九. ごめんね。そして、それから。

 ごめんね。そして、それから(1)

「どうしてお前まで乗ってくるんだよ」

 走り出した車の中、隣に座っている果歩に声を抑えて問いかけた。

「だってパパには悪いけど、うちの車痛すぎて学校に近寄られるの恥ずかしいんだもん」

 果歩はあはっという感じで笑った。

「普通の車って、最高だね~! 中もきれいに片付いてるし、なんだか気持ちいいよね~!」


 そう言って果歩は人の車にめちゃめちゃくつろいで乗っていた。

 流斗の家の車は、確かに果歩の家の車のように異常な車ではなかった。見た目なんかは至って普通、典型的過ぎてむしろ最近あまり流行らない、いかにも車という感じの車だった。だけど普通の車って、中がこんなに広いだろうか。それにシートがつるっとしていてピシッとしていて、僕にはとても落ち着いて座ってなんかいられない。

 多分これ、フツーの車じゃないよ?


 流斗は助手席から軽く振り返って

「そう? 良かった」

 とにこやかに果歩に向かって笑いかけた。

 何で僕、この空間に居なくちゃならないわけ? めちゃめちゃ気まずいんですけど?

 僕は二人から目をそらして顔を窓の方へ向けた。葉の落ちた街路樹がずっと遠くの方まで並んでいた。列を作る対向車たちが、寒さで身を縮めているように見えた。


 隣から果歩の無邪気な声がした。

「制覇。私のトリプル見た?」

「見てない」

「え~!? がくり。ちゃんと見ててよ。トリプルルッツまで跳んだのに!」

「ふうん」

 そう素っ気なく答えたら怒られた。

「なわけないでしょ、ばか。常識で考えてよ」


 トリプルルッツというのは、あの有名なトリプルアクセルの次に難易度が高い技だ。実際どれほど難しいのかは知らないけれど、常識的に考えてそう簡単に跳べるわけがないことくらいすぐに分かることだった。そんなものが跳べたというのは、果歩の冗談だった。

 しかしそれは冗談としても、果歩はこの三ヶ月程度の短い間に三~四種類のジャンプを増やし、ルッツとは言わないまでも本当にトリプルに突入したらしかった。


「ってことは――ダブルアクセルもおりたわけ?」

 ダブルアクセルは、かつて僕と果歩のわりと身近な目標だった。僕たちにとってはかなりハードルが高かったけれど、いつか跳べるようになりたいと思っていた技だった。

「そうだよ。すごいでしょ」

 果歩は得意げにそう言った。そして僕の様子をうかがうように、黙った。


 ダンスと同じくらいの労力をかけさえすれば、ダブルアクセルなんてすぐにでも跳べそうな気がした。だけど僕はそれを言葉にはしなかった。もう果歩なんかを追いかけるのは、僕には意味のないことだった。僕はもう果歩とは別々の道を進み始めたのだから。


 何も答えずにいると、果歩はこの調子で五級、六級と進むのだと意気込んだ。

 そして言った。

「ステップも蒼井君に教えてもらってるからね。ジャッジにほめられるレベル。余裕~」

 僕は窓の方に顔を向けたままでいた。前回のバッジテストで果歩のステップが異常に上手かったのは、やっぱりそういうことだったのかと思った。

「ふーん。そうなんだ」

 どうということのない会話のはずだった。それなのに、上手く笑顔を作れている自信がなかった。


「教えるって言っても、手とかつないでないから」

 面白そうな目で僕を見て、笑いかけてくる流斗の姿が窓に映った。

 それ、わざわざ言う必要ある?

「つながせてくれたら、もっと上手くしてあげられるんだけどね」

 何で人前で平気でそういうこと言えるわけ? 意味が分かんないよ。

「え? 何? 何? どういうこと!?」

 果歩も無邪気に身を乗り出す。

 何でこのラブラブした空間にいなきゃなんないのか。こんなことなら無理にでも振り切って走って行けば良かったと後悔し始めた時だった。


 流斗が突然、

かえで

 と言った。

 楓? もみじがどうかした?

