世話が焼けるストラトスと私
荒木一秀
出会い
小学校五年生の夏休み、私は一人で祖母の故郷の村に泊まりがけで遊びに出かけた。村は電車の駅からバスで一時間ほどの山岳地帯に位置し、林業と養蚕業で成り立っている土地であった。村は中心部を通る道を挟んで両側に家々が配置されており、ひときわ大きな茅葺き屋根の家が祖母の実家であった。
当時、祖母の実家には誰も住んでおらず、村人の集会場として使用されていた。私がこの村を訪ねるのは初めてであったが、村の人々は皆私のことは知っていた。
私はショーイチさんの家に泊めてもらうことになった。ショーイチさんは四十歳くらいで、短髪で大きくて筋肉質の体つきだが、どことなく気が弱そうでぶっきらぼうな印象だった。
ショーイチさんの家の広い庭には修理を待つ外車や、カバーで覆われている車が数台置いてあった。どの外車も当時流行したスーパーカーの類で、それを見た私は狂喜乱舞しながら修理を待つ車の運転席に座らせてもらった。また庭の端にある納屋は車の修理ができるように改造されており、様々な工具類が所狭しと並べられていた。ショーイチさんは運転席に座る私に色々と車の説明をしてくれた。
奥さんの話によれば、ショーイチさんはとにかく車は一回分解しないと気が済まないらしく、新品で買った車でさえエンジンはおろかドアも内装も自分で分解して組み立て直してから慣らし運転を始める有様だった。
そしていつの間にか趣味であった車整備の腕が一部の車マニアの評判になり、調子が悪くなった外国車のオーナーが遠路はるばるこの村まで来てショーイチさんに修理や整備を依頼するようになった。
ただショーイチさんは商売気がほとんど無く、その辺の国産車と同じ料金で修理や整備を請け負うものだから余計に次から次へと依頼が舞い込み、本業である林業がおろそかになって奥さんに怒られていたらしい。
私がショーイチさんの家に到着すると入れ替わり立ち替わり村人が訪ねて来て――これがオオババのところの孫か――などと言いながら私の頭をなでて帰っていった。一通り村人に挨拶したあと私は村の探検を始めた。特に牛糞と藁などを混ぜて発酵させる堆肥には高い確率でカブトムシの幼虫がいることを知っていたので、村中走り回って堆肥を探した。
だがようやく探し当てた堆肥は残念ながらあまりに『新鮮』過ぎて子供の私では触ることはおろか、近づくこともできなかった。堆肥を目の前にして立ちつくす私を見てショーイチさんは笑っていた。
翌日、ショーイチさんが朝から山の中を案内してくれた。話によればこの辺り一帯の山は、かつて祖母の一族が所有していたということだった。ショーイチさんに連れられて段々畑の斜面を登り切り、さらに山道を森の奥へと私たちは入っていった。
森の中は昼間でも薄暗く、所々斜面から水が湧き出していた。ショーイチさんは時折立ち止まってその水を手にとって飲み、促されて私も同じように飲みながら小一時間登り続けた。
私が疲れて音を上げそうになった頃、突然開けた場所に出た。そこは森に点在するいくつかの炭焼き小屋の一つであった。ショーイチさんはそこで休憩すると言い、小屋に入ると背中のリュックサックからおにぎりを出して食べ始めた。私も薦められるがままおにぎりを食べたが、食べるにつれて中身が苦手の梅とわかって半分残してしまった。
ショーイチさんはポットからお茶を出して飲みながら、私に冷凍庫で凍らせたジュースを渡してくれた。まだ冷たい缶を開けて飲むと程よくシャーベット状になったジュースが喉に心地よかった。
三十分ほど休憩するとショーイチさんは私に体育の授業で使うような笛を手渡し、外でしばらく遊んでこいと言った。笛は迷った時や動けなくなった時に吹けと教えられた。同じ笛をショーイチさんも持っていて、笛の音が聞こえたらここに戻ってくるようにとのことだった。
