第5話 フィーのうた
〈5.フィーのうた〉
太陽はすっかり高く登っていた。街は活気に溢れ、人々が忙しなく行き交っている。
市場で目的の物を買い、他にも用を済ませた。一つ外れた道に入ると、もう慣れ親しんだ景色が続く。潮の匂いが頬をすり抜ける。さざ波の音が次第に大きくなっていく。風化した階段を小走りに降りるのは、気が急いているから。
あれが早朝の出来事だったとは思えなかった。もう何日も経っているかのような錯覚を覚えながら、一段ずつ飛ばして下っていく。
人気のない浜辺を通り抜け、覚束ない岩場も難なく進むことが出来た。
ただその場所を、目指す。
高く聳える岸壁。岩影の向こうに見えてきたのは、ぽっかりと口を開けた───小さな洞窟。
「はぁ、はぁ、…………」
少し切れてしまった息を整えながら、フィーは胸に当てた手を握り締めた。
鼓動が大きい。嫌でも緊張が走る。
昨日は思わぬタイミングで訳もわからない状態だったが、改めて意識すると物凄いことだ。
───あのセイレーンに会うことが出来た。
今、目の前の洞窟にその存在はいる。高揚と不安がない交ぜになり、胸をせめぎあう。
一つ、フィーは深呼吸をすると意を決して中に踏み入れた。
そして、
「え………?」
目を疑った。
瞳の鮮やかな水色が困惑に鈍る。
洞窟の内部は、昨日の悪天とは違い陽の光が差し込んでよく見えた。
足元に出来た水溜まりに、天井を伝った雫が落ちて高く跳ねる。それは遮蔽物のない洞窟に、静かに響き渡った。
「いな、い………」
「どうしたんだ?」
遅れて到着したテオドールが顔を覗かせる。そして、目の当たりにした光景に、フィーと同じように我が目を疑った。
ひんやりとした空洞。
凹凸もあるが比較的平らな部分が占めている。その奥には昨晩、フィーとテオドールがセイレーンにかけた衣服が落ちているだけだった。
あとはもぬけの殻。
───まるで幻であったかのように、その姿は消え失せていた。
瞬きを何度しても、見えるものに変わりはなかった。
「……うそ………」
動ける状態ではなかった筈だ。にもかかわらず、ここにいない。
頭の中が一気に沸騰した、衝動だけが脳を支配する。
目を剥くテオドールを半ば押し退けるように、フィーは洞窟を飛び出した。
「───セイレーン! セイレーン!」
白昼にも構わず、叫ぶ。
………ぜんぶ幻だった? 夢を見てただけなの?!
混乱は頂点に達し、ただただ絶叫するように名を呼ぶ。
応えるのは、岩にぶつかり泡立つ波間だけだった。
宛もなく岩場の更に奥へと向かう。両手を付きながらでないと進めない危ない場所にも関わらず、恐怖を覚えることもなかった。背後からテオドールの制止がかかってもフィーは止まらない。
「───セイレーン! セイレーン! セイレーン…………っ!」
母を呼ぶ幼子のように、喉が張り裂けそうになる位叫んだ。潰れてしまっても良いとさえ思った。
だが、返事はない。渾身の力を込めて叫ぶ。返事はない。また、叫ぶ。返事は、ない。何度も何度もそれを繰り返して、そして。
「セイレー………、?!」
輪郭がボヤけていく滲んだ視界の片隅。波打ち際の白に、違うものが漂っているのをとらえた。
「羽………!」
瞬きをして舞い散った涙が、光を受けて輝く。
羽根はまるで道標のように水面に浮かび、また一つまた一つと続いていた。
フィーは淡い希望の一筋を手繰るように、辿っていく。
一際大きな岩をすり抜けたそこには、
「………っ」
あの時のデジャヴのように、───魔性セイレーンは岩にもたれ掛かるようにして、倒れていた。
「セイレーン………っ!」
「………………」
青白い唇、苦しそうに歪んだ表情。両翼は力なく折れ、半分が海に沈んでいた。
フィーは後ろから持ち上げるように、抱き締める。
