人魚姫と日常の終わり

 午前中の形だけの授業を終え、みずきは萌の家へ向かっていた。歩きながら頭の中で、茨の国のニュースを反芻する。


 2年前出現した茨の国は、従姉妹の住む街を飲み込んだ。憧れだったひかり姉。彼女に倣って髪を伸ばし始めたのに、みずきの地味な直毛は、豊かに波打ち艶やかなひかり姉の髪にちっとも似付かない。


 あれ以来連絡は取れないが、ひかり姉は無事だったろうか。周辺部から順に調査が入り、保護された住人達は皆、命に別状はないという。だが、主を失った今も眠りから覚めないままだとも。見つけ出せたとして、ひかり姉は目覚めてくれるだろうか。


「それは難しいかもしれないね」


 考えていたことを読み取ったかのような声に顔を上げると、目の前には一人の少女が立っていた。ぼんやりして口に出していたのだろうか? 


 パンツ姿に白いコート。藁色の髪の下で、青い瞳が微笑んでいる。この辺りではまず見かけない外国人。萌が言っていた旅人だろうか。


「誰? どういうこと?」


 見透かされているような不安を覚えながらも、みずきは問いかける。


「クロエ。それが私のかりそめの名前。いなくなった貴属の魔法は、今も残っている。眠り姫は自分を迎えに来てくれる王子様を待つためだけに、領土を広げ国民から精神力を献上させていた。姫がいなくなり、領土の拡張が止まったとしても、茨の国を形作る魔法だけは、この世界に残り続ける」


 この少女は何を話しているんだろう。穏やかな訳知り顔に不安を覚える。


「でも、それでも方法が無いわけじゃない。新しい貴属が生まれれば、主のいない茨の国も、丸ごと自分の領土に塗り替える事が出来る」


「それこそ、出来る訳がないじゃない。そんな事ができるとしたら――」


「それは魔女の所業だろうね」


 じわりと嫌な汗が伝う。下校途中の生徒がいたはずなのに、エアポケットに入ったかのように人通りが途絶えている。


 白いコートの少女は、ポケットから小ぶりな一本のナイフを取り出すと、みずきに差し出した。鞘には波の装飾が施され、柄には青い宝石が埋め込まれている。


「君は願いを叶えたくはないかい?」


 この少女は危険だ。みずきは直感で理解した。


(でも、世界を変えるほどの力を持つ姫に、自分がなれるとしたら? 他でもない、このわたしが)


 断れば、クロエはすぐにでも他の誰かに同じ話を持ち掛けるかもしれない。そうなれば、今まで貴属と無縁でいられたこの街も、違う理の統べる国になってしまう。


「さあ、これは私から君へのギフトだ」


(わたしが選ばれたんだ……断る理由があるの?)


 気が付くと、目の前の少女は消え、みずきはナイフを手にしていた。鞘を払うと、虹色の刀身が姿を表す。


 その瞬間、みずきの頭の中に、膨大な情報が流れ込んできた。世界の仕組み。この世の果て。そして、己が世界の理を改編する術を知っている存在であること。まるで生まれ変わったかのような清々しさ。


 いつの間にか人通りが戻っている。みずきの目には下校途中の学生の頭上に、一匹づつ小さな魚が泳いでいるのが見える。様々な彩を見せるその魚が、それを持つ者の心の在り方だと理解した。


「ちょっと、あなた達」


 みずきの頭上には虹色の魚。少しづつ、少しづつでいい。鱗を献上させ、彩を加えてゆけば、みずきの支配できる海が広がってゆく。みずきを中心に、不意に海水があふれ出した。生徒たちは驚き逃げだそうとするも、広がってゆく海の中では自由な動きが取れない。


「逃げることはないじゃない。少しだけ、鱗をもらうだけよ」


 作り出したまがい物の海の中、泳ぐように距離を詰め、もがく生徒を抱き寄せ頬をなでる。頭上で跳ねる魚からナイフで一削ぎ分だけ鱗を剥がすと、生徒の瞳からは輝きが失われた。


