肆話 夢と現と思い出と

「先輩は、本当に読書が好きなんですね」

 

 美織は学生時代の夢を見ていた。そこには16歳の時の美織がいて、視線の先にはハードカバーの小説に読みふけっている先輩の姿もある。文芸部で活動していた頃の、何気ない日常の一コマがその空間には流れていた。

 先輩はいつだって本に夢中で、文芸部内での活動も、オリジナルの作品を執筆するよりも、既存の作品に対する論評を書くことの方が多かった。書くよりも、読んで理解を深めることの方が好きな人なんだなというのが、美織の一貫しての印象だ。


「前に、昔は体が弱かったと言ったよね。当時はまともに運動なんて出来なかったし、趣味らしい趣味は読書しかなかったんだ。でも、慣れというのは厄介だね。体が自由になっても、僕は読書の魅力から抜け出せないでいる。さながら本の奴隷だよ」

「本の奴隷ですか。詩的ですね」


 大人びているようで、時折こういう冗談を言ってくるところに美織は惹かれている。

 重い女と思われるかもしれないが、望めるなら先輩と同じ大学に進みたいと考えていた。先輩は成績優秀で、国立も十分狙えると教師陣から太鼓判を押されている。きっと、レベルの高い大学の文学部に進むものだと誰もが思っていた。


「先輩、進路はどうされるんです? やっぱり、どこか有名どころの文学部に?」


 思い切って美織は本人にそう尋ねてみた。志望大学を教えてもらえたら、自分もそれを目標に頑張れるような気がしていた。

 だけど、先輩から返って来た答えは、思いもよらぬもので。


「僕は、進学する気は無いんだ」

「……そうなんですか?」


 確かに、周りが勝手に決めつけているだけで、先輩自身が進学を公言しているのを美織は見たことが無かった。


「どうして? 先輩くらい優秀ならどこにだって……」


 進路を決めるのは個人の自由だし、人それぞれ事情もあるだろう。聞くだけ野暮なのは承知だが、それでも質問せずにはいられなかった。


「まだ足りないんだよ」

「足りない?」


 いったい何が足りないというのだろう? 成績だろうか? 出席だろうか? それとも覚悟の類だろうか? いずれにせよ先輩に何が足りないのか、美織には疑問だった。


「青春が足りないんだ」

「どういう意味ですか?」


 先輩お得意の詩的な表現かとも思ったが、言葉の意味は美織には理解出来なかった。


「僕はね――」


 ジリジリジリジリジリジリ!!!


 不意に枕元から聞こえて来た規則的な音に、美織の意識は覚醒した。

 音の正体は目覚まし時計だ。休日以外はいつも朝の5時半にセットしている。


「夢か……」


 重たげな瞼を擦りながら、今まで見ていた光景が夢であったことを知覚する。夢というよりは、呼び起こされた記憶といった方が正確かもしれない。似たようなやり取りを先輩と交わした記憶が、美織には確かに存在する。


「先輩はあの時、何を言おうとしたんだろ」


 もう10年も前のことなので、一部思い出せない記憶もある。先輩が言った「青春が足りないんだ」の続きもその一つだ。


「顔でも洗おう」


 眠気覚ましと気持ちの切り替えを兼ねて、美織は洗面所へと向かった。


「……まだ犯人見つかってないんだ」


 歯磨きをしながら朝のニュースを確認すると、昨日、渚町内で起こった殺人事件に関する内容が報道されていた。帰宅する頃にはすでに町中で噂となっていたので、美織も事件が起こったこと自体は把握していたが、疲れていて早めに眠ってしまったため、詳細までは知らなかった。

 報道される事件の内容に表情を強張らせてると、美織の携帯へと着信が入った。表示されている名前は「青上高校」とある。


「はい。須々木です」

「須々木先生ですね。教頭のもりです」


 声の主は、青上高校の森教頭のものだった。


「突然で申し訳ありませんが、普段よりも早く出勤できますか?」

「もしかして、昨日の事件の件ですか?」

「はい。犯人が捕まっていないこともあり、当校でも緊急の職員会議を行うこととなりまして」

「分かりました。準備が整い次第向かいます」


 通話を終えると、美織は手早く仕事着に着替え、簡潔に化粧などの身支度すませた。


 ――何も起こらなきゃいいけど。


 赴任二日目にして、美織は大きな不安を感じていた。




 青上高校の校内は、昨日の事件の話題で持ちきりだった。

 生徒の中には遺体の第一発見者である中学生の身内もいたようで、報道などでは語られていない生々しい情報も一部では出回っている。

 それによると、被害者は右腕は完全に切断。腰回りの肉が大きく抉れ、一部の内臓が露出。一見しただけでは性別が判別できない程に、顔も傷つけられていたのだという。

 あまりにも猟奇的過ぎるその内容に、始めは刺激的なゴシップとして楽しんでいた生徒たちも一様に顔を顰め、純粋な恐怖として事件を捉えるようになっていた。

 おそらくは他の学校や職場――町全体がこの事件に恐怖を感じていることだろう。それだけ昨日の事件は衝撃的過ぎた。


「みんなも知っていると思うが、昨日、渚東なぎさひがし公園で殺人事件が起発生した。犯人がまだ捕まっていないこともあり、当校としても生徒の安全を第一に考え、幾つかの対策を取ることになった――」


