薄氷

藍草

第1話

この瞼を閉じてしまえば、もう何も訪れないと思った。目を刺す様な陽光も、全てを覆う暗闇も、世界も、時間も、何もかも。

ゆっくりゆっくり深い水底に沈んでいく意識は私に後悔を齎さなかったし、かと言って希望を与える訳でも無かった。

眠るように死ぬということはどういうことだろうと嘗ての子供だった私に教えてあげたい。

どうということでもない。死ぬというのは終わることで、失うことで、それ以上でもそれ以下でもないんだよ。



嗚呼、これは幻覚なのだ、と気付くのに時間は掛からなかった。高校時代を過ごした校舎の廊下で、ひとりの少女が私に笑いかける。全てを赦す様なあの瞳で。いつもの、あの優しさで。

誘われる様に手を伸ばすのに、届かない。届かないことに胸が詰まる、何故、これは幻なのに?

この手が届かないことを私は知っている。もう二度と彼女の少しひんやりとした肌に触れられないことを私は知っている。だって、だって、


芙蓉、


幻の中の少女の代わりに私の手を握ったのは、弟の葵だった。そうと認識する迄にたっぷり五分間は掛かったと思う。脳に冷たい水が浸透していく様にして私はそれを理解しようとしていた。葵が居る、私の手を握っている、私は横になっている、天井は白い、多分此処は――病院だ。

嗚呼なんだ、失敗したのか。

それは単に、21年間の私の人生で繰り返される自殺がまた未遂に終わったことを意味していた。落胆はあるけれど、絶望という程ではないのがまた不思議だ。なのに何故、私はこれを繰り返すのだろう。何故、これは繰り返されるのだろう。

葵は泣きも笑いもしなかった。ただ単調に、私の意識を確認する為に名前を呼んだだけだった。この弟が感情的になったところを私は一度足りとも見たことがない。仮に私がこのまま死んだとして、彼は泣いたりするのだろうか?


「おかえりなさい。先生を呼んでくるから」


静かにそう言うと、葵は病室から出て行った。いつも通りの口調で。いつも通りの足取りで。


「おかえりなさい…」


私は言われたその言葉を口の中で反芻しようとしたが、声にはならずに空気が唇から漏れただけだった。




オーバードーズ。薬物過剰摂取による自死の成功率は高くない。但し吐き気さえ堪えれば割と穏やかに死ねる可能性を秘めているし、今のところこの日本で一般人に赦される安楽死に一番近いものではないかというのが私の見解だ。必要なのは薬を集める時間と、忍耐。ただそれだけ。

精神科にかかっていれば、それも重度の精神疾患持ちである私には薬を集めること自体そんなに難しくはない。早急に大量に、を求めなければ案外容易いのが現実だったりする。

確実に死ぬ、という意味ではいまいちというか全然向いていない方法だが、緩慢に死を求め続ける私にはこれで丁度いいのだろう。運が良ければ死ねるのだ。運が悪ければ、こうやって生きている。


「何回やっても慣れないものなんだね、退院後も二、三日は何だかぼんやりしているし」


自室のベッドに横になっている私の隣で葵は私が食べなかったお粥とスポーツドリンクを下げた。

その後でまた部屋に来て、私の額に自らの額を合わせる。


「平熱。良かった。意固地になっているの?」

「違う、食べたくないだけ」

「そう。じゃあ僕、学校行くから」


葵はいつもこの調子で、私の保護者の様に振る舞う。しかも私の精神年齢はこの場合かなり退行しているのではないだろうか。

甘えたいとか泣き出したいとかそういうものはないけれど、端から見たら高校生の弟に面倒を見てもらう只のニートだ。

私達は嘗て幸せな家庭だったと思う。私がオーバードーズを繰り返す以外は、割と普通の、ごく一般的な家庭だった筈だ。

でもそれはある日簡単に壊れてしまって、父親は仕事中に事故で亡くなり、母親は自宅で首を吊った。

私がまともだったなら、とたまに考える。私がまともだったなら、父は兎も角母は死なずに済んだのでは無いのか?私は存在しているだけで周りを駄目にしてしまうのではないのか?