炭焼き小屋から少し離れると鬱蒼とした森が広がっていた。当然道など無いので私の腰ほどの高さがある雑草をかき分けて入っていくほか無かった。前もってショーイチさんが私のために用意してくれた長袖・長ズボンのおかげで手足は枝や草から保護されていたが、そうで無ければ擦り傷だらけになりそうな場所だった。
私は前日探し損ねたカブトムシを見つけるために、クヌギの木を見つけることにした。幸いこの山は落葉樹の森らしく、至る所にクヌギの木らしき樹木を発見することができた。ただ、昼間になるとカブトムシの類はクヌギの樹液を舐めるのを止めて地中に潜ることが多いので、なかなかカブトムシを探すことができなかった。
それでも樹液の出ている樹木を次から次へと探していたらとんでもない虫を発見した。ミヤマクワガタが私の手の届くギリギリの所で樹液を舐めていたのだ。ミヤマクワガタは私の住んでいた地方都市ではすでに見ることができず、図鑑でしかお目にかかれない昆虫であった。
私は精一杯背伸びして右手で木にしがみついているミヤマクワガタの胴体部分を掴むと木から剥がした。その反動で私は仰向けに転がったが、何があっても右手のミヤマクワガタだけは離すまいと思っていた。
幸運にも起き上がった私の右手はミヤマクワガタを掴んだままだった。だが不幸なことに私はミヤマクワガタを入れる容器を持ってきていなかった。かと言ってズボンのポケットは狭くて入れることもできないので仕方なく手に持ったまま炭焼き小屋に戻ることにした。
しかしそこで私は自分が迷子になっていることに気がついた。さらに悪いことには比較的平坦な場所であったため、上ってきたのか下ってきたのかさえわからなかった。私はこうした経験は初めてであったためにパニックになった。とにかくショーイチさんに言われた通りに首に提げていた笛を吹き、半泣きしながら茂みの中を闇雲に歩き回った。すると、突然足元の地面が消えた。
――良一……
遠くでショーイチさんの声が聞こえた。仰向けになった私の目には、鬱蒼とした木々の枝が見えるだけだった。
――良一……
意識が次第にはっきりしてきた。どうやら私は足を踏み外したらしい。
――良一……
私は仰向けに寝たままで首に提げていた笛をくわえると思い切り吹いた。ショーイチさんが走ってくる音が聞こえた。
「良一……だ、大丈夫か?」
ショーイチさんの顔が私の視界にある木々の枝を遮った。私はゆっくりと体を起こした。
「大丈夫みたい」
「ああ、良かった。とりあえず立ってみろ」
「うん」
私は立ち上がってジャンプした。どこにも痛みは無い。ショーイチさんは私の体に付いた泥を、腰に付けた手ぬぐいを外して払ってくれた。
「あ!」
「どうした良一、どこか痛むか?」
「ミヤマクワガタが!」
「クワガタ?」
「さっきまで持ってたのに!」
私は周囲を見渡した。私が落ちた場所は車三台ほどの広さでスプーンの形をした窪地だった。どうやら一メートルほど落下したらしい。倒れていた右手の周辺を探すと地面の上でミヤマクワガタが仰向けになってもがいていた。
「い、いた!」
私はミヤマクワガタを拾い上げるとショーイチさんに見せた。
「こ、これ、生まれて初めて見たんだ」
「そりゃ良かったな」
ふと、ショーイチさんの後ろに木製で小さくて古めかしい物体が目に入った。
「ショーイチさん、それは何?」
ショーイチさんは振り向いた。
「ああ、これか。
「ほこら?」
「これは昔からここにあって……まあいい、とにかく炭焼き小屋に戻ろう」
祠はスプーン型をしたその窪地の先端部に置いてあった。そしてスプーンの柄の部分はちょっとした小道になっていて、ショーイチさんはそこを歩き出した。
「良一、山で道に迷った時は動くなと言わなかったか?」
「言わなかったよ」
「それは悪かったな。いいか、山で道に迷ったら動くなよ」
「もう遅いよ」
私は笑いながらそう答えると、ショーイチさんの後ろを歩き出した。
「この道はどこへ続いているの?」
「村までだ。でも途中で道から外れないとさっきの炭焼き小屋には戻れない。この道はさっきの祠で行き止まりなんで今じゃ誰も使わない」