 いつになく真剣な面持ちの網川が朝のホームルームでそう告げる。網川の隣には副担任の美織も控えており、地元であるこの渚町で起こった異常事態に心を痛めているようだった。


「とりあえず今週いっぱいは、放課後の部活動や委員会活動を休止することに決まった。放課後は速やかに下校するように」


 一部の生徒からは不満気な溜息が漏れたが、事情を理解してか明確な反発の意志を示す者はいなかった。早く状況が落ち着き、心置きなく部活などが行えるようになることを期待するしかない。


「強制ではないが、日が暮れてからの外出も極力控えるように。夜間の外出の際は、保護者同伴が望ましい」


 渋々といった様子で生徒達は頷いた。新学期早々に行動を制限されるのは苦痛だが、それもほんの数日の辛抱だろうと楽観視している面もあった。来週あたりにはきっと、この話題もだんだんと隅に追いやられ、平凡な日常が戻って来るに違いないと。




「帰りはどうしようか?」


 放課後の教室で、琴美がお馴染みのメンバーである春彦と開人に尋ねた。今日からは普通授業なので、放課後ともなれば時間帯は夕暮れ時に近い。


「悪い。今日は妹を迎えにいかないといけないから、俺は一緒に帰れない」


 申し訳なさそうに両手を合わせたのは春彦だった。彼には三歳年下の妹がいて、町内の中学校に通っている。


「そっか。おじさんとおばさん、仕事で帰りが遅いもんね」

「そういうこと。こんな時だし、俺が代わりに迎えに行ってやらないと」


 学校の対応はどこも似たり寄ったりで、町内のほとんどの学校が放課後の部活や委員会を中止。登下校は保護者による送迎を推奨している。春彦の家は両親共働きのため、状況が落ち着くまでは春彦が妹の中学校に向かい、そこから一緒に帰宅することに決まっていた。


「なんなら私達も一緒に行こうか?」

「申し出はありがたいけど、とりあえずは大丈夫だ。お前らは二人で帰ってくれ」


 春彦は手短にスクールバックに机の中身をしまうと、そっと琴美に顔を近づけ、開人に聞こえないように耳打ちした。


「たまには開人と二人きりも悪くないだろ」

「ばかっ!」

「あだっ!」


 したり顔の春彦が妙にむかついたので、琴美は春彦のすねに蹴りを打ち込んでやり、春彦は痛みに悶絶する。


「何をしているんだい?」


 二人のやり取りは聞こえていなかったので、開人は不思議そうに様子を見守っていた。


「そういうわけで俺は先に行くわ。また明日な、二人とも」


 そう言い残し、春彦は足早に教室を立ち去っていった。


「それじゃあ、僕たちも帰ろうか」

「う、うん。そうだね」


 いつもの快活さは成りを潜め、どこか緊張した様子の琴美は、年頃の乙女そのものだった。


「あら。有原さん、友永くん」


 廊下を歩いていると、二人は反対側から歩いてきた美織と顔を会わせた。


「今から帰り? 吾妻くんの姿が無いみたいだけど」

「今日は妹ちゃんを迎えに行くみたいで、先に帰りました」

「こんな状況だものね。吾妻くん、妹さん思いね」

「ノリは軽いけど、けっこう良い人ですから」


 幼馴染で付き合いが長く、普段は憎まれ口ばかり叩き合っている琴美と春彦だが、同時に互いの良い面もいっぱい知っている。

 そういう近しい関係だからこそ、春彦は琴美の開人に対する思いにもすぐに気付いたのかもしれない。


「先生、一つお尋ねしてもいいですか?」

「何、友永くん」


 口では平静を装っていたが、美織は内心動揺していた。開人の方から言葉をかけてきたのはこれが初めてだったからだ。


「委員会は中止だそうですけど、図書室は空いてますか? 帰る前に返しておきたい本があるんですが」

「生徒はいないけど、司書の方はいらっしゃるから大丈夫だと思う」

「分かりました。ありがとうございます」

「本が好きなの?」

「はい、読書が趣味でして」


 やはり彼も読書が好きなんだなと美織は納得した。慣れとは恐ろしいものだ。開人と先輩との共通点が増える度に、そのことに驚かなくなっている自分がいる。


「それじゃあ先生またね」

「ええ、また明日」

「友永くんも、また明日ね」

「はい」


 美織に挨拶を済ませると、琴美と開人は図書室の方へと歩いていった。

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