第3話 セイレーン~貴女に会いたい~

〈3.セイレーン~貴女に会いたい~〉



「フィーさん!最近とても良いですね! その調子で本番に臨みましょう!」

「あ、ありがとうございます………」

 序奏を歌いきったところで、滅多にないマルシアの誉め言葉にフィーは赤面した。続いた「無断で休んだ時はどうなることかと思いましたが」という言葉に小さくなりつつも、顔が緩むのを押さえきれない。

「さあさ、皆さんもラストスパートですよ! 本番まであと半月を切りました! 最後まで気を抜くことなく、練習に励みましょう!」

 ぱんぱん! と小気味いい音を立てて、マルシアは手を叩いた。反響を背にしながら舞台を見渡すと、含んだような笑みを浮かべる。

「───そこで朗報があります!今年のフォルトゥナ祭には、王都の神聖フォルトゥナ教会総本山から、ハルデンス大司祭様率いる聖グレゴリオ大聖楽団が正式に、このローレライに参られることが決まりました! その中には現女神の御子と謳われるユリスティーナ王女もいらっしゃるとのこと!」

 ざわざわと、直ぐ様子供達にどよめきが走った。その反応は最もだというように、マルシアは咎めることなく享受する。

「噂、本当だったんだ!」

「王女?! 王女も来んの?! すげえっ」

「俺聞いた。なんでも大司祭さまが次の御子候補を選びに来るらしいぜ」

「テオドールか?」

「テオドールでしょ。次はテオドールだって、皆言ってるもの」

「すげーなー」

「でも、私達も直接楽団に歌を聞いて頂けるんだわ!」

「スカウトされるかも~?!」

「そしたらあの大楽団に入れんのか?!」

 瞬く間に色づき始めた子供達を、マルシアは嘆息しつつ見守る。ただ、中には反応が違う子供もいた。全く表情を変えない一人と、顔をゆるませにやついている一人。皆の中で浮いている二人を交互に見つつ、マルシアは腰に手を当てた。この朗報を練習中に告げたのは、勿論はしゃがせる為ではない。

「良いですか皆さん。これは滅多にない機会の中でも、またとない機会です! これからは更に気合いを入れて、練習に取り組みましょう!」

「「はい!」」

 効果は覿面だった。マルシアの目論み通り、子供達の返事と目付きが変わった。歌に対する意気込みが段違いに跳ね上がる。練習はいつもより長めになったが、もっとして欲しいという声が上がった位だ。休むことも必要と授業が終わった頃には、既に月が昇り始めていた。

