人魚姫と日常の終わり

「なんだかおかしいよ。このへん水みたいなのがふわふわしてるし、ぼんやりして浮かんでる人がたくさんいて――」


 萌の頭上には白い小さな魚が泳いでいる。何物にも染まらない、無垢むくな処女雪の白。


「こんな時って救急車かな? 警察が先?」


 萌は携帯を手に慌てている。


(あいかわらず、お人好しなんだから。危ないことがあったら、何を置いてもまず逃げなさいって、口を酸っぱくして教えていたのに……)


「ねえ萌、お願い聞いてもらえるかな?」

「うん?」


 異常事態にも関わらず、落ち着いたまま問い掛けるみずきに、萌は不思議そうな表情を浮かべる。その頭上で泳ぐ、白く小さい、きれいな魚。その身体は、今まで見たどの魚とも違う彩で輝いている。この鱗を加えれば、みずきの魚はさらに美しく、力強い輝きを放つだろう。


「とても素敵よ。萌、少しでいいの。痛くしないから――」


(――さっきは少し鱗を剥がし過ぎたのかも。ちゃんと加減をして、少しだけなら)


 戸惑ったままの萌に、手が届きかけた瞬間。


「よう。面白いもの持ってるなぁ」


 みずきは水が伝える敵意に飛びのいた。声の主は、クロエと――魔女と――同じ顔を持っていた。


「エルニ! どこ行ってたの? みずき、この子が朝言ってた旅の人だよ」


 二人の間に流れる不穏な空気を読めないまま、萌は嬉しそうな声を上げる。


「どういう事? さっきの今で、もう約束を反故ほごにするつもり?」


 少女の敵意のこもった視線を受け、みずきは声を荒げた。だが、よく見るとさっきと服装が違う。クロエと名乗った魔女と違い、目の前の少女のまとうコートは革製で、ずいぶんくたびれたもの。何よりシアンの瞳が放つ殺気は、まるで別人の物だ。


「さっきの事なんか知らねえよ。いや、ナニか? どうやら罪をばらまく魔女にも追い付いたらしいな。見たところのようだが、お前の国造りはこれで終わりだ!」


 エルニの頭上には恐ろしいものが浮かんでいる。よろいにも似た鱗を持つ、龍のようにも蛇のようにも見えるふるぶるしい魚の姿。


 みずきは不意に全てを理解した。魔女に魅入みいられ貴属きぞくの力を手に入れたのは、幸運ではなく不運でしかなかったのではないか?

 選ばれた訳ではなく、何かもっと別の大きな企てに、巻き込まれただけなのではないか?


 先ほどまでの高揚感こうようかん微塵みじんも無くなり、焦りがじわじわと恐怖に塗り替えられてゆく。


「この子を捕らえなさい!」


 みずきは、生み出したまがい物の海の中に浮かんでいる、鱗を献上させた者たちに命じた。数十人からの従者が、みずきの意のままにエルニに襲い掛かる。だが、この力を与えてくれた魔女と同格と思しき存在に対し、それはどれほど意味のある行為だろうか。


 エルニはさやを払わぬ短剣を振るい、掴みかかる従者達をさばいている。


「残念だったな、人魚姫にんぎょひめ。もっと時間がありゃあ、堅牢けんろう居城きょじょうや強大な海魔かいまだって用意出来たろうにな!」

「やめて、みんな! 何、どうしちゃったの?」


 萌は事態に追い付けないまま叫んでいる。萌が大きな声を出すのは、みずきも数える程しか耳にした事がない。誰を止めれば良いのかさえ分からないまま、萌は泣き出しそうな顔で叫び続けている。


 手近にいた従者達はみな倒された。この少女自身も貴属なのか、それ以上の存在なのかは分からない。だが、エルニの言うように、もう少しでも時間があれば、迎え撃つ充分な準備を整える事も出来たはずなのに。


(不公平じゃない! せっかく貴属になれたのに! なんで、なんでこうなるのよ!!?)


 エルニが己の影に手を伸ばす。影はエルニの体を無数のリボンで縛り、拘束着めいた道化服を着せる。き出した無数の青白い手は、影の底から漆黒の巨大な両手鎌を、黒い魔女へとうやうやしく捧げた。


「やめて、エルニ! みずきはわたしの親友なの!」


 エルニの明確な害意を察した萌は、日傘を放り出し、偽りの海をもたもたと泳ぎ、二人の間へと割り込んだ。両手を大きく広げ、逆刃の鎌を大きく引いたエルニから、みずきの身をかばう。


「萌!?」

「お前……」


 エルニはわずかに顔をしかめた。

 みずきの目の前で、萌の頭上に小さいが美しく輝く魚が泳いでいる。


(鱗を奪えば、この魔女から逃げる時間を稼ぐくらいは――)


「大丈夫……大丈夫だからね……」


 みずきを安心させるように、己に言い聞かせるように。萌は小さくつぶやく。その語尾も身体も小刻みに震えている。


 それに気付き、萌の心の魚へと伸ばしかけていた、ナイフを持つみずきの手が止まった。


「今度はわたしが助けるばん――」


 涙交じりでみずきへ振り返る萌。


(まったく。あんたはどうしてそうお人好しなのよ)


 泣き笑いの表情で、みずきはため息を漏らした。


 裂帛れっぱくの気合とともに踏み込んだエルニが、鎌を逆薙ぎに跳ね上げる。

 みずきの頭上の魚――エルニには長いひれをもつ虹色の蛇に見えるもの――は、千人の老婆のため息のような泡だけを残し、みずきの意識と共に姿を消した。

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