ごめんね。そして、それから(2)【最終話】

 戸惑っている僕より先に、果歩が口を開いた。

「――と、制覇を責めても仕方がないよね。制覇と蒼井君の手をつながせてしまったのは私だもん」

 果歩は話を続けた。


「でもまさか、蒼井君があそこまで上手いとは知らなかった。あんな一発で制覇をアイスダンスの世界にきいれてしまうとは思わなかったわ」

 いやいや、違うよ。別に惹きいれられたわけじゃないよ……。

「人は夢を見られないような場所からは去って行ってしまうもの。無理に引き止めることはできないよね。だから私は、制覇を呼び戻すには、モミの木を制覇にとって夢を感じられる場所にしなくちゃって思ったの」


 果歩は理子さんに、「すそ野」という言葉を使うからにはそこから上に続く山はあるんでしょうねと詰め寄ったのだそうだ。

 最初のうち理子さんは、それはモミの木ではないところにあると答えていたらしい。モミの木は愛好家のための場所であって、選手を育てるための場所ではないのだからと。


 それに対して果歩は、山を持たないすそ野だなんてやっぱりつまらないですよと言ったのだそうだ。人って一歩先の目標にわくわくするものだし、それを達成した時に喜びを感じるものですよねと。何かが楽しくて止められないのって、そういう身近な目標がどんどん先へと続いている時じゃないですかと。それは選手を目指している人だけじゃなくて、ただ遊んでいるように見える人たちだって同じはずでしょうと。それなのにここには登るべき大きな山がないなんて。少し登ったらすぐに行き止まりだなんて。そんなのつまらないじゃないですか、と。


 そんなことを二人で色々話し合ったらしい。果歩と理子さんはいつもそうやって夢をシンクロさせてきたのだ。

「そして、どうやったら初心者も気楽に楽しめるというモミの木らしさを失わずに上へとつながる道を作ることができるのか、一緒に探していこうってことになったの。

 私は自分が上手くなって、制覇にもここでも十分夢が見れるってところを見せなきゃと思った。だから、知り合いの貸し切りに入れてもらったり、バッジテストを開いてもらったりしたのよ」

 貸し切り……?

 バッジテスト……?

 それらの話をされたのは一体いつ頃だっただろうかと僕は記憶を手繰り寄せた。それは随分前のことのように思われた。


「お前はいつから、僕がダンス始めたことを知っていたんだ?」

「随分前からだよ。多分……制覇がダンスを始めた直後からじゃないかな」

 ひそかに上達したいと願っていた僕の思いは、最初から無駄だったということが判明した。

「理子先生から全部聞いてたし」

 あいつか……!


「でも、何をやっても制覇はちっとも帰ってきてくれそうになかった。やっぱり制覇はどこかの先生につく方がいいんだとか、私と勝負するよりも蒼井君と勝負することを選んだんだとか、そういう風に考えて眠れない夜もあった」


 果歩の笑顔は、妙に静かだった。僕たちはいつのまにか歩くのをやめていた。


「どう誘えばいいのか、私に何ができるのか、考えて考えて。でも、何も上手くいくような気がしなくて。そうするうちに、誘っても応えてくれない人を誘い続けるのも辛くなって、スケジュールなんかも渡せなくなってしまった……」


 僕たちは小道の真ん中で、向かい合ったまま立ち尽くした。


「そんなある日、蒼井君が言ってくれたのよ。スケーターを引き寄せるのに特別な努力は必要ないんだって。スケーターにとって氷はそこにあるだけでありがたいものなんだって。だから私……」


 そう言って僕を見た果歩は、すでに悩みからは解放されたのだという顔をしていた。


「待ってた」


 小さくて軽やかな雪がふわりと空から舞い降りてきた。果歩の髪にとまったそれはすぐにはらりと溶けていった。

 大きいとばかり思っていた果歩は、いつの間にか僕とそう変わらなくなっていた。そして思っていたよりもずっと繊細ではかなげなことに気がついた。


「ごめん。泣かすつもりじゃなかった――」


 そう言ったのは僕ではなく、果歩だった。

「わ! うわっ! いつの間にっ!」

 自分でも気がつかないうちに、僕の頬を涙が一筋伝っていた。

 僕は焦って袖口で涙をぬぐった。通りがかった同級生が「常葉木ときわぎが制覇のこと泣かせてる」とからかった。果歩はそいつらを蹴散けちらした。


 宙を舞う雪が少しずつ増えていく。

 そばを通る小学生たちが、楽しげに笑いながら走り始めた。

 その子どもたちにも負けない笑顔で、果歩が僕に言った。


「また滑りに来てよ! 制覇の滑りたい時だけで構わないから」


 ちらつく雪の中、果歩は「ただこれが言いたかっただけなの。余計な話が長くなってごめんね」と言った。

 そして僕の顔を覗きこむとあきれたようにつぶやいた。

「やだ、まだ泣いてる」



 クリスマスも間近な休日。そこにある巨大なモミの木はオーナメントで綺麗に飾り付けられていた。

 広くて明るい館内には楽しげな声がこだましていた。二面あるリンクはどちらも賑やかにごった返している。賑やかなのはリンクだけではなかった。リンクを見下ろす階段状のベンチにもたくさんの笑顔があった。たまにそこからリンクに向かって手を振っている人もいた。


