第6話 断罪~レゼリア~

〈6.断罪~レゼリア~〉



絶対なる愛を捧げます 我ら最愛の御子 偉大なる祝福の母よ。

御加護をお与え下さい あの魔を討つ力をこの手に。

大いなる慈しみは謳う 真にあたたかく優しい命を。

永遠に。

───Rezeria refaria (この命を懸けて誓う)

Rata dea sarah fara glazea vizyryna(邪を排し滅する力を此処に 仇なすものに裁きを)

───Rezeria refaria (この魂を捧げて誓う)

Rata dea resstyna glazea ilvis(魔を退し消し去る力をこの手に 穢れしものに裁きを)



 重力が何倍にも膨れ上がり、鉛玉のような空気が周囲を切迫する。幾つにも重なった歌声が、まるで断罪の剣のように振るわれた。

 フードを目深に被った、真白のローブに身を包んだ集団。数十はいるであろう彼らは、唯一わかる口元から老若男女さまざまで構成されていることが伺い知れた。

 二重に組まれた円陣。その内側で四方の先頭に立ち、白亜に金細工が施された衣を纏った人物は四人。

 彼らが取り囲んでいるのは、身体はヒトと同じ、しかしその背には羽を生やし鳥類の足を持った───セイレーン達だった。

「…っ……」

「……くぁ………!」

「ぅう………!」

「ぐぐぅう、っ……」

 数にして六。

 全員が抑え込まれるように地面に這いつくばらせられ、既に気を失っているものもあった。ただその中で唯一、顔を土に擦り付けながらも鋭い眼光を放つものがいた。

「───」

「チッ。まだか……」

 北方に立つ一人が不自然に膨らんだフードの下で小さく吐き捨てる。

 色鮮やかな羽毛はむしられたように地に散らかされ、惨状になっていた。

 ───カテナ山中腹。

 生い茂る草木は切り開かれ、綺麗に整えらた場所があった。ローレライの街を一望出来る高台。今やそこは、惨劇の場と化していた。

「「……っ……」」

 身体中を傷だらけにし、肢体を地べたに押さえつけられたセイレーン達。

 それは視覚的に捉えられる力ではない、〈討伐隊〉の合唱によって引き起こされていた。

 始まりは幼児の不注意。

 山中に張ってあった〈罠〉に、〈一羽〉が捕まったのが発端だった。仲間を助けようと集まってきた〈一羽〉また〈一羽〉と周到に張られていた〈罠〉に、芋づる式に捕まっていったのだった。

「まぁいいか。そろそろ最終楽章だ───レゼリア───に入るぞ!」

「了解」

「ああ」

「…………んー」

 宣誓するように高らかに、一人が出した合図に三人が各々答え、後ろの合唱隊も呼応するように曲調を変える。

 ───厳粛な旋律。

 それは、教会で人々に唱われている聖歌とは全く異質なものだった。優しき調べとは相容れぬ、対極に位置する曲調。剣を薙ぎ払うような激しさは増していき、鬨の声のように空間を圧迫した。

 いよいよ〈合唱〉が最終局面を向かえる。

「………っ……」

 呼吸もままならず意識が朦朧とする中で、最後まで抗っていた紫紺の瞳もとうとう揺らいでいく。握り締めた手は土塊を掴み、噛み締めた唇からは〈血〉が滲んだ。ゆっくりとそれらの力も弱くなっていき、瞼が落ちていこうとした、

 その時。


「───やめってぇええええ……っッ!」

「うぉっあ?!」


 突如、突撃してきた〈何か〉に円陣が崩され、隊員達は将棋倒しになっていった。〈それ〉は勢いのままに、先程から隊の指揮を取っていた一人へと派手に突っ込み、思いきり弾き飛ばす。

「テメ………何しやがんだァッ!」

「セイレーン! 大丈夫……っ?!」

 衝撃でフードが外れ頭頂部で一つに纏めた長い髪を振り乱しながら、尻餅をついた少年が怒号を上げる。

 しかし全く意に介せず、───フィーは崩れ落ちたセイレーンへと駆け寄った。

「セイレーン! しっかりして、セイレーン……っ!」

「う………っ、な、ん……」

 波打ち際で倒れていたあの時とは比べられない程、セイレーンは傷付いていた。あの美しい姿は泥にまみれて見る影を失い、羽はむしりとられ、四肢は棒のように投げ出され、身体の至るところを怪我しているのがわかった。