「ここでいいや。止めて」


 僕たちは車を降りた。流斗はドアを閉める前に、助手席から運転席の母親に

「今日はもう靴使わないから、うちに持って上がっておいてくれる?」

 と穏やかな口調で頼んでいた。楓というのは彼女の名前なのだろう。

「あれ、ほんとに流斗の母親なの?」

 声を殺して果歩に尋ねると

「そうなんじゃない? そう言ってたし」

 と、何も考えてなさそうな返事が返ってきた。


 靴を彼女に預けた流斗は「ありがとう。よろしくね」と優しく言うと、ドアを閉め、身軽な姿で車を見送った。

 ふと隣を見ると、果歩も身軽な姿だった。通学用の鞄だけで、スケート靴もスポーツバッグも持っていない。

「あれ? お前、荷物は?」

「ロッカーに置いて来た」

「ずるいっ」

「だって邪魔だもん。どうせ夕方にはまた行くんだし。さ、行こっか」

 そう言って果歩は歩きだした。


「あれ? ここ……」

 僕は自分のいる場所が、学校の前ではないことに気がついた。どことなく見覚えのある人通りの少ない小道。遠くに見える制服はうちの学校のものに間違いない。落ち着いた小さな家が建ち並ぶその道を歩きはじめると、目の前の家から小学生が現れて、僕たちとは反対の方向へ駆けていった。辺りを見渡す。どうやら中学校から少し離れた脇道にいるらしい。

 この道をまっすぐ行くと出るみんなの使っている大きな通学路というと……。


「どうしたの?」

 そう言って振り返る通学姿の果歩と流斗。その姿は幾度となく目にしたことのある姿で……。

 しかも何だ? この感覚は?

 僕は自分たちの間に漂っている空気が、かつてどこかで味わったことのあるものと同じだということに気がついた。


 そうだ。駅伝の朝練の後だ。一緒に練習した仲間とそのままつるんで移動する時の、「お疲れ~」と言い合っているような空気感。一緒にいる相手は男だろうが女だろうが、一人だろうが数人だろうが、同じ。なぜあの感覚を今まで忘れていたのだろう。よく思い起こしてみると、車の中の空気もこれと変わらないものじゃなかったか。と、いうことは……。

 こいつら……。単に貸し切りの後だから、一緒に学校に来ていただけなのでは……?


「やっと気づいた?」

 そう言うと流斗は腹を抱えて大笑いした。

「面白い奴」

 僕を見ながらそう笑う。

 なんでそんなに笑われなくちゃならないんだよ。お前は僕の考えてることが分かるのか?

「君、考えてること、全部顔に出てるから」

「な……」

 僕が動揺していると、流斗は一人学校目指して走り出した。

「今日のところは二人で行ったら? じゃあね!」

 そう言って一瞬振り返って手を振ると、流斗の姿はすぐに見えなくなった。僕は思わずため息をついた。

 何なんだ、あいつ……。

 なんだかどっと疲れが出た。


「もっと早く、教えてくれればよかったのに……」

 誰にともなくそうつぶやくと果歩が言った。

「何のこと? 貸し切りのことだったら、前に教えてあげたじゃない? 日程も」

 そうだった。だけど二人が別々の目的で貸し切りに出ているなんて思いもよらなかった。

「なのにちっとも来てくれないし、その上アイスダンスやってることも教えてくれなかったよね!」

 果歩はそう言うとふくれてみせた。


「なんか怒ってる?」

 うかがうように尋ねると、

「怒ってたよ」

 と果歩は言った。

「でも、もう怒ってない」

 そう言うと僕の方を見て、にこっと笑った。

「また滑りに来てくれるでしょ!?」


 果歩は僕の方を向いたまま、後ろ向きで学校の方に進み始めた。そして突然くるっと一回転すると、僕に尋ねた。

「……私が前に使っていたリンクが無くなったのは知ってるよね?」

 僕はうなずいた。

 それが、どうかしたのだろうか。

「随分前からリンクが危ないっていう話はあったみたいなんだけど、私はリンクが無くなる直前までそんな話があるなんてこと知らなかったんだ」

 だろうね。

 いかにもマイペースな果歩らしかった。


「リンクが無くなる間際になって初めて私が聞いたのは、リンクが潰れてしまうのは新しいリンクが近くに建つせいだっていう噂だったの。そしてリンクが潰れた途端、本当に入れ替わるようにしてモミの木が建った――ショックだったなあ。モミの木のせいで私のリンクがこの世からなくなってしまったんだと思うと、モミの木を恨まずにはいられなかった」

