伍話 少女の恋は終わりを迎える
琴美は、開人と初めて出会った頃のことを思い出していた。
地元中学出身者がほとんどの新入生の中にあって、入学と同時に渚町へと越してきた開人はいわば新顔。インパクトのある白髪の印象も手伝い、新入生の中ではかなり目立つ存在であった。
幸い白髪の理由は早々に生徒達にも伝わり、開人自身も口数こそ少ないが人当りは悪くなかったので、トラブルのような事は起こらずに済んだ。
この時点ではまだ、琴美は開人と親しいわけではない。席も離れていたし、委員会や部活などでも接点は無く、開人に対しては口数少ないクラスメイト程度の印象しか持っていなかった。
琴美が開人の存在を強く意識するようになったのは、入学から二週間が経った頃のことになる。
この日、琴美は学級委員長としての業務があり、昼休みに大量のプリントをコピーし、職員室へと運ぶことになっていた。
琴美は中学時代から率先してリーダー的な役割を行っており、頼れる存在として皆に慕われていた。そんなリーダー気質の影響か、琴美は周りに負担をかけないよう、なるべく自分だけで仕事を済ませようとする傾向にあった。
一声かければ友人達も快く手伝ってくれるだろうに、この日の作業も誰にも告げず、全て一人で行うつもりだった。
しかし、コピー自体は機械作業だからいいとしても、大量のプリントを職員室へと運ぶのは、一人では骨の折れる作業だ。コピー機のある作業部屋は一階にあり、対して職員室は二階。階段を乗降しないといけないので尚更大変だ。
実際、担任も作業を琴美に頼む際に、「一人じゃ大変だから誰かに手伝ってもらうように」と念は押していた。
「よし、運ぶぞー」
結局誰に助力を求めるでもなく、コピーを終えた琴美は、一人でプリントの山を運ぶことにした。
一人でも何回かに分けて運べば問題ない。そう考えて琴美が、一回目に運ぶ分を小分けにしていると、突然扉がノックされ一人の男子生徒が姿を現す。
「やあ、有原さん」
「と、友永くん?」
誰にも作業のことは知らせていないのに、どうして開人が現れたのか琴美には疑問だった。普段から親しくしているというわけではないので、手伝いに来てくれたという発想は最初から抜け落ちている。
「何しにきたの?」
「手伝おうかと思って」
「別にいいよ。あとは職員室までプリントを運ぶだけだし」
「じゃあ半分持つよ」
「別にいいって――」
琴美が止めるのも聞かず、開人はプリントの山を抱えて持ち上げた。持ち上げられた分を取り上げるわけにもいかず、琴美もとりあえずは残りのプリントの束を抱えることにした。一人増えたことで、プリントは一度に全て持ち出せた。
「……どうして私が作業してるって分かったの? 誰にも言ってなかったのに」
階段を昇りながら、隣を歩く開人に尋ねる。
「ホームルームの後、廊下で有原さんが先生と話しているのが聞こえてたから」
「だからって、わざわざ手伝いに来てくれたの?」
「強いて言うなら、図書室に本を返しにきたついでかな」
「どういうこと?」
「どうせ僕も二階に戻るから、そのついでにってこと」
図書室は一階にあり、一年生の教室は二階にある。どうせ二階に戻るのだから、同じ階にある職員室までプリントを届けるのも大差ないというのが、開人の言い分だ。
「そういうものかな?」
「そういうものだよ」
そんなやり取りを交わしている間に二階へと上がってきた。職員室はもう目の前だ。
「手伝ってくれてありがとう」
「お礼なんでいいよ。くどいようだけど、ついでだから」
この時点で琴美の開人に対する印象は、口数少ないクラスメイトから意外と優しいクラスメイトへとランクアップしていた。
開人はプリントを運ぶ際、口では「半分持つよ」と言いながら、実際には三分の二近い量を抱えてくれていた。手伝ってくれたのは本当についでだったのかもしれないが、開人の振る舞いには確かな思いやりが感じられたのだ。
「友永くんとこんなに話したのは初めてだね」
「言われてみれば確かに」
職員室の前まで来ると、今更過ぎる事実に二人は顔を見合わせて笑った。
琴美が開人の笑顔を見たのはこの時が初めてで、素直に素敵だと思えた。
これが、琴美が初めて開人を強く意識した瞬間である。
この日から琴美は開人と顔を会わせる度に挨拶を交わすようになった。だけど、まだその程度の関係だ。
次に転機が訪れたのは五月。一学期の中間考査が終わった直後のことになる。
考査終了の翌日。それまで名簿順だった席順が、くじ引きによって席替えされることになった。残念ながら琴美は開人の近くの席にはなれなかったが、琴美の幼馴染である春彦が開人と隣同士になり瞬く間に意気投合。二人は友人同士となる。その結果、春彦を介すことで、琴美が開人と会話する回数は格段に増えた。
