第4話 エーレ

〈4.エーレ〉



「お母さんごめんなさい!」

「フィー………?! フィーなの?!」

 翌朝。

 フィーは朝一番に家へと駆け込んだ。

 乱暴に開けた玄関の先。そこには両目の下にクマを作り、テーブルの上で祈るように腕を組んでいた母の姿があった。

 母のリゼーヌはフィーの姿を見止めると、目を見開いて泣き崩れる。

「フィー、フィー! 昨日どれだけ探したか! どこにいたの! 街中探したのよ!」

「ぅ……っ……ごめんなさい!海辺で歌の練習をしていたら、嵐に巻き込まれて……ずっと洞窟に避難してたの! 本当にごめんなさい!」

 抱き付いたリゼーヌの服はまだひんやりとしていて、雨に打たれるのを構わず外でフィーを探してくれていたのだろう。あの凄まじい嵐を体感したフィーにとってそれがどれだけ大変なことかは嫌でもわかる。心の底から申し訳なく大声で謝り続けた。

「本当に、本当にごめんなさい………!」

「もう……! 教会にも迷惑をかけたんだから! 皆で手分けして探してもらって……!朝になっても帰って来なかったら、船を出して海も探そうと……! あぁ、でも……本当に、本当に良かったわぁ……っ……!」

 昨日のフィーに負けじと泣きじゃくるリゼーヌに、フィーも涙を溢す。この一晩で憔悴しきったのだろう。疲れきった体に人肌のぬくもりは優しく伝わってきて、フィーはようやくそこで安堵した。

 一頻り抱き合った後、リゼーヌはフィーの頭を撫でながらゆっくりと顔を上げる。

「まず朝ごはん食べなさい? あら、頭に海藻ついてるわよ。ちゃんと服も着替えなさい」

「うん…………!」

 お互い泣きはらした顔で破願する。もう一度強く抱き締めあって、腕を離した。

「教会に挨拶に行ってから、一応マグドア先生にも診てもらいましょうか。こんな大事な時にどこか悪くしていたら一大事よ」

「う、うん…!わかった」

 マグドアという名前にフィーの心臓は跳ね上がった。なに食わぬ顔で答えてから、逃げるように自分の部屋に駆け込む。

 ───マグドアはテオドールの父親で、この街の有名なお医者様だ。フィーが生まれるよりも前から、身体の弱いリゼーヌは診察をしてもらっているのだ。

 先生に診てもらうということは、つまりテオドールの家に行くということ。明け方、これからセイレーンについて調べようという話になっていたフィーにとっては好都合だった。

 そのテオドールといえば洞窟を出る際、家のことを心配するフィーとは対照的に、特に慌てた様子もなく「問題ない」とだけ言って帰路についた。

 どうして問題ないのか全くわからなかったが、これからその家にお邪魔すればわかるだろうとフィーは思考を手放す。とにもかくにも、今は迷惑をかけてしまった教会に行くことと、なによりセイレーンの事が一番心配だ。

 昨晩の記憶がいまいちないフィーだったが、朝に見たセイレーンの顔色はすっかり色づきを取り戻していた。目を覚ますことはなかったが、峠を越えたことだけはちゃんとわかった。

