第7話 ふたりのセイレ─ン~ともに歌を唱いましょう~

〈7.ふたりのセイレーン~ともに歌を唱いましょう~〉



………貴女に会いたい。

 胸を締め付ける切ない想い。

 苦しい。でも、あの月夜の海にたゆたうような安らぎも感じる。

 祈るように、ただその姿だけを願う。

 次第にボヤけていた輪郭がはっきりと濃くなっていく。

 あの日伸ばした手は届かなかったけれど、この手はもう繋がれていた。

 新たな光が見えてくる。

 ………貴女に会いたい。

 ──────。

 少女の静かな、強い気持ちが、


 心と心を、繋げる。


「………どうしてだろう。」

 頑丈な鎖にがんじがらめにされ自由を奪われている。

 生まれた時から疑うことのなかったそれの、違和感に初めて気が付いた。

 困惑する雛に寄り添うように、どこからともなく漂う薫風は、届く。

『我々のせいで、すまない。』

「………そんなことない。したくてしたことだから。」

 温かい羽に抱かれるような心地よい声音。懐かしくて愛しくて、どこまでも安らぎに満たされるようだった。

 けれど、一抹の不安も混ざってはいた。

「………でも。どうして、こうなってしまったの?」

 それは一つの出来事に対する問いではなく、もっと根元的な、漠然としていたがもっと本質的なものに対するものだった。

 皆まで言わずともその意は、間違いなく汲み取られる。

『───我々と人とは、相容れない存在だからだ。』

「………どうして、相容れないの?」

『───始まりから何から全てが違う。事の考え方、意識、感覚、世界の見方、何から何まで。言葉通り、凡てだ。』

 淡々とした、しかしどこか憂いを含んだ物言いだった。

 初めは突き放されるような衝撃を受けて何も答えられなくなる。

 でも、

「………でも、同じ<いのち>だよ?」

 やがてぽつりと、あまりにも自然に溢れでたそれに、自分でも驚いてしまう。例え僅かな時間でも共有したからこそ、織ることの出来た素直な気持ちなのだろう。

 長い長い沈黙。

 直ぐに答えはなかった。

 相手が消えてしまったと錯覚する間があった。自分の言葉が宙に消えて、幻のように霧散してしまったかに思えた頃。

『───そう、同じ<いのち>だ。』

「………!」

 その響きは、暗闇から月夜を見上げる浮遊感と共に、じんわりと沁みてくる。

 胸に灯った温かさは、頬を伝う雫のようだった。

「………うん! なら大丈夫だよ。人も鳥も魚も、馬も虫もなにもかも。カタチが違うだけで、みんな同じ<いのち>だよ! だから、 いのちを響かせれば、わかりあえる。」

『──────。』

「………わたし達のように!」

『───。』

 真っ直ぐで純粋な音色は、歪みを調律しながら共鳴する。 

 いつしか凍てついた氷も溶かす陽の光のように。

『───昔は、縛りなどなかった。』

「………むか、し?」

『───ああ。お前にとっては遠い遠い昔、私にとっても懐かしい記憶になる。』

 小鳥の囀ずりが聴こえてくるような、優しさが滲む語り。

『───我らも人も皆が音を奏で、<うた>を唱っていた。』

「………そう、なの?」

 本当だよ、という返事に理想郷を垣間見た気がして。一陣の風に視界が開けたように明るくなっていった。直後、微かな負の感情が混ざったことに気付くのが遅れる。

『───だが、そのせいで<あれ>は起こった。』

「………あ、れ?」

 尋ねても詳しい答えはなかった。

 一変張り詰めた空気に胸がざわたついたが、代わりに蕾が花開くような囁きが漏れ安堵する。

『───お前のような、お前達のような人間もいるなら、同じ過ちは起こらないのかもしれない。』

 新しい導があれば、また自由に。

 そう小さく呟きがあって。

『───だからお前は、生きなさい。』

 ……………?



