第2話 女神の御子
〈2.女神の御子〉
「フィーちゃん!なんだか最近ご機嫌だね!」
お花屋のおばさんから花束を受け取ったフィーは、陽気な笑顔で肩を叩かれ、思わず顔を綻ばせた。
おばさんの言う通り、最近のフィーは鼻唄まで歌いながら歩いてしまう程、上機嫌だった。
───理由はただ一つ。
あの夜から、フィーの胸は灯りが点ったように高揚していた。もう五日は過ぎているとは思えない。あの美しい姿を、歌声を、思い出すだけで鼓動が早鐘を打つ。時折ぼんやりして授業で叱られることが増えてしまったが、悪い事とはわかりつつも、今のフィーには気にならなくなっていた。
少し前まであんなにも重りがついたように気持ちが沈んでいたのが、まるで嘘のようだった。
ただ、一抹の憂いもある。
一瞬だけ陰りがさしたフィーの、耳にそれは飛び込んできた。
「またセイレーンが出たらしいぜ?」
「ああ、あの怪鳥な。俺のダチも襲われたってよ」
思わず、身を強張らせる。
花屋の隣にある雑貨屋の前で、荷を下ろし受け取る商人達の話だった。
───セイレーン。
その響きが、フィーの耳に木霊する。
この街に至るにはカテナ山を越えなくてはならない。カテナ山はテーナ地方でも一の高さを誇っていた。隣町のトランデへはトンネルや谷間をいくつも抜けて辿り着けるのだ。
そして、その山岳地帯にセイレーン達は住まうという。
「…………………」
セイレーンは魔性だ。
綺麗な歌で人々を惑わし、襲い、喰らってしまう。
陸路の被害だけではなく山に隣接する海でも、セイレーンが船を沈めた話が絶えない。
十数年前から突然その被害が増え始め、このローレライの街ではセイレーンといえば誰もが眉をひそめる、フィーも幼い頃から度々聞かされる魔性の一つだ。
ここでセイレーンに心奪われた等と言えば、咎められるのは必至だった。そもそも教会の掟に背く事で、口が裂けてもそんなことは言えない。
「こっちも花畑が山の方にあるからさ、いつ襲われるのか気が気でないよ」
「た、大変ですね。………お花、ありがとうございました! また………!」
「はいよ。気をつけてね!」
その場から逃げるように、フィーは駆け出した。おばさんは少し驚きつつも、手を振ってその背中を見送る。
雑貨屋、喫茶店、宝飾屋、色々な店が並ぶ大通りを足早に抜けた。街の中央に位置する広場に向かう。その奥に厳然と聳えるのは、聖ローレライ大聖堂。今も多くの人が出入りし、祈りを捧げている。
そこに隣接しているのが、大きさの違う三つの聖堂だ。大聖堂を中心に中庭の渡り廊でつながっている。
フィーは人々が使うメインの扉ではなく、少し離れたところにある小さな扉から中に入った。手入れの行き届いた庭を横切り、管理舎へ歩く。
「こんにちはー………」
フィーはノックをして返事があった後、裏手にある扉を開けた。室内には普通の家の台所のような空間が広がっていた。宿直の髪の短いシスターが帳面から顔を上げる。
「あら、フィーさん。いつもありがとうございます」
「いえ……! これ………今日のは、すみれ草でまとめてもらいました」
「まあ、フォルトゥナ様の色ですね! ありがとうございます」
フィーの差し出した花束を受け取り、シスターはやわらかな笑みを返した。
毎週、家からの寄附として教会にお花を渡すのが、フィーにとっての恒例になっていた。小さい頃からの習慣で、既に教会のシスター達───今日はリィレさんだ───とも顔見知りだ。
「今日もまた練習ですね。頑張って下さい」
「ありがとうございます」
リィレの真綿のような微笑みに、フィーの心もほどかれ自然と口が綻ぶ。少し雑談をしてから、まだ仕事が残るリィレに悪いからとお辞儀をしてその場を後にした。
暗雲とした気持ちが溶かされ、フィーは足取りも軽く授業がある第三聖堂に向かった。
授業が始まるまで、まだ半鐘以上あった。皆が来ていない閑散とした聖堂で、フィーはその最前列の椅子に腰掛け、女神の像を仰ぐ。
「……女神……フォルトゥナ………」
ぽつりと、フィーの呟きは湖面に落ちた滴のように浸透した。
静かになるとまた、あのセイレーンの歌声がどこからともなく聞こえてくるようだった。瞼を閉じれば女神の像が消え、あの美しい羽の魔性へと姿を変える。
