陸話 救いの涙
有原琴美の遺体を最初に発見したのは、帰宅した母親だった。
母親が帰宅した時点ですでに犯人の姿は無く、後に残されていたのは、体を大きく欠損した娘の亡骸と、まるでペンキでもをぶちまけたかのように一面が赤く染まった室内だけだった。
あまりにも衝撃的な光景に、母親は警察の聴取に対し、半ば錯乱しながら「娘だとは、すぐには分からなかった」と語ったという。そのことが、事件の凄惨さを何よりも物語っていた。
警察の捜査によって、一階の和室の窓に、外から特殊な器具を使って開けられた形跡が見つかり、犯人はそこから侵入。息を潜め、帰宅した琴美を襲ったとみられる。
琴美の遺体に残されていた傷跡が、昨日の公園の事件の被害者のものと酷似しており、二つの事件は同一犯による犯行と断定された。
被害者同士に接点が見当たらないことから、この事件は怨恨ではなく快楽殺人である可能性がより強まり、いつ被害が自分に及ぶかも分からぬ状況に、住人達は大きな恐怖を感じている。
数日後。有原琴美の通夜が営まれることとなり、通夜には親類の他、クラスメイトや教師陣といった多く学校関係者が参列。
その中には幼馴染である吾妻春彦と、事件の直前まで一緒にいた友永開人の姿もあった。
あまりにも突然で残酷な琴美の死に、彼女を知る誰もが胸を痛め、涙を流す。
皆から愛され、いつも笑顔だった琴美を喪ったことで、参列者の心には例外なく大きな穴が空いてしまったようだった。
「……くそっ!」
通夜が終わり、人気のないセレモニーホールの裏手で、春彦はやり場の無い怒りを建物の外壁へとぶつける。叩く力が強かったため、その手には血が滲むが、怒りのあまり春彦はそのことには気づいていない。
「わけわけんねえよ! 何で琴美があんなことに……この前まで、すぐ隣にいたのに……」
春彦の目には涙が滲んでいる。悲しみ、怒り、困惑。様々な感情がその涙には混じっていた。
春彦はそんな感情を振り切るかのように、何度も拳を打ち付ける。
「落ち着くんだ春彦」
見るに堪えず、開人は力づくで春彦の腕を取り、その行動を制した。
「俺は、お前みたいに冷静じゃいられないんだよ!」
春彦は涙に濡れた顔で開人を睨み付けた。琴美の死を受けても開人は涙一つ見せていない。どうしてここまで冷静でいられるのか、春彦は理解に苦しんだ。
「……冷静なわけないだろ」
開人は春彦の胸倉を掴み上げ、複雑な胸中を吐露する。
「琴美ちゃんは僕と別れた直後に殺された。僕がもっと注意していれば、こんなことには……」
「開人……」
涙こそ見せなかったが、開人は自らの不甲斐なさを嘆き、怒りに体を震わせていた。ここまで感情を露わにする開人を見たのは、春彦も初めてだった。
そんな開人の姿を見て、春彦は自分の愚かさにも気づく。無意識のうちに、付き合いの長い自分の方が琴美の死をより悲しんでいると思っていた。だけど、救えたかもしれないという後悔を滲ませる開人の心境もまた、辛いものに違いない。
「……悪かった。お前の気持ちも考えずに」
「……気にしなくていい。それよりも、手は大丈夫かい?」
「ああ」
春彦は短く頷くと、ポケットから取り出したハンカチで右手を覆った。
互いの感情を理解したことで、二人は少しだけ冷静さを取り戻し、壁にもたれかかって夜空を見上げる。
「……こんな時に言うのもなんだけどさ。琴美は開人に惚れてた」
数分の沈黙の後、春彦が静かに語り出した。
言うべきかどうか悩んだが、琴美の想いを知る身として、伝えずにはいれなかった。もう、彼女にはそれを伝える術が無いのだから。
「気づいてたよ。琴美ちゃん、けっこう分かりやすいから」
「……そっか」
開人のような鋭い男が気付いていないはずがない。自分のような鈍い男でも、琴美の気持ちに気がついていたのだからそれも当然かと、春彦は苦笑する。
「もしもさ――」
言いかけて、春彦は口を噤ぐ。
勢いで「もしも琴美に告白されていたら、どうするつもりだった?」と聞いてしまいそうになったが、流石にそれは思い留った。開人のためにも琴美のためにも、そこには踏み込むべきではないだろう。
「何だい?」
「いや、やっぱり何でもない」
開人の肩に触れると、春彦は踵を返し首を鳴らした。
「俺、戻るわ」