「───るんだ! 起きてくれ!」

「……………っ」



 強烈な光が目に飛び込む。掴まれた肩が少し痛い。

 突然の覚醒に頭がついていけなかった。

 霞む視界の先にやがてはっきりとしてきたのは、

「……テオ、ドール……?」

 いつもの硝子のような無表情ではなかった。取り乱した、見慣れた顔の見たことのない表情がそこにはあった。

「良かった………」

 地べたに両手を付いて項垂れる姿は、全くと言っていい程似合わなかった。つむじをぼんやりと眺めながら、フィーは入れ替わり起き上がる。

「どうし───」

「時間がない、逃げろ。祓魔士の<断罪>は、自我を失う。お前がお前じゃなくなる」

 フィーが口を開くよりも早く、顔を上げたテオドールは一方的に言葉を重ねる。

「な、に、どう」

「とにかく、ここをでるぞ」

 半ば強引にフィーは引っ張られ、つんのめりながら立ち上がる。

 あの叩いてもびくともしなかった檻は今や開け放たれ、屈みながらくぐり抜けた。

 左手には牢屋がずらりと奥まで続いていて、テオドールの持つ燭台の光も届かない所まで闇が伸びていた。

 見張りは、あのオリオという少年やその後来た二人組も誰も見当たらなかった。そのままおぼつかない石畳を足早に登る。

「テオドールは───」

「オレの事は良い。今は自分の事だけを考えろ」

 有無を言わさない口調。掴まれた手首は同じ体格とは思えない強さが込められていた。

 時を知らせるものが何もないこの地下牢では、あれからどれだけの時間が経ったのか、他の場所で何が起こっているのかも全くわからなかった。

 テオドールが今までどうしていたのかも、どうやってここに来れたのかも。

 そして、

「セイレーンは?! セイレーンがどうなったか知ってる?!」

 一番気掛かりなことはそれだった。

 振り返らずに螺旋階段を駆け上がっていくテオドール。ほんの一瞬だけ、その動きが止まった気がした。

「………大丈夫だ」

 迷いを振り払うように速度が速くなる。

「セイレーンも大丈夫だ。オレがなんとかする。だから、だから早く───」

「……………っ」

 ここまで焦った様子のテオドールなど見たことがなかった。表にそこまで出ているわけではなかったが、いつもの冷静沈着さとは駆け離れていた。

 動揺してフィーが質問を重ねられないうちに、出口は見えてくる。

 小さな部屋。本がぎっしり並んだ壁に、高さの揃っていない小さな木机。脇をすり抜けると今度は真っ直ぐな階段が続いていた。

 今までとはうって変わって、足音を忍ばせたテオドールは空いた方の手で口許に指を当てながら振り返る。フィーは戸惑いつつも、頷いてそれに倣った。

「「……………」」

 久しぶりに感じる自然の光だった。

 分厚い木で出来た扉は静かに開けても嫌な音を立てた。身体を滑り込ませるように通り抜けるとまた階段。今度は格子状の頑丈な扉を開けて、よくやく地下から抜け出した。

 風が吹き抜ける井戸端。

 教会の裏手に当たるのか、遠くにいつもとは真逆の大鐘楼が見えた。

 テオドールに手を引かれるまま、フィーは庭とも言えない空き地を突っ切っていく。そのまま迷路のように入り組んだ通路をいくつも進んでいく。

「あーあ。俺も行きたかったなあ!」

「「!」」

 何個目かのT字路に差し掛かった直後、左斜め前方から響いてきた声に二人は身を強張らせた。咄嗟に踏み止まるも勢いあまって、つんのめてしまったフィーをテオドールが支えてくれる。

「そういわないの」

「だってさぁ」

 声は最初の男性だけでなく、女性のそれも重なった。

 扉が閉まる音がしたから、今部屋から出てきたのだろう。

「祓魔士の〈断罪〉とか、生で見れる機会そうそうないじゃん? しかもあのセイレーンだぜ?見たかったよ」

「仕方がないでしょう。私達はまだ見習いなんだから」

 鼓動が跳ねた。

 思わずビクついたフィーの様子を見て、テオドールの顔色も変わる。

「今から涙岬までひとっ走り行ってくっかなー」

「バカなこと言ってないで早くしましょう。これを全部執務室に運ばなきゃいけないんだから」

「あーでもさあ? 残されたの俺らくらいじゃん」

「こういう仕事の積み重ねが大事なのよ! ほら早く!」

「へいへーい」

 カチャカチャと小物がぶつかる反響音と共に、二つの足音は幸いにもフィー達とは逆の方へ向かっていく。

 それが聞こえなくなるよりも早く、

「っ」

「おい、待て! 待つんだフィー!」

 テオドールの手を振り払って、フィーは一目散に走り出した。周りの目など気にする余裕はなかった。無我夢中で教会の中を走り抜け、出口を探す。何事かと目を見張る衛兵や聖職者達を尻目に、不思議と辿り着いた勝手口から教会を飛び出した。