ショーイチさんの言った通り、途中で道から外れた藪を歩いて炭焼き小屋まで戻った。ショーイチさんは小屋の周りにあった笹の葉を使って器用に虫籠を作り、中にミヤマクワガタを入れると私にくれた。
「これで逃げないから大丈夫。午後はサワガニでも探しに行くか?」
「うん」
私は迷子になりかけたことも忘れてワクワクしていた。
その日の晩、私のために祖母の実家に村の人々が集まって宴が催された。私は囲炉裏の前に座らされ、目の前には味の想像ができない郷土料理が並べられた。当時好き嫌いが激しかった私は恐る恐る料理を口に運んでいた。
「良一、親父は元気か?」
とりあえず食べられそうなものはすべて食べ切った頃、また素性がわからない大きな体の村人が私の席の隣に座った。頼みのショーイチさんは離れた席で酒を飲んでいる。私が怪訝な顔をしているとその村人は笑いながら話し出した。
「俺はオオババの兄貴の息子、つまりお前の親父とは従兄弟だ。名前は幹太だ」
親戚とわかってとりあえず安心した。
「はい。父は元気です。相変わらずバアちゃんに怒られています」
「ははは、まだ怒られてるのか。変わらねぇな」
「バアちゃんは何人兄弟なの?」
「十人だ」
「じ、十人も兄弟がいるの?」
「いや、いたと言った方が正しいな。俺の親父も含めて戦争だとか病気で皆死んじまって今じゃお前の所のオオババしか残っていない」
「ショーイチさんは?」
「ショーイチは本家じゃない。分家だ。おかあちゃんが……いや奥さんが、俺と従兄弟でここからさらに奥に入った温泉で旅館をやっている。だから車いじりの道楽ができるわけだ。村では『油屋のショーイチ』って呼ばれている。そしてあそこにいるのは……」
そのままにしておくと幹太さんはここにいる村人全員の説明を始めそうな勢いだったので、途中で遮った。
「オジさん、今日山の中で祠を見たんだけど、何であんな場所にあるの?」
「山の中って、そこにショーイチが連れて行ったのか?」
「そうじゃなくてそこに僕が落ちたの」
「何だってそんな所に落ちたんだ?」
「ミヤマクワガタを探してたら迷子になって、気がついたら祠の前に落ちてた」
「ふーん。で、ショーイチは何て言ってた?」
「神様を祭ってあるって」
「他には?」
「それだけ」
幹太さんは立ち上がるとショーイチさんの所へ行って何やら話し出した。しばらくすると私は昼間の疲れから眠くなってきた。そこへショーイチさんの奥さんがやってきて、そろそろ帰ろうと私をショーイチさんの家まで送ってくれた。
帰り道、奥さんに連れられて歩きながら祖母の実家を振り返ると、すべての窓に煌々と電気が点いているのが見えた。
その日の夜中、トイレに行きたくなって目が覚めた。寝ていた二階の部屋を出て階段を下り、トイレに向かう廊下の途中で居間に電気が点いているのが見えた。ショーイチさんと奥さんがまだ起きているのかと思い、居間の襖を開けてみたら誰もいなかった。
柱時計は午前零時を指していた。別に不審にも思わずトイレに入って小便をしていると、トイレの開け放った小窓から蛙の鳴く声が聞こえた。小便を終えてその小窓から何気なく外を見た時、恐怖で体がすくんだ。
月明かりの中、数十メートルほど離れた畑のあぜ道に提灯を持った十五、六人ほどの行列が見えた。行列は森に向かってゆっくりと歩いていた。私はそれを見たまま動けなかった。そして行列の最後尾の人が森に消えようとした時、立ち止まってこちらの方を振り向いた。
遠くて振り向いた人が誰だか確認できなかったが、私は慌てて首をすくめると天井の電球から出ている紐を引いて電気を消した。そして恐る恐るもう一度小窓から外を見た。
すでに行列は森の中に吸い込まれ、月明かりに照らされたあぜ道しか見えなかった。
急いでトイレから出ると居間の襖を勢いよく開けた。
「しょ、ショーイチさん……」
誰もいなかった。