聖なる女神とは相対する、魔なる生き物。
しかしフィーの胸は高鳴るばかりで、教義などもはや意味をなさなかった。堪えきれなくなって、ゆっくりとその唇を開く。
「Aah………」
あの歌を、反芻する。
一度聞いただけのうろ覚えだったが、耳に残る旋律。言葉はわからなかったが、メロディだけなら辿ることが出来た。
………海の底にたゆたうような調べ。あの純白の羽が舞い上がり、水面に浮上する。泡のヴェールの先には、銀色の月が天高く昇る。海の深淵から虚空の果てへと響く、未知の歌。
儚くも美しく、幻想的に。
それには到底及ばなくとも、フィーはセイレーンに対する恋慕だけで歌い続けた。
ゆっくりと、窓に差し込む日の光が角度を変えていく。七色の聖堂にしとやかに歌が満ちてそして、───ガチャリと、入り口の扉が開いた。
「ah………っ!」
「………………」
セイレーンの事しか頭になかったフィーは、これでもかとびくつき、歌を止めた。思わず立ち上がり振り向くと、開いた扉から入る外の光に、一つのシルエットが浮かび上がっていた。
「……テオドール……!」
聖堂に入ってきたのは、動揺し目をしばたかせるフィーとは正反対の、硝子のように涼やかな目をしたテオドールだった。しかしその表情はいつもとは少しだけ違い、僅かに揺れ見開かれていた。
「………お前」
「…………っ」
フィーとはそこまで変わらない身長と体躯。にもかかわらず、近づいてくるその圧倒感にフィーは身をすくませる。
当たり前だ。
フィーは今、聖歌ではない歌を口ずさんでいたのだ。しかも教会の聖堂で。それは明らかな背徳行為であり、聖職者に見つかれば厳しく罰せられてしまう。それだけではなく、何であれ歌を聞かれた恥ずかしさや、女神ではなくセイレーンに思いを馳せていた微かな後ろめたさも相混じって、フィーはもうどうしていいかわからなくなった。
テオドールは胸元のスカーフを風になびかせ、早歩きでフィーに詰め寄る。
「………っ……」
「………………」
テオドールの方が一つ年上だが、背丈は指先程度の差しかなかった。間近で瞳を向けられ、フィーは怯え震えると視線を足元に逃がす。
動揺と混乱で頭が真っ白になったフィーには、とてつもなく長い時間に思えた。気が遠退いてもう駄目だと思った直後、
「いや、いい……」
「………………?」
テオドールはそれだけ言うと、フィーとは反対側の長椅子に腰掛ける。背筋を伸ばし瞑想するその様は、放たれる雰囲気も相まって、まるで聖像のようだった。
訳がわからずフィーが立ち尽くしていると、また入り口の扉が開き、続々と聖歌隊のメンバーが揃い始めた。一人動揺して身構えるフィーの前を、見慣れた顔が訝しげに通り過ぎる。
彼らはテーナ各地方から集められた子供達で、フィーやテオドールのようにこの街に元々住んでいる者はごく僅かだった。 このひと月、寄宿舎に共に住んでいる彼ら同士は仲が良さそうだったが、そうではないフィーはあまり交流がなく、少し言葉を交わしたことがある位だ。
教会の小さな鐘の音がなる。
予鈴と共にマルシアが入ってくれば皆が列に並び、フィーも定位置についた。いつも通りの練習が始まる。
「la───」
胸の内がざわめく。
中央に立つ少年の背中を見つめる。
───女神の御子。
聖堂に奉られている女神の像は、赤子………つまり人間に子守唄を歌っている場面なのだという。その御手に抱かれている子供は『女神の御子』と呼ばれ、女神の寵愛を受ける特別な歌い手として、教会が三年に一度選定している十から十八までの少年少女を指す称号にもなっていた。
テオドールは正しく、その『御子』に相応しかった。
今現在、女神の御子姫と呼ばれ、この九年間もその任を受けているのは、歌い手であり王族でもある有名なお方だ。テオドールは既にその彼女に並ぶと賞されるレベルにあった。
透き通った声音。あの乏しい表情からは思いもよらない表現力と 、小柄な身体から溢れ出す力強さ、描き出される世界の美しさ。聴く者を魅了してやまない、彼の歌。そう、あのセイレーンのように───
「フィーさん!」
「っ?!」
突如、頬を叩くようなマルシアの呼び声に、フィーの意識は外へと引きずり出された。目の前にあった眼鏡越しのマルシアの瞳に、嫌でも現実を突き付けられる。