 また夜が訪れた。深い深い藍に映り込んだ月が少しずつ太っていく。

「テオドールのお陰だよ! 本当にありがとう!」

 いつもの場所で、飛び上がらんばかりの勢いで手を組んだフィーに、隣のテオドールは肩を竦めた。

 岩にぶつかって方向の変わった風に互いの髪がなびく。

 あれから毎日のように、二人はこの海辺に通っていた。約束をしたわけでもないのに、決まって顔を合わせる。

「ほめられたの久しぶり………嬉しいな」

「いつもそうやって歌えばいんだよ」

 少し雲が多くなってきた空を見上げながら、テオドールは何の気なしに言う。フィーは高揚する胸に手を当て、同じように空を仰いだ。

「ふふ、フォルトゥナ祭かぁ………大司祭さまも、御子姫さまもいらっしゃるなんて、お母さん知ったら倒れちゃうかも」

「そこまで?」

「お母さん、フォルトゥナ様大好きだから。あのマルシア先生よりも!」

「それは、相当だな」

 自然と笑みが零れ、肌寒くなってきた夜をほんのりと暖める。

少しほてったフィーの頬に触れる風も心地良い。

「女神の御子候補に、次はテオドールが選ばれるんだよね?」

「お前までそういうことを………。単なる噂だ。それに、そんなことはどうでもいい。オレが教会をどう思っているか、言っただろ」

「でもすごいよ!」

 懲りないフィーに、テオドールは呆れたように半眼になる。きらきらしたその横顔に目を細め、少しだけ間があった後、濃緑の瞳はそらされた。

「それよりも今日で何日目だ? セイレーンが来る気配が一向にないんだが?」

「そう、だね………。前にここに来たのは、たまたま寄っただけなのかな? でも、他に宛と言ったら………」

「ああ。カテナ山は今特別警戒区域だからな。オレ達が入れる場所じゃない」

 ………うーん、とフィーは唸りつつ首を傾げる。テオドールも何かないかと、遠くを見渡しながら考えた。

「そうだ! いつも行ってるお花屋さんが、カテナ山辺りの花畑で摘んでるって聞いたよ! それに一緒させてもらったりとか、出来ないかな?」

「そう、だな………。良いかもしれないな」

「なら決まり! 明日、頼んでみるね?」

「頼んだ」

 胸の前でぎゅっと手を握りしめながら何回も頷くフィー。その様子を見て、テオドールは一つ瞬きをした。

「今日はやけに上機嫌だな」

「だって、嬉しいんだもん!」

 抑えきれないとばかりに、立ち上がったフィーをゆっくりと見上げる。

 瞼を閉じ胸いっぱいに潮の香りを吸い込んだ少女は、とても気持ちよさそうに微笑んだ。二つのお下げが風になびき、小さな羽のように広がる。淡い光に灯されたその姿は、少し妖精のようにも見えた。

「また、歌ってもいい?」

「ああ。好きなだけどうぞ」

 巡らせていた頭を元に戻して、テオドールも瞳を閉じる。一拍を置いた後、聴こえてきた歌声に耳を澄ませた。


「───Aah………」


 最初はばらついていたフレーズも少しずつまとまりを持ち始め、今はもう何度繰り返しても揺るがなくなっていた。それは形に囚われたものではなく、心から紡がれた想いの歌。

 テオドールは、素直なその歌に聞き入る。胸をすくような心地よさだ。

 フィーの内から溢れる想いに誘われるように、まるで天からの使者が舞い降りてくる光景を思わせた。静かでいて雄大な羽ばたきが聴こ───

「え………?」

 ふと。

 唐突に歌が止まる。周囲を取り巻いていた幻が掻き消える。

 フィーは目を見開くと、弾かれたように背後を振り返った。眼前に広がるのは、もう見慣れてしまった高い岩壁と遠い街明かり。

「テオドール、今………」

「ああ、聞こえた」

 音もなく、テオドールも立ち上がる。

 二人は緊張の面持ちでその方向を見つめた。

 フィーが歌を止めたのは、別の音が聴こえてきたからだ。それはそう、空から鳥が下りてきたような、翼のはためく音。

「行こう」

「う、うん…………!」

 真っ先に歩き出したテオドールの後を、フィーもつんのめりながら着いていく。危うい足場を跳び跳ねるように、しかししっかりとした歩調で進んだ。

 鼓動が激しくなる。脳裏に浮かぶのは、月夜に浮かぶあの御姿。

 ………また会える、の……?

 一歩近づく毎に、蕾が綻ぶように期待が膨らむ。胸が高揚する、熱くなる。迷いは何もなかった。ただひとつの想いだけに突き動かされる。

 一際岩礁が切り立った一帯に辿り着く。岩壁が間近に迫ったそこは月明かりも朧で、少し陰りを増していた。僅かな光源が海にきらきらと反射する幻想的な風景の中で。 

 ちょうどいい隙間から、二人が恐る恐る覗き込んだそこには、

「?!」

「な………っ?!」

 フィーとテオドールは硬直する。

 二人が目の当たりにしたのは、目を疑う光景だった。

 ───たゆたう水を編んだような髪が扇状に広がる。

白銀の羽が散らばり、力なく閉じられ浅瀬に浸かっている。彫刻のように美しいであろう面差しは白く青ざめ、生気を失っていた。

 まるで眠り姫のように目を瞑り、波に揺られていたのはフィー達が切望していた存在。

 ───魔性セイレーンは、波間に浮かぶ海草のように、倒れていた。あの日のように歌を歌うこともなく、ただ静かに。

 淡い希望は一瞬にして色を変え、夜の闇に掻き消されていった。



         ♪  ♪  ♪



〈歌〉は、人だけに与えられた恩恵だと言う。

 女神が授けたという聖歌に、人以外のものは蝕まれる。

 ならば。

 鳥が、魚が、花が、木が、生きとし生けるもの全てが歌っているのは何だと言うのだろう。

 忌まわしいあの記憶が甦る。

 追いやられる魔性とされる生き物達。

 歌は殺戮の兵器か?