「セイレーン………っ」

 引き留めるように、追いすがるように呼ぶ。

 呼吸も忘れて走る───ただひたすらにその場所を、目指す。

 


         ♪  ♪  ♪



 人、人、人。

 人だかりが城壁のように密集していた。

 いつもとは違う視点から見るそれに、押し潰されるのではないかと恐れを抱く程だった。

 通称、涙岬と呼ばれる此処はローレライの街でも有名な観光名所であるらしい。滴るような岩肌がまるで流れる涙に見え、ちょうど東に伸びいる。そこから望む朝日は海を染め上げ、それはそれは美しく幻想的なのだと教えられた。

 今は太陽が真上に昇りきり、傾き始めた時刻。

 朝でもないのにこの場所が賑わいをみせているのは、とある見世物があるからだ。

 ───これは、祭りの余興。

 明日に控えた聖フォルトゥナ祭の前祭として、急遽催されることになった一大イベント。

 大方この地区の司祭か重鎮が言い出したのだろう

 その趣向から是非が問われるが、この人だかりを見れば成功になるのだろうか。

 これから起こることが当然と思う自分がいるのと同時に、不愉快さと微かな疑問が胸の奥底をつく。無理を言って予定に組み込んだのは、強い興味を惹かれたからだ。

 厚いレースのかかった馬車の外から歓声が沸いた。

 向かい合って四人が座れる籠の中からでは、両側に人払いがされていてもそれを目の当たりにすることは難しかった。窓に顔をつけんばかりに身を乗り出すと、斜め向かいから険しい視線が突き刺さる。

 次に飛んでくる筈だった注意の言葉よりも早く、


「──────!」

「……セイレーン………っ!」


 目の前を疾風のように駆け抜けた人影があった。

 硝子が微かに震える。

 一瞬の出来事であった筈だ。

 細かい刺繍に隔たれた向こう側だった。

 にも拘らず、───ひとりの少女の姿が、声が、目に耳に焼き付いたように止まった。

 理由はわからない。

 ただ、心臓が跳ねて息を呑んだ。

 少しの間茫然としていたに違いない。

 そして群衆に一際大きなどよめきが沸いて、

「──────っ」

 意識が戻ると同時に馬車の扉を開け放っていた。

 ドレスの裾を捲り、ブーツの踵で勢いよく地面を踏む。


「なっ何を、お戻り下さい! 約束と違いますわ!───ユリスティーナ様!」

 