「フィーさん? 貴女は最近、どうもぼんやりしていることが多いですね。貴女は今、何の為にここにいるのですか? 歌わないのであれば出ていきなさい」
「す、すみません………歌い、ます……!」
歌の練習中、思考に没頭するばかりか、伴奏が止まりマルシアがこんなに近くに来ても気づかなかった。流石のフィーも冷や水を浴びせられたように凍りつく。
「………それとも、どこか具合でも悪いのですか?」
「いえ……!全く、ないです、本当に申し訳ないです…………!」
少し気遣わしげに瞳を細めたマルシアに、フィーは全力で頭を振った。
自分勝手に迷惑をかけた上に心配させてしまったとあっては、謝っても謝りきれない。
必死に否定するフィーに、マルシアはそうですかと、いつもの表情に戻った。
「ならば。歌う場にあり、歌うことを許された者であり、にも拘らず歌に集中出来ないなどとは、女神に対する冒涜ですよ! よく戒めるように!」
「はい、本当に申し訳ありません………!」
「次はありません。皆さんも、わかりましたね?! では、先と同じ場所から始めます」
フィーは周りからの疎ましげな視線を一身に受け、本当に心から懺悔した。頭にちらつくセイレーンの影をなんとか振り払って、今に集中する。そして決意して顔を上げた矢先、それに気づいた。
「…………っ……」
いつもなら何が起こっても特段興味がなさそうな彼の瞳が、じっとフィーを見つめていた。
……テオドールも、怒ってるんだ………。
先のこともあり身がすくんだフィーだったが、ますます気を引き締め直して練習に望む。
浮き袋もなく大海を泳ぐように、何度も溺れかけながら、その日はなんとか歌いきった。号令が終わると同時に、誰よりも早くフィーは聖堂を飛び出す。
その後ろ姿を追ったのは、 テオドールの視線だった。
「………そうだ」
小さく呟くと、彼もまた聖堂を後にした。
♪ ♪ ♪
「フィー、あなた最近帰りが遅いんじゃない?」
窓の向こうで、二匹の小鳥が仲睦まじくさえずる朝。
支度を整え、朝食のスープを口に運んでいたフィーは、母の言葉に思わず固まってしまった。
自然色でまとめられた小さなキッチンで、止められたばかりのポットがカタカタと揺れている。二人用のテーブルで向かいに座った母のリゼーヌが、心配そうに顔を覗き込んできた。
フィーとは違う栗色の瞳が瞬きを繰り返す。下ろされた髪はフィーよりも長く明るいオーカー。癖っ毛が強く、肩の辺りで面白いくらいに踊っている。
フィーは視線を泳がせながら、なんとかスプーンをお皿に戻した。
───あれから毎晩のように、あの海辺に足繁く通っていた。
セイレーンにまた会いたいという、どうしても押さえきれない衝動。今こうしている間にも、あの姿が、歌が、頭をちらついてしまうのだ。
「ま、前にも言った通り、秘密の特訓してるんだよ? だから、みんなにも、内緒、にしてね」
「ふふふ、お母さんとっても嬉しいわ!フォルトゥナ様の為に頑張るフィーちゃん! 女神様も大層喜んでいらっしゃるに違いないわ!………でもね、やっぱり夜は危ないから、早めにちゃんと帰ってきなさいね?」
「………うん!」
リゼーヌは熱心な教会の信奉者だ。娘のフィーが魔性であるセイレーンを待っているなどと知れば、気を失ってしまうかもしれない。
後ろめたさを振りきるようにフィーは大きく返事をして、食事の途中で席を立った。
「ごちそうさま……っ……行ってきます!」
「あら、いってらっしゃい。気をつけてね!」
鞄を肩からかけ、ケープを片手に家を飛び出す。
玄関先の手入れされた花々を横目に坂道を下る。遠くに海を望みながら、斜面に後押しされるように走り続けた。
天気は快晴。ここからでも朝日に照らされた波がキラキラと輝いているのがわかる。途中いくつか横道を曲がり、いつもの大通りに出た。
今日はお花の日ではないので寄る必要はなかったが、おばさんがいれば挨拶をしようと足を緩めたその時。
「おい聞いたか? セイレーン討伐の話!」
「っ?!」
フィーの聴覚はそれを捕らえた。
思わず足が止まり、声のした方向に聞き耳を立てる。
………セイレーン……討伐?
