3章2節 猫にはどうしようもないこともある

 縁は子供が出来にくい体質だった。

 それが解ったのは結婚してから5年目のことだ。

 それこそ二人はそれが気にならないくらい、幸せな家庭を築いてきたし、

 子供の代わりに二匹の猫をとても大切にしていたけど。

 けれど、10年が経った結婚記念日の日、一大決心とばかりに縁は正治に伝えた。

「正治さん、私、不妊治療するわ!」

「え!?」

「だって子供、ほしいんだもん!」

 縁も三十を過ぎたけど、正治からも周りからも、

 付き合いだした頃と全く変わらないように見えてるし、

 正治にはむしろ美人になったように思えるくらいの自慢の妻だ。

「縁さん、ウチには蒼空も六花も居るし、不妊治療は俺もいろいろと調べたけど、

 かなり女性への負担がつらいって聴くから、そんなこと、してもらいたくないよ」

 むうーと、しおれる縁。

 うちの旦那様は優しいし、当然こう返ってくる事は予想済みだった。

 でも、それでも子供は欲しかった。

 蒼空くんと、六花ちゃんの子供が出来ないようにしてしまったのは私達で、

 私が妊娠しにくい身体なのはそれに対する罰のようにも思える。

 お爺さんとお婆さんになった二匹も、私の告白に耳を傾けてくれていたようで、

 心配そうにリビングを覗き込んでいる。

「ねぇ、六花さん、縁さんは僕たちのこと気にしてるのかな?」

 ひそひそ声で蒼空が六花に心配そうに問う。

「そうね、私たちはちっとも今の身体の事、後悔、ううんなんていうのかな、

 悩んだりしてないけど、人間の不妊って大変よね」

「そうだよね、縁さん、最近元気なかったのはそのせいだったんだ」

「私も機会を見て、私たちのことは気にしないで、

 自分の幸せを願ってって伝えておこうかな」

「うん、お願い、縁さんきっと女性同士の方が話しやすいと思うから」


 正治も縁の告白への返事にはかなり悩んだけれど、

 彼女の幸せはと熟考した結果、不妊治療を応援することにした。

 それでもいざ始めると治療には長い時間を要した。

 治療の間、縁の側にいつも寄り添って話しを聴いていたのは六花で、

 気持ち的にも落ち込んだりすることもある縁を献身的になって支え続けた。

 ある時、縁があなた達から妊娠の喜びを奪ってしまったのは私たちなのににね、

 と六花に言うと、

「そう。やっぱり縁さんはそのことで私たちに負い目に感じてくれていたのね」

 彼女の膝の上で話しを聴いていた六花は、優しい声音で、

「大丈夫、私は、私たちは、今こうして二人の側に、いつも一緒に家族として

 寄り添っていられるだけで充分に幸せなんだから。

 そして縁さんと、正治さんの間に子供が出来たなら私たちもすごーく嬉しいわ」

 ぺろぺろと縁の指を舐めると、彼女の不安も解けたようで。

「六花ちゃん、ありがとう」

 少しだけ涙を落としてから縁は六花を優しく抱きしめた。


 それから数年経ったある日、いつも朝起こしに来てくれる蒼空が、

 その日は起こしに来なかった。

「蒼空くん、具合悪いの?」

「蒼空君、大丈夫?」

 心配して蒼空のお気に入りの寝床になっているクッションを縁と正治が覗き込む。

「おはようございます、二人とも。あ、六花さんも」

「おはよう、蒼空さん……」

 いつの間にか六花も二人の間から顔を覗かせ、心配そうに蒼空を見遣る。

「ごめんなさい、心配かけて、僕ももう歳みたいで、

 なかなか身体が言う事聞いてくれない日もあるんだ、よいしょ」

 言って立ち上がる仕草に、そうか、蒼空くんがうちに来てからも

 もうかなり経つかと、縁は思って、起き上がるのを支えて手伝ってあげる。

「ありがとう縁さん」

 どこか緊張していて優しい感じのいつもの声で、

 くるっとした丸い目で見上げてくれる白猫は、

 まるで出逢った頃と変わらないなと縁は頬を緩ませた。

「いえいえ」

 思えば色々な事があったな。

 実家にいた頃に蒼空くんには出逢って、

 ある日、猫が喋られるようになったらいきなり恋愛相談されて、

 正治さんとの出逢いも蒼空くんが運んで来てくれて、

 それからは二人と二匹で家族として暮らし始めて。

 蒼空くんも不妊治療を応援してくれて。

「縁さん、涙でてるよ」

 蒼空くんに言われて気が付いて、慌てて拭いたけれど。

「あっ、ごめんね、私」

「縁さんはいつもこうなんだからー」

 よろける体で縁に近づき縁の頬をぺろりと舐めると蒼空は、

「正治さん、縁さんと仲良くね〜」