 制止の声など耳にさえ届かなかった。

 本能的にあの少女の後を追わなくてはならないと思った。

 一歩、また一歩と進む毎に鼓動も大きくなっていく。今だかつてない緊張に支配される。

 その道が続いている先に何があるかなど、───まだ。知る由もなかった。



         ♪  ♪  ♪



「……っ…セイ、レーン……!」

 魂を振り絞るように叫び、走る。

 岬には人が溢れ返っていた。

 人垣が不思議と割れている馬車の近くにいた、衛兵らしき人の隙間に滑り込み、

「おっおい止まれ!」

「セイレーン!」

 そのまま駆け抜ける。

 小さな体のお陰で伸ばされた手をすり抜け、棒をかわし一気に岬の先端を目指す。

 その<舞台>と人々との間に等間隔に立っているのは、あの白いローブを纏った討伐隊だった。

 彼らは演劇の役者のようであり、牢獄の梁のようでもあった。

 囚われているのは、───鎖でがんじからめにされたセイレーン達。六羽全員が図太い杭にくくりつけられ、木材で周りを囲まれていた。

 その姿に胸が張り裂け悲鳴が上がる。一瞬でも早くその元へ辿り着こうと加速した。

「テメェ、なんでここにいる?!」

「っ」

 真っ先に気付いてきた、あのドルガという隊員が横から走ってくるのを目の端にとらえた。

 それよりも早く、セイレーン達の元へ飛び込もうと踏み込んだ―――のだが。

「フィー! あなた今までどこにいってたの?! お母さん凄い凄い探したんだからッ」

「!」

 その声に、思わず身体が硬直する。

「……お、お母さん………!」

 つんのめったお陰でドルガが伸ばした手は空を掴み、倒れるようにフィーは岬の中央に躍り出た。両手をついて直ぐ様立ち上がり、セイレーンを背後に庇うように振り返る。

 ───圧倒される光景がそこにはあった。

 こんなにも街に人がいるのかと信じられない数の人々がいた。その全ての視線がフィーに押し寄せてきた。反射的に身がすくんだが、それよりももっと恐ろしかったものは、

「フィー!」

 癖のある髪をいつもより乱して、最後に見た数日前と同じ格好のまま、最前列から歩みでてきたのは、母リゼーヌだった。

 二人を見比べるドルガと他の討伐隊員、あのオリオの姿も近くにあった。

「フィー! ああ、フィー! やっと会えたわ!」

 リゼーヌは女神に歓喜するように両手を組む。

「聞いて! もう散々だったのよ?! あなたがその魔性を庇ったとか間違えられてね? 本当ふざけてるわよね!」

「………………」

 フィーは何も答えられなかった。動揺が心だけでなく体も支配する。

 更にそこへ。

「フィーさん………」

「っ?!」

 隣に並んだマルシアの姿に、追い討ちをかけられた。

 何故ここに先生がいるのか理由が全くわからなかったが、身体がより一層硬直する。

「ほら、フィー。危ないから早くこっちに来なさい? あなたも一緒に見ましょう? その屑鳥共が焼き殺されるところをッ!」

「………っ……お母、さん………」

 手を伸ばしてくるリゼーヌは、しかしそこから一定の距離に近寄ってはこなかった。

 捕らえられている最中は考える時間が嫌でもあって。母自身、またマグドアやテオドールの言動から薄々気付いてはいたが、今の口調から確信する。

 リゼーヌが異常なまでに<魔性>を嫌悪しているのだ。

「フィー早くなさい、どうしたの?」

「どうして? どうしてそんな酷いこと言うの? セイレーンは、セイレーン達は、何でこんな目に合わないといけないの?! 何も悪いことしてないじゃない!」

 悲しみが一気に吹き出してきた。フィーは溢れてくる涙を堪えて、震えながら抗議する。

 それをうけたリゼーヌは愕然とした表情になり、口を開けたまま固まってしまう。

「フィー……あなた何言って………」

「嬢ちゃん何言ってんだ! うちはそりゃあひでえ被害に合ったぞ! そいつらが店に届く荷車襲ったんだ!」

「?!」

 大声の主は体格の良い男性だった。フィーも見たことがある、あの商店街の一角に並ぶ雑貨店の店主だった。

「そうよそうよ! うちだって畑が荒らされたわ!」

「俺は友達の意識がなくなっ……あいつはずっと………!」

「そうだそうだ!」

「うちなんてもっと酷いぞ!」

 口々に飛んでくる野次に、フィーの身はすくむ。それは獰猛な獣の唸り声のようだった。

『………被害報告はかなり来てる。きみが知らないだけ』

 オリオが言っていた現実を、今目の当たりにする。

 恐る恐る振り返った背後でセイレーンと目があった。

「………………」

 微笑した彼女の唇が僅かに動く。

 ───そうだ、と。

「!」

 だから、早く戻れと云わんばかりに首を動かすセイレーンに、フィーは唇を噛み締めた。

 色々な感情が洪水のように押し寄せる。

 罵声が形を持った凶器のように襲ってくる。

 だが、誰一人として飛び出してくるものはなかった。

 なぜなら、───<魔性>は穢れだから。近付けば自らも穢れるという固定概念が彼らをそこに留めていた。聖なる衣に身を包んだ討伐隊でさえそれは同じで、必要以上には近付いてはこない。

 吹き荒ぶ嵐の中でそれでもフィーの中に残った確かなものは、

「……っ………人だって、花を摘むじゃない! 他の生き物を食べるじゃない! みんなエーレを食べて生きてるの! セイレーンも同じでしょう?!」

 ───セイレーンを助けたい。

 その心はどんな逆境にも感情にも曲げられない強い意志。

 セイレーンに害されていないから言える戯言と切り捨ても出来るだろう。でも人間だって同じだ。

 ───ならば自分は、セイレーンの側につく。

「お前、自分の言ってる意味わかってんのか?」

 ドルガの吐き捨てるような言葉にも怯まずにらみ返す。

「………魔性の歌の虜にされてるんだよ」

 オリオの言葉を耳敏く聞き付けて、フィーは負けじと声を張り上げた。

「違うわ! セイレーンの歌はそんなんじゃない!」

「………魔歌の力は恐いね」

「……っ………魔歌なんて、魔歌なんてない! 女神様に授けられていようがいまいが、歌は素晴らしい!セイレーンだけじゃない、全ての歌が素晴らしいの! 心を込めた音楽に、魔なんてない!」