通夜は終わったが、会場にはまだ多くの関係者が残っていた。そこには春彦の両親や妹もおり、そろそろそちらに合流しなくてはならない。
「……なあ、開人」
立ち去り際に、春彦は背を向けたまま押し殺したかのような声を出す。
「犯人、許せねえよな」
「そうだね」
「殺してやりたいよ」
「……」
二つ目の言葉には応えなかった。気持ちは痛いくらい分かるが、この場で同意してしまったら、春彦に道を踏み誤らせてしまうかもしれない。そう不安を感じる程に、今の春彦の言葉には明確な殺意が宿っている。
元より開人の返答に興味など無かったのか、春彦は足早に会場内へと戻っていった。
――春彦。せめて君だけは、日常に留まっていてくれ。
これ以上、友人の未来を閉ざさせたくはない。それが開人の願いであった。
春彦が去った後も、開人はしばらくその場に留まっていた。会場には琴美の親族を中心にまだ関係者が残っている。親しい友人である開人にもそこに加わる資格はあったが、琴美を救えなかった自責の念がそれを良しとはしなかった。
「そこにいるのは誰?」
開人しかいなかった建物の裏手に一人の女性が姿を現した。人がいるとは思わなかったのだろう。時期が時期だけに声には警戒心が混じっている。
「友永です」
「友永くん?」
暗がりの中に開人の顔を確認し、姿を現した女性――美織は警戒を解く。
「友永くんはどうしてここに?」
「さっきまでここで、春彦と話してました」
「そっか」
人の目のある会場内ではしにくい話しもあったのだろうと美織は察した。実際、琴美も人目を気にして、静かなこの場所までやってきたのだから。
「先生は、泣き場所を求めて来たんですね」
「分かる?」
まるで、心の中を見透かされているようだった。
「今にも泣きそうな顔をしています」
「……うん」
開人に指摘されたことがきっかけとなり、美織の瞳が潤み始める。
教師という立場上、より辛い心境のご家族の前で涙を見せてはいけないと思い、通夜の間は必死に涙を堪えていた。
まだ出会って数日だったが、美織は琴美の明るさに勇気づけられ、笑顔には癒しを感じていた。教師と生徒として、まだまだ共に過ごす時間はたくさんあったはずなのに、その時間は永遠に失われてしまったのだ。
あの子には将来があった。将来は大好きな演劇の道に進んだかもしれないし、結婚して幸せな家庭を築いたかもしれない。そんな彼女の無限の可能性は、卑劣な犯罪者によって理不尽に閉ざされてしまったのだ。
教育者として、大人として、一人の女性として、琴美の死は耐え難い苦痛だった。
「ごめんね。先生なのに生徒の前で……涙なんて」
必死に涙を堪えようとするが、一度溢れ出した感情はなかなか止まってはくれない。一筋の雫が美織の頬を伝い、地面へと落ちる。
「堪える必要なんてないですよ」
「えっ?」
いつも淡々としている開人の口調が、この時だけは優しかった。その優し気な語り口は、美織の憧れたあの先輩を彷彿とさせるものでもある。
「泣くことは心の整理でもあります。思考を停止し無心で泣き続ける。悲しい時にはそういう時間は絶対に必要です。大人も子供も、教師も生徒も、男も女も関係ありません」
「……泣いてもいいのね?」
「僕が許します」
その言葉を受けて、美織の涙腺は完全に崩壊した。瞳からは止めどなく涙が溢れ、美織の顔を濡らしていく。目元が真っ赤に腫れていたが、涙は一向に止まってはくれない。
開人の言う通り、泣いている間は美織は頭の中を空っぽに出来た。泣くという行為そのものが救いのようにも思えた。
――僕の分も泣いてくれてありがとう。
美織の涙に、開人もまた救いを感じていた。
開人はどんな時でも涙を流すことは無い。どれだけ深い悲しみを感じようとも、それは涙という形には変わってくれないのだ。
そんな開人には今の美織の姿が、泣けない自分の分も涙を流してくれているように映っていた。
もちろん美織にそんなつもりはだろうし、ただの自己満足だと理解している。
それでも、自分で泣くことが出来ない以上、誰かに縋るしかしないのだ。
最後に泣いたのはいつだったのか、開人自身ももう覚えていない。
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