 そのまま、洞窟に独り残してきてしまったのが、気が気でならない。これから出来ることを調べて、用事が済んだら真っ先に戻ろうと決めていた。

 フィーは何か役に立つものはないかと 自分の部屋の中を見回す。素早く着替えながら、鞄の中にあれこれと詰め込んでいく。

 周りに心配をかけてしまったすまなさと、セイレーンをなんとかしなくてはならないという気持ちがせめぎあい、フィーは無意識のうちに色々なことを焦っていた。

 だから、

「そうだ、あのねお母さん! セイレーンて───」

 リゼーヌなら何か力になってくれるのではないかと思いつき、部屋を飛び出して台所に立つ母親に勢いよく話しかけた。

「お母、さん……?」

 しかし、その先は続かず止まってしまう。

 なぜなら、

「………………」

 首を傾げるフィーの前で。リゼーヌは目に見えてわかる程、凍りついていた。前髪に隠れた横顔が酷く青ざめているのがわかる。タオルを握り締める手は心なしか震えていた。

「お母、さん………?」

「フィー………?」

「な、なに?」

「セ、セイレー……ンが、どうか、した?」

 ぎこちなく上げられた顔は、表情が固まっていた。見開かれた目は尋常ではなく、無理やり笑おうとした口元が逆に恐ろしい。

 ───空気が一瞬にして、変わった。

 フィーは二の句が告げず、竦み上がってしまう。

「フィー?そんな、魔性なんて、名前、すら口にしては、ダメ、よ?」

 一歩、また一歩近づいてくるリゼーヌは、まるで幽鬼のような足取りだった。豹変した母親に、フィーは言い知れぬ恐怖を覚える。

「女神様の、敵、よね?フィー、女神様に………フォルトゥナ様に仇なす魔性のことなんて、どうした、の?」

 リゼーヌの問いに、硬直するフィー。

 何がなんだか、訳が分からなかった。

 ただ、ここで自分が本物のセイレーンに会い、傷ついた彼女を手当てしたいなどと口にしたら、どうなってしまうのか。

 そんなことは、火を見るよりも明らかだった。

 フィーは咄嗟に記憶を手繰り寄せ、わななく唇を無理矢理開く。

「街で、聞い、て…………」

 嘘は言っていない。あの街角で聞いた話も、セイレーンに関することだった。セイレーン討伐隊。その討伐隊のせいできっと、セイレーンはあんなことになってしまって。

 条件反射のように涙が滲んできた。その瞳で恐る恐る見上げたリゼーヌは、ネジの止まった人形のように沈黙している。

「───ああ、そう…………そうよね。そういえば、そんな話、あったわね。討伐隊、討伐隊ね!そうよ、そうだわ。そうよ、安心ね! あんなもの、死滅させられて当然だわ! あんな……あんな……気味の悪い、忌まわしい屑鳥なんて……ッ!」