耳を疑いたくなる、信じられない単語に鼓動が早くなる。
「聞いた聞いた。何でも、聖グレゴリオ大聖楽団が本格的に乗り出すんだってなー」
「こりゃあ、御子姫様が来るって噂も本当かもな!」
「御子姫様ってあのユリスティーナ王女のこと?」
「それ以外に誰がいんだよ!」
フィーより一回りは上の青年三人組が、口々に話している。
「え、何で御子姫と討伐が関係あんの?」
「そのユリスティーナ様が安全にこの街に来れるように、道中のカテナ山道に巣食うセイレーンどもを駆除するんだとー」
「そうだそうだ」
「へぇー、でもなんで楽団?」
「お前バカかよ? 楽団が女神様の曲で、魔性を討つんだろが! あ~でもよ、俺らが動くよりも教会が先に動いてくれてよかったぜ」
「全くなー。規模も威力も桁違いだしな」
「しかもよ! 今回は楽団の中でも、あの祓魔士達が動くらしいぜ?! 間違いなくセイレーンは全滅だろな」
「祓魔士とか怖ぇー」
「でもさ、御子姫様が来なかったら、なかったんだよね? なら、御子姫様ばんざーい!」
「ホント様々だぜ」
「そういやぁ、前にもこんなことあったよなー」
「ああ、あったあった。ありゃあ王都近くのハルピュイア討伐だったっけか?」
「そうだハルピュイアだ。オレらがまだガキだった頃だよなあ確か。あれから全く聞かなくなったし、もう一匹もいないのかねー?」
「楽団の力はホントすげえな!」
「へぇーそうなんだ。つかさ、なら俺らも初めて生で見れるんじゃね?! 御子姫様!」
「おっそうだな! すっげぇ可愛い子らしいぜ?」
「しかも王族だろー?凄いよなー」
「は~いるんだねぇ。世の中にはそんな子が」
「俺らとは住む世界がちげえんだよ」
買い出しか何かの袋を抱えたまま、手にした箒に顎を乗せたりと雑貨店の前に屯しながら、彼らの談笑は続く。
しかしその長い会話でも、フィーの頭には特定の単語しか残らなかった。
………全滅? セイレーンが?あんなにも、あんなにも綺麗なのに………!
瞬きも忘れて、その場に立ち尽くす。雷に撃たれたような衝撃が走り、麻痺させられたように動けない。
「…………あの!」
「こらお前ら何サボってんだ! 早くしろ!」
より詳しい話を聞こうと、やっとの思いでフィーが声をかけた時には、
「うわっやべ!」
「すんませんませんー!今から行きます!」
「あっ俺も裏口にコレを~」
どこからともなくやってきた恰幅の良いおじさんの一声に、三人は蜘蛛の子を散らすように去っていってしまった。
「あ……………」
フィーの呼び掛けに気づく者はおらず、話を聞くことは出来なかった。行き場のなくなった手を胸に当てて、握りしめる。
動揺が止まない。
頭の中で色々な言葉や声が感情がごちゃまぜになって、今にも破裂してしまいそうだった。
無我夢中で、分けもわからず、その場からまた駆け出した。
まるで呼ばれているように、ただあの場所へ───
♪ ♪ ♪
───夕刻。
少しずつ色を移していく空と海を眺めながら、フィーはぼんやりと座っていた。
………会いたい。
その気持ちだけが胸を締め付ける。
朝、あの話を聞いてからずっとこの場所にいた。セイレーンを初めて見たこの場所に。
聖歌隊の練習も行かずこの岩場に座り続け、あの美しい羽をはためかせながら、もしかしたら舞い降りてきてくれるのではないかという淡い期待だけを胸に、待ち続けた。
セイレーンが女神に相反する存在にはどうしても思えなかった。それどころか、教会に飾られている女神の像以上に輝きを増して見えた。既にそれが惑わされているのだとしても、全く構わないとさえ思った。