「セイレーン! 大丈夫?! しっかりして………っ!」
触れた肌は氷のように凍てつき、微かに震えていなければもう死んでいると思っただろう。
「セイレーン! セイレーン!!」
フィーは悲鳴のように呼び続ける。
自分の体重を利用して後ろに倒れ込みながら、一気に引き上げる。
春先の海水は冷たかったが、昨日の夜よりはまだ温かった。 翼の中にまで入り込んでいた水がスカートの色を濃く変えていく。泣きべそを掻きながら、フィーはセイレーンを力強く抱き抱えた。つややかなその髪に顔を埋める。
「セイレーン……!」
フィーの瞳からは涙が伝い、セイレーンの頬へと優しく落ちた。
それがまるで合図だったかのように、羽毛のような睫毛を震わせ、ーーーー瞼が薄く、開く。
「……………………」
「セイレーン……!」
焦点があっていない眼が覗いた。
目前のそれは逆さまのフィーを映し出した、透き通た花弁のような菫色。
思わず魅入ってしまったフィーは、驚いたように身動ぎをしたセイレーンに我に返る。
「大丈夫! 大丈夫だよ? あなたを助けたいの!」
「………………っ」
もう抵抗する力もないのか、上体を起こそうとするも指先程度しか動けていなかった。それでも激痛が走ったように顔を歪めるセイレーンに、フィーも悲痛な面持ちになる。
「動いちゃダメだよ!………そうだ、わたしの〈エーレ〉を使って回復して……っ!」
「………………!」
フィーは咄嗟にマグドアから聞いた話を思い出した。そもそも〈エーレ〉という言葉が通じるのかも分からなかったが、懇願するようにその腕を掴むと、セイレーンの目が一瞬見開かれフィーをとらえる。
セイレーンが〈エーレ〉を食べて生きているなら、それを摂取すれば回復出来るのではないかという思い付きは、しかしセイレーンの唇が微かに震えただけで、実行されることはなかった。
もう指一本動かすのも困難な程、弱りきっているのだ。だが他に思い当たる方法はなかった。この、今まさに零れ落ちていく命の砂時計を止める成す術は、ない。
フィーにはセイレーンを抱き締めることしか、出来ない。
「セイレーン…っ!」
「───大丈夫か?!」
「……テオ、ドール………っ」
真っ白になった意識に呼び掛けてきたのは、一筋の光のような声音。振り返ったフィーは、その姿に安堵を覚えた。
「……テオ、ドール………っ!セイレーンが、セイレーンがこのままじゃ、また………っ」
「……………っ」
虚ろな瞳になっていくセイレーン。泣きじゃくりながらそれを抱き締めるフィー。
目を見開いたテオドールはふたりを交互に見た後、珍しく口にしようかしまいか躊躇う素振りを見せながら、呟くように提案した。
「……歌を、唄ってみたらどうだ?」
「………う、た?」
「ああ。昨日唄った歌をまた、………唄うんだ」
「………………?」
思いがけないテオドールの助言に、フィーは首を傾げずにはいられなかった。
どうして今この状況で〈歌〉なのか、全く理解出来ずにテオドールを見返してしまう。しかしその顔は真剣そのもので、
「わ、………わかった」
少し戸惑いながらもフィーは涙を拭った。深呼吸をして、痙攣していた喉をゆっくりと広げて、唄い出す。
───歌が、響く。
寄せては返す波間の子守唄のように。漂うメロディは、波紋を描きながら、優しく広がっていく。
潮風が撫でるように通り抜け、ふたりを包むように世界が凪いだ気がした。
やがて、
初めは掠れていた声音も安定してきた頃、………セイレーンの眼がしっかりと、見開かれる。
「………っ!セイレーン!」
「…………………」
紫紺の空の色を映したような瞳が、瞬きを繰り返す。浅かった呼吸は酸素を求めるように深くなり、頬は微かに赤味がさした気がした。
フィーは言葉にならず、口元を震わせる。
セイレーンはただただ自分の頬にぽたぽた落ちてくる雫を、不思議そうに見上げていた。