何故だかわからないが間違いなくあの列の中にショーイチさんがいると思った。私は恐怖心を抑え、玄関に急いだ。パジャマのまま素足に靴を履くと玄関の扉を開けた。鍵はかかっていなかった。玄関を出るとすぐに懐中電灯が必要なことがわかった。ショーイチさんの作業場に車整備で使う懐中電灯が置いてあるのを思い出した。作業場で懐中電灯を見つけるとスイッチを入れ、畑のあぜ道を照らしながら先ほど行列が吸い込まれた場所まで走った。
吸い込まれた場所には鳥居があった。鳥居の先には人一人が通るくらいの小道が続いていた。その道を早足で歩いていくと徐々に傾斜がきつくなってきた。十分くらい歩いた時、ようやく提灯を持った行列が二十メートルほど前方に見えた。懐中電灯のスイッチを切ると気づかれないように行列の十メートルくらい後方まで距離を詰めた。
行列は無言で小道を登っていく。私は後方から見ているので、行列の前方がどうなっているのか、誰がいるのかもまったくわからなかった。しばらくすると行列の前方が左に曲がっていくのが見え、どうやらそのまま列の先頭が止まったようだった。そのまま列の後方からついて行くと、行列の人々が小さく開けた場所に溜まりはじめた。私は道から外れると草むらをかき分けて人々が集まっている場所へ横から近づいた。
草むらを通して見たその場所の奥には祠があり、それは紛れもなく昼間私が落ちた窪地であった。
私は草むらで息を殺し、集まった人々を見てみたが、提灯が照らし出す灯りだけでは顔まで確認することはできなかった。集まった村人たちは祠の前でひざまずき、何やらお祈りを始めた。そのお祈りを聞こうと一歩前に出た時に小枝を踏んでうっかり音を出してしまった。私の一番近くでお祈りをしていた村人がこちらを振り返った。私は首をすくめて茂みに伏せた。
「ショーイチさん、何か聞こえたようだけど……」
その村人は隣の村人に話しかけた。
「気のせいだろう。こんな時間にいるのは動物くらいだ。心配することは無い」
やはりショーイチさんだった。
これ以上ここにいたら見つかってしまうと思った私は伏せたまま、ゆっくりと後ずさりをしてこの場から立ち去ることにした。村に続く道に戻ると、懐中電灯の灯りを頼りに全速力でショーイチさんの家まで走って戻った。
家は私が出た時のままで、人の気配はしなかった。念のため靴の泥を家の外で落として家に上がると居間の襖をそうっと開けてみた。
まだ誰もいなかった。
ほっとして再び襖を閉めると急いで二階に上がり、毛布を頭からかぶって横になった。しばらく怖くて寝付かれなかったが、そのうち寝付いたようで気がついたら朝になっていた。
朝食を終えると幹太さんが軽トラックに乗ってやってきた。昨日の夜見たことはショーイチさんにも奥さんにも言わなかった。
「良一、今日は帰る日だよな?」
「はい」
「午後になったらショーイチが駅まで送っていくからそれまで俺の仕事を手伝え」
そう言われ、わけがわからないまま軽トラックの助手席に乗って幹太さんの家に向かった。幹太さんの家の庭には枝ばかりの桑がうずたかく積まれていた。葉は蚕が食べたものだ。
「良一、これをトラックの荷台に積み上げてくれ。今から裏山に捨てに行くから」
言われた通りに幹太さんと一緒に枝を荷台に放り込みはじめた。途中まで入れたところでもうそれ以上積むことができなくなった。
「オジさん、もう一杯だよ」
「何が一杯なものか。良一、枝の上に乗れ」
私は枝の上に登った。
「どうすればいいの?」
「上から枝を足で踏みつけて押さえていろ。俺が枝を渡すからまたその枝を踏んで上に載せていけ」
その通りにやっていくと運転席の屋根を越えるまで高くなった。
「よし、最後にロープを渡すからしっかり上に乗っていろよ」
幹太さんはロープで枝を固定した。
「良一、終わったから下りてこい。出発するぞ」
そう言われてみたものの、何だか高い場所が気持ちよくて下りる気にならなかった。
「オジさん、このまま上に乗ってていい?」
「わかった。でもしっかりロープを握っていろよ」
