歩は顔を手で覆った。

「英語は無理なのよ、英語は!」

 僕でもそのボーダーの倍は取れているのだけれど。こいつ、大丈夫だろうか。

 流斗は僕の方を見て、「君はもらってないの?」と馬鹿にしたように言った。

「意外だな。常葉木ときわぎさんの方が、君より優秀そうなのに」

「うるさい!」


 来年こそ、絶対お前に勝ってやる。僕は新たな決意を固めたのだった。


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