第十六話 不知火先輩の由縁

「おはようございます、鷹無さん」と、朝の駅で声をかけてきたのは虚無部虚無班の長、朽葉だ。「この前のバーベキューはなかなか楽しかった。そうだろう?」

「そうですね、肉をみんな食べまくるからわたしは野菜に集中せざるを得なかったのが心残りですが」

「これまでお会いする機会はなかなか無かったが、鷹無さんはかなり虚無性が高い。不知火先輩の判断は正しかったと言えるだろう。拝君や竜胆君も規格外だが、君の潜在能力はその二人を、あるいは不知火先輩自身をも超えているかも知れない。非常に期待しているよ」

「何を期待されているのかまったく分からないのですが」

「以前、こんなことがあった。竜胆君と俺は中華料理屋にいて、彼が非常に見たい映画があるということを話していたんだ。それで、良かったらこれから見に行かないか? と誘ったら竜胆君は、今日は家で読みたい漫画があるので行かない、と力強く言うのだ。漫画なんて映画を見てから帰って読めばいいじゃないか、と俺が言うと、また彼一流の話が始まったわけだ。『朽葉さん、僕は趣味というのは決して強制力があっちゃいけないものだと思ってるわけです。そんなことになれば義務も同然、そんな馬鹿げた話がありますか、ないですよね? 歴然とした事実、そうでしょ?』すごいパワーだった。だから俺は、じゃあ今度また、と言ったら、そういう仄めかしというか漠然としたものもあまりよくないと僕は思う、なぜなら僕の今後に楔を打ち込むかのごとく、みたいなことを言い始めて、またしても虚無のエネルギーが彼から発散されるのを俺は見た。あれは深淵だ」

「もうなんていうか、虚無という言葉の意味が分からないのですが……」

「虚無は現実に開いた穴だよ、鷹無さん。誰しもが持っている。フラストレイション、不満、鬱屈、そういう言葉で代用することもできるが、それらは虚無ではなく、虚無の副産物でしかない。人間社会で必要なもの、己にとって重要な矜持、そんなのは虚無の前ではそれこそ虚無なんだ。鷹無さんもいずれ自己の持つ虚無性に気づくだろう。俺はただ、虚無を観測し、考察するだけだ。これもすべて不知火先輩のために」

 朽葉は目立たない人物で、しかし常に彼の周りには、その場に溶け込んでいる群衆が存在し、場の密度を上げていた。

 電車内はいつになく混んでいたし、彼と廊下ですれ違うときなどは、彼の友人か後輩か分からないけど、同行者が常に何人もいた。

 それらが彼の随伴体であり、彼は常に、人々の合間に紛れてしまう性質を持った人間なのだと、かなり後になってから鶫は知った。

 だからこそ、彼は都市の人ごみの中で、常に虚無であった。

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