第14話 世界の果ての白雪姫
あしながおじさんにプレゼントされた純白のドレスで盛装した萌は、ランタンを手にしたおじさんに導かれるまま、地下への階段を下りてゆく。めったに入ることのない北の棟。物置代わりにしか使われていないそこに、地下室への扉が隠されてたとは。今の今まで考えもしなかった。
「こんな場所があったんだ……」
「怖いかい?」
「いいえ……」
ランタンは光の届かない場所の闇をかえって濃く深くする。住み慣れた自分の家の地下だというのに、萌は魔物の腹に飲み込まれるような圧迫感を感じ胸が苦しくなった。
「あの……エルニは?」
「大丈夫。彼女ともじきに会えるよ」
落ち着いた低い声。この人はずっと会いたかったあしながおじさんだ。怖いはずがない。嬉しいはずなのに、萌の心は不安でいっぱいだった。貴属になり意識の戻らぬまま病院で眠るみずき。黒い魔女の姿で人魚姫を狩り、己の影に飲み込まれたエルニ。
(どうしてこんなことになっちゃったのかな……)
下りきった先にある重く古めかしい樫の扉を開くと、広い部屋からろうそくの灯りがもれた。
「どうぞ」
あしながおじさんにエスコートされ部屋に入る。ふかふかの絨毯が敷き詰められ、中央には十人掛けの円卓が据えられている。壁の一面を占領する大きな黒板には、萌には理解できない文字と数式が書き込まれ、残る壁の全ては天井までぎっしりと古書が詰まった本棚になっている。
どの調度品も磨き込まれた立派な造りのものだったが、部屋中にどこか陰鬱な納骨所めいた空気が澱のように溜まっている。ふと手近の灯りに目をやると、その燭台は人の手首の形をしていた。
「この部屋は……?」
「
机の上のアンティークの地球儀を弄びながら、あしながおじさんは答えた。
「世界の果てに辿り着く企て。地球を動かすアルキメデスの支点を得る計画。萌は梃子の原理を知っているね?」
「支点、力点、作用点の? 小学校で習いました」
「萌は賢いね。アルキメデスは言った、『我に支点を与えよ。さすれば地球をも動かさん』とね。我々はその支点を探すための実験を行ったのだよ」
何の話なのか萌には見当がつかない。ただ不安で、手を繋いでくれる誰かにそばにいて欲しかった。
「思考実験・螺旋の探索。十一年前執り行われたそれにより、真に別の世界への扉が開いたとも、この部屋の中だけで全ての物事が完結したともされる。科学者、哲学者、天文学者、錬金術師、医師、作家、冒険家、賭博士、芸術家、富豪。参加した十人の賛同者のうち三人が帰らぬ人となり、この部屋に新たに一人の少女が現れた」
部屋の奥に人の気配がする。黒いドレス姿の女性が、闇に溶けるように佇んでいる。
「……誰?」
人影は萌の問いかけに応えない。
そのやり取りに気付かぬように、あしながおじさんは独り語り続ける。
「萌、魔法とは何だと思う? 我々が仮定したのは、純粋に思考でもたらされる矛盾。黒い白馬。熱い雪。存在しえないそれらの品も、人間の思考の中でのみ仮初めの姿をとる。だがもし目の前に、この世界にありえない存在の標本があったなら? 異界が存在する確たる証拠があったとすれば?」
芝居がかった仕草で両手を広げ、あしながおじさんはこきりと首を傾ける。
「それを確かに認識することができれば、思考の中でのみ存在を許される矛盾の数々も、絵空事ではない存在感を得ることとなる。世界の果てを知り得た我々探索者にとっては、その認識だけで十全に魔法の源となり得たが、この世界の理を根本から変えるにはまだ足りない。そのために、この世界へ遍く広めるための贈り物が必要だった」
「エルニなの?」
闇の奥から黒いドレスの少女が歩み寄る。髪は影を切り取ったかのような闇色。その肌はミルクのように白く、その瞳は血のように紅い。
「彼女は異界のもの。唯一の標本にして始まりの貴属、白雪姫だ」
顔はエルニにそっくりなのに、紅く輝く瞳にはどんな種類の感情も浮かんでいない。それなのに萌はその少女の視線から、呪いにも似た強く激しい憎しみを感じ取っていた。
「お前らに切り刻まれたこの身体、ようやく揃えることが出来た」
「この世界に魔法を植え付けるには、それなりの数が必要だったのでね」
じわじわと萌の思考が追い付き、白雪姫の憎悪の訳を浮き彫りにする。
「ちょっと待って! この世界で魔法を使いたいから、別の世界から連れてきたエルニをバラバラにしたの!?」
同じ顔の二人の魔女。貴属を生み出す贈り物。
夢物語のようだったあしながおじさんの話も、エルニ――いや、白雪姫の深く静かな憎悪を傍証に、無慈悲に萌に理解を強いる。
「概ねその通り。だが少し違う。身体を解体し作り出した四十八のギフトと、心を割り生み出した二人の魔女、罪を蒔くものと罰を収穫するもの。萌の知るエルニという少女は、ばら撒かれた身体を集め一つに還ることを願う、白雪姫の心の片割れにしかすぎないよ」