近くで接すれば接するほど、友永開人という少年に琴美は惹かれていく。
開人は読書家で物語への造詣も深く、演劇部である琴美には開人の言葉がとても刺激になった。
当初は口数少ないと思っていた開人も実はユーモアに溢れており、突拍子もなく面白いことを言ったりする。普段は大人びて見えるため、そのギャップがとても面白い。
琴美にとって、毎日が発見の連続だった。
夏休みに入ると、各々の友人も誘って大人数で海水浴に出かけたりもした。夏祭りには三人で赴き、春彦の出場する水泳大会にも応援に行った。
気づいた時には、幼馴染である琴美と春彦に開人を加えた三人が、いつものメンバーとなっていた。呼び方が苗字から名前に変わったのもこの時期だ。
琴美が開人に対する想いを自覚したのは、二学期が始まった頃になる。
開人に対する想いは他の男子へのそれとはまるで違っていた。有り体に言えば、ときめきを感じていたのだ。
これまで琴美は異性に惹かれるという経験が無かった。幼稚園のころには幼馴染の春彦と結婚を約束したこともあったが、それは恋を理解していない幼少期の戯れであり恋愛とは違う。
大人へと近づき、恋というものの意味が理解出来るようになってからの最初の恋。琴美の開人に対する恋愛感情は、彼女にとっての初恋でもあるのだ。
何度も告白しようと思った。だけど、居心地のいい今の友人関係を壊したくなくてその都度先延ばしにしてきた。
やきもきしている間に二年生へと進級し、開人たちと過ごす二年目の高校生活が始まってしまった。来年は受験などで恋どころではなくなってしまうかもしれない。今こそが勝負の時期なのだと琴美は考えている。
「――琴美ちゃん」
黙り込んだでしまった琴美の様子が気になり、開人が呼びかける。
学校を出て二人で商店街の方まで歩いてきたのだが、琴美が突然心ここにあらずといった様子で放心してしまい、開人は戸惑っていた。
「琴美ちゃん」
「ご、ごめん。考え事してた」
二度目の呼びかけで琴美は我に帰る。二人きりで帰るのは久しぶりだったので、ついつい出会ったころの思い出に浸ってしまっていた。
「開人くんと出会って、もう一年になるんだね」
「初めて話したのは、プリントを運んだ時だっけ?」
「そうそう。開人くんがついでだからって、運ぶのを手伝ってくれたの」
思い出話が始まると、開人の表情も自然と綻んだ。開人にとって、高校生活の一日一が大切な青春の思い出だ。琴美との出会いを、春彦との出会いを、これまで出会ってきた全ての人達との出会いを、開人はしっかりと記憶に焼き付けている。
「ねえ、コロッケ買っていこうよ」
せっかく商店街を通るのだ。総菜屋さんのコロッケを買い食いしなければ渚町の学生とはいえない――というのが琴美の持論だ。
「いいよ。僕もちょうど小腹が空いたところだし」
意見が一致し、二人は商店街の総菜屋さんへと向かった。
琴美は店の一番人気でもあるシンプルなポテトコロッケを。開人はカレー風味の味付けで幅広い層に人気のあるカレーコロッケをそれぞれ購入。
商店街に設置されている木製のベンチに腰掛け、休憩を兼ねたおやつタイムを開始した。
「うん。このコロッケはやっぱり最高!」
幼少期から何度も食べているはずなのに、飽きたことは一度も無く、何度食べても美味しいと感じられる。そんな総菜屋さんのコロッケが、琴美は大好きだった。
「見てるこっちまで楽しくなっちゃうよ」
これだけ美味しそうに食べてもらえたら、お店の人も大満足だろうと開人は思う。もちろん琴美の感想には開人も同意見で、琴美と春彦に勧められて以来、開人も店のリピーターだ。
「開人くんのはカレー味だっけ?」
「うん。ピリ辛で美味しいよ」
ここで琴美は、勇気を振り絞って一つの提案をすることにした。
「一口もらってもいい?」
演劇部での鍛錬の
「どうぞ」
開人は躊躇いなく自分の分のコロッケを琴美の方へと差し出す。
このまま開人からコロッケを受け取って一口だけいただこう。琴美はそう考えていたのだが、テンパっていたためか、自分でも思いもよらなかった行動に出てしまう。
気づいた時には、開人が差し出したコロッケを直接口にしていた。
傍から見たら、カップルが食べさせあいをしているように映ったかもしれない。
「ご、ごめん。あまりにも美味しそうだから、思わず
咄嗟に口を突いた言葉で、洒落っぽく誤魔化す。
そんな琴美を見て、開人は一瞬キョトンとしたが、すぐに穏やか微笑みを浮かべ、琴美にちょっとした感想を求める。
「お味の方は如何だったかな?」
「凄く美味しかったです」