 恨むだなどという言葉が果歩の口から出たことに僕は驚いた。果歩がそんな後ろ向きな感情を持つということ自体、まず意外だった。それも彼女の大好きなモミの木に対して。


「自分が滑れなくなるなんてことは、その時の私にとってはどうでもいいことだったの。別に選手も目指してなかったし、スケートなんてほとんど遊びみたいなものだったから。そんなことより私の心にとっては、私のリンクが無くなってしまうということの方がはるかに大問題だったのよ。だからせっかく近くにリンクができても、私は絶対モミの木なんかに行くもんかって誓ったの。どれだけ滑りたくなったとしても絶対にって。私はどうしてもモミの木が許せなかった。

 それなのにある時、ママに無理やりモミの木に連れて行かれたんだ。仕事の関係で出入りがあったらしくて、いいリンクだからって。そして理子先生に会った。ママは私を滑らせたかったんじゃなくて、理子先生に会わせたかったみたい。理子先生はね、私の敵じゃなかった。むしろ、味方だった」


 果歩の過去を知っていながら、僕はそこに思いをせたことはなかった。同じ過去を持っている果歩と理子さんの間には、僕が思っている以上の何かがあるのだと僕は初めて思い至った。

「……良かったな」

 そう口を突いて出た言葉に、果歩は言った。

「それが……良くなかったの」


 十二月の空は低かった。鼠色ねずみいろの雲が空一面に広がり、町は色彩を失っていた。

 果歩の話は静かに続いた。

「私はその日からモミの木に遊びに行くようになった。だけど、一緒にスケートを習っていた子たちは、みんないなくなっていたの。熱心な子たちは遠くてもインストラクターと一緒に他のリンクに移っていたし、そうじゃない子たちはスケートをやめてしまっていた。知ってる子は誰も……モミの木には来なかった。私みたいにただ滑っていれば楽しいって子はいなかったみたい。結局、先生もいないしジャンプも自由に飛べない、そんなリンク、経験者からしてみると中途半端なんだろうね」


 代りができたからといって、失った全てを取り戻せるわけではもちろんなかった。

 理子さんとリンクで過ごすうちに、果歩は以前のスケート仲間にこだわることをやめ、スケートを遊びとして楽しみに来てくれる友達を増やすことに気持ちを切り替えていったのだという。


 果歩のホームリンクが潰れたのは決してモミの木のせいではなかった。

 最近少しずつ人気が上がって来ているものの、スケートはメジャーなスポーツではない。維持費も大きいため、スケート場の経営は先が見えないのだそうだ。いつも人が大勢いるモミの木ですらそうなのだという。果歩の昔のリンクは、モミの木なんかよりずっと客が少なかったのだそうだ。理子さんは、スケート場を潰さないためには、スケートにうち込んでいる一部の特殊な人たちのことだけを考えているようではだめなのだと説いたらしい。選手を目指している人から見たら中途半端なリンクであっても、町中から愛されるリンクになることの方が大切なのだと言われ続けているうちに、果歩は理子さんのすそ野を広げるという考えに感化されていったのだそうだ。


 そして、二度とリンクを失いたくないという気持ちから、果歩は友達をリンクに誘うようになった。


 僕がモミの木に行くようになってから二年。近くにいながら僕はそんな果歩の心の内に全く気がつかなかった。二年間の僕の思い出の中、果歩はずっと笑い続けていた。


「だから私は、蒼井君には何も期待していなかったのよ。どうせ経験者はモミの木なんかに長居するわけないって思ってたから。あの時と同じ思いをしないためにも、深く関わるのはよそうって思ってた。なのに……なのにどうして、制覇がいなくなっちゃったの……!?」


 ――――――!!


 その言葉に僕は貫かれた。

 そこには果歩の叫びが込められているような気がした。


「ご……」


 言わなくてはならないと思っている言葉は、簡単には出てこなかった。



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