ただもう一度その姿を見て、歌を聴ければそれだけで天にも昇る心地だろう。時間さえも意味をなくし、その切望だけがフィーの世界に存在していた。
夜の帳が落ちる。次第に深まる漆黒、瞬き出す星々───まるで、あの夜と同じように。
「セイレーン…………」
押さえきれなかった。
歌いかければ、どこからか応えてくれるような気がした。たとえ届かなくとも、この想いを伝えたかった。止められるものなど、何もなかった。ただ感情の赴くままに、フィーは唄いだす。
「───Aah………
───遠いあの日、星降る夜。静寂に響く歌声
───海の色に照らされて貴女はいた
───人ならざる羽、美しい瞳
───紺碧の空へと舞う姿、その全てに見とれた…………」
あれから何度もセイレーンのメロディを模しているうちに、いつしか溢れる想いが詞になり、それは歌になっていた。最初の旋律とは既に変わってしまっていたが、セイレーンへの想いは変わらない。
今まで聖歌を歌うことしかなかったフィーの、初めての感覚。新しい歌が、殻を割り空へ羽ばたこうとする雛鳥のように産声を上げる。
「───セイレーン、貴女に会いたい
───セイレーン、歌を聴かせて
───セイレーン、その翼に触れたいの
───どうか…………」
激情が渦巻く。
灼熱の炎が胸を焼くように苦しい。
しかし激しい想いを秘めたその歌は、虚しく夜に響くだけだった。
………どうして、来てくれないの……?
届かない。わかってはいたが、切なさが胸を切迫する。
穏やかな波の音が心を慰めるようにささめいても、物悲しいだけだった。
募る、恋情。想いは止めどなく溢れてくる。
フィーの瞳が潤んだ。
それは淡い月の光を帯びて、まるで星のように瞬く。
「セイレーン………会いたい……」
とうとう頬を伝った涙と共に、呟きが零れ落ちたーーーその時。
「……………!」
ふぁさり、と背後に気配を感じた。
フィーの瞳が見開かれる。花びらのように散った雫が、宙を舞った。
鼓動が今までにないくらい脈打つ。不安と期待が織り混ざり、世界が止まってしまったように長く感じられた。
音のした方向を振り返る。
背面に広がる崖、遠くに灯る街明かり。岩礁の下を寄せては返す波。その狭間。
フィーはそこに、───信じられない者を見た。
「テオドール…………!」
息を呑んだ
見間違えだと思った。
しかし、凍てつく夜の森を閉じ込めたような瞳、月のように凜と冴える相貌。色の薄い髪が闇の中でぼんやりと揺れ、羽織ったジャケットが風にはためく。そのどれをとっても、見慣れた彼の姿だった。
「………………」
テオドールは無言でフィーを見据える。聖堂で気づくと向けられていた、明鏡止水の眼差しと同じ。
フィーは硬直する。セイレーンに会いたくて唄った歌が招いたのは、会いたくてやまないセイレーンではなく、───一人の少年だった。
「どうして、ここに…………」
そう、尋ねるのが精一杯だった。
あまりにも微かで、風に掻き消されてしまったかと思ったが、テオドールの彫像のような口元がゆっくりと動いた。
「ずっとつけていた」
「…………………?」
意味がわからず、眉を寄せる。
警戒の色を高めるフィーに対して、テオドールの表情は一切変わらない。
「オレは、セイレーンにあてられた人間を何度か見たことがある。最近のお前がそれに酷似していたから、様子を見ていたんだ」
「!」
間髪入れず核心を突いてきたテオドールに、フィーの心臓は鷲掴まれたように縮んだ。全身から血の気が引いたように冷たくなっていく。
───全てバレていた?