幹太さんは運転席に乗り込むと軽トラックを出発させた。
あぜ道を走っていく荷台の上から見える景色は最高だった。速度もそれほど速いわけではないので恐怖はまったく感じなかった。
ふと乗っている桑の枝を見ると何匹かの蚕の幼虫が見えた。幼虫の数が多いので枝を入れ替える時に古い枝に残ったらしい。五分ほど走って裏山に到着した。幹太さんが車から降りてきた。
「良一、今度は下ろすぞ」
私は荷台から降りて枝を下ろす作業にかかった。
「この枝についている蚕はこのままでいいの?」
「ああ。もう繭を作る頃だからその辺に適当に繭を作るさ」
「その繭は?」
「放っておくさ。どうせ大した数じゃない。でもこっちの蚕の方が成虫になれるから幸せかもな。そう言えば良一、あそこに小さい鳥居が見えるだろう?」
幹太さんは昨日の晩、私が通った鳥居を指さした。
「あの鳥居をくぐった先に、昨日お前が見た祠に続く道がある」
「祠のところまで行ったりしないの?」
「用が無いから行かないよ」
「昨日の夜、あの辺で提灯を持った行列を見たんだけど」
幹太さんは作業する手を止めて私の顔を見た。
「何時頃だ?」
「確か夜中の十二時過ぎ」
「そのことをショーイチに言ったか?」
「ショーイチさんも奥さんもその時家にいなくて……何だか言い出せなくて」
「じゃあ仕方がない。説明するけど誰にも言うなよ」
私は深く頷いた。
「昨日お前が見た祠には名前があって『身代わりの祠』と呼ばれている」
「身代わり?」
「そう、病気の身代わりだ。村で誰かが重い病気になった時、早く治るようにその病人に関係ある物とか、無ければお祈りする人が好きな物を供えて皆でお祈りするんだ。昔から続いている習わしだ」
「誰かが病気なの?」
「ああ。先週町の病院に入院した人がいる」
「それで治るの?」
「それはわからない。でも俺たちはこれくらいしかできないから。それとお祈りに行く時には村人以外の人に見られてはいけない決まりになっているから、お前も見なかったことにしてくれ」
「はい」
「見たことを誰にも言わなければ大丈夫だから、そんなことは忘れちまえ」
幹太さんのその一言で朝から気になっていた罪悪感が消えた。
桑の枝をすべて下ろし終えると、今度は助手席に乗ってショーイチさんの家に戻ることになった。ショーイチさんの家に戻ると奥さんが待っていた。どうやらショーイチさんは出かけているらしい。
「あれ? ショーイチは?」
「それがどこかへ行ったきり戻らないのよ」
「しょうがねぇな。昼飯を食ったら良一を駅まで送っていくんだろう?」
「そうなんだけど……」
私は奥さんに作ってもらった昼飯を食べ、そのあと帰り支度を始めた。支度が済んでそろそろ出発しないと間に合わないと思って玄関に座っていると、ショーイチさんが軽トラックで戻ってきた。
「すまんな。ちょっと時間がかかっちまった」
「あんた、早くしないと間に合わないわよ」
そんな奥さんの言葉には耳を貸さず、ショーイチさんはボール紙でできた平たいお菓子の入れ物を私に見せた。
「これを捕まえていたら遅くなっちまったんだ。ほれ!」
ショーイチさんが蓋を開けると中にはミヤマクワガタのオスが沢山入っていた。
「ショーイチさん、これ何匹いるの?」
「三十匹くらいかな? あ、それじゃ足らなかったか! もっと取ってくれば良かったな」
「そう言う意味じゃなくて……こんなにいたら価値が無くなっちゃうよ」
「あ、そうか。じゃあ半分くらい逃がすか?」
「いいよ、持って帰って友達にあげるから」
「そうか、じゃあ持って帰って自慢してくれ」
「ショーイチさん、どうもありがとう」
私は肩から提げていた虫籠に一匹だけ入っていたミヤマクワガタを出して菓子箱の中に入れた。
「あんた、もう間に合わないわよ!」
奥さんの怒鳴る声を背中で聞きながら、私が軽トラックの助手席に乗ろうとしたらショーイチさんが呼び止めた。
「良一、その車じゃ間に合わないからあれで行こう」