 歌は人間のものなのか?

 一番恐ろしいのはそう、───



         ♪  ♪  v



 分厚い雲に、空が閉ざされていく。くすんだ灰色が天蓋を覆い尽くす。

 いつしか風が強くなり、さらわれる空気が悲鳴を上げるように冷えていった。海の波も高くなり、岩肌に当たり散らすように荒れていく。沖合では稲妻が走るのが遠目にもわかった。

 みるみる悪くなっていく天候を、ふたりは気に止める余裕もなかった。

「セ、セイレーン……っ」

「待てっ………!」

 テオドールの制止などお構いなしに、フィーは岩影から飛び出した。無我夢中で駆け寄り、躊躇いなくその肩に触れる。全身から血の気が失せて、酷く冷たかった。

「セイレーン! セイレーン!  セイレーン………ッ! 」

 いくら揺さぶろうとも、その瞼が上がることはない。少し上下している胸に、命が辛うじて繋ぎ止められているのがわかる程度だった。

 フィーの顔色もセイレーンと同じくらいに青ざめていく。手に籠る力が増していき、乱暴に身体を押した。反動でガクリと、セイレーンの頭が力なく落ちる。

「やめろ……!」

「っ!」

 テオドールがフィーの腕を掴んだ。振り返ったフィーの目には、いっぱいの涙が滲んでいた。

「………っ……」

 息を呑んだテオドールは視線をそらし、手を離した。逡巡してから、間近でセイレーンの容態を観察する。生気のない顔。このまま海に浸っていれば、衰弱した体はやがて体温を奪われ、取り返しのつかないことになるだろう。

「まずは岸に上げよう。あそこ、中に入れそうだ」

 辺りを見渡したテオドールの指さす方向に、フィーは首を回らせる。

 岩礁の向こう。そこは、崖下の一角がくり貫かれたように穴が空いていた。冷えた体を水から上げただけでは、この夜風にさらすことになる。それを凌げる場所だ。

「大丈夫か?」

「平気……!」

 上体をフィーが抱えて、鳥の細い足から付け根をテオドールが持ち上げ運ぶ。

 大人を子供二人で抱えるように難しいものだったが、二人は海の中に入ることも、したたり落ちる水にも構わず、必死にセイレーンを海から引き上げた。いつも以上に足場を確かめつつ、慎重に進む。

 ───そこは、洞窟まではいかないが中に少し奥行きがある場所だった。。

 天井はフィー達で丁度いい具合の高さで、大人が立てば身を屈めることになる。くぐもった風の音が中で反響し、轟と鳴いた。

 セイレーンがどうしてこんなに負傷しているのか、考えられる最悪の事態は一つだけだった。

「討伐隊が本格的に動き始めたのか……?」

「……………っ」

 横たえたセイレーンの隣に二人は膝をつく。神妙なテオドールの〈討伐隊〉という単語に、フィーは身体を強張らせた。

「どう、しよう……、どうしよう……」

 狼狽するフィーに、いつもは冷静沈着なテオドールの瞳も心なしか泳いでいた。

 これだけ移動させたにも関わらず、セイレーンが目覚める気配はなかった。月光のように透き通った肌に、水の絡んだ髪がまとわりつく。投げ出された肢体はぐったりとしていた。

「…………まずは、濡れた体を拭くぞ」

「わ、わかった」

 フィーとテオドールは、身に付けていたケープやスカーフでセイレーンの体を拭き始める。

 恐る恐る布越しに触れた肌は、人のそれと変わらなかった。しかし胴体以外、腕と腰の途中から身に纏うのは、羽毛。

 水に浸かりしなりとしたそれは、水分を弾く力すらなくなっていた。

 フィーは、いつの日か家の庭先に倒れていた小鳥を思い出す。人の臭いがついてしまってはいけないからとあまり触れられなかったが、数日間手当てをした記憶が甦る。あの小鳥と今のセイレーンの姿が重なった。