 毛色は違うが同じ姿をしたものの中には、翼があらぬ方向を向いているものもあった。

「酷い………っ」

「………………」

 フィーは目にいっぱいの涙を浮かべる。

 セイレーンは身体を走る激痛に顔を歪めながら、信じられないと我が目を疑っていた。

 セイレーンを覆うようにフィーは優しく抱き締める。

「んだあのガキ! 俺らを何だと思って───」

「やめなさいドルガ! ───貴女!一体どういうつもり?! 早くそこから離れなさい!」

 今にも殴りかかろうとしたドルガと呼ばれた少年を、女性の声が制止した。

 勢いよく捲られたフードから露になったのは美貌。漆黒の艶やかな髪は肩のラインで揃えられ、はっきりとした目鼻立ちが強調されていた。

「……………」

 眇められた視線に突き刺されても、セイレーンを守るように少女は立ちはだかる。

 固く結んだ口、震える身体は恐怖を超えた怒りのせい。涙で潤んだ瞳は見開かれ、明らかな闘志を燃やしていた。

「な、何なんだ………」

「どう、して………」

「わかってしているのか………?」

 他の隊員達にも動揺が走っていた。いつの間にか〈合唱〉は霧散し、木々のざわめきも不自然に止まり、全ての〈音〉は消え失せていた。

 人に害を及ぼす魔性を〈駆除〉している最中、それを庇うように飛び出てきたのは、なんと〈人の子〉だった。

 その信じがたい事態に、この場にいた誰もが追い付けないでいた。

「おい! 大丈夫かっ?!」

 静寂を割って入っきた声は、丘へ続いているなだらかな坂の方から。

 この異変を感じながらも場所を特定出来たわけではなく、途中で二手に別れていたテオドールが、ようやくそこで合流した。

 呆然としている隊員達の間を掻い潜り、フィーの隣へと滑り込む。

 テオドールは、骸のように倒れているセイレーン達を見て言葉をなくした。

「これは……討伐隊が………」

「そうだよ」

 答えたフィーの声音は、今までに聞いたこともない至極凍てついたものだった。表情も能面のように削ぎ落ちて、反面、その内には物凄い熱量の溶岩が煮えたぎっているようだった。

 息を呑んだのはテオドールだけではなかった。

 白衣の集団にも緊張が走り、また増えた子供に場の混乱はピークに達した、かに思えた。

「テオドール君じゃないか!」

「!」

 だが、

 突如後方で上がった呼び声に、全員の意識はそちらに集中した。

 討伐隊が組んだ陣形の向こう側から現れたのは、一人の老人。

「ストラフ大司祭………」

「君は何をしているんだね?」

 テオドールはその見知った姿に、驚きを隠せなかった。

 皺の入った目元に、立派に蓄えられた顎髭はローブのように真っ白だ。

 ───ストラフは、フィー達も訪れたあの神聖フォルトゥナ教会ローレライ支部の大司祭だった。王都の総本山から直々に派遣され、この街における教会機能の重要な権限を多数任されている。テオドールは父や母の仕事柄、また自身も教会の聖歌隊として幼い頃から世話になってきた人物だ。だが重鎮であることには変わりない。