取り留めのなく、生産性の無い思考の最後にやって来るのは、葵のいつもの言葉だ。

私はそれに、無意識に救われている気がしている。


――おかえりなさい


帰ってきて良いのだと、帰ってくる場所があるのだと。葵が何処までの意味を含めてその言葉を私に口にするのか判らないが、私は少なくともその二つは含まれていても良いだろうという希望的観測を以てして葵の言葉を享受する。


時刻はまだ昼過ぎだが、胃洗浄を免れた為にまだ残る倦怠感と酩酊感に身を任せて、私は瞼を閉じる。


夢を見ている、と私は自覚する。夢の中で静脈の透き通る少し冷たい白い掌が私に差し出され、それに逆らわず引かれるままに私は彼女に付いてゆく。

長く続く廊下。ひたすらに白い壁と薄灰のタイル床が延々と伸びている。

前をゆく彼女が振り返る。さらさらと肩上で揺れる栗毛色の髪の毛に私は見蕩れる。


「白菊、何処へ…」

「何処へ?何故?」


何処へ行くのかと問うより先に彼女は私の質問を正面から嗤った。


「芙蓉は何処かへ辿り着くと思うの?」


そう問われて嗚呼そうか、と頷く。私達に行き場など無いのだ。何処にだって行けないのだ。

だってこれは、夢だから。



ゆるりと現実に引き戻されて先ず気付いたのは、もう外が暗くなっていること。そして、私が泣いていたこと。それから、眠る前と同じ様に葵が傍らにいたこと。


「また、白菊の夢を見た?」

「見てはいけないの?」

「そうじゃない、只、それは苦しいだろう。だから、泣くんだろう」


葵は少しだけ表情を歪めて辛そうな、痛そうな、何とも言えない顔をした。でもそれも一瞬で、ご飯が出来たからいい加減一緒に食べよう、芙蓉のは別で作ったから、というような趣旨のことを言って部屋を出て行った。

葵が一方的に話して何処かへ行ってしまう時は、従った方がいい時だ。彼は怒ると普段以上に無口になるし、表情が無くなるし、それが端から見ていて結構堪えるのだった。



数日後、漸く復活を遂げた私が最初にした事は、かかりつけの精神科医にしこたま叱られる事だった。

これは失敗した時の恒例行事みたいなものだから私はそのお説教を聞き流して反省している様な顔をしてみる。上手く出来ているかは知らない。もしかしたら、案外無表情かも知れない。でもそれでもいい。

もう二度としないと誓わされ(恐らく無駄になるが)私はクリニックを出た。

駅近だという理由だけで決めたメンタルクリニックだったが、医師は想定以上に熱心で最初は戸惑ったものだった。だがそれもいずれ慣れる。上手な躱し方や誤魔化し方を覚えてしまうのだ。

全くもって駄目な患者だ…と悲観なくぼんやり考えながら駅ビルに入る。目的はなく、ただぶらぶらと一回りするのが好きなのだ。

平日の所為か空いている。あまりに混んでいると気が滅入るので、少し閑散としているくらいが丁度いい。


色んな人間が歩いている。皆ごくごく普通に見える。少なくとも外からは。私も多分、何度も死に損なってる大馬鹿者だとは見た目では判らない(事を何故か切に願ってしまうのは不思議な話だ)だろう。

人間の心が内包している諸々が何かしらの形で外側に出ない限り、それは他人にとっては無かったことになるのだ。

知らない事は、無い事と同じだ。

私が何度も死のうとしたことも、あの人にも、あの人にも、無かったことになっているのだ。

逆に、もしかしたら今すれ違った人も、何度も死にたくなったりしたのかも知れない。でもそれは想像の域を出ないし、私の中に実感を伴った事実となる事は多分永久に無い。

人は、深く関わる人間以外の人生を見つめることは出来ない。そして、それはしなくていいことなのだ。


白菊が私の目の前に現れたのは高校二年生の時だった。名の通り肌が白く、美しい少女だった。

私の中に残る彼女はいつも何処か世界を嫌悪しているような、世界と隔絶されているような、そんな風だった。

私以外とは関わらなかったし、授業も殆ど出ていなかった。けれども成績は優秀で、教師達は少なからずある種の悔しさを伴いながらも彼女の進路に期待をしていた。

でもそれは無駄になった。何故なら三年生に進級した直後に白菊は死んだから。

彼女の死は唐突で、そして呆気なく、しかも電車による人身事故であった。自殺か否かは判定が出来ず結論は未だに宙に浮いたままだ。事故だったかも知れない。自殺だったかも知れない。

それは自殺であったというのが、たった一年近くの間柄だったが、私にとっての確信めいた結論である。白菊は世界を忌み嫌い、世界を恨み、世界から隔絶されたがっていた。

それが何故だったのかはわからない上に、彼女が死んだ後に知った事だが、自殺などしなくても白菊は生まれ持った体質の為長く生きられない身体であったらしい。

それでも自殺だったと私が思うのは、白菊のいつもの口癖だった。


「呼吸をするのすら難しいくらい、私にはこの世界は生きるには向かない」


何か困難に立ち会った時、白菊は毎回そう言った。今思えば白菊は日々世界と闘っていた。学校という狭い世界の中で、家庭という狭い檻の中で、白菊の心の中で――。

そうした結果、白菊は死ぬ事でそれらを一掃してしまった。自らを消す事で解消し、全てを無に帰してしまった。無に帰ったのではない、消失だ。死は失う事だ。でも白菊はどうだったのだろう。もしかしたら、本人だけは安寧を得たのかも知れない。