「………はぁ」

 最後におでこをもう一度拭い一通り拭き終わると、思わずため息が漏れた。ふと意識が外に向き、海の嘶く音が次第に大きくなる。

 時間が経ったお陰で、気持ちの整理が少しついきたようだ。セイレーンを挟んで向かいに座ったテオドールも、既にいつもと変わらない様子だった。

 フィーの視線に気付いたのだろう、テオドールは頷くと自分の上着を脱いで仰向けたセイレーンにかけてやる。フィーも習って、ケープを足元に被せた。

「次は手当てだ。だが、見た限りひどい外傷はなかったな? 衰弱、だろうな」

「弱って……じゃあやっぱり…………」

「ああ、討伐隊の聖歌だろうな」

「………っ……」

 フィーは眉を寄せ、唇を噛み締める。

 ───女神の授けし聖なる歌は、魔を討つと云われる。これまでも人に害をなす魔性の者は、その歌で〝駆除〝されてきた。魔を内から清め、亡き者にする。フィーはよく知らないが、過去にも大々的な討伐劇が王都であったらしい。

 討伐隊の話を聞いてはいたのに、何もしてこなかった。ただもう一度出会えることを待っているだけだった。何故、こうなる前にもっと早く動かなかったのか、手遅れな現実に酷く後悔する。

フィーが動いた所で事態が大きく変わる事がなかったとしても、それでも、セイレーン達に危険を知らせること位は出来た筈だ。

「テオドールは治せないの?」

「オレの家は人間専門だ。聖歌と同じでセイレーンには寧ろ逆効果だろう」

 淡い期待も一瞬に消えてしまい、フィーの表情は絶望に塗り固められる。

 テオドールの家は、街でも有数の音楽治療を行う医師の家系だった。それこそ、セイレーンに魅入られ自我を失ってしまった人達も正気に戻せる為、当然その逆であるセイレーンの治療には不向きだろう。

「そもそも、人間に効く治療が良いのかすらもわからない……」

 口元に手を当て考え始めるテオドール。

「家にあった魔性に関する本は粗方読んできたが、全てが退治方法や意識の戻し方だった。セイレーンの生態については、ただ歌で人を惑わし喰らう魔性としか記述はなかったな」

「そんな…………」

 八方塞がりな状況に、洞窟内も一際陰りを帯びた気がした。実際、水面に反射していた唯一の月明かりが灰色の雲に閉ざされ、一気に夜の色が増す。吹き込む風も冷たく、荒々しくなってきた。

 しかし、このままではセイレーンが息絶えてしまうかもしれない。

 ───何とかしたい。その気持ちがフィーの思考を加速させる。

「なら、普通の小鳥の手当てならしたことあるよ。確か木の実を磨り潰したり、薬草を混ぜたりした気がする。セイレーンは半分鳥だから、効かない?」

「……確かにそれも一理あるが………」

 辛うじて見えるテオドールの表情はあまり芳しくはなかった。だが他の宛はなかった。例えどんなことでも、試さずにはいられない。

「どんな薬草だ?」

「わ、わかんない……。けど、見ればわかるよ。あの時も今みたいな時期だったし………カテナ山辺りの森に取りに行ったから…………」

 言い終わらない内に、フィーは立ち上がっていた。

「おい、どうする気だ?!」

「森に行ってくる!」

 洞窟の入り口をフィーが塞ぐ形になり、中は暗闇に閉ざされるかに思えた。けれども不思議なことに、ぼんやりと僅かな光源が二人を灯していたが、今の二人がそれに気づくだけの余裕はなかった。

「今から森に行くのは危険だ!」

「でも行かなきゃセイレーンが!」

 いつもと違い声を荒げるテオドールに、フィーも引くことはしなかった。自分自身でも驚く位大きな声で反論し、互いのあまりない怒声が洞窟内に反響する。

「………ぅう……」

「!」

 更に言い募ろうとした二人を制止させたのは呻き声だった。それはこれまで微動だにしなかったセイレーンのものだ。ただ、苦しそうに顔を歪めた彼女が起きる気配はない。

 フィーはそんなセイレーンを見下ろすと唇をつぐんだ。

「おい!待───」

 テオドールを無視して脇目もふらず飛び出そうとした、その時。

「……っ……!きゃあ……ッ!」

 フィーの悲鳴は、天を割る轟音に押し潰された。視野を奪う閃光が、洞窟の中を白と黒に塗り替える。思わず後ろに倒れ込んだフィーの、頭上の曇天がもう一度唸りを上げたかと思うと、

 ───ドッバシャアアアアアア!