 そんな大物が思わぬところで現れ、流石のテオドールも絶句した。

「兎に角だ、そこを離れなさい」

「「………………」」

 困惑するテオドールとはうって変わって、フィーの瞳は敵愾心を剥き出しにしたそれだった。ストラフの水晶のような透き通った眼差しと交錯する。

「いいかい? それは魔性だ。危ないから早く離れなさい」

「違う! セイレーンはそんなんじゃない!」

「君は気が動転しているようだね? 自分が何をしているのか、わかっていないのだ。まずはこちらに来なさい。話はそれから───」

「嫌! 離れない! またセイレーンを、こんな、こんな目に合わせるんでしょう?!」

 聞き分けのない子供を諭すように語りかけるストラフと、それを一蹴するフィー。視線で、君も同じか?、と問いかけられたテオドールも、口をキツく結んで頷いた。

 両者共の視線だけが交錯する、膠着状態。

 討伐隊も固唾を呑んで見つめていた。

 一陣の風だけが動ぎ、整えられた木々の葉がざわめく。

「………………」

 それに耳を澄ますようにストラフが両目を瞑った。

 次にゆっくりと瞼を上げると、その薄い唇を開く。

「───仕方がない。オリオ、やりなさい」

「…………はーい」

 呼ばれたのは東方の先陣に立っていた一人。

 力ない返事で一歩踏み出したのは、猫背で小柄な少年だった。

 斜めにずれたローブから ───す、とフィー達の方へ指を向けたと思うと、

「少女だけにしなさい」

「………………はーい」

「「?」」

 フィーとテオドールが訝しんで眉を寄よせた直後だった。

「……え……………?」

 かくんと、まるで人形の糸を切ったように。フィーの頭はもたげ、自分でも分からないというように目を見開いて、フィーはセイレーンに重なりあって倒れてしまった。

「な…………?!」

 一瞬の出来事だった。

 隣にいたテオドールも何が起こったか分からず。目を白黒させるしかなかった。

「おい!しっかりしろ!───」

「……………」

 靄の掛かった向こう側で、テオドールの焦った叫び声が聞こえる。

 セイレーンの歪んだ顔が霞んでいく。

 続いて殺到した足音が、地鳴りのように身体を振動させた。

『…………こっちは?』

『その子はあの聖歌隊の一員だ。あまり手荒にはしないように』

『…………あ、テオドールって、あのテオドール………?』

『そうだ』

『その子も聖歌隊だ!離せ!』

『…………だって』

『だから何だよ?俺達の邪魔して、タダで済むと思ってんのか? あぁ?』

『ならばオレも………!』

『いいや。君がそんなことをする筈はない』

『ストラフ大司教……っ………まさか……。………違う! その子を離せ!』

 荒々しい雑踏さえも、やがて遠退いていく。

 仄かに点っていた光さえも、黒に塗り潰されていくように。

「──────」

 そのままフィーの意識は、闇に落ちていった。



         ♪  ♪  ♪



「お母様、お気を確かに」

「何、か、の間違い、よ………!」

 神聖フォルトゥナ教会ローレライ支部の一室。

 三つの炎がゆらゆらと揺れる小部屋で。照らし出された影は二つ。

「嘘よ嘘よ嘘よ!………あの子が、あの子が、あんな、あんな、屑鳥共を庇うなんて………ッ!有り得ない有り得ない有り得ないわそんなこと! 何かの間違いよッッ!」

「落ち着いて下さい、お母様」

 一人は髪を振り乱しながら、テーブルに両手をついて叫び狂っていた。

 もう一人は隣に椅子を並べて、気遣わしげにその肩に手を当てている。

「あ、あ、あ、あんな、あんな忌まわしい汚らわしい………っ! あんな、あんな………ッ」

 これでもかと目を見開き、過呼吸を起こしかけているその背中を気休めに擦る。

 少し前、在中していた名医に診てもらい落ち着きを見せたと思ったが、直ぐに元に戻ってしまった。また呼びに行こうかと考えたが、この状況で一人にして置くわけにもいかず、更に悪いことに向こうも向こうで渦中にある為、どうしようかと決めあぐねていた。

「あ、あ、あ、あぁああああああ!違うわ!絶………対……ッ!絶対に違うッ!」

「……………………」

 もはや奇声を上げ始め、この騒ぎに気が付いたシスターか誰かが、医師を呼んでくれる事を期待してしまう。

「嘘嘘嘘嘘嘘、うそ、………う、そ……?う、…………そ…………」

 ぱた、と。

 突然薇の止まったカラクリのように、急に大人しくなった。ようやく力を使い果たしたのかと、胸に安堵が広がったのも束の間。

「っ?!」

 ぐるん、とまるで幽鬼のように血走った目玉をギョロギョロ見開いて髪を振り乱しながら、彼女はこちらを振り向いた。

 反射的に背筋をひやりとしたものが撫で、嫌でも呼吸が止まる。

「そうよ、そうよ………! 嘘よ! 全部嘘、嘘なんだわっ、それ以外ないわ! そうよ、………そうよ! 人違いだわ! そう、そうそうそうそう! ねぇ、そうよねえ───マルシア先生?! 人違いだわ! その〈討伐隊の邪魔をした子供〉とやらに会わせなさい! 絶対に私のフィーじゃないわ!」