魔性であるセイレーンへの気持ちも、更に聖歌ではない〈歌〉を唄っていた所まで十中八九見られてしまったのだろう。教会の聖職者以外が楽曲を作ってはいけないという戒め。それを破った場合、間違いなく〈断罪〉の対象にされてしまう。
〈断罪〉とは教会の定めを破ったものに与えられる罰だ。実際に何をされるのかはわからなかったが、恐ろしさだけは小さい頃から何度も教えられてきた。
動揺が極限に達して、フィーの頭の中は真っ白になった。
体が言うことをきかない。口を動かそうとしても戦慄くだけで、言葉にならなかった。
何か言い訳の一つでも言えれば、この状況を好転させる事が出来るのだろうか。しかし、今のフィーの思考は完全に凍結してしまい、何も対処することが出来なかった。
「お前は、セイレーンの歌を聞いたのか?」
「……………っ」
その間にも重ねられたテオドールの質問に、フィーが答えられる筈もなかった。
だから、持てる力の全てを掻き集めて絞り出せたのはただ一言だけ。
「何の、こと………?」
こんなに動揺しているのに無理もあったが、とにかく、そんな言葉しか出てこなかった。
テオドールはそこで、ああと何か納得したように口を開く。
「心配しなくて良い。オレは別に、お前を教会に突き出そうとか考えている訳じゃない」
「……………?」
最初、何を言われているのか理解が追い付かなかった。ただ、より一層意味が分からなくなってしまったのが事実だ。
「どういう、こと………?」
さっきよりも自然と、フィーの口からそれは出てきた。
訝しむフィーとは対照的に、テオドールは何ということでもないように、驚くべきことを告げてきた。
「オレは、セイレーンに会いたいんだ」
「?!」
間髪入れず返ってきた答えに、フィーはもう硬直するしかなかった。
二人の間に落ちた沈黙を埋めるのは、規則正しい波音。
………セイレーンに会う? 何で、どうして?
混乱がピークに達した。思考が渦を巻き氾濫する。容量を超え固まってしまったフィーに、テオドールはその当然の疑問に答えるように、自ら語りだした。
「セイレーンの歌は聴いた者を必ず虜にするという。誰をも魅了してやまない歌、それがどんなものか、この耳で聞いてみたかった」
テオドールの眼差しが、微かに揺れる。
フィーは、自分の耳を疑わずにはいられなかった。
あの『女神の寵愛を受けた御子』に相応しいと称される、教会の申し子のような少年が、その教義と相反することを望んでいる。その事実は余りにも衝撃的で、フィーの根底を覆すものだった。
「なん、で………? だってテオドールは教会の、女神様の───」
「違う」
ぴしゃりと、今までにない強い口調でテオドールは言葉を遮る。それから視線をフィーから外すと、どこか諦観したような眼差しで、暮れ残る空を見上げた。
「皆がオレの歌を褒め称える。女神フォルトゥナに愛された御子だと謳う。だが、オレが歌ったところで、………教会の聖歌をいくら歌ったところで、セイレーンのように誰かをそこまで魅了する事は出来ない。───今の、歌の力ではその程度なんだろうな」
「……………?」
「正直、女神の御子とか、そんな事はどうでも良いんだ。オレは、歌っている時だけが楽しい。生きていると実感出来る。他の時はどうでもいい」
………だから歌が全てなんだと、そう語るテオドールの瞳には、いつもとは違う熱い炎のような光が揺らめいていた。
フィーは瞬きもせずに見つめ、引き込まれていた。
『女神の御子』に一番近いと称えられる少年が切望していたのは、フィーと同じ──魔性の者。
「セイレーンの歌に、純粋に興味がある。オレもそんな歌を聞いてみたい。だから、会いたいんだ」
「………………」
少しだけ綻んだようなテオドールの表情に、フィーはしかし固唾を呑む。次の返事を一つするのにも長い長い、無言の時を要した。ただテオドールの一心が不思議と伝わってきて。それがゆっくりと、フィーの警戒を解いていく。
「本当に、会いたい、の………?」
「ああ。お前は会ったんだろう?」
自分でも驚くくらい素直に、フィーは頷いた。
「魔性、なのに…………?」
「関係ない」
有無を言わさぬ力強い声音に、フィーはむしろ安堵感を覚えた。
胸中では嫌な考えが浮かんだりもしたが、それを吹き飛ばすだけの説得力がその面差しからは伝わってくる。
「ここで、セイレーンと会ったのか?」
「………そう、だよ。でもその、会ったというよりもただ姿を見た、歌を聴いただけなんだけど………」
テオドールは周囲を見渡し、陰りを増した崖下に目を凝らす。それから輝き始めた月と街明かりを見上げた。