ーーーひとりの少女とセイレーンのふたり。
その光景を、テオドールは何か尊いものを目の当たりにするように、見つめていたのだった。
♪ ♪ ♪
おぞましく、内腑を掻き回される吐き気。
天地が逆転し、世界が牙を剥くような錯覚。
憎悪に塗られた表情、あるいは何ものも映さない無表情。
だがそれは、少しずつ涙に濡れた少女に変容していく。
……………………………………。
気を許したのは、あの手のぬくもりと同じだったから。
呼び掛けてきた声音が、あの時のものと同じだったから。
儚く頼りない、しかし芯が秘められた歌。
今はただ、起こりゆくーー奇跡ーーに身を任せるしか、出来ない。
♪ ♪ ♪
───昨日のデジャヴのような光景。
セイレーンが意識を取り戻すと、いつまでも海に浸かっているわけにもいかず人目のこともあり、フィー達は元いた洞窟へと戻った。
驚いたのは、昨晩のようにフィーとテオドールが抱え上げるだけでなく、なんとセイレーン自身もその枝葉のような足を動かし歩こうとしてくれたのだ。
「………………」
明確な意思で、フィー達と一緒に来ようとしてくれている。
それがどんな理由からかはわからなかったが、フィーの胸は嬉しさに満ち溢れた。互いの吐息までわかる近さに今更ながら緊張を覚えつつ、無事に洞窟へと辿りついたのだった。
「あのね、わたしはフィーって言うの。彼はテオドール」
昨日と同じ場所に横たわるセイレーンは、虚空の一点を見つめて動かない。フィーは改めて動揺しながらも、精一杯自分達に害意はないことを伝える。
「どこか痛む……?苦しく、ない……?」
「…………………」
警戒を解いてもらいたい一心で、フィーは話し掛けるのをやめない。
「知らないと思うけど………、わたし貴女をこの海辺で見たことがあるの。とても、とても綺麗だった………。あなたを初めて見た時、わたし本当に感動したの!……だからお願い、あなたを助ける方法を教えて欲しいの!」
正座をしたフィーは前のめりになって必死に言葉を連ねる。
聞いているのかいないのか、セイレーンは一度も瞬きもすることなく、まるで凍てついてしまったように動かない。
そんな様子にとうとうフィーがしょんぼりしてうつ向いてしまった時、「そもそも……」と、腕を組んで壁に寄り掛かったテオドールが、眉を寄せて大前提を投げ掛ける。
「セイレーンは人の言葉がわかるのか?」
「あっ」
「…………戯、け」
「「?!」」
テオドールの問いに答えたのは、なんとセイレーン自身だった。
思わぬところからの返答に、二人は驚きのあまり目を剥いてしまう。
「言葉が人、だけのものと、思う、など、……傲慢、甚だしい………」
「…………セイレーン!」
掠れていたが、耳に心地よい落ち着いた声音。
辛そうに顔を歪めながらも首を巡らせたセイレーンに、フィーは思わず飛び付いてしまった。確かに合った目と目に、フィーはまた涙ぐむ。
「あまり、しがみつくな……。障る」
「ご、ごめんなさい………!」
慌てて体を起こし、両手を胸の前で組んだ。鼓動が大きく跳び跳ねるのが分かる。実際に答えがあると、どうしていいかわからなくなりふためいてしまったフィーを、セイレーンはじっと見つめる。
「歌を………」
「?」
「歌を、聴きたい………………」
その呟きはあまりにも微かで、聞き間違えたかと思う程だった。
一声を発する度に命を溢すように、弱々しく。
「う、た…………?」
「ああ。お前の、歌を………聴かせよ」
「…………………」
儚くとも、しんと体に染み渡るような声音が届く。
真っ直ぐに見据えられた瞳は、あの夜空を映したような深い藍色。その奥には、いのちの光を明滅させるような瞬きを抱いていた。
灯火を頂くように、フィーは瞼を閉じる。
ゆっくりと、息を吸った。