「?!」

 途端声を荒げた母親に、フィーは目を剥いてびくついた。

 手にしたタオルごと机に叩きつけ呼吸も荒く蒼白した様は、それこそ魔性のようで───。

「……お、おかぁさん………」

「……あら、やだ。汚い言葉使ってごめんなさいね? 思わず取り乱しちゃって…………」

 フィーが絞り出すように呼べば、リゼーヌはようやくはっとして、くまのついた目を細めた。

 いつもの柔和な顔に戻っても、今しがたの恐怖が拭われるわけではなかった。むしろ対照的に際立っていく。

「あぁ、それで………その魔性が、どうかしたの?」

「……や、やっぱり何でもない、よ? 支度したから、早く行こう………?」

「あらそう? なら、行きましょうか」

 リゼーヌは笑うと自分の身支度を整え始める。

 フィーは後退りながら、その場から逃げ出すように真っ先に玄関へと飛び出した。

「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」

 息が上がる。冷や汗が止まらず、胸の辺りを握り締める。思わず寄りかかった扉の向こう側。

 いつもなら安息をもたらすその居場所が、ついさっき感じた安堵感が一変し、何か得体の知れないものが蠢いているように感じた。不安が、募っていく。

 フィーはそれを押し潰すように、ぎゅっと目を瞑った。

 それから少しして家を出ていたリゼーヌと、差し出された手をぎこちなく握り返しながら、フィーは教会に向かったのだった。



         ♪  ♪  ♪



『セイレーン』

 それは、美しい歌声で人々を惑わし喰らう魔性。

人間と同じ姿の上半身に、巨大な翼と鳥類の足を持つ怪鳥。

 その歌声を聞いたものは魂を抜き取られて自我を失い、最期には喰われてしまうという。

 主に山間を住処とし、通りすがりの旅人や商団を次々に襲い、被害を出している。

 十数年前に起こった王都での『ハルピュイアの大火』の折、合わせるようにその数も激減したが、近年テーナ地方でその姿が見かけられるようになった。

 セイレーンは女神の与えたもうた聖歌とは対極にあたる〈魔性の歌〉の象徴だ。

神聖フォルトゥナ教会でもその危険性は高く位置づけられている。

魔性に対抗する聖歌に特化した者を〈祓魔士〉の育成など、中央協会はこれに対抗する術を講じている。



         ♪  ♪  ♪



「あら休診……? おかしいわねえ、フィアの曜日は必ず開いてる筈なのに…………」

 教会で、心配をかけたことを沢山謝り続けた。

 今日は週に一度のミサの日の為、聖歌隊の練習はお休みだった。

 代わりに慌ただしく働いていた神父やシスター達は、皆フィーの無事を喜んでくれた。

 そうして、次に向かったアーベル医院。

 立派な煉瓦造りの大きな建物。壁に這った蔦も風情がある。町一番の医者は、市街から少し離れた、海を望むゆるやかな丘の上に建っていた。

 フィーはリゼーヌについてこれまでも何度が来たことがあった。

 訪ねる者を優しく迎え入れるように、整えられた庭園。しかし、先日の嵐の影響で枝葉が至るところに散乱し、小さな花々も萎れてしまっていた。

 水溜まりを避けながら、フィー達は歩く。

 小さな階段を上がり、病院の入口に辿り着く。いつもなら忙しなく開いたり閉じたりしている扉が、今日は固く閉ざされていた。リゼーヌが目線の高さにあるリングを持ち上げ何度叩いても、中からの反応はない。

「おかしいわねえ。休診の知らせもないし………」

 周囲を見渡しても貼り紙はおろか人の気配すらなかった。

 弱ったと頬に手を当てたリゼーヌから少し離れて、フィーが身を乗りだし窓に手をかけ、中を覗こうとした時。

「申し訳ありませんが、今日の診療はありませ………」

「テオドール………!」

 玄関から顔を出したのは、驚くべきことにテオドールだった。段差でいつもより上にあるその顔を見上げる。

「お前…………」

「あらテオドール君、久しぶりね。休診ていうのはどういうことかしら?」

 少しばかり驚いたように目を見開いたテオドールは、リゼーヌに気付くと直ぐにいつもの表情に戻った。リゼーヌがマグドア医院に通っているだけあり、二人も顔見知りだ。

「昨日から院長は教会のローレライ支部に呼ばれて往診しています。助手の人も全員駆り出されていて、臨時休診中です」

「教会の往診……?何か、あったの?」

「…………。何でも急患が続出したとか。オレも詳しくは聞かされていません」

 テオドールは少し言い淀んだものの、リゼーヌがそれを気に止めることはなく、弱ったと頬に手を当てただけだった。

「……困ったわね」

 フィーに視線をやりつつ、テオドールは尋ねる。

「今日はどういったご用で?いつもの診療なら、ラナの日の筈………ですよね?」

「今日は私じゃないわ。娘のフィーを診てもらいたくて…………」

「……………っ」

 そこで同時に向けられた二つの視線に、フィーは身を強張らせた。思わずスカートを握りしめて下を向いてしまう。

「どうかしたんですか?」

 しれっというテオドールに、フィーの鼓動は嫌でも跳ねた。いつもの事ながら、フィーには到底真似できそうもない。

「いえね、昨日の嵐に巻き込まれちゃったのよ。だから体調が心配なの。ほら、聖フォルトゥナ祭も控えているじゃない?だからマグドア先生に診てもらいたくてね」

 どうしましょうと頭を抱えるリゼーヌに、診療なら大丈夫と口を開こうとしたフィーを静止したのは、

「少し診てもらうだけなら、オレと行けば大丈夫だと思います。ちょうど用があって今から支部に行こうと思っていたので」

「……………?」

 なんとテオドールの方だった。

 フィーはその意がわからず、口をつぐむしかない。

「あら本当に?」

「はい。オレが連れていくので、リゼーヌさんは大丈夫です」

「そんな、悪いわ」

「いえ、オレも一応顔はききますが、人数が少ない方が入れてもらいやすいと思います」

「そう………?」

 勝手に流れていく話に、フィーの頭は大混乱だ。どうしたらいいのか右往左往している内に、腕を組み迷った様子を見せたリゼーヌは、直ぐに「ならお願いしちゃおうかしら」と顔を明るくした。