「……うっ、リゼーヌさん………!」

 勢いよく胸ぐらを掴まれ、マルシアは顔を歪めた。衝撃で眼鏡が外れたが、チェーンのお陰で落下を免れる。瞳孔を見開き焦点の合わない眼球で詰め寄ってくるフィーの母親リゼーヌに、マルシアは否定の言葉を口にすることは出来なかった。

 ───信じられなかったのはマルシアも同じだ。

 昼間、様子のおかしかったあの二人。

 夕刻、中央教会から入ってきた一報。

 寝耳に水とは正にこの事だ。

 直ぐ様駆け付けた中央教会の一室には、錯乱して喚き散らし衛兵に取り押さえられたリゼーヌと、それを宥める名医マグドアがいた。

 代わりにと連れていかれた地下室。かつて此処が城として機能していた時代、牢屋として利用されたその場所に、一人の少女は横たわっていた。

格子の向こう側で眠りにつく姿は、その顔も背格好も服装も、聖歌隊でほぼ毎日顔を合わせている少女───フィーに間違いはなかった。

「会わせなさい! 絶っ対にフィーじゃないわ! フィーは、あの子が、そんなことするもんですか!」

「リ、ゼーヌさ…………ん!」

 手に込められた力が増し、いよいよ呼吸も苦しくなってきた。マルシアは身の危険を感じて、思わず力任せに引き剥がし、大声を上げて宣告する。

「間違い、なく! ……っ……あれはフィーさんでした!」

「………ッッ……!」

 突き飛ばされた衝撃で床に投げ出され、両手をついたリゼーヌの肩が大きくビクついた。

 マルシアは外れた眼鏡をかけ直し、乱れた衣服をきっちりと整える。荒療治とは思いつつも、今度はどこまでも落ち着いた冷徹な口調で、現実を突き付けた。

「事情はわかりませんが、確かにあの子はフィーさんでした。それは紛れもない事実です」

 それは心臓に突き刺したナイフのように、止めの一撃になった。

 崩れ落ちるように床に突っ伏し、リゼーヌはまるで骸のように動かなくなる。癖のある長い髪が扇状に広がって、陰りの差した部屋の中ではまるで妖鬼のように浮かび上がった。

 直後、

「あ、あ、あ………あ、あ…………あぁああああああああああああああああぁあぁぁあああああ あぁああああああああああああああああぁあぁぁああああああああああああああああ!! 」

「………っ……?!」

 喉を潰したような、今までにない絶叫がマルシアの耳をつんざいた。超音波のように空気を震動させ、炎だけでなく室内自体を震わせる。天に咆哮する獣のように上体を仰け反らせたリゼーヌは、この世の終末を見るような形相で、両手で頭を掻き毟り始めた。

「女神様ぁ! 女神フォルトゥナ様ぁあああ! どうか、どうかお助け下さい! どうか、どうかっ! また、あの時のように、あの忌まわしい怪物達から、私を……っ私を、私を私を、助け、助け助け助けたすけタスケテ───!」

「リ、リゼーヌさん………?!」

 マルシアが後悔しても遅かった。

 現実を受け止めておとなしくなるだろうという甘い考えは、最悪のパターンに切り替わる。リゼーヌはあまりの錯乱状態にフラッシュバックを起こしたのか、脈絡のない事を喚き出す。

「来る! 来る! 来るわあいつらがッ! 皆、みんなっ喰わ、喰われ……て……ひぅぐっ……あ、あ、ぁあぁああああああああああああああぁぁあっあああああああああああああああ!」

 まるで狂気。

 地べたにのたうち回り、身を縮めては悲鳴を上げる。

「フォルトゥナ………さまぁっ……!ロイ……!早く早く! キァアアアアアアァアぁあああああ!!」

 常軌を逸した様子に、マルシアはどうすることも出来なかった。

 話には聞いていたが、あまりの症状に思わず後ずさってしまう程だった。

「……………っ」

 マルシアは現在王都に単身赴任しているリゼーヌの夫、つまりフィーの父親であるロイと面識があった。教会の楽士という同じ肩書きを持ち、一時同僚だったこともあり、リゼーヌの状態についてもある程度聞かされてはいた。