ショーイチさんはカバーで覆われているスーパーカーの一台に小走りで近づくと、カバーを外した。
「早く来い!」
私は自分の荷物と菓子箱をしっかり抱えると全速力でスーパーカーに向かって走った。
ショーイチさんは派手に塗装された平べったい車の左側のドアを開け、自分の荷物を後ろの小さいトランクに放り込んだ。私は助手席のドアのポケットに自分の荷物を入れ、菓子箱は入らなかったので足元に置いた。
「良一、早く乗れ」
私が乗り込むとショーイチさんがレース用と思われるシートベルトを締めてくれた。続いて自分のシートベルトを締めるとキーを差し込んで車のエンジンをかけた。
――キュルキュル……キュル
やはり日本車のようにエンジンはかからないと思っていた矢先にエンジンがかかった。
――ドーン、バラバラバラ……
まるで後ろから蹴られたような衝撃を背中で感じ、続いて地響きのような音が始まった。車が動き出したので、私は半分しか開かない窓を開けてショーイチさんの奥さんに大声を張り上げてお礼を言った。
「どうも、お世話になりました」
凄まじいエンジン音で私の声は奥さんに届かないようだったが、笑いながら手を振ってくれた。ショーイチさんは庭から道に出る所で一旦停止すると、天井から二つ吊り下がっていたマイク付きの大きいヘッドホンの一つを外して渡してくれた。ショーイチさんも残りのヘッドホンを外して頭に付けた。
「良一、聞こえるか?」
「あ、聞こえる!」
「これを使わないと話ができない。この車の名前は知っているよな?」
「ランチアストラトス!」
「良くできました。これから山道を飛ばすからその辺にしっかり掴まっていろよ」
そう言い終わらないうちに車は道路に飛び出すと猛然と加速を始めた。
ストラトスは村道を疾走した。背中からは振動、そしてヘッドホンを通しても機械音が絶え間なく入ってくる。その振動のおかげで顎の付け根から耳にかけて痒くなってきた。ヘッドホンも私の頭には大きかったので時々直さないとずり落ちてくる有様だった。
「裏道に入るぞ」
ショーイチさんはそう言うと舗装されていない細い横道に入った。車一台分の幅しか無い砂利道でもショーイチさんは速度を落とさなかった。窓から見える木々が凄い勢いで後ろに消えていく。ショーイチさんはカーブもほとんど速度を落とさずに車を横に向けて滑らせ、土埃をあげて曲がっていった。
私は体が動かないように必死に右手でドアのポケットを掴み、足は床に届かないので靴を脱いでダッシュボードに両足を付けて踏ん張った。それでも上下左右に体が動いてドアに体がぶつかった。こんな山道をショーイチさんはどんな顔をして運転しているのだろうと思い、左手でヘッドホンを押さえたまま顔を見てみると口を半開きにして眠そうな顔をしていた。
「何か俺の顔に付いているか?」
「う、ううん。別に」
「この車はレース用にエンジンを組み直してあるから回転を上げないとパワーが出ないんだ。まったく良くこんな乗りづらい車に乗りたがるもんだ」
「これはお客さんの車なの?」
「そうだ。来週に取りに来る。良一、気持ち悪くないか?」
「大丈夫」
「あと五分で国道に出るから、そうしたらストラトスを半分くらい運転させてやる」
「半分くらい?」
言っている意味が良くわからなかった。
狭い砂利道を抜けた国道は片側一車線の舗装道路だった。しかし曲がりくねった山道であることには変わり無かった。相変わらずショーイチさんは遅い車を追い越しながら飛ばし続ける。そしてしばらく直線が続き出した頃であった。
「おし、そろそろ半分くらい運転させてやる。ハンドルとアクセルとブレーキは俺がやる。良一はギアを変えてくれ」
「ギアを?」
「そうだ。俺が二速とか三速とか言うからその通りに今俺が握っているギアのレバーを動かしてくれ。良一には最初に来た日に教えたよな。車はスピードに合わせてギアを変える必要があるって。レバーの根本のプレートに数字が書いてある。それがギアの番号だ。スピードを上げる時は大きい数字へ、下げる時は小さい数字にする。わかったか? じゃあこのギアレバーを上から握れ。今は四速だからな、行くぞ」