「遠いあの日───」
ありったけの心を込めて、フィーは歌う。
会いたくて会いたくてやまなかったセイレーンを、こうして目の前にして。
羨望、恋慕、畏怖、感謝…………。
色々な気持ちを織り成しながら、フィーは歌い続ける。
やがて安心したように静かに眠りに落ちていくセイレーンを見守りながら。子守唄は途切れることなく、優しく紡がれていった。
♪ ♪ ♪
それからの数日間は、早朝にまた聖歌隊の練習が終わると直ぐに洞窟に飛んでいく毎日だった。洞窟に踏み入れる度にその姿が見えないのではないかという不安が過ったが、日に日に回復していくセイレーンの姿がそこにはあった。
「セイレーン、今日はパイを持って来たの!」
フィーは少しでも体力を回復してもらえたらと色々なものを用意した。
柔らかい生地に瑞々しい野菜を挟んだサンドイッチ、 果実の沢山入ったお菓子やジュース。自分のお昼やおやつから、持ってこられるものは何でも持ってきた。
セイレーンは最初、人の手が加えられた食べ物は気が進まないようだったが、一つ口にすると黙々と頬張っていたのが印象的だった。
少しずつだが打ち解けていき、話数も増えていった。
「いつもは何を食べてるの?」
「いつも………?いつもは、そうだな………。口にするといえば、花の蜜や木の実か。しかし基本、あまり食べる事はない」
「えっ食べなくても大丈夫なの?」
「大丈夫と云えば大丈夫だ」
「お腹空かないの?」
「…………腹は、空く。しかし歌っていると、自然と膨れてくる」
「歌…………?」
「〈エ─レ〉か」
「何だ。お前達はその概念も知っているのか」
大抵は黙ってふたりの話を聞いているテオド─ルも時折会話に入ってくることがあった。その度にセイレ─ンが少し目をみはる、というのも定番になりつつある。
「人から教えてもらっただけだが………」
「………そうか、まだ覚えている人間もいるのだな」
「覚えている、というのは?」
「………古い古い概念だ。全てのいのちはエーレで構成されている。しかし、人間はそのことなど忘れ去ったのだと思っていた。そうか……驚いた」
そうして初めは警戒心が顕だった表情を綻ばせ、セイレ─ンはどこか懐かしそうな顔をした。
「あっなら、今セイレーンに歌ってもらって、わたしの〈エーレ〉を食べてもらえれば直ぐによくなるんじゃ…………!」
「いや、止めた方が良いな」
「ああ、それは出来ない」
「なんで………?」
「セイレーンが歌えば、必ず討伐隊が嗅ぎ付けるだろ。今は全力で警戒網を張ってるだろうから、聖歌以外の反応があれば直ぐにバレる」
「そんな………」
心なしか陰りが差したセイレーンの様子を見て、テオドールがその心意を読み取ることにも慣れてきた。
「今日も討伐隊に進展はなさそうだった」
「う、うん! 噂も全然聞かなくなったし、大丈夫だよ!」
「そうか………」
二人の言う通り、あれ以来討伐隊に目立った動きはなかった。
もしもセイレーンを〈全滅〉させたとなれば、教会が進んで触れ回り人の口も塞ぐことは出来ないだろう。一方で〈被害〉が出た話も聞かなくなったのも事実だ。
他のセイレーン達もどこかに身を潜めているに違いない。
フィーはセイレーンを励ますように明るく振る舞う。変な気苦労をかけて無理でもしたら、また具合が悪くなってしまうかもしれない。
セイレーンがまたあんなことになったら、フィーは正気ではいられないだろう。
そんな状況だが、討伐隊を警戒しつつもずっとこの閉鎖的な空間にい続けさせる訳にもいかなかった。気を晴らす為にも、一緒に洞窟を出る時もあった。
「………今日は波が静かだね」
「ああ」
夕陽が赤く海を染めていく。遠くの空の濃紺に、一番星が輝く。
上からは見つかりにくい浅瀬で、引き潮をぼんやりと眺めていた。