「フィー」

 呼ばれるままフィーは母の元へ小走りに寄り、数枚の硬貨を両手に手渡される。

ちゃんと挨拶をすること、事情の説明に念を押され、フィーは一つ一つ頷いていく。いつものことだが、テオドールの前でそれをされるとなんだか自分の子供っぽさが際立つようで恥ずかしい。

 そのせいでフィーは、帰路につくリゼーヌをうつむきがちに見送った。

 昨日の嵐が嘘のような晴天の下、残されたのはふたり。

「お前、具合悪いのか?」

「ううん、大丈夫だよ! 本当にお母さんが念のためにってだけだから……!」

 つい歯痒くなって顔を上げることが出来ないフィーに、テオドールはいつもと変わらぬ口調で言う。

「なら良かった。だが一応診てもらうか」

「うん!……え、え? 本当に診てもらうの?」

 予想だにしなかった答えに、フィーは恥じらいも飛んでその顔を見返してしまった。なんとなく診察というのは嘘で、今すぐセイレーンの所に戻るのかなぁと、途中から思い始めていたので思わず聞き返してしまう。

「ああ。言っただろ用があるって」

「あっならわたしが先にセイレーンの所に………?」

「いや、お前も来た方が良い」

「?」

 いくつかの早合点をして勝手に混乱するフィーの横を、自然と追い越したテオドールは、水溜まりを避けながら振り返った。

「そのセイレーンについて、大事な話を聞きに行くんだ」

「…………?」

 そのまま平然と歩き出し行ってしまう。

 フィーはその意味がわからず首を傾げつつも、小さくなっていく後ろ姿を慌てて小走りに追ったのだった。



         ♪  ♪  ♪



 神聖フォルトゥナ教会ローレライ支部は、テーナ地方でも屈指の教会施設だ。

 数百年前まで貴族の城だったこともあり、その名残が今でも伺える。地下には通路が張り巡らされ、牢まであるという噂だ。

 海を望むなだらかな斜面に築かれた街の上部に位置し、眼下に広がる街並みから遠く地平線の先まで見渡せるようだ。

 重厚な壁に囲まれ、緻密な細工の施された扉を押せば、立派な講堂へ繋がっている。半円型に広がるそこは、斜め奥に巨大なパイプオルガンが備え付けられ、側面や天井のステンドグラスを通して煌びやかな光に満ち溢れていた。

 中央には微笑みを湛えた女神フォルトゥナ聖像が佇む。

 老若男女、多くの人々が訪れ、神聖な祈りを捧げていた。

「「……………………」」

 その後方を出来るだけ静かに、フィーとテオドールは通り過ぎる。

 一般に解放されている教会とは別に、奥にも教会は続いているそうだ。テオドールはもう慣れた様子でスタスタ進み、初めて知ったフィーはキョロキョロと周りを盗み見しながら着いていった。

 フィーがいつも行く聖ローレライ大聖堂にはいない門番までも在駐している扉を抜ける。

 少し言葉を交わしただけですんなり通行を許可されたテオドールの、色々な凄さをフィーは改めて実感した。

「失礼します」

「……つ礼します」

 シスターに聞いて二人が向かったのは、二段で構成された円形の噴水がある庭に面した回廊、いくつもの似たような扉が並ぶその突き当たり。

 テオドールがノックをすると、中からくぐもった返事が聞こえた。

 内側に開いていく扉の隙間から、少しずつ室内が見えくる。

 部屋の中央に置かれた机は、出口の方に向けられていた。椅子に腰掛け紙面に目を落としていた白衣の男性は、意外な姿を見止めて瞼を少し動かした。

「テオドール?、何かあったのか?」

「おはようございます、父さん。お忙しい中申し訳ありません。ですが友達を診て貰いたくて来ました」

 テオドールの父、マグドアは息子の言葉に眉をひそめる。その視線はテオドールから、後ろで小さくなっているフィーに移された。そのまま少し一考するように黙ると、徐に手にしていたカルテを机に置いて立ち上がる。

「君は確かリゼーヌさんの所の」

「フィ、フィーです。おひさし、ぶりです…………」

 目を細めて凝視され、フィーはより一層萎縮してしまう。

 母親のリゼーヌが通院していたものの、フィーが一緒に付いていったのは数えられるだけだった。何故か付き添いはあまり薦められず、フィーは家で一人お留守番か教会に預けられることが多かったのだ。