 数日前、僕は無事バッジテストに合格することができた。先生は良くやったわねと優しく声をかけてくれた。続けて、「あなたくらいの滑走力があれば、アイスダンスとして成立していなくても通るのよね。あの級は」と相変わらず厳しいことも言ってくれた。でも、嫌な気はしなかった。それどころかこれから先もこの人と一緒に進もうと思った。テストに合格したからといってまだまだこれからだということは自分でも分かっていたし、何よりもその後に先生が「頑張りましょうね」と言ったその口調が、ああこの人も僕たちと一緒に夢を追っている最中さなかなのだと感じさせてくれたからだ。

 もっともっと上手くなろう――。

 僕はモミの木を見上げた。僕が初めて来た時に見たのと同じ姿だ。中二になってもまだ胸が躍った。僕がこの姿を見るのは二回目だ。昨年は見ることができなかった。僕が理子さんに腹を立てていたからだ。多分――いやきっと、果歩はあの時も理子さんと話し合ってくれていたに違いない。ここ数日、僕はそんな気がしてならなかった。


 子ども用のヘルメットを不器用そうにいくつも抱えた理子さんが、リンクサイドをふらちょろと歩いていた。僕に気がつくと近寄ってきて、「あら制覇君。彼女へのクリスマスプレゼントはもう買った?」といきなり訳の分からない営業をかけてきた。今ショッピングセンター内でクリスマスプレゼントを買うと、金額に応じて滑走料を安くしてくれるのだという。

「ちなみに私は彼氏募集中なので、プレゼントはいつでも受けつけてるよ」

 理子さんは自分から言っておきながら自分でショックを受けたようで「でもプレゼントはもういーわ。毎年大量にもらうけど、肝心の彼氏は全然できそうにないし」と、来た時よりもふらふらした足取りで去っていった。


 理子さんの後ろ姿を目で追った僕は、リンクの中にダンスの練習しているおばさんを見つけた。僕の受けたバッジテストと同じステップを、一人ぎこちない足取りで滑っている。

「このリンクにも、あんな人いたんだ」

 僕は思わず笑ってしまった。

 別に馬鹿にしたわけじゃない。

 嬉しかったのだ。

 その時――


「制覇ー!」

 僕を見つけた果歩が、エッジケースをかちゃかちゃと鳴らしながら駆け寄ってきた。ストレートタイプのジャージの上に、バッジテストの時に着ていたウィンドブレーカーを身につけている。

「どうしたの? 滑るの?」

 果歩は高ぶった声でそう言った。

 僕は混雑したリンクを指差しながら言った。

「いや、これはどう見ても無理でしょ。向こうのリンクもこの時期一般営業はかなり厳しいからさ、念のためこっちも見に寄ったんだけど。やっぱ、どこも同じだね」

 本当のことを言ってしまってから戸惑った。こんなことを口にして、大丈夫だっただろうか。


 あれから数日。

 僕は果歩を悲しませるようなことをしてしまったことを後悔していた。

 そしてなぜかそれだけでなく、果歩を励ましたのが流斗だったという悔しさにも悩まされていた。

 僕だって果歩を傷つける側じゃなくて支える側になりたかった。

 だけど以前の僕は、スケーターの心なんて何も理解していなかった。それにひきかえ流斗は、果歩と出会ったその瞬間からだって、スケートという競技の持つ悲しみを分かち合うことができたに違いない。

 僕だってあの頃よりずっとスケートに打ち込んでいる今なら、もっと果歩の気持ちに寄り添えるようになっていると思うのだけれど。


「贅沢だなあ。私なんかこのくらいの隙間、縫って滑れるよ」

 リンクを見つめながらそう言った果歩は、怒ったふうでもなければ傷ついたふうでもなかった。

「あのさ……」

 言葉を選びながら、僕は続けた。

「今日は滑らないけど、だけどまたそのうち必ず滑りに来るよ。遠くに行くよりもここに来た方が効率がいい時もあると思うから。自分が上手くなるにはどっちを使った方が得かって考えて、リンクを使い分けていこうと思うんだ。だからまた来る。そんなんで、いいかな……?」

 うかがうように聞く僕に、果歩は明るく答えた。

「どうしてそんなこと私に聞くの? 制覇の役に立てることを、きっとこのリンクも喜んでるよ」

 意志の強そうな目を輝かせながら、果歩は僕に向かってにっこりした。


 僕は思った。

 果歩はバカなことを言っている。リンクに感情なんてあるわけがない。喜んでるのはお前だろ。僕にまた来いって言ったのはお前だろ……。


「あ、制覇。ちょっと待ってて。この前、理子先生が曜日や時間帯別に混み具合を分析してたから、そのデータ見てきてあげる。すいてるところがあったら教えてあげるから」

 そう言うと果歩は事務室へ向かって駆け出した。その果歩の後ろ姿に、僕はどうしても問いかけずにはいられなかった。


「果歩! どうしてお前は、そんなに一生懸命なんだ!?」

 どうしてそんなに、いつもいつも一生懸命になってくれるんだ……!


 振り返った果歩は、笑顔で僕に叫んだ。


「それはね、私がこのリンクを、世界で一番夢のあるリンクにしたいと思っているからよ!」


 それが僕の求めていた答えだったのかは、自分でもよく分からなかった。

 だけど、その聞きなれた言葉をまた間近で聞ける場所に戻ってこれたことが、僕は最高に嬉しかった。




 世間が一年を振り返り始めたころ、いくつかの国際大会や全日本大会がテレビで放送された。そこで流された映像は男女シングルのみ。アイスダンスは数十秒のダイジェストが映されただけだった。




――――――――――

※2000年頃、日本各地でスケートリンクが相次いで閉鎖されるという事実がありました。

※作中のアイスダンスのルールは2012年からのものに基づいています。

※この物語はフィクションです。もし同一の名称があった場合も、実在する人物、団体等とは一切関係ありません。

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