岩間に出来た窪みに海水が溜まり、中に取り残された小魚が泳いでいた。
「………ふと、気になることがある」
「なに?」
セイレーンから話を振ってくれるのは稀で、フィーは全身全霊で聞きこうと体ごと横を向いた。対するセイレーンは岩に寄り掛かりながら、伏し目がちに視線を魚にやったままだ。
「………魚は不思議だ。水の中でどうやって呼吸をしているのか何を考えて生きているのか、たまにふと考える。同じ理由で虫も、土の中でどう生きているのかが気になる」
遠くを見るように顔を上げたセイレーンは、どこまでも広がる穏やかな海を見渡した。
言葉の意味を掴むのに少々時間が掛かったが、フィーは記憶の中で共鳴するものに気が付いた。
世界の景色が変わったあの瞬間を。
「───海も風も、歌っている………。テオドールが言ってた!みんな〈いのちのうた〉だって!」
「!」
「なら、魚も虫もみんな歌ってるんだよ。ひれで水を掻いたり、手足で土を掘りながら、みんなみんな、今生きてるよって歌ってるの!」
フィーは問いに応えられたような気がして、大輪を咲かせたように顔を明るくした。高揚しながら答え合わせをするように見上げたセイレーンは、目をぱちくりと見開いて言葉を失っていた。
「驚いた。それを知る人間がいるのか。………あの子供には驚かされてばかりだ」
「うん! テオドールはすごいのっ」
嬉しそうなフィーを見るセイレーンの表情はとても柔らかく、雛を見守る親鳥のようでもあった。真綿のような空気がふたりの間を包んでいく。
───フィーとセイレーン。
僅かな時間でも互いの心は確かに近付いていった。
そんなふたりが話すことが多かったが、時にフィーがいないこともあった。
聖歌隊の練習が終わり、日も傾き始めた時刻。
「今日は母親と礼拝の日だから遅れるらしい」
「そうか」
手にした小さなランプを身近な岩の上に置いて、テオドールは自分の鞄を探る。
誰が、と言わなくともセイレーンにはちゃんと通じていた。いつも通りの返答は、しかし心なしか残念そうでもあった。
テオドールは無言のままで、家にあったいくつもの薬草を磨り潰して調合された薬を、自然と差し出された羽の隙間に塗っていく。
傷は大分癒えてきたが素人目に油断するわけにはいかず、知的探求心が疼いて聞きたいことが山程あったが、今はセイレーンの体調が第一と自重していた。
「お前達は違うのだな」
「………何が?」
表面上は何も変わらないテオドールは、手を止めることなく聞き返す。
フィーとの対比を見たのだろうか、セイレーンは面白そうに喉で笑った。
「私が今まで見てきたのは、人間の苦痛や憎悪に歪められた顔か、力ない間抜け面ばかりだった。だが、お前達は違った………」
脳裏に嫌でも焼き付いて離れない光景。不快感と嫌悪感が助長される。
しかし目の前にいる人間達は、それとは正反対の感情を沸き上がらせる。
………心地よさそうな表情をする人の子達。
あの、胸を踊らせ、幸せに満ち足りているような可愛らしい笑顔。
この、一見凍てついた氷のように見える瞳の、その奥に秘められた眩しい程の輝き。
それらはセイレーンの心をも動かして、少しずつ解いていくようだった。
「そういう人間の顔を、私は初めて見たよ」
「………………」
テオドールは肩越しだったが、日溜まりに微睡むような暖かい表情を垣間見たような気がした。肩越しに綻んだ空気に、何でだかわからないが、とても面映ゆくなって顔を背けてしまう。
「彼奴は特に変、だから………な」
「はは、違いない」
あまりにも自然に、セイレーンは笑った。
数日前には全く考えることも出来なかったことだ。
ゆっくりと、それでも確実に色々なものが変わりつつあった。
こうして。
セイレーンとフィー、テオドールの距離がだんだんと近くなっていった。