 加えてフィー自身は病気も少なく過ごしてきた為、あまりお世話になったことがなく、『マグドア先生』は正直恐い感じがして苦手だった。

 マグドアは身長も高く、 厳格な面持ちで愛想も良い方ではなかった。

 白衣と対照的な焦げ茶色の髪はオールバックで纏められ、テオドールと同じ瞳の色が際立つ。仏頂面が並べば嫌でも親子と分かるだろう。

「〈友達〉を診るという事はリゼーヌさんの用ではなく、フィーさん自身が診察を受けたいと?」

「あ……、はい……。えっと……、……その………」

「昨日の嵐に巻き込まれて体調が心配だとリゼーヌさんが病院まで来られました。聖フォルトゥナ祭を控えているので念の為にと」

「そうか、フィーさんも聖歌隊のメンバーだったね」

「は、はい…………」

 縮こまっているフィーの代わりに、テオドールが端的に説明を終えてしまった。フィーはまた恥ずかしさを思い出して、頬が赤くなってしまう。

 そんなフィーとテオドールを見比べてから、マグドアは足元に置いてあった鞄の中から、医療器具を取り出した。

「分かった。ならば仕事の合間ですまないが、少し診させてもらうよ」

「す、すみません……、ありがとうございます……っ」

 フィーはうつむきながら頭を振り、促されて左手の壁に寄せられたソファーに寝転がる。口を開けたり脈を診たり、手で軽く叩かれたり。

 その間、テオドールは机上の書類に然り気無く目を落としていた。

「こちらの様子はどうですか?」

 テオドールの何気無さそうな質問に、マグドアの手が一瞬だけ止まった。

「ああ、思ったよりも掛かりそうだな。当分院には帰れそうにない。変わりの者に代診を頼もうと思っている」

「……………」

 淡々と答えるマグドアの方に軽く視線を送り、テオドールは続ける。

「セイレーンの討伐は順調ですか?」

「………………」

「?」

 マグドアは今度こそ完全に手をとめて、何故かフィーをじっと見下ろした。瞬きをして見返すフィーの変わらない様子に、静かにゆっくりと溜め息をつく。

「あまり、芳しくはないな。昨日、大規模な討伐が行われた。その負傷者が思いの外多い」

「「……………」」

 表情を変えずに、しかし声音は少し強ばったようだった。

 フィーも〈セイレーン〉という単語に思わず反応して硬直してしまう。頭に過ったものは、洞窟に横たわるあの姿だった。

「負傷………、というと誰か〈被害〉にあったんですか?」

 質問を重ねるテオドールに、マグドアは直ぐには答えなかった。眉をまた少し潜め、ゆっくりと自分の息子を振り返る。

「テオドール」「大丈夫です」

「……………?」

 間髪入れず返されたその言葉の意味が、フィーにはよくわからなかった。

 マグドアはじっと息子を見返し、しかし全く揺らぐことのないその瞳に諦めたように嘆息する。それを是と受け取ったテオドールは質問を重ねた。

「セイレーンは人を喰らうと聞きます。人体が主食なんですか?」

「…………。いや、そういう訳ではない。実際に人を喰うのはハルピュアの方だ。よく解ってはいないが、 セイレーン達は魔性の中でも、生気、つまり〈エーレ〉を喰うというのが正しいな」

