塔から連れ出す魔物と花を喰う姫君

 塔の外に出よう。そう誘ってくださったのは、夢を喰う魔物さんでした。

 魔物さんはわたしに石鹸をくださいました。布に包まれた小さな固まりから、ほのかなハーブの香りがします。これを水に混ぜて洗濯物を洗うそうです。

「床磨きに使ってはいけませんか」

「これは君のものだよ。好きなように使えばいい」

 わたしは魔物さんに床磨きを任されました。初めてのお仕事です。気合いは充分でした。螺旋階段の下にある小部屋から掃除用具をお借りし、使用人がやるように腕を捲り、床磨きのブラシを持ち、バケツを掴んだときでした。肝心の水がないことに気づいたのです。

「魔物さん、大変です。水がありません」

 赤色のくすんだ絨毯を干すために、螺旋階段を下りてきた魔物さんは不思議そうな顔をされました。

「君は今までどうしていたの」

「花がくださいました」

「あぁ、さすが花喰い娘だ」

 丸められた絨毯を壁に立てかけて、魔物さんは扉を指します。

「それじゃあ、森の水を汲みにいこうか」

 わたしのお仕事ですのに、魔物さんはバケツをお持ちになりました。右手にバケツ、左手にわたしの手を握ります。先を歩く魔物さんはたいへん機嫌がよさそうです。

「魔物さんは、本当に掃除が好きなのですね」

「そうかな。いや、そうかも知れないね」

 今にも鼻歌でも歌いそうな顔に、わたしも自然と口元を綻ばせていました。

「花喰い娘は楽しい?」

「はい、楽しいです」

「それは良かった」

 魔物さんの握る手に、少しだけ力がこもったような気が致しました。

 森の水というのは、泉のことでした。わたしがこの森に入ったときには見かけなかったものです。森の木々を映した水をすくってみますと、ほどよい冷たさが掌に広がりました。太陽の輝きを受けて、掌の水は光の粒を踊らせます。

「飲んでみたらどう?」

 花以外のものを口に入れる。妙な不安に駆られ、少しの間、水を見つめていました。そのうち歪んだ自分の顔があることに気づき、慌てて流し込みます。水が喉を撫でるように通っていく感覚は、どこか懐かしいような寂しいような気持ちにさせました。

「花の水よりおいしい?」

「……森の香りがしました」

 魔物さんは眼を細めました。濡れている手を気にせずに、握ってくださいます。魔物さんの大きな手に、わたしの手はすっぽりと収まってしまいます。

「そう」

 それ以上、何も尋ねない魔物さんの優しさを心苦しく感じました。

 わたしは花喰い娘です。おかしな人間ですが、それでもわたしは人なのです。なぜ、水を飲む行いが遠い出来事のように感じられるのでしょう。わたしはもう、戻れないのでしょうか。

「寒い?」

 どうやら微かに震えていたようです。魔物さんの手を通じて伝わってしまったのでしょう。わたしは俯いたまま答えることはせず、話を変える臆病な真似をしました。

「あの、どうして手を繋がれるのですか」

「塔の姫君を連れ出す、悪人みたいな気分に浸れるから」

「わたしは姫君ではありません」

「知ってるよ」

 こちらを見下ろす紅玉の瞳は、わたしの思考を見透かしてしまいそうなほど深い色を湛えています。避けるように眼を逸らし、そっと息を零しました。どうしたら、そのような眼を持てるのでしょう。