 ───リゼーヌは、十数年前に王都で起こった〈ハルピュイアの大火〉の被害者だ。

 歴史上で最も有名な彼の〈大災厄〉に次ぐと云われる壮絶な被害を及ぼしたそれは、無数のハルピュイアが王都に攻め入り、人間を次々襲い都を壊滅に追い込むものだったという。

 このローレライの街に生まれ育ち今も教会に勤めているマルシアは人伝に聞いたに過ぎないが、それがどれだけ悲惨なものであったか、リゼーヌのこの状態を見れば想像に難くない。

 魔性に対してこれ程までに拒絶反応を持っている者の、その娘が魔性の味方をしたという事実は、あまりにも残酷だった。

「リゼーヌさん……申し訳ありません」

「きぁあああ───あ……………!」

 マルシアは屈むと悲痛な面持ちでリゼーヌの後頭部に触れる。そして何事を呟いた。

 直後、まるで糸の切れた人形のようにリゼーヌがその場に崩れ落ちる。

「………………」

 床にうつ伏せに倒れ込んだ同年代の女性を、マルシアは膝をついてゆっくりと抱き起こした。気を失ってもなお苦悶に歪んだその表情に、つぐんだ唇を噛み締める。

 ───〈聖歌〉にはあまり知られていない使い方がある。

 教会の楽士、それも一部の人間にしか伝授されない方法だ。マルシアも数少ないが、こうして人を眠らせたり催眠にかける術を知っている。マグドアの音楽療法もこれと似たような手法で、より攻撃性を増すが今回討伐隊の大半を構成している祓魔士はある種この力に特化した側面があるらしい。

 ………フィーもそれによって目覚めないに違いない。

 この足元のどこかで眠る少女を思って、深呼吸をしながら両の目を伏せた。

 まずは正確な状況の把握から。

 これまでの出来事、自分の持っている情報の糸を手繰り寄せながら、マルシアは思考を研ぎ澄ましていった。



         ♪  ♪  ♪



 ……………寒い。

 体の上を冷気が撫でるように流れていく。

 意識が表層に浮かび上がるにつれ、それはより強く感じられた。無理矢理に目覚めが促される。

「……ここ、は………?」

 ぼんやりとした視界。目蓋を開けたのかどうかも曖昧なほの暗い闇。

 ずらした掌にひんやりとした冷たさが伝ってくる。

 自分の体温が伝わった面積は少し生暖かく、奪われた熱のせいでより一層の肌寒さを感じる。

 微かな光源は、格子の向こうにちらつく燭台だった。辛うじて見える天井や壁は全て不揃いの石で出来ていた。 窓もなく、三歩も歩けば向こうの壁に到達する空間。

 ぼぅとする頭を抑えながら、フィーはゆっくりと起き上がる。

「………………」

 ここはどこなのか自分が何をしていたのか、意識がはっきりしてくるよりよりも早く、

「───セイレーン! セイレーン?! どこっ、どこにいるの………?!」

 フィーは頬を思いきり叩かれたように、直前の記憶を思い出した。

 さっきまで山中にいた筈がこんな穴蔵のような場所に移動していたことも信じられなかったが、何よりセイレーンが、セイレーンさえ近くにいてくれれば何も構わなかった。

 だが、そのセイレーンの姿がどこにもない。

 嫌でも脳裏に刻まれたあの光景。ボロボロに傷付いたセイレーンの姿、最後に見つめ合った紫紺の瞳も幻影となって消えていく。

「セイレーン………っ」

 すがるように呼んでも返事はなかった。

 しかし、代わりのように応えたものがあった。

「………起きた?」

「!」

 狭い間隔で組まれた格子の向こう側。炎に揺らめいた巨大な影を引き連れ、顔を出したのは一人の少年だった。

 照らし出された癖のある猫のような髪質に、揉み上げにつけた筒状の髪飾りがしゃなりと音を鳴らす。力の抜けたような雰囲気は、その半分閉じた瞼と丸まった姿勢にも醸し出されていた。見た目も声質も中性的だったが、大分目も慣れてきて、首もとや袖口から伸びた手を見ると少年だとわかる。歳はフィーより二三上だろうか。