死んだ人間に死んで良かったかと聞ける機会は訪れないから、それは有り得ない話ではない。但し、本人以外にとって、白菊は失われた、永遠に、この世界から。そして私から。


雑踏の中で白菊を想う。多分私は、あの少女に恋心に近しいものを抱いていた。私に無い美しさと、儚さと、賢さ。その全ては白菊を生きにくくさせていたかも知れないが、私にとっては惹かれる部分であった。


知らず、駅の改札を抜けてホームに降り立つ。白菊が死んだ、このホームに。

私が死ぬのに確実なこの方法を取らないのは、白菊の模倣をしたくはないということ、私には絶望が足りていないこと、の二点が理由になる。

前者は恐らくそれを白菊が嫌がるだろうからという私の憶測だ。かと言って、白菊は私に生きていて欲しい、というような前向きな気持ちでいたかどうかは定かではない。


服の袖を引かれて振り返ると、何処か焦りの見える葵の顔があった。


「芙蓉、何を」

「大丈夫、此処では死なない」


葵の問いを遮って断言する。私の言葉に葵は彼にしては珍しくあからさまに不愉快だという表情を見せた。


「もう、」

「…?」

「お願いだから、もう…」


その先の言葉は続かずに消えてしまったが、葵の言わんとしている事は分かりすぎていた。

葵だって疲れてしまうのだ。私が失敗する度に消耗していってしまうのだ。

私は生きているだけで害だけれど、死のうとするともっと害になる。そして失敗した数だけ、葵の消耗は繰り返される。


もうオーバードーズはしない、と言えたなら良かったのに。その一言で、私は葵を楽にしてあげられるし、私はまた前を向けるかも知れないのに、それが出来ない。

情けなくもあり、死は私にとって頼みの綱でもある。

白菊との再会を、私は夢見ているのだ。

もし、彼岸があったのなら、白菊がそこにいるのなら、私は、それだけで、その理由だけで、嗚呼、


我に返った時には自室に居て、私はあの後過呼吸を起こして駅でひと騒動起こした事をぼんやりと思い出した。葵がいつも通り冷静に対処してくれていたので問題は無い。問題があるのは私の脳内くらいだろう。死に取り憑かれた白菊を追って死に惹かれる私という図は他者から見ればかなり滑稽だろうと思う。

それでも私は多分、オーバードーズをやめられない。きっと、本当に死ぬその時まで。


「芙蓉、私達、何処に辿り着くのだと思う?」

「何処でもないよ、何処にも、私達が辿り着く場所は無いし、辿り着いた時には全てが終わってる」


あの時の白菊の問い掛けに対して、私にしては珍しく饒舌になっていた。

夏の暑い日、授業を抜け出してこっそり忍び込んだプールサイド。素足を水に浸して二人で並んで座っていたあの日。


「私達は何処にも辿り着けないし、そのままどんどん憔悴していってしまうだけ。白菊だって、そう思うでしょう?」

「確かなものは何処にも無いから…私達にはその解は与えられていない」


白菊の細い片足がすう、と水面を撫でる。


「芙蓉はもし、確かな解を与えられたらどうする?」

「確かな?」

「そう。私達が辿り着く先のこと。私達の未来。それを先に与えられたら、どうする?」

「確かであればある程、それは怖い事だと思う…可笑しいかな」


矛盾したその思いに私は自ら眉を顰めた。


「ううん、そういうものだと思う。それは予言になって、呪いになって、芙蓉や私を決定付けてしまう。だから、どちらも私達を苦しめる。不確定事項も、決まった未来も」

「生きづらいね」

「そう、生きづらい。呼吸をするのだって難しいくらいに」


いつも通り白菊は微笑んだ。それは優しく、儚げで、見ているだけで胸が甘く痺れた。この微笑が、私だけのものであれば。

確かな解を恐れる私は、白菊が私のものになるという確かな証を欲していた。矛盾だ、あまりにも、身勝手な…。

それを知ってか知らずか、白菊は私に殊更優しかった。傍から見れば私達は姉妹の様であり、恋人の様であったのだ。

なのに。

なのに、唐突に白菊は私を置いて死んでしまった。綺麗なまま、電車に轢かれて散った。


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薄氷 藍草 @aigusa

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