このローレライの街も日増しに賑わいをみせ、聖フォルトゥナ祭が目前に迫ってきたとある日に。この穏やかで優しい日々は、
「…………え?」
唐突に終わりを告げた。
練習前。
いつものように洞窟に立ち寄ったフィーは、立ち尽くして我が目を疑った。
いつもならフィーに気が付いてこちらに向けてくれていた顔はそこにはなかった。代わりのように綺麗に畳まれた布が置いてあるだけで、主はどこにも見当たらない。
フィーは弾かれたように外へ飛び出す。そ知らぬ顔の青空が、笑うような太陽を張り付けていた。叫び、駆ける。いつかの時のように岩場を走り抜けた。しかし、前のように近くにいるわけでもなかった。どこにもいなかった。
セイレーンの姿が、 ─── 消えた。
「セイ、レーン……っ」
両手を膝について肩で息をしながら、フィーは絞り出すように呟いた。
わななく唇をぎゅっと噛み締める。
真っ白になった頭の中に、ここ数日間のセイレーンと過ごした光景が走馬灯のように映り変わっていく。仲良くなれてきたと思ったのは自分の思い込みだったのか、セイレーンの解けてきたあの表情は幻だったのか。
困惑から色々な疑問と悲しみが胸を切迫する。
「───っ」
動転した気を落ち着かせる為に無理やり深呼吸をした。眦に滲んだ滴を拭う。
それから、フィーは一目散にそこへ向かった。
♪ ♪ ♪
───ガチャッガタバタァアアン!
けたたましい音をたてて、教会の扉は開け放たれた。
何事かと、いくつもの視線がそこに集中する。
「フィーさん?!一体どうしたんですか、厳粛なる聖堂にそんな荒々しく……っ!」
もうマルシアも聖歌隊の皆も、フィー以外はみんな揃っていた。
しかし全員の驚愕や非難の色など目もくれず、フィーは講堂のど真ん中を走り抜ける。
「テオドールっ!」
飛び付くように駆け寄ったのはテオドールの元。壇上の定位置にいたその手を、すがり付くように掴んだ。
「いないの!いないの………っ!」
誰が、とは流石のフィーも言わなかったが、一も二もなくテオドールの血相が変わる。
「どういう…………」
「わかんないよ! でも辺り中探し回ったけど見つからないの! どこにもいないの!」
半泣きになりながらフィーは頭を振った。耳を疑いながらもテオドールは、直ぐ様フィーの肩を掴む。
「とにかく行くぞ!」
「うん……っ」
「「?!」」
脇目もふらず走り出した二人に、事態についていけないメンバーは口を開けたまま見送った。
「ちょ、あなたたち?! テオドール?! フィー?!」
マルシアのひっくり返った声が講堂を割っても、フィー達は構わずに教会を飛び出す。二人を見送るように、始業合図の鐘が高らかに鳴った。
広場にいる人々の合間をすり抜けて一直線に駆け抜ける。
「いつからだ?!」
「わかんない! わたしがさっき行ったらもういなかったの!」
三つに分かれたメインストリートの内、右手の商店街に入る。昼になり賑わいをみせる通りを必死に走り抜ける。
「洞窟の周りも、海辺も全部見たよ! 他にどこに……」
「とにかく、一度洞窟に戻ーーー」
「───?!」
その時。
二人の動作が、同時に止まった。
首筋を一閃が貫いたような感覚。
足を止めて、顔を見合わせた二人は同じ方向を振り向いた。
「あれ…………」
「!」
見上げた遠い空の下。いくつもの屋根の先に、カテナ山の峰がうっすらと顔を出している。
二人が目を見はったのはその一角から、まるで竜巻のように大量の鳥達が飛び去っていくのが見えたからだ。
「…………っ!」
「まさか………」
フィーとテオドールはもう一度顔を見合わせた。
そして口を開くよりも早く、弾かれたようにカテナ山の方向へ走り出したのだった。
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