花喰い娘と夢を喰う魔物 -4


 洗い立てのシーツが物干し竿にかけられ、風に揺れています。くすんだ赤色の絨毯と毛布が仲良く並び、陽光を浴びていました。

 窓からその光景を見下ろしていたわたしは、身を引き、部屋を見渡します。

 絨毯が剥がされ剥き出しになった床に、毛布のないベッド。円形の机に二つの椅子。そのうちの一つは、魔物さんが拾って修復した椅子です。花瓶に花は挿しておらず、かごのりんごは朝食に頂きました。

 窓際に掛けた箒を、手に取ります。

 窓の外の光景は変わらなくとも、わたしの気持ちは移ろいます。初めて魔物さんと出会った日、森へ行った日、騎士の子どもとカラカラ姫の物語を聞いた日、魔物さんと約束した日、カラカラ姫が星の海を泳いだ日。

 花喰い娘とお別れをした日。

 そして、鏡の中のわたしと出会った日。

 優しい日も寂しい日も楽しい日も怖い日も、全てわたしの記憶で、わたしの糧で、わたしがこうして立っていられる理由となっています。

 逃げ込んだこの場所を愛しく思える日が来てしまうとは、思ってもいませんでした。

 箒で床を掃いていきます。ゆっくりと丁寧に、ベッドや机の下と隅々まで。思い出を辿るよう、この塔で過ごした日々を忘れないように。

 掃除をして理解したことがあります。箒を握るわたしの手は、働く人たちとは違う手でした。

水仕事や庭仕事を続けたからこそ、彼らの手は荒れています。対して、わたしの手は傷ひとつありません。

 この手は、多くの人に守られてきました。

 これから先、誰かの顰蹙を買うこともあるでしょう。羨望や侮蔑の眼差しを向けられる日も来るのでしょう。

 贅沢をするのならば、それ相応の行いをしなければいけません。自分を律しなければいけない日々が待っているのでしょう。

 魔物さんは、近い未来、違った形で汚れていくかも知れない手に、何度も口づけをしてくださいました。

 最初は小指同士を絡め、そのうち薬指に口づけをしてくださるようになりました。

 海の歌を口ずさみながら、扉の外まで掃いていきます。部屋を見回し、掃き忘れがないか確認した後、箒を壁に立て掛けて、代わりにブラシの柄を掴みます。石鹸水が入ったバケツにブラシを入れて、石敷きの床をこすりました。

 ハーブの匂いを漂わせながら床を磨いていきます。魔物さんに教えて頂いたように、部屋の奥から出入り口に後退しながらやっていきます。

 ひたすら熱心に磨いていると、足音が聞こえました。換気のために開放した扉から、魔物さんが現れました。

「床磨きは順調?」

「はい」

「楽しそうだね」

「歌を歌いながらやっています」

 家の中で働く者たちも、時折、歌を口ずさんでいました。あの頃は理由がわかりませんでしたが、今ならわかるような気がします。

「わたし、何も知りませんね」

 床磨きに力がいるものだと初めて知りました。いくらこすってもとれにくい汚れがあります。

箒も掃くだけではいけません。石敷きの溝の埃は、丁寧にやらなければとれないと気づきました。

 家の者たちは、毎日その仕事をしているのです。

 魔物さんもこうして過ごしていたのでしょう。

 忘れられたこの塔で。

「魔物さん、使用人はどうしてここに来られたのでしょう」

「どうしたんだい、急に」

 柄を握る手は、慣れない掃除のせいか朱色を帯びていました。

「わたし、あれから考えました。魔物さんの正体とこの塔について。この塔に訪れる人たちは、皆、何かを忘れてしまっています。わたしも、男の子も、魔物さんも。引き寄せられるように集まっています。不思議だと思いませんか?」

「そうかな。偶然ってこともあるんじゃない」

「必然だとは、考えられませんか」

 魔物さんがわたしに向き直りました。何が言いたいのと目線で疑問を投げかけられます。

「わたしたちには、共通点があってここにいるような気がします。魔物さんは、自分にはこころが手に入らないとおっしゃいました。そして、わたしたちには、こころが何かわかっていればこんなところにはいないとも」