「はい」
何だかドキドキしてきた。
「三速!」
私は右手でヘッドホンを押さえ、ギアレバーを握った左手をまっすぐ前に押し出した。エンジンが空回りして回転数が上がり、ギアがガリッと鳴ってレバーが弾かれた。
「遅い! それとレバーを思い切り押し込まないとダメだ。もう一度!」
言われた通りにやったら次はうまくいった。そうやって加減速の度にギアを変えていたら徐々に慣れてきた。
「よし、慣れてきたみたいだな。楽しいか?」
「ショーイチさん、すっごい楽しいよ!」
「そりゃ良かった」
スーパーカーの運転を半分しているかと思うと本当に楽しかった。
二十分ほど走ると山の間から街並みが見え隠れしだした。そして国道に入ってから初めての赤信号を最前列で停止した時、三百メートルほど先にパトカーが走っているのが見えた。信号が青に変わって走り出した。
「二速!」
スピードが上がる。
「三速!」
パトカーが近づいてくる。ショーイチさんはスピードを落とす気配がまったく無い。
「しょ、ショーイチさん! パ、パトカーが……」
ストラトスは対向車線に出ると一気にパトカーを抜き去った。
「四速!」
ギアを四速に入れたあと後ろのパトカーが気になって振り返ってみたが、後ろはエンジンが邪魔でまったく見えなかった。
「パトカーが気になるのか?」
私は頷いた。後ろからサイレンの音はまったく聞こえない。
「あのパトカーは俺が整備してるんだ。ついでに運転していた若造の警官は俺の甥っ子でゴウスケ。あいつが寝小便していた頃から知っている。ヤツはこんなところで俺を捕まえたところで何の得も無いから追ってこない」
しばらく走ると人家が増えてきた。車が多くなってきたのでさすがのショーイチさんも速度を落とさざるを得ない。窓から街並みを眺めていると、私が村に行く初日にバスで通った見覚えのある道に入った。ここまで来れば数分で駅に到着するはずだ。
「余裕で間に合ったな」
ショーイチさんは私の目の前にあるアナログ式の時計を指さした。
「あと十五分あるよ」
「普段はこんな走りはしねぇけど、今回は特別だったからな」
そうこうしているうちに駅に到着した。駅前はそれほど広くないので、適当な離れた位置に車を止めた。
「ここは長く駐車できないから、まずお前が一人で行って切符を買ってこい。俺はここで待ってる」
言われた通りに車から降りて切符を買いに駅まで走った。車から降り立ったら、尻が痒かった。多分振動のせいだ。急いで切符を買って車まで戻るとストラトスの後ろにパトカーが止まっているのが見え、制服を着た警官が窓越しに運転席のショーイチさんと話していた。
「あ、良一。こっちのお巡りさんはさっき話してたゴウスケ」
警官は私を見た。
「あ、オオババのお孫さん? 話は聞いたよ。このオジさん、運転がメチャクチャだろう?」
「あ、いいえ。楽しかったです」
「俺は子供の頃、横に乗せられて何度もゲロを吐いたよ。オジさん、とりあえずここは駐停車禁止なんで動かしてもらえますか?」
「ちょっと待ってろよ。五分くらいで出るから」
「わかりました。お願いしますよ」
警官はパトカーに戻るとそのまま走り去った。ショーイチさんは車から降りると後ろのトランクから紙袋を出した。
「これさ、オオババの大好物のリンゴなんだ。本当は箱で持って行ってもらいたかったが、お前には重いから三つにした」
「知ってるよ。あの酸っぱいリンゴでしょ?」
「くれぐれもオオババにはよろしく言っておいてくれ」
私は助手席から自分の荷物を出すとリンゴをリュックサックの中に入れた。
「ショーイチさん、色々ありがとう。また遊びに来るかも知れないからまたその時は遊んでね」
「わかった。電車が来るから早く行け」
私はミヤマクワガタが入った箱の蓋が開かないように気をつけながら駅に走った。
