深碧の章

①<少女1> 『幻想の森』



 見上げると、涙が空の青に溶け込む。白色が溶け込む。


 あの日、あの時、私は夢を見ていたんだと思う。


 そう――あの時の光景は、

 今は朧気おぼろげになってしまった情景だ。


 あの日、私はお母さんに叱られて、涙を浮かべて座っていた。


 自分が嫌になって、泣いていた。


 気がつけば、あの人は私の隣に居た。

 いつの間にか、優しそうな男の人が立っていた。


 あの白い王子様に出会ってから、

 私はずっと――



①【ソフィア】

 ガタリ、と大きな音を立てて、馬車が大きく揺れた。

 安物の窓から見える風景が上下に動く。


 何か踏んだのかな。結構大きな衝撃だった。なんかその後から小さく揺れている気がするし、車輪が外れたらどうしよう。

 心の中に不安が芽生え、お母さんを見る。

 とうのお母さんはというと何事も無かったかのように自分の手帳とにらめっこしていた。表紙が皮で覆われたちょっと上等な手帳はお母さんが私のお父さんと出会った頃に贈られた物と言っていた。値段を聞くと舌が乾いちゃうくらい長い時間、口を開きっぱなしにしてしまうくらい、とても高いもの。

 お父さんがそんなお金持ちだったからか、お母さんは高い馬車にも安い馬車にも乗り慣れている。ちょっと目を凝らせば見える距離のお店に、わざわざ馬車を呼んで向かったこともあるらしい。今じゃ考えられない贅沢だ。

 そんなお母さんがなんの心配もしていないし、馬車も特に止まることなく進んでいる。どうやら私の思い過ごしだったらしい。心配して損した。


 お母さんの隣に座る、私のおとうとも分かりやすいふくれっ面を見せながら窓の外に