 今までの魔物さんの言葉を辿ります。

忘れてはいけないと、魔物さんはわたしに教えてくださいました。自分のことを忘れてはいけない。僕のようになってはいけないと。

「こころとは、名前ではないのでしょうか」

 魔物さんは窓辺に腰掛け、話の続きを促しました。

「自分の名前を、自分がどうあるべきか忘れてしまった人たちがこの塔に集まっている。そう考えれば、わたしたちには共通点があります」

 鏡の中の自分から逃げていたわたしは、他者の視線に怯えて紙袋を被り、花を食べることでわたし自身を誤魔化しました。海の子どもは騎士だったお父様の背中を追うことで、他者に認められようとしました。魔物さんは他者に「魔物」だと言われ続けているうちに、自分が誰なのかわからなくなりました。

 わたしたち三人は、誰かに与えられた呼称に依存して、自分を肯定しようとしました。

 ただ、疑問があるとすれば。

「魔物さん、あなたは使用人の夢を食べられますか?」

「食べられると思う?」

 その返答が「答え」を示していました。

 使用人には、三人の共通点がありません。

物語の登場人物に例えれば、冒険をした子どもを迎えに来る人物。時には叱ったり励ましたりする保護者的存在。

 大人が登場するときは、物語から子どもを連れて帰るときです。

「魔物さん。あなたがおっしゃる夢とは、眠る夢のことではありませんね?」

 魔物さんは口元に笑みを浮かべました。

「ご名答」

 予想が的中へと変わった瞬間でした。

「使用人は、大人ですか」

「君たちが言う大人だね」

「夢とはなんでしょう」

「君たちが子どもの頃に抱くものだ。そして、大きくなればなるほどこころと摩擦が起こる。わかるかい?」

 あぁと息が零れました。

「使用人の夢は」

「僕は彼の夢を食べていない。あの男は現実的なだけだ。今回ばかりは君に夢を見過ぎていたように思えるけどね。君の言葉を借りるなら『だから塔に引き寄せられた』かな」

 使用人は自分ではなく、わたしがわからなくなった故にこの塔に引き寄せられて辿りついた。そう推測すれば、納得できるように思えます。

「魔物さん」

「なんだい」

「夢とは理想ですね」

 紅玉の瞳が静かに見返しました。

「子どもの頃になりたかった大人のかたちですね」

「人間はそう言うね」

「魔物さん、あなたは」

「だから言っただろう。僕は悪い魔物だって。君たち人間の理想を食べるんだ。そうして、不幸にするんだよ」

 夢を喰う魔物に夢を食べられた人間は、不幸になるといいます。夢を代償に叶えられた願いに満足せず、こんなはずじゃなかったと嘆くそうです。

 でも、その嘆きは。

「それは、自分の無力さを知っただけです」

 子どもから大人へと成長したとき、ふと振り返ることがあるでしょう。体だけ大きくなっているのに、心はついていっていない。

 小さな頃に思い描いていた理想とは違う自分に、思い悩むかも知れません。

 けれど、それもあなた。

 花という理想を食べて壊すことで逃げていたわたしに、現実は容赦なくやってきます。まどろむ夢の中に、いつまでもいることはできないのです。

 いつかは夢から醒めなくてはいけない。

 永遠に子どものままではいられない。

「あなたは不幸ではなく、次へと至る機会を与えていたように思えます」

 カラカラ姫は不幸だと嘆かなかった。

 それが、何よりの証です。

「君は僕を肯定するね」

「魔物であることに、否定はしています」

 寂しそうに笑った顔に、わたしは笑い返しました。魔物さんが元気になるような、精一杯の笑顔を。

「今夜は、君と一緒にいていいかな」

 今夜が約束の日。

 魔物さんの正体を言い当てる時間。

「はい。今夜は泣いていませんから、大丈夫です」

「それはよかった」

「わたしもあなたと一緒にいたかったんです」

 魔物さんは、安堵したような微笑みを浮かべました。

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