 直後、濁流のような雨が叩きつけてきた。海も負けじと荒れ出し、波は岩礁を越える高さにまで上昇する。風も吹き荒れ、静寂の夜は一瞬にして嵐へと変貌した。

 近くで落雷があったのだろう。

 凄まじい音と光を目の当たりにしてしまったフィーは、恐る恐る瞳を開いて色彩が変色してしまった世界にクラクラしながら、尻餅を付いた体を起こした。思いもしなかった出来事に呆然として、そのまま止まってしまう。

 まだ外に出る一歩手前だったが、その間にもフィーの髪や顔、服は吹き込んできた雨に晒され濡れていく。

「大丈夫か?!」

 テオドールが引っ張ってくれなければ、直ぐにでも水浸しになっていただろう。

 いつもの何倍も鼓動する心臓に、フィーの衝撃は如実に表れていた。

「恐らくただの通り雨だ。しばらくここにいれば止むだろう。今無闇に飛び出せばどうなるかは、わかるな?」

 セイレーンに被せていた服をフィーに頭から被せて。テオドールは非難の色ではなく、むしろ諭すように語りかけた。

 洞窟の奥で、ぺたんと座り込んだフィーは小さく頷く。

 横殴りの雨に風。海水が二人のいる所にまで侵入してきそうな荒れ模様だ。足を踏み外せば、荒れ狂う海に転落するのは目に見えている。

 ───セイレーンの為に何かしたい。

 その一心だけがフィーの気を繋ぎ止めていたのに。

思い付いた微かな光明も消え失せ、フィーの心は真っ暗闇に閉ざされてしまった。まるで今の天候のように陰鬱として、あの美く輝いていた月明かりも今は嘘のようだった。

 フィーは虚ろな瞳で、恋慕してやまない存在を見つめる。

 淡く浮かび上がる、その肢体からはみるみる生気が流れでていく。最悪の事態が頭を過って、振りきれずに絶望の底へ心が引きずり込まれていく。

 ………何も、出来ないの? 助けられないの?

 自分の無力さを象徴するような、小さな手を握り締める。

 ………このまま、見ているだけなの………?

 ただ震えるだけの唇を噛み締める。

 自分はセイレーンに助けられたのに。あの姿を、歌を通して、心が救われたのに。

 数えきれない失敗をして、沈んでいたフィーを浮かび上がらせてくれたのは他でもないセイレーンだ。もちろん、セイレーンがそうしようと思ったわけではない。フィーのことなど彼女は知りもしない。けれどフィーが励まされたのは紛れもない事実。