駅の入り口で振り返るとショーイチさんがストラトスの開けたドアの後ろに立ってこちらに手を振っていた。私も思い切り手を振り返すと改札を通りってホームに入った。電車が到着して乗ろうとすると、ストラトスのエンジンが始動する音が聞こえた。席に着いて窓を開けるとすぐに電車は走り出した。
――カァァァン、パン……カァァァン、パン……
開けた窓からストラトスのエンジン音が山々に木霊するのがいつまでも聞こえていた。
ショーイチは村の自宅に戻ると作業場でストラトスの後部をジャッキアップしてスタンドの上に車を乗せた。そして作業着に着替えると、工具を持って車の下に潜り込んだ。そしてしばらく仰向けで作業していると、ストラトスの横に軽自動車が止まってドアを開けて降りる人の足が見えた。
「ショーイチ、良一は無事帰ったか?」
幹太は車の横に立ち、足だけ見えているショーイチに話しかけた。
「ええ、電車に乗るところまで見届けました」
「実は昨日の晩の話なんだが……」
ショーイチは車の下から出てくるとストラトスの真後ろに立ち上がった。
「祠の話ですか?」
「良一が行列を見かけて祠の近くまで付いて行ったらしい」
「そうだったのですか。暗くてわかりませんでした」
「とりあえず祠の由来の話はしておいた」
「では部外者に見られるとマズいという話も?」
「見なかったことにするように言い聞かせておいた」
「儀式を見た部外者には災いが降りかかるという話は?」
「それは良一が怖がるのでしていない。それに迷信だ」
「……そうですか」
「それにあの儀式はそろそろ止め時かと思う。近いうちに村長に話をしようかと考えている」
ショーイチは安堵の表情を浮かべると、ストラトスの小さい後部トランクを開けた。
「確かに病気が良くなったという話も聞きませんね。今日はこのトランクにリンゴを何個か入れて良一に持たせました」
「オオババはどうしてるかな?」
「元気だと思いますよ」
「もうこの村に戻ってこないだろうな……」
「何年か前に車で迎えに行った時も、村に向けて走り出したら五分で車酔いして引き返しましたからね」
「それはお前の運転が荒かったからだろう」
「市街地ですよ、幹太さん。スピードなんか出せません。単に車に弱いんですよ、オオババは」
「いくら何でも弱すぎだ。それはそうと、この車は随分と変わった格好だな」
幹太は車高が低いストラトスを見下ろした。
「簡単に言うとイタリアのラリー車で、ランチアという会社が作ったストラトスという車です。エンジンはフェラーリの六気筒が載っています」
「速いのか?」
「直線はそれほどでもありませんが、コーナーは速いですね。でも砂利道で全開にすると真っ直ぐには走らないです」
「なんだ、じゃあポンコツ車か」
「ポンコツはひどいですね。これでも今の子供たちが夢中になっているスーパーカーですよ。恐らく今の日本には数台しかありません」
「でも壊れたからお前が修理しているのだろう?」
「いや、正確には修理じゃなくて整備と改造です。」
そのストラトスは東京の外車ディーラーから頼まれて整備をしていたが、ラリー競技車両に見えるような外見の改造も同時に行っていた。ショーイチは最初にエンジンを分解して各部品の重量バランスを取り直し、摩擦抵抗の低減や応力が集中することを防ぐために徹底的に部品の研磨も行った。そしてイタリアからレース用の部品を取り寄せてすべてのセッティングもやり直し、サーキット走行にも対応できるレベルまで仕上げた。
「幹太さん、ちょっとブレーキ システムのエア抜きをしたいので手伝ってもらえますか?」
「またか? 運転席でブレーキ ペダルを踏めばいいのか?」
「そうです」
「相変わらず車のこととなると人使いが荒いな」
「すみません……」
幹太は運転席に座るとブレーキ ペダルに足を載せた。
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