口の中には豊かなカレーの風味とジャガイモの甘さが広がり、後からやってくる辛みが程よいアクセントとなっていた。
それが、カレー風味のコロッケの感想。
胸が高鳴り、気恥ずかしさと嬉しさが混在して、頭の中がちょっとしたパニック状態と化した。
それが、初めての間接キスの感想。
「送ってくれてありがとうね」
琴美の自宅がある住宅街までやってくると、琴美は後ろ手に組み開人の方へと振り返る。
「家の前まで送るよ」
「ここまででいいよ。家まですぐだし」
琴美の家まではあと100メートル程度。ここまで送ってもらえばもう十分だ。本人がいいと言っているので、開人もそれに同意した。
「開人くん、今日は楽しかったよ。ありがとうね」
「どういたしまして」
「それじゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
互いに手を振り合い、二人はその場で別れた。
「ただいまー……って、お母さん出かけてるんだった」
琴美は一声かけて帰宅したが返事は来ず。すぐに、母親は用事で隣町に住む祖父母の家へと出かけていたことを思い出す。そんなに遅くはならないと言っていたので、そのうち帰って来るだろう。
「デートみたいで楽しかったな」
琴美は靴を脱ぐと、スキップで廊下を進んだ。さっきは自分でも驚くほど大胆な行動をしてしまったけど、これならいけるかもしれないと、密かに自信を膨らませた。
二週間後。演劇部は地域交流会の場でオリジナルの劇を演じる予定で、琴美はそこで初主演を任されることになっている。昨日の事件の影響で部活が中止になり、練習時間は減りそうだが、すでにセリフは全て暗記し演技のイメージも固まってきている。
初主演をやりきったならば、それは相当な自信になるだろう。だからこそ劇の後には勢いそのままに開人に告白しようと、琴美はそう決めていた。
劇をやりきった達成感に背を押してもらうのもどうかとは思ったが、それぐらいしないとまた適当な言い訳をして告白を先延ばしにしてしまいそうな気がする。
今日の行動で自信も増した。結果はどうあれ、二週間後の劇の後には絶対に告白する。これはもう琴美の中では確定事項だ。
「まだジュース残ってたかな」
高揚した気持ちを落ち着かせるために、琴美は水分補給することにした。
冷蔵庫にオレンジジュースが残っていたはずなので、それを飲もうと冷蔵庫の扉に手をかけようとするが、
ガサッ!
背後で衣擦れのような音がした。母親が帰って来たのだろうかと思い、琴美が振り返ると、
「えっ?」
眼前に飛び込んできたのは、黒いパーカーに身を包み、顔の上半分を白い仮面で覆った男の姿だった。その背にはゴルフバッグのような物を背負い、手にはサバイバルナイフが握られている。
男がどこから侵入したのかは琴美には分からない。だが、男が昨日の事件の犯人なのではという思考に行きつくのに、それ程時間はかからなかった。
「誰か――」
恐怖に負けず、琴美は咄嗟に大声を上げようとするが、手袋をした大きな手に口元を塞がれ、そのまま力ずくで壁に叩き付けられてしまう。
「――ん!」
男は声を出す自由さえも奪われた琴美の喉元へサバイバルナイフをあてがい、嗜虐的に嗤う。
琴美は必死に暴れて抵抗するが、男の力はかなりのもので、琴美の細やかな抵抗を楽しむ余裕すらも持っていた。
――誰か! 誰か助けて! お願いお願いお願いお願いお願い!
「いい顔だ」
瞬間、男は琴美の喉を一気に裂いた。
裂けた喉から大量の鮮血が吹き出し、男が押さえつける力を弱めたことで琴美の体が床へと崩れ落ち、痙攣し小刻みに震えた。
喉を裂かれ声を発せない。痛みのあまり体もまともに動かせない。残された僅かな意識も、止めどなく溢れる鮮血と一緒に流れ出ていく。
――痛い……痛いよ……
何故自分がこんな目に遭っているのか、どうしてこんなに痛いたのか、わけも分からぬまま、琴美の意識は徐々に薄れていく。
「お楽しみはこれからだ」
心底嬉しそうに笑いながら、男はゴルフバックから大ぶりな刃物を取り出した。形状は鉈に近いが、どこか機械的な外見をしている。
――開人くん……
薄れゆく意識の中、曇りかけた琴美の瞳には鉈のような刃物の腹を舌で撫でる男の笑い顔。
これからあれで斬られるんだと、琴美は自らの運命を悟った。
――かいとくん……
男は渾身の力を込めて、鉈のような刃物を琴美の体へと振り下ろした。
――かい……
この瞬間、琴美の意識は二度とは這い上がれない深い闇の底へと落ちて行った。
最後にもう一度、想い人の名を呼ぶことも叶わぬままに……。
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