「エーレ?」

「ああ。セイレーンに魅せられた人間がよく自我がなくなるだろう?それは〈エーレ〉を抜き取られたから、というのが私の見解だ」

 マグドアは説明をしながら向き直り、申し訳ないとばかりにフィーに軽く頭を下げる。それから手を差し出し、起き上がるよう促した。

 フィーはゆっくりと上体を起こしソファから両足を下ろして、靴を履こうとした手を、止める。

「〈エーレ〉って、どういうもの何です、か……?」

「…………………」

 テオドールではない、フィーから向けられた質問に、マグドアは瞬きを一つした。

 息子がこの手の話に異様に食い付くのはいつもの事で半ば諦めてはいたが、普通なら気味悪がるこの類いの話に目の前の少女が入ってきたことに、マグドアは少し驚いた。

「〈エーレ〉……と云うのは〈いのち〉の最小単位だ。私達の体を動かす大切な要素といっても言い。エネルギーの源、といったら分かりやすいかな?」

「エネルギー…………」

「ああ。そのエネルギー源である〈エーレ〉があるから、私達は生きることが出来る」

「………セイレーンだけが、その〈エーレ〉を食べるんですか?」

「いや、そういう訳ではない。生きとし生けるもの全て、人間も〈エーレ〉を持ち、それを補填しながら生きている。例えば毎日の食事も同じだ。栄養もそうだが、同時に〈エーレ〉を食べて生きているんだ」

「みんな〈エーレ〉を食べてる……?」

「ああ。セイレーンはそれを意識的に、より大量に摂取する術を持っていると云えるな」

 マグドアは出来るだけ分かりやすく、言葉を噛み砕いて説明した。聞き入るフィーの顔は真剣そのものだ。

「他には、何か食べないんですか?」

「他に? ………そういえばセイレーンが以前、アペの実を食べているのが目撃された事がある。その時たまたま口にしていたのか、常食にしているのかはわからないが」

 だから今回アペの実に毒を塗る方法も考えられたが、農家の反対を受けて………、とマグドアの話は尽きることがなかった。

 仕事という理由を越えて、マグドア自身の知的好奇心も重なり、普段口数が少ない彼も饒舌になっていた。テオドールの質問に最後は詳しく答えてしまうのは、その理由も少なからずあるのだろう。

 フィーはアペの実………と反芻し、呟く。

「なら、怪我とかしたら、どうすれば治りますか?!」

「………………!」

 面を上げて前のめりになりながらの問い。

 顔色を変えたのは、机上の書類に目を落としていたテオドールだった。

「ああ、怪我を負った人は音楽療法を中心に治しているよ。〈エーレ〉の回復にはそれしかない」

「そっちじゃ」なくて、と言い募ろうとしたフィーを静止したのは、

「………………」

 真っ直ぐに見据えられたテオドールの眼差し。

 織部色に僅かな非難の色を溶かし、フィーを映し込む。

「っ」

 幸いにもマグドアが主語をを取り違えてくれたお陰で問題にはならなかったが、夢中になっていたフィーは軽率な真似をしたと口をつぐんだ。

「そ、そうなんです、ね。………ご、ごめんなさい………」

「いいや? こちらこそあれこれとすまなかった。難しい話を色々してしまったね」

「いえ………!とても、とても、勉強になりました………」

 テオドールの視線から逃げるように、フィーはそくささと靴をはく。

 マグドアが立ち上がると、その背中にまた質問が寄越された。

「今回の討伐でセイレーンを捕えましたか?」

「………いや、今回はまだだ。全て取り逃がしたそうだ」

「なら被害がまだ出そうですね」

「ああ、そうだ。これからもっと忙しくなるよ」

 器具を元あった場所に片付ける音と二人の会話を頭上に頂きながら、動揺をなんとか押さえてフィーも腰を上げる。

 それでも俯いたままのフィーに、比較的和らいだマグドアの声が掛けられた。

「フィーさん。〈エーレ〉の話ではないが、見たところそれも体力も消耗しているようだ。聖歌隊の事を考えると、本番に備えて今日明日は休んだ方が良い。家で暖かいスープでも作ってもらって、よく寝なさい」