「……フィー………。あな、た……本気で言って………」

 目を剥いてよろけたリゼーヌをマルシアが慌てて支える。

 けれど、フィーも引くわけにはいかなかった。

「だってそうじゃない! 女神様だって………女神様は自分の歌しか認めないなんて、おかしい!人間が、わたしたちが勝手に言い出したことだもの!」

 ピクリと、その場で確実に反応した者があった。

 それは海を前方にした岬の左方。

 祓魔士達を数人従えた簡易の天蓋の下。その中にある椅子に腰を落とした───大司祭ストラフ。徐に立ち上がった彼はしかし優雅に足を運ぶ。

「わたしたちは自由に歌っていいの! だからセイレーンは魔性なんかじゃない!」

 いつしか周囲は息を潜め、少女の声だけが響き渡っていた。重ねられる言葉が、海風に乗り人々に満ち渡る。

 全員が言葉を失っていた。

 その目はまるで───同じ人間ではない、信じられないものを見る形相。

「なんて、おぞましい………!」

 誰かの呟きも拡張して聞こえ、それが集合の総意であることを物語っていた。

 フィーを串刺す帯たたしい数の殺気。

「……お前は、誰、だ………?」

 一際唸るような声がした。

 それは世界で一番聞いてきた声の、今まで聞いたことのないそれ。

 禍々しい異様な空気が、足元から這うように立ち上る。

「お前は、………フィーじゃない! フィーをどうした?! フィーを返せぇええ!」

「お母さん………!」

 リゼーヌは唾を飛ばしながらわめき散らし出した。

 悲しみが凶器のように胸に突き刺さる。

 でも後戻りはもう出来なかった。この状況で、フィーがするべきことはただ一つ。

「セイレーン………!今助けてあげる!」

 金縛りを振りほどき、フィーは磔られたセイレーンの救出に向かう。

 人間が魔性を庇うだけでなく、目の前でそれを助けようとする姿を見たあまりのショックに、フィーがセイレーンに触れたのを見ただけて失神した者もあった。

「───その娘諸とも、断罪せよ!」

 戦慄する群衆の意識を纏めたのは、鶴の一声。それは、険しく眉をひそめたストラフのものだった。討伐隊員は叩かれたように陣を組み直す。中でも目配せをされたオリオが小さく頷き、フィーへとその指を向けた。

「っ」

 またあの正体不明の攻撃がきて、失神させられるとフィーが身を強ばらせた直後、

「……な、ん………」

 ぐらりと。

 片膝を折り、ゆっくりと倒れたのは───オリオの方だった。訳がわからないと朦朧とする頭を押さえたのは、彼だけではない。

「………すぅ」

「………へ?」

「う………っ」

 討伐隊の祓魔士達が次々に倒れていった。オリオのように意識がまだ残る者も、ふらつきその場に倒れ込んでしまう。

「何がどうなって……!」

 しゃがみこんだオリオに駆け寄ったドルガの横を、すり抜ける人影があった。

 ───風に翻るジャケットに身を包んだ、小柄な背格好。光を反射した髪は月灯りのように艶やかだった。体躯よりも圧倒的な気迫を放って、フィー達と討伐隊の間に躍り出たのは、

「………テオドールっ!」

 フィーが悲鳴のようにその名を呼ぶと、テオドールは肩を上下させながら大きく溜め息をついた。振り返って見渡すのは、フィーが対峙していた光景。

 彼はそれをどうということでもないように見渡して。

「───テナ・ルクス」

 手のひらを差し出し詠唱すれば、また祓魔士達の一角が崩れた。その余波は後方の人間達にも至り、次々倒れていく。

「テメエ、どこでそれを……」

「お前達が使ってるのを見ただけだ」

 唖然とするドルガに、テオドールは何ともなしに言う。

 当然のように行使されているのは、普通なら年単位の修練を必要とする技だ。あまりの能力値の高さに、ドルガは絶句してしまった。

「早くセイレーンを開放しろ!」

「わっわかった………!」

 テオドールの指示にフィーはその手を早めた。

 虚ろな瞳で見上げてきたセイレーンの表情は、その美しい造形を震わせ、複雑な色を見せた。

 目の前の<蛮行>を阻止しようと討伐隊が断罪を唱おうとしても、それを行える祓魔士の人数が激減していた。しかし直ぐ様隊列を建て直し、テオドールの詠唱に対抗する合唱を始める。