「魔物さんはお優しい方です。悪い方ではありません」

「僕は魔物だよ。悪くて怖い生き物だ」

「わたしは、あなたが怖くありません」

「花喰い娘」

 真剣な声が降ってきました。機嫌を損ねてしまったのかと思いましたが、それでも、この意見だけは曲げたくなかったのです。

顔を上げますと、予想通り紅玉の瞳がこちらを覗き込んでいました。

「僕は君を食べるんだよ。わかってる?」

「あなたに食べられるのなら、怖くありません」

「……それは、だめだよ」

「いけませんか」

 魔物さんはお気づきになられたのでしょうか。力なく笑う姿が、人らしく見えたことを。

「僕は怖がられるのが当然の存在だから、君は僕を否定していることになる」

「それならば、優しいあなたを肯定しましょう」

 とっておきの悪戯を思いついたように感じて、思わず微笑んでしまいました。

「ねぇ、君は本当に人間なの?」

「何度もお答え致しましたが、わたしは花を喰らうただの人間です」

 それは魔物さんだけではなく、わたし自身にも向けられた言葉でした。そうでありたいと、願わずにはいられなかったのです。

 たっぷりと水が入ったバケツを、二人で持ちます。本来ならば、水汲みはわたしの仕事です。魔物さんの優しさに甘えすぎているわたしは、自分で持つと申し出ました。

「そんな姫君、聞いたことがないよ」

「灰かぶりの方は働き者でしたよ」

 魔物さんの頭の中では、まだ「塔の姫君を連れ出す悪人ごっこ」が続けられているようです。

 魔物さんは物語が好きな方です。おやすみ前に話す物語を、興味深そうにお聞きになります。

「十一人の王子を白鳥された姫君も働き者です」

「あぁ、わかったよ。花喰い娘」

 ここで魔物さんは、ようやく折れてくださいました。妥協した結果、こうして二人で持つことになったのです。

「花を喰う姫君は強情だなぁ」

「女は強情なのがよいというのが、母の教えです」

 二人の間に挟まれたバケツは、ちゃぷちゃぷと軽快に水を跳ねさせます。 

「君の手を繋げないが不満だ」

「あとで繋げばよいでしょう」

「君ってそういう性格だった?」

「そういう性格だと思っていたのですが……」

 何かおかしなことでも申したのでしょうか。

 あれこれ思い返しますが、心当たりがありません。

「いいよ。そういえば、君は会ったときからそういう子だったね」

「それは、どういう意味なのでしょう」

「秘密」

 先程の仕返しと言わんばかりに意地悪な顔をされる魔物さんに、わたしは唇を尖らしてそっぽを向きました。

「魔物さん、花が」

 それは、小さな異常でした。

 森を出ると、花畑の花が踏み潰されていたのです。誰かが車輪でひいたのでしょう。轍が真っ直ぐ伸びています。わたしたちは顔を見合わせました。その轍は塔へと続いていたのです。

「荷車だね

 塔の前に荷車が置いてありました。周囲には誰もいません。

 魔物さんは空いている手を差し出しました。

「花喰い娘はこっち。僕から離れないで」

 バケツをお願いして、魔物さんの手を握ります。微笑んだ魔物さんは、この状況を楽しんでいるように見えました。

「誰だと思う? 君を助けに来た王子かな」

「……あの、乱暴なことはよしてくださいね」

「それは相手しだい」

 慎重に塔へと近づきました。荷車には長方形の木箱が乗せられています。決して大きくはなく、どちらかと言えば小ぶりなものでした。

初めて見る箱ではありません。生きていたら必ず見てしまう箱に、体が強ばりました。

 それは、亡くなった方が眠りにつく寝台。

 柩だったのです。

「何してるんだ!」

 背中に投げつられた怒声に、振り返りました。

 ぎらぎらと光る焦げ茶の眼の下に、くっきりとでた隈。つぎはぎだらけのズボンからは、膝小僧が露わになっています。体に釣り合わない剣を腰に挿した男の子がいたのです。

「なんだ、子どもか」

 魔物さんは一歩前に出て、わたしを背中に隠します。

「この塔に何の用?」

「それはこっちの台詞だ。彼女を奪いに来たんだろ!」

 顔を真っ赤にさせて、男の子は叫びます。

「彼女? 花喰いの姫君ならいるけど、彼女の夢は先約済みだよ」

「問答無用!」

 突然、男の子は突進してきました。

 小さな獣のように走る男の子に、魔物さんは表情を変えることなくバケツの水をかけたのです。怯んだ隙に、バケツを頭に被せてしまいました。

「うわっ、真っ暗だ!」

 バケツ頭となった男の子は、何が起こったのかわからずによろめいています。魔物さんはバケツを軽く指で叩きました。

「水をかけて、バケツを被せた」

「はぁ?」

「外したらだめだよ。花喰い娘の顔を見ていいのは、僕だけだから」

「お前、何言っているんだ! いいから外せ!」

「あぁ、うるさいな。これだから子どもの相手はしたくないんだ」

 バケツを取ろうとする男の子の頭を、片手で押さえつけます。

「質問したいことがいくつかあるんだけど」

「誰が答えるか! くそっ、あいつに手をだしたら許さないからな!」

「あいつって、あの柩のこと?」

 男の子は口を噤みました。抵抗することもやめて固まります。

 三人の間に沈黙が流れました。

 男の子の顎から、ぽたりと水滴が落ちました。

「……あの中で眠っておられるのは、大切な方でしょうか」

 堪えきれなくなったわたしは、口を開きました。男の子はぴくりと肩を跳ねさせ、剣の柄を握りしめます。

「カラカラ姫だ」

 バケツの中から低く響いたのは、聞いたことのない姫君の名前でした。

「カラカラ姫を護るのは、騎士である俺の使命。俺は柩を護る騎士。カラカラ姫を救うために、ここに来た」

 騎士と名乗った小さな男の子は、剣を抜くことはせず、ただただ、柄を強く握りしめていました。


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