「そんな……」
萌の嘆きは得意げに語る男の耳には届かない。白雪姫の呪詛めいた視線は、あしながおじさんではなく萌に絡みついている。
「私にとって魔法はあくまで手段であり副産物だ。君が君の欠片を集める道程で、見知らぬ世界に抱いた疑問。畏怖。感動。君の探求の旅路その全てが、私の探す答えを導くための道標となる」
こきりと首を傾げたあしながおじさんが、白雪姫に手を差し出す。その掌に手品のように現れたのは、淫猥に熟れはぜた無花果の実が一つ。
「君は探求の代償として、その身に絡みついた少女達の数多の願いを手に入れる。姫君が望んだ世界の形。集められた記憶。憧憬。羨望。怨嗟。絶望。これこそが君がこの世界から得る
憎い。苦しい。呪わしい。嫉ましい。姫君が抱き、姫君に向けられ、エルニが集めた負の感情の集積体。
「ひどい! 無理やり連れてこられて、ずっと帰りたかっただけでしょ!? この子は何も悪いことしてないのに!」
「だが、君はもう元の世界には戻れない。その代わりに君は、この世界を望む形にすることが出来る。君へのギフト、この“善悪知る実”でね」
萌の抗議はあしながおじさんの耳に届かず、男の長広舌は白雪姫の耳には届かない。
「さあ、この世の真理に形を与え、私にその答えを見せてくれ!」
「私のギフトはそれじゃない。たった一つ私がこの世界に持ち込んだ、私の本来の持ち物だけを返してくれ」
憐憫と罪悪感でまともに視線を合わせられない萌を、白雪姫はずっと凝視し続けている。現れてから一瞬たりと目を逸らしていない。最初から男のご高説には耳を貸さず、萌だけに語り掛けている。
「わたし?」
白雪姫が見ているのは萌の頭上の白い蛇。
その心臓として輝く紅い林檎。
「これは駄目だ。これだけは駄目だ。我々が手にした最初にして最高のギフト。わが盟友にして刎頸の友、富豪の一人娘を生かす為の永久機関」
「おじさま?」
見上げた萌の目にも、己の心であるその小さな白い蛇の姿ははっきりと見えた。
「君は何も思い出さなくても良いよ、萌。夭折の運命はすでにこのギフトにより回避された。友との誓いに掛け、この錬金術師、レヴィ・ランドールが誰にも邪魔はさせない」
萌の脳裏におぼろげだった幼い頃の記憶が蘇る。寝たきりの日々。繋がれた無数の管。ベッドから見る景色。おぼろげな父と母の面影。クマのぬいぐるみをくれたおじさん。
「それじゃあ、『穏やかな日々が続きますように』っていうわたしの願いは、もうとっくに叶えてもらってたんだね」
幸せというのは何もない穏やかな日々の繰り返し。ちょっと雨に降られたり、転んで膝をすりむいたり、コインを溝に落としても。仔猫をなでたり、木陰でお昼寝できたり、夕飯がシチューだったのなら、それだけで帳尻が合う。
「そうだよ萌。私はただ萌の願いを叶える為だけに存在し続けた」
身も心も健やかにあれ。良き師。良き友。良き隣人。理想の暮らし。
害をなす者は影ながら排除する。芽のうちに、慎重に。徹底的に。
壊れかけの身体。絶望を抱え、死ぬ度に最初からやり直す。
遺伝子の欠損はだけ避けられない。けれど心臓だけは無限に動き続ける。
『できれば恋をして。結婚できる歳まで生きたいな』
(ああそうか。わたしが望んだから、おじさまは今までずっと――)
萌の心の蛇は林檎を吐き出し、傍らで小さくとぐろを巻いている。
「わたしはとっても幸せだったよ。今までありがとう、おじさま」
満面の笑みで萌は後見人に感謝の言葉を述べた。終焉の予感に、錬金術師は強ばった表情でこきりと首を傾ける。
萌は頭上の林檎に手を伸ばす。文字通り、胸を引き裂かれるような痛みが走った。
「駄目だ! やめるんだ萌!!」
焦燥感を滲ませたランドールが素早く手を振ると、中空に砂時計が現れた。人骨で組まれ無数の屍が支えるガラス管の中、落ち切るまでの砂粒がはあとわずか。
「あなたのおかげで今まで幸せに生きてこられたよ。ごめんね。迷惑かけたね。苦しかったでしょ」
振り向いた萌は、語り掛けながら白雪姫に歩み寄る。借り物の心臓を失い激しい苦痛のなか、視界が暗くなってゆく。
「もう時間がないね。あなたはこの世界への贈り物。それじゃあ、あなたへの贈り物はわたしが決めるよ。受け取って」
見詰める白雪姫の表情は変わらない。
白いドレスを血に染めた萌は、掌に載せた、紅く輝く林檎を差し伸べる。
「この世界の探索を終えた、あなたの願いはなに?」
「まだ間に合う! またすぐにやり直せる! 萌、それを渡すな!!」
最後の砂のひと粒が落ちる前にと、ランドールは砂時計に手を掛ける。
わずかな逡巡の後、白雪姫は手を伸ばし――
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