「………レファ・ルクス!」

 祓魔士とテオドールの詠唱による拮抗。

 テオドールの額からも嫌な汗が流れた。このまま辺り一帯の人々を眠らせセイレーン達を救いだし、フィーと共に逃げるというのはやはり温い考えだったことを思い知らされる。

 加えて。

「───愚かなことはやめなさい」

 詠唱ではないただの言葉が、まるで力を持ったように発せられる。

 それはストラフ大司教のものだった。

 テオドールの真似事でしかない祓魔士の術などいとも簡単に退け、そこだけ見えない盾でも張られているように微動だにしない。

「テオドール、やはり君の力は必要だ」

「………くっ」

 たった一振り。

 手にしていた小さな杖を向けられ、横に薙がれただけで、テオドールの頭は打ち付けられたような衝撃に襲われる。

「テオドール……!」

「大丈夫、だ」

 たたらを踏んだテオドールに思わず手をとめてかけよろうとしたフィーは、掌を見せる形で制止される。

 鎖は中々外すことが出来なかった。

 否。

 例え外すことが出来たとしても、大部分のセイレーン達が目を覚まさずこのままなら、どちらにしろ逃げることは不可能に近いだろう。

 胸を締め付けられるように、フィーの動悸が強くなっていく。

 目の前ではテオドールが少しずつダメージを受けフラついていく。セイレーン達も瀕死の状態だ。

 もう何度感じてきたかわからない感情が切迫する。

 自分の無力さ。全てが崩れ去る絶望感。

 ───これまでと同じ。

 会いたいとやまなかったセイレーンが、海で倒れているのを見つけた時。セイレーンの姿が見えなくなり、必死に探し回った時。仲良くなれたセイレーンが突如いなくなり、痛め付けられていた時。

 ………今、自分が出来ることは何?

 空色の瞳が、炎を湛えるように輝く。

 前を見据え、伸びた背筋。

その両肩に何者かが触れ、囁くのが聞こえた。

 それは気の間違いか、記憶から溢れだした声だったか。けれど確かにフィーのじだを震わせた。

「───うたえ」

 反芻すると同時に呟いていた。

 それを明確な意志をもって、世界に白示す。

「わたしは、<いのち>を歌う!」

 セイレーンの手を握り締める。

「───セイレーン、ともに歌を唱いましょう」

「!」

 セイレーンの応えるように微かに動いた指、震えた唇。

 フィーは伝わる温もりに後押しを感じて。歌を遠くに渡すように腕を大きく広げ、伸ばす。

 胸から沸き出るメロディが、空気を伝い響き渡る。

「───海をいく空を羽ばたく、大地駆ける生命は続く」

 それは今まで歌ってきたどの歌とも違う。あのセイレーンに焦がれた時に歌ったものでもない、また別の<うた>から始まった。

 魂の、<いのち>の深奥から込み上げてくる力が紡ぐ旋律。

「……………!」

 ゆっくりと目を見開いたセイレーンは一瞬躊躇いを見せたものの、直ぐに同じ一節を辿り、強化していく。

「───忘れられた詩編、時が満ち来たりて新たな導となれ!」

 思いのたけを叫ぶように、歌う。フィーはありったけのエーレを込めて、呼び掛ける。

「───セイレーン、歌を重ねて、さあ!」

「────響かせよう、遥かな“いのちのうた”を!」

「───まだ見ぬ―奇跡―を描きましょう」

 セイレーンが追いかける歌声に涙を滲ませて、それをまた推進力に紡いでいく。唱に呼応してどこからともなく集まってきた光の粒子が、真昼の空の下眩しい程に輝きを増していく。