 そして、その出会いがまた次の出会いを呼び、フィーは今までになく生き生きと輝けた。

 なのに、その大切なきっかけをくれたセイレーンが、今消え失せようとしている。

 何も出来ないフィーの目の前で。

 茫然とするだけのフィーの手の届く所で。

 沢山のものをくれたセイレーンに対して、フィーは何も返すことが出来ない。

 ───もしセイレーンを助けられるなら、自分がどうなろうと構わない。

 そう強く思うのに、その想いを実現するだけの力が、フィーにはなかった。

 自分を呪うしか出来ないフィーの心を、それでも繋ぎ止めるかのように、セイレーンはあの日降り注いでいた淡い月光のように灯されていて。

「……………?」

 ふと、フィーはもたげた頭を上げた。

 何度か、瞬きを繰り返す。

 最初は本当に小さな違和感だった。頭の隅で見間違えや勘違いを疑ったが、辛うじて残っていた冷静な意識が、それが現実であると断定する。

「………なん、……で……?」

 今までどうして不思議に思わなかったのか、それこそ不思議な位に。

 セイレーンの姿が───暗闇の中でぼんやりと灯っていた。

「………………」

 外の光も薄い洞窟の中で、その姿は確実に光を放っていた。

 本来なら光源などありはしないこの洞窟に、例えるなら薄い雲の向こうに浮かび上がる月のようなに淡い色を帯びていた。

 フィーは、片手をついて前に乗り出す。

 時折轟く雷と強まる雨脚。

 外を見つめるテオドールは、まだ気付いてはいないようだった。

 フィーは目をそらせばそれが消えてしまうような錯覚に陥って、瞬きも忘れて見つめた。

 あの日の月明かりと、今が重なり───

「セイレーン…貴女に会いたい…………」

 朝露を落とす葉のように、唇を震わせた。

「セイレーン、……歌を…………聴かせて?」

 すがるように手を伸ばす。

 目には大粒の涙を浮かべて。ぽろぽろとそれを溢しながら、フィーは歌い始める。

 か細く消え入りそうなその歌は、嵐に紛れつつも洞窟内に浸透した。

 セイレーンを一途に想う、純粋な心を綴った旋律。

 何事かと首を巡らせたテオドールが見たのは、

「……………!」

 泣きながら歌うフィー。

 そして、

 その歌に呼応するかのように、どこからともなく集まった光がまるで生き物のように点りだす光景。

 テオドールは、言葉を失った。

「セイレーン……どうか………」

「…………………」

 テオドールはただただ目を見張るしかなかった。その脳裏に浮かんだのは、幼い頃からよく見てきた風景。

 仄かに薬草の匂いが香る医務室。白い壁にかけられた楽器や、大きなオルガンが置かれている。本棚には小さな鉢に植えられた花々と、楽譜の数々。

 真ん中の椅子には苦悶の表情で眠る人。

 規定のローブを纏った者が数人現れ、それぞれの楽器を手にする。何も持たない者は、手を組み合わせると前に一歩進み出た。

 その口が開かれたのを合図に、小さな音色が一つずつ織り込まれるように重なっていく。

 やがて眠るその人の表情が、気持ちよさそうに解けていく。

 ───聖楽による音楽療法。

 テオドールが目の当たりにしてきた、ずっと近くあった光景。音楽による療法が起こすその現象と、今目の前で起こっている状況とがとてもよく似ていた。

「───ともに歌を、唱いましょう………?」

 泣きじゃくりながら歌うフィー。

 淡い光りの玉は、セイレーンに溶けるように消えていく。

 外の嵐さえ遠退いていく。まるでこの場所だけが世界から切り離されていくような感覚。荒れ狂う天候も何もかもが、違う場所の出来事のように薄れていった。

 セイレーンを想う少女の歌は、温かくも哀しく、切ない雰囲気を漂わせる。

 嗚咽で止まろうとも音が外れていようとも、テオドールには、これまで聴いてきたどんな歌の中でも一番心に響くものがあった。大概のことに反応を示さないと自他共に認めるテオドールが、驚きを隠せない。否、そんなことさえ忘れる程、魅せられた。

「……セイ、レーン………っ……!」

 フィーは歌い続ける。

 光が満ちていく洞窟の中で。

 暗雲を払う希望にすがるように、ただひたすら。

 それからフィーは自分の意識が途切れるまで、歌い続けたのだった。



         ♪  ♪  ♪



 ───飛び交う悲鳴、むしりとられ宙を舞う羽。

 歌は誰のものでもないのに。

 何故、 それを行使する?

 ───投げ出された肢体は無惨な骸のよう。

 どちらの方が野蛮なのだ?

 何故、それに気付かない?

 ただ生きているだけなのに。ただ〈いのち〉をうたっているだけなのに。

 何の権利があって、我が物顔でのさばっている。

 そもそもの始まりは、寧ろ貴様達の方だ。

 秩序を乱し、壊し、都合の良いように捏造していった。

 魔性は貴様達の方だ。事実を隠蔽し、自ら生んだ罪を他に擦り付けそ知らぬ顔をしている。

 どちらが魔性だ。どちらが邪悪だ。

 本当に〈うたう〉資格がないのは、───貴様らの方だろう!

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