「あ、はい………!」

 ぺこりと頭を下げたフィーを、マグドアはじっと見つめる。

 少しだけ不自然な沈黙が下り、顔を上げたフィーは首を傾げた。

「………家ではリゼーヌさん、お母さんの様子はどうだい?」

「え? お母さん、ですか………? 元気、ですけど………?」

 思わぬ質問にきょとんとして見返すフィーに、マグドアは、そうかなら良かったと首を横に振った。

 そのやりとりを見ていたテオドールも何か思うような素振りで口をつぐんでいた。

「───お忙しい中大変失礼しました。ありがとうございました」

「本当に、ありがとうございました………っ!」

 仕事に戻るマグドアに深々とお辞儀をして、テオドールとフィーは部屋を後にする。微かに口角を上げたマグドアの姿が、扉の向こうに消えた。

 行きとは正反対に足元を見つめながら、フィーはしずしずと歩く。先を行くテオドールの背中にか細く謝った。

「テオドール。ごめん、なさい」

「いや」

「…………………」

 いつも通りの素っ気ない返事が、まるで氷の刃のように突き刺さる。

 仕方がない。

 不用意にもあんな直接的にセイレーンの事を聞こうとしてしまったのだ。もし気付かれたなら最悪、またセイレーンに被害が及んだかもしれない。

「…………………」

テオドールが此処に来たのは、セイレーンに関する情報を手に入れる為だったのだ。

 上手に話を進めてくれていたテオドールと自分のあまりの落差に、フィーは本当に申し訳ない気持ちに苛まれる。落ち込みのあまり、顔を上げることが出来そうもなかった。

 そんな様子を見かねてか、テオドールが静かに立ち止まり振り返る。

「ここは教会の支部だ。細心の注意を払うべきだ」

「うん………。ごめんなさい………」

 小声でも強く念を押すテオドールに、フィーは重ねて謝る。

 両手でスカートを握り締めていると、不意に既視感を覚えた。

 それは少し前までの聖歌隊での練習風景。度重なる指摘を受けて萎縮していたあの頃。

 セイレーンと出会いその歌を聴いて、テオドールともこうして話すようになり、色々な事を知った。

 ───一変した世界。

 そのきっかけをくれたのは他でもないセイレーンだ。セイレーンがくれた沢山の変化。

 それなのに自分は………と、フィーはまた昨日の無力感を思い出して、自分の不甲斐なさに唇を噛み締める。

「………………」

 思い詰めたその姿に、テオドールは溜め息をついた。

 そして少しの間があってから、口にしたのは全く違う話題。

「リゼーヌさん……」

「……………?」

 突然母の名前を呼ばれて、フィーの意識は表層に上がった。力なく視線だけを上げると、テオドールの訝しげな顔とぶつかる。

「お前、本当に何も知らないのか?」

「……………?」

 尋ねられた意味がわからず、フィーは瞬きをする。

「何、……を?」

「……いや、ならいい」

「?」

 テオドールは言うだけいうと、身を翻し足早に歩き出してしまった。

 訳もわからず立ち尽くしていたフィーは、テオドールの姿が曲がり角に消えていったところで、慌ててその後を追う。

 ふと、脳裏に過ったのは今朝の出来事。

 セイレーンの話を聞いた途端、豹変した母の姿。

『あんな………気味の悪い、忌まわしい屑鳥なんて………ッ! 』

『………家ではリゼーヌさん、お母さんはどうだい? 』

 蘇ってきたリゼーヌの声と、先のマグドアの声もハウリングしだして、殺した足音を更に掻き消していく。

「…………っ……」

 なんとも言えない不安が胸に立ち込めていった。

 しかしテオドールの後に付いていくのに必死になって、フィーは意識的にか無意識的にか、抱いた疑問を教会に置いてきたように忘れてしまったのだった。



         ♪  ♪  ♪



 断末魔が聞こえる。

 外を埋め尽くすのは、巨大な羽根。

 辺りを恐怖の渦に沈め、狂気と血飛沫を撒き散らす悪魔の羽根。

 布団を頭から被り身を縮める。

 震えが止まらない。ガチガチとぶつかる歯音は居場所がバレてしまうのではないかと思わせる程大きい。

 獣のような呻きが漏れる。

 恐ろしかった。ただただ、恐怖に身を強張らせた。

 時おり耳をつんざく高音が壁を震わせる。

 羽ばたきは、世界の終焉を思わせる絶望の鐘。

 不意に、音が止んだ。

 不気味な間が落ちる。

 幽鬼のように目を見開きながら、恐る恐る顔を上げた。

 直後、

「───?!」

 粉々に砕けた窓硝子。

 吹き込んだ突風。

 部屋の中の家具がおもちゃのように舞い上がる。

 細い針金のようにへしゃげた窓枠の向こう。

 両翼を広げた忌まわしいシルエットが浮かんでいて。

 そして───

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