「なん、だと………」

 ストラフが似つかわしくないうめき声を上げた。

「断罪を今すぐ!」

「させるか!」

 直ぐに指示した合唱も、テオドールの詠唱に阻まれ霧散する。

 予想だにしない事象に反応が追い付いていないストラフ達の目の前で、 フィーとセイレーンの<うた>は止まらない。

「────Aah...唱を合わせて、いま!」

「───届けよう、彼方結ぶこの<想い>物語を!」

 それは他のセイレーン達を優しく包み込み、舞いながら溶けていく。

 太陽が見守る中、降り注ぐ星々の光のように。

 新たな道標の灯火となりて。

「「海へ空へ大地へと渡す<物語>紡いで───ともに歌を唱いましょう」」

 ふたりの歌声が示し合わせたように重なって、 さざ波がひくように余韻を残せば、

「───あれ?」

「私………」

「ここ………」

 意識を失っていたセイレーン達が気を取り戻し、次々に体を起こしていく。生気の失せた頬には血が通い、艶のなくなっていた翼は日溜まりのように膨らんだ。

 あまりの喜びにフィーは声さえでなかった。セイレーンはそれ以上で、口元を震わせながら一滴の涙を溢して破顔する。

「なんて、ことを………!」

「きぁああああ! 魔性が、魔性が動き出したわ!」

「なんだあの餓鬼! あいつも魔性なのか?!」

「喰われる! 喰われる! 早く逃げなきゃ」

「逃げろぉおおおお」

「あ、あ、ぁあああああああああ!」

 まさに阿鼻叫喚だった。

 人々は我先にと駆け出し、岬から蜘蛛の子を散らすように走り逃げていく。腰を抜かした者やあまりのショックに動けない人間もいた。

 ───フィー達の新たな詩編で、セイレーン達は力を取り戻した。

 今描かれた新たな奇跡に、フィーは胸を詰まらせた。

 これなら、セイレーン達を逃す事が出来ると。あとはこの地に縛る鎖を外し、あの大空に羽ばたけば大丈夫だと。

 そう安堵した矢先、

「まさかここまでになるとは」

 狂気を背景にしたほの暗い呟きは、

「もう取り返しはつかんな」

 表情に影を落としたストラフのもの。

「お前達のような存在は、世界に害をなす」

 喜びに気を緩めたせいで、フィー達は気付くのが遅れた。

「よって今ここで」

 杖が天高く掲げられ、その水分量の少ない口が大きく開かれる。

「排除しよう」

 首筋に悪寒が走りテオドールが振り向くよりも早く、

「逃げ………!」

 ───断罪の杖は降り下ろされる。

 先端部が地面に突き刺さる。そこからひび割れるように、地面が裂ける。 地震のように大地が鳴動した。

「「?!」」

 微笑みあっていたフィーとセイレーンが戦慄する。

 足元がブレた直後、一膝分落下した。髪が服の裾が羽が、宙を舞う。

 何が起こったのかと、七対の瞳が重なった先。

 足元から言い知れぬオーラを立ち上げ、俯いた老司。

「───RezeRia」

 ストラフがその一言を詠唱すれば、世界が一瞬静止したかに思えた。

 直後、───岬の先が、崩れ落ちる。

「「───?!」」

 正確にはフィーとセイレーン達がいる場所から。結界線でも引かれていたかのようにぱっくりと割れる。

 傾く体躯。いとも簡単に舞い上がった岩盤。

 空に上がろうとしていた微かな希望の光が、闇に絡めとられ沈んでいくように。

 重力に従って落ちた先で、物凄い飛沫と高い水柱を上げて急流は渦を巻く。 海は猛々しく波は荒ぶる。ひと度呑み込まれれば小柄なフィーはもちろん、重い鎖で縛られたままのセイレーン達など浮いてこられないのは明らかだった。

「そんな、手を………」

テオドールが走り出し、フィーへと手を伸ばした。

だが。

「動くな」

「………っ!」

「動いてはいけないよ、テオドール」

 命令。

 重ねられなくても、テオドールは体を鷲掴みにされたように動けなくなった。いくら手を伸ばしても、足を動かしても、唇でさえも微かにも動かない。

 背後に光るストラフの黒い眼差しに、まるで石化してしまったように。

「………ぁ、あ……」

 張りついた喉から唸り声が、虚しく漏れる。

 ―――崩れていく岬で、テオドールは見た。

 自分の非力さを呪う、モノクロになった視界に光が溢れだしていくのを。

「……………っ」

 目を見開き、息を呑んだ。

 心を慰めるように、光が優しく儚く照らし出したのは、一つの変化。

 まるで泡のように溶けていく、手足や翼。 ───少女達の姿が、少しずつ変わっていく。

 神々しいその光景は、深い蒼へと吸い込まれていく。



「………すまない」

「ううん、全然」


 落ちていく時間を永遠のように感じながら。

 ひとりの少女とセイレーンは手を繋いだまま寄り添い、頬を寄せて笑った。

 そのままふたりはゆっくりと、海へと落ちていった。

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