「あなたは……討伐隊の………」

 薄闇に浮かび上がる真っ白なローブ。あの時、彼に指を向けられたそこで、フィーの記憶は途切れていた。言い知れぬ恐怖を覚え、一気に全身の血の気が引く。

 対する相手の方といえば、まつ毛の一つも動かした様子もなく、

「………水とパン、そこにある」

「!」

 格子をすり抜けてまた指をさしてきた。

 反射的に身を強ばらせたフィーだったが、恐る恐る示された先を見ると、確かに地面の上に小さなお皿とカップがあった。

 実物を目の当たりにすると喉が渇いているような気もしてきて生唾を呑み込む。が、今はそんなことよりも大事なことがある。

「ここはどこ?! セイレーンはどこ?!」

あらん限りの力を込めて問いただす。

 恐らく、自分は討伐隊によって捕らえられたのだろう。小さい頃に読んだ絵本に描かれていた牢屋にそっくりの場所だった。ならば、セイレーンも同じ目に合っているに違いない。

「………支部。どっかに連れて行った」

「どっか、って?!」

「………知らない」

「……………っ」

 なんということもないように、ポツリと答えが返された。その表情はあまりにも変わることなく、嘘をついているようにも見えない。ただ、少年は独特の間で喋るようで、フィーの焦りが少しずつ増していく。

「セイレーンをどうする気?」

「………討伐する」

「何で討伐するの?! そんな必要ない!」

「………人を襲うから、討伐する」

「襲ってなんかない!」

「………被害報告はかなり来てる。きみが知らないだけ」

 時を告げる教会の鐘のように、少年の口調は事実を述べているのだと痛感させるものがあった。フィーは唇を噛み締めて黙りこんでしまう。

 ひんやりとした空気が重さを増した気がした。合わせて落ちた静寂。

 それを破ったのは、

「………どうして?」

「…………………?」

 驚いたことに少年の方だった。本当に不思議そうに首を傾げている。

 無害そうなその様子にも、フィーは眉を寄せた険しい顔で見返してしまう。

「何、……が?」

「…………どうして、魔性なんか庇ったの?」

「…っ……!〈魔性〉なんかじゃない!」

 たった一言が、フィーのあらゆる感情を振り切った。

激昂して思わず上げた怒声は、小さな牢で悲鳴のように反響する。自分がこんなにも怒ることが出来るのだと、頭の片隅で驚くもう一人の自分がいた。

「セイレーンは〈魔性〉なんかじゃない! 穢れてなんかない! とてもとても綺麗で、優しいし、歌だって本当に上手で───」

「………セイレーンの、歌?」

 掴みかからんばかりに格子際に詰め寄ったフィーは、間近で見上げた少年の目付きが変わったことに気が付いた。

「………わかった。きみも虜にされたんだ」

「虜………?」

「………そう。魔性の歌に魅せられて、洗脳されてる」

「っ違う! そんなことない!」

「………でも。そこまで自我を保ってるのが不思議」

「っ! だからセイレーンは、そんなんじゃなくて───」

「………そ───」

「はあ───」

 更に言い募ろうとしたフィーと、口を開いた少年の第一声と、

───もう一つ、別の溜め息が重なった。

「セイレーンセイレーンって、本当に狂ってるガキだな。少しは自分の心配もしたらどうだ? お前、俺らに歯向かってタダで済むとでも思ってんのか? あ?」

「!」

「………ドルガ」

 それは、フィーから見て右斜め先、少年の左後ろにあった石段を音もなく降りてきた人影のものだった。

 突如現れた彼を少年はドルガと呼び、フィーにも見覚えがある人物だった。セイレーンを助けようと一番最初に突き飛ばした、あの素行の悪そうな討伐隊の一人。

「オリオ、テメエも何でこんな奴と話し込んでんだ、あ?」

「………気になっただけ」

「気になる? こんなちんちくりんのガキが?! 止めとけ、穢れが移っちまうぜ」

「………………」

 今まで話していた少年はオリオというらしい。

 オリオの独特の空気感や物静かな印象とは全く違う、態度も言動も攻撃的なドルガに、フィーは身構えてにらみ返す。

 目の前に立たれると頭二つ分以上も身長差があり、ローブで隠れてはいたが体格もしっかりとしているのがわかった。

 意地の悪そうな瞳を眇ながら見下ろされれば、自分の非力さが痛いくらいわかる。

「おいガキ。そう睨んでられんのも今の内だぜ?テメエの断罪は場合によっちゃ、俺達が直々に下すかもな」

「……………」

 ───断罪。

 教会の聖職者が言うそれは、教会の掟に背いた者、魔性に取り付かれ害をなした者、その他必要とされる者に与えられる厳罰だ。しかもそれを、魔を排除するスペシャリストである祓魔士が行うとなれば、どうなるかは考えたくもない。