フィーは自分からテオドールの視線が外れたことで、思わず力が抜けるのを感じた。深く息を吸うことで、鼓動も少しずつ落ち着いてくる。
「ここなら、セイレーンに気づかれることもないか。───座るぞ」
「う、うん………」
そのまま岩の上に腰を下ろしたテオドールにつられて、フィーも座り込んだ。人一人分の距離を置いて、ふたりは並んで海辺の夜を眺める。
上空では薄い雲が風に流されていき、足元では波がちゃぷちゃぷと音を上げる。少しずつ位置を変えていく月に映ろう影が、まるで生きているように動いていく。その時間が、フィーには一人の時よりもとてもとても長く感じられた。
「───お前はどう思う?」
「な、にが……?」
徐に尋ねられ、フィーはまだ少しビクついた。まだ今の状況が信じられず、動揺は収まってはいなかった。恐る恐る隣にある横顔を盗み見たが、テオドールは構わずに前を見据えたまま話出す。
「歌は、教会の聖職者しか作ってはいけない決まりになっているだろ? だが、───全ての生き物は〈歌〉を歌う。海も、空も、大地も。この世界にあるあらゆるものが、〈歌〉を奏でる。今こうしている間にも、聴こえてくる全ての音色が生きている音、〈いのちのうた〉だ」
突然の話にフィーは瞬きを繰り返したが、真剣なテオドールの様子に引き込まれるように考え始める。周囲に耳を澄ませば確かに、岩に当たる波音も風に吹かれる木々のざわめきも色々な音を奏で、まるで自分達も生きていると歌っているようだった。
「……いのちの、うた………」
その表現がしっくりきて、思わず呟いたフィーにテオドールは強く頷いた。しかし、遠くを真っ直ぐ見ていたその眼差しに僅かな陰りが帯びる。苦しそうに、眉をひそめた。
「───にもかかわらず、なぜ人だけが、人だけが自由に歌ってはいけないんだ? おかしいと思わないか?………教会の聖歌は確かに美しい。だが言ってしまえばそれだけだ。どこまでも計算されていて、何か堅苦しい気がしてならないんだ」
「………っ……」
直後、いきなり首を曲げたテオドールの瞳と、フィーのそれとが重なった。新緑と紺碧の瞳に、互いが映り込む程の至近距離。
いつもだったらあまりの近さに驚いて飛び退いてしまっただろう。だが今は、それよりももっと大きい衝撃にごまかされていた。
………今まで、考えたこともなかった。
フィーはそう、愕然となっていた。
理由はただ一つ。教会の定めた聖歌に疑問を抱くことなど、生まれてから一度もなかったのだ。人々が歌うのは、女神に与えられた聖歌のみ。それ以外に民が自ら歌を作るなどということは、魔の産物であると禁じられてきた。
歌えば魔性にとりつかれ、人間には二度と戻れないと幼い頃から散々と言い聞かされてきた。
だから、さっきフィー自身が唄った歌などその最たるものだろう。またセイレーンに会えるならばどうなっても良いと思った。その一方で、小さいころから馴染んできた教えに逆らうという罪悪感があったのも事実だ。
しかしその根底を揺るがす問いを、テオドールは投げ掛けてきた。
───赦しを得たような、不思議な感覚。
言葉を失ったフィーをテオドールはしっかりと見つめ続けながら、迷わず言った。
「オレは、さっきのお前の歌は良かったと思う」
「!」
「いつも、練習で止められているような歌い方とは違う。お前が心の底から歌いたいと思って、歌った歌だ」
フィーの鼓動が、跳ねる。目が見開かれる。
世界が少しずつ、変わっていく。
「この聖歌隊の前にも、一度だけお前の歌を聴いたことがある。教会のミサで。あの時は楽しくて歌ってたんだろう? だが、今は上手く歌うことしか考えていない」
図星をつかれ、フィーは押し黙った。
色を変えていた世界がまた褪せようとした。
けれど、
「お前が聴くべきは何だ? 他人の歌か? 違うだろう。お前の内にあるもの。それを聴いて、歌うんだ。後は流れる音楽に乗せて、自由に歌えばいい。今みたいに」
「………………!」
間近で覗いた、深い森の奥に眠る宝石のような瞳に、フィーは完全に吸い込まれた。そこには天に瞬く星々よりも強い輝きを放つ光が揺らめく。
───初めてセイレーンに会った時のような、衝撃。
魂の根幹を揺さぶられるような、激動。
そして、希望。
色とりどりの星と月が輝く夜空の下、二つの影がくり貫かれたように浮かび上がる海辺。
その日、ふたりの元へセイレーンが現れることはなかった。
だが、運命の歯車は確かに音を立て始めたのだった。
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