「あら……難しいわね。やり過ぎたのかしら?」


 力を失い漂う生徒。だが、命まで失った訳ではない。


「もう試験や進路で悩むこともないもの。これでいいよね」


 削がれた鱗を加え、みずきの魚の彩が増す。


「こうやっていけば、すぐに茨の国も飲み込める」


 何故茨の国へ行きたかったのか。それさえ忘れたみずきは、領土である海を広げながら泳ぎ続けた。


「みずき?」


 呼びかける声に振り向くと、買い物袋を下げた白髪の幼なじみが、驚いた表情で見つめていた。


「なんだかおかしいよ。このへん水みたいなのがふわふわしてるし、ぼんやりして浮かんでる人がたくさんいて――」


 萌の頭上には白い小さな魚が泳いでいる。何物にも染まらない、純粋な白。


「こんな時って救急車かな? 警察が先?」


 携帯を手に慌てている。危ないことがあったら、何を置いてもまず逃げ出せと教えていたのに。


「ねえ萌、お願い聞いてもらえるかな?」


「うん?」


 異常事態にも関わらず、落ち着いたままのみずきに、萌は不思議そうな顔を返す。白い、きれいな魚。今まで見たどの魚とも違う輝き。この鱗を加えれば、みずきの魚はさらに美しく力強く輝くだろう。


「とても素敵よ。萌、少しでいいの。痛くしないから――」


(さっきは少し鱗を剥がし過ぎたのかも。ちゃんと加減をして、少しだけなら――)


「よう。面白いもの持ってるなぁ」


 水を伝わる敵意に飛びのくみずき。声の主は先ほどの少女――魔女と同じ顔をしていた。


「エルニ! どこ行ってたの? みずき、この子が朝言ってた旅の人だよ」


 不穏な空気を読めないまま、萌が嬉しそうな声を上げる。


「どういう事? さっきの今でもう反故にするつもり?」


 みずきが声を荒げる。だが、よく見ると服装が違う。クロエと名乗った先ほどの魔女と違い、少女のコートは革製でずいぶんくたびれたもので、何よりシアンの瞳に込められた殺気はまるで別人の物。


「さっきの事なんか知らねえよ。どうやら罪をばらまく魔女にも追い付いたらしいな。見たところ生まれたばかりのようだが、お前の国造りはこれで終わりだ!」


 少女の頭上には恐ろしいものが浮かんでいる。鎧にも似た鱗を持つ、龍のようにも蛇のようにも見える古ぶるしい魚。


 みずきは不意に全てを理解した。魔女に魅入られ貴属の力を手に入れたのは、幸運ではなく不運だったのではないか? 何かもっと別の大きな企てに、巻き込まれただけなのではないか?


 先ほどまでの高揚感は微塵も無くなり、焦りがじわじわと恐怖に塗り替えられてゆく。


「この子を捕らえなさい!」


 みずきは作り出した偽りの海の中に存在する、鱗を献上させた者たちに命じた。だが、この力を与えてくれた者と同格と思しき魔女に対し、それは意味のある行動なのか。


 旅人は鞘を払わぬ短剣だけで掴みかかる生徒たちをさばいている。


「残念だったな、人魚姫。もっと時間がありゃあ、居城や海魔だって用意出来たんだろうがな!」


「やめて! 何? どうしちゃったの?」


 事態に追い付けない萌が叫んでいる。みずきもめったに聞いたことのない叫び声。誰を止めれば良いのかさえ分からないまま、泣き出しそうな表情をしている。


 手近にいた生徒たちはみな倒された。魔女の言うように、もう少しでも時間があれば、充分な力を付けることもできたのに。


 エルニが己の影に手を伸ばす。影はエルニの体を拘束着で包み、湧き出した無数の青白い手は漆黒の巨大な両手鎌を捧げる。


「やめて、エルニ! みずきはわたしの親友なの!」


 日傘を放り出し、もたもたと泳ぎながら、両手を広げた萌はエルニからみずきを庇う。


「萌……」


 魔女はわずかに顔をしかめた。萌の頭上には小さいが美しく輝く魚が泳いでいる。


(鱗を奪えば、逃げる時間を稼ぐくらいは――)


「大丈夫……大丈夫だからね……」


 己に言い聞かせるように呟く萌。その語尾と体は震えている。ナイフを持つみずきの右手が止まる。


「今度はわたしが助けるばん――」


 裂帛の気合とともに踏み込んだエルニが鎌を逆薙ぎに払う。みずきの頭上の魚――エルニには鰭をもつ虹色の蛇に見えるもの――は千人の老婆のため息のような泡だけを残し、姿を消した。

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