 幼い頃から刷り込まれてきた強迫観念も合間って、フィーの身体は無意識的に硬直した。

 だが。

「そう」

 フィーは眼をしっかりと見開いて、真っ直ぐ漆黒の瞳を見返す。

 ドルガという一人の祓魔士を通り越して、 漠然としてはいたが遥かその先にあるもの。深淵見据えながらも、その心は揺らぐことはなかった。

 今のフィーにとって、そんなことは───どうでもいいことだった。

「セイレーンに何かしたら、絶対に許さない」

「……っ………!」

 全く怯まない。寧ろ凄みさえみせた少女にドルガは思わず身を震わせた。

 暗闇の中で鈍く光る小さな少女の瞳に、底知れ恐怖を抱く。

「………ゆ、許さない? この状況でよくそんなセリフ言えんなあ? ははっどうぞご自由に。オマエが何を叫ぼうが、アイツらは処刑だ処刑」

「セイレーンは今どこにいるの? 無事なの?」

「はっ! んなこと答えるわけねェだろバカか? オリオ、てめえも余計なこと喋んなよ」

「………んー」

 半ば逃げるように、足早に立ち去ろうとするドルガは捨て台詞を忘れない。

「そこで懺悔でもしながら、自分の断罪される時を待ってろ」

「待って! セイレーンの話を───!」

 格子をこれでもかと握り締めるフィーの声は、石造りの牢獄に乱反射して聴覚をおかしくさせた。あからさまに顔をしかめながら、しかし取り合うこともなく二人の祓魔士は上へ続く階段を上る。

(オリオ、司祭が呼んでる。ここの見張りは交代だ。隊員は二人呼んどきゃ良いだろ。魔性に犯されてるがまだただの、………ただのガキだ)

(………わかった)

 何事かを喋る二人の後ろで、フィーは叫び続ける。

 最後まで自分の身ではなく、魔性セイレーンの身だけを案じて。

「セイ、レーン………!」

「……………」

 一度ちらりと振り返ったオリオも、白いローブを翻して消えていった。

 フィーはその場に崩れ落ちるように座り込むと、力なくもう一度その名前を呟いたのだった。



         ♪  ♪  ♪



 人は、女神フォルトゥナの与えし〈聖楽〉以外を奏でてはならない。

 中でも特に歌は厳しく戒められ、〈聖歌〉以外は禁忌とされてきた。

 神聖フォルトゥナ教会の聖職者の内でも、限られた者達だけが新たな〈聖楽〉を創ることを許される。それは今まで当前の事であり、微塵の疑念も抱いたことはなかった。

 ───だが、全てはあの晩に一変した。

 女神に仇なす〈魔性〉とされる生き物。

 セイレーンやハルピュイアに代表される〈知性を備えた魔物〉は、人々を惑わし狂わし害を与える穢らわしい存在として、忌み嫌われてきた。

 ………でも、本当にそうなのだろうか?

 あんなにも美しい姿が、どうして卑しいのだろう。

 あんなにも心を震わせる調べが、どうして〈魔歌〉と称されるのだろう。

 ………そもそも何故、人は〈音楽〉を〈歌〉を作ってはいけないのだろう?

 なぜ? どうして?

 その二言が霧の立ち込めた思考の海に警笛のように反響する。

 あの優しい眼差しの慈しみに満ちた女神は、自らが抱いたその御子〈人間〉にしか恩恵を許さないのか。

 女神に、問いかける。

 小さい頃から数え切れないくらい、祈りを捧げてきた存在。

 全てを愛しむ母なる女神。

 いつも身近に感じてきた安らぎが、何か別のものであるかのように恐ろしさを増していく。

 ───おやすみなさい。

 赤子に語りかける真綿のような声音がじだを震わせた気がした。

 ゆっくりと底無しの沼に沈んでいくように、意識が深層へと落ちていく。



 でも、それでも。

 世界を変えてくれたのは、紛れもなく───

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