 とあっけらかんとした声で言った。

 こくりと頷きを返しつつ、正治も涙を我慢していたのだが、

 蒼空の言葉に背筋を伸ばして縁の手をぎゅっと握り締めた。


 それから数日で蒼空くんは亡くなった。

 あまりにも弱りだしてからが急だったけれど、

 最期の時も縁と正治と六花の三人で見送る事が出来た。

 縁は本当に人目を憚らずわんわん泣いてたけれど、

「三人で見送る事が出来て良かったです」

 と、綺麗な顔を涙で腫らして正治と六花に微笑びしようした。


 猫もとても仲の良い夫婦ならばきっとこういう事もあるんだろう。

 蒼空が亡くなってからほど経たぬ間に、六花もみるみる体が弱っていってしまい、

 正治は覚悟を決めていた。

 二匹は15年ほど生きていた。

 猫にしては長生きしてくれたのだろうか。

 ある夜、呼吸が少しおかしくなった六花を心配して、正治が様子を見に行くと。

 六花は若かった頃のようにすっと背を伸ばして窓から夜空を見上げていた。

「――六花?」

「正治さん、来てくれると思ってた。

 私もね、もうそろそろなのかなぁって」

 六花の声はあの澄んだ綺麗な声だった。

 正治は返す言葉がなく、六花の隣に座って、涙を堪えつつ夜空を一緒に見上げた。

「正治さん、泣いてるの?」

 なんとか、堪えてた。

「ギリギリ我慢してるけどな」

 正治の腕に擦り寄って、凭れかかって丸くなると、

「正治さん、無理しないでもいいのに……、私も今まですごく楽しかったよ」

 ゆっくりと、嚙みしめるようにして六花が言うので、振り返ってしまい、はたと涙の粒が六花の耳に落ちた。

 ふるりと六花が首を振るうと、首の鈴がリンと綺麗に鳴った。

「……六花」

「私は蒼空さんっていうすごい素敵な生涯のパートナーに出逢えたし、

 貴方はあんなに綺麗なお嫁さんも迎えられたし、

 楽しい事がいっぱいいっぱいあったね」

 猫の六花は泣かないはずなのに、

 夜空の星を映して輝く彼女の瞳は涙を湛えているように見えた。

「お話しが出来るようになってから、私たち、いっぱいお喋りしたね」

「……そうだね」

「神様に感謝しなきゃね。人間と猫がお話し出来るってとても素敵だったもの」

「そうだね、俺はもっともっと六花とお話ししたいな」

「うん、しよう。今日はなんだか目が冴えちゃって、眠れないから、正治さん、

 私のお話しに付き合って。蒼空さんの事も、縁さんの事も、これからの事も、

 いっぱいお話ししておきたいの」

 正治と六花はたくさん話した。

 きっとこれまでで一番長く話し合ったかもしれない。

 話しの途中彼女が冗談交じりで、

「もしも、生まれ変わることが出来たなら、私と蒼空さんは絶対に、

 正治さんと縁さんのところに行くんだって言った事があったな、

 私ちょっとだけ期待してるの!」

 そう言う六花の声音はこれまでにないほど優しくて、澄んだ声だった。

 二人で滔々とうとうと話し合って夜が更け、

 その夜の明け方、空が白み始めた頃、途中から加わった縁も見守る中で、

 六花は穏やかに息を引き取った。


 二人で蒼空と六花のお葬式をして、庭に簡素なお墓を作った。

 部屋には二匹との大切な思い出の写真がいっぱい飾ってある。

「なんだか寂しくなっちゃったねぇ」

「そうだな、家族がいなくなっちゃったなー」

 ひと段落ついた日の午後、二人で自宅の庭の蒼空と六花のお墓詣りをしていた。

「うん。私たち、四人で一つの家族だったものね」

「でも、いつまでも泣いてばかりもいられないよな、あいつらに心配されちゃうし」

「うん、あの子たちも笑い声が大好きだったしね。

 でもごめんね、今だけはちょっとだけ泣かせて。

 私我慢してたんだけどもう無理そうで……、正治さん胸貸してください」

 お墓の前で立ち上がり、そう言った縁は、正治に抱きつき、泣いた。

「あの子たちを思って泣く涙ならいつでもあの子たちも喜んでくれるさ」

 正治は気丈にそう言って縁の頭をそっと撫でて優しく肩を抱いた。

 正治に頭を預けて、しばらくの間涙を流していた縁が不意に声をあげた。

「……あれ?」

 縁はお腹に手を当てている。

「どうしたの?」

「あの、正治さん! もしかしたらだけど……、私、私たち」

「まさか!?」

 涙を必死に手の甲で振り払って、満点の笑顔になった縁は、

 小さな期待と喜びに満ち満ちた表情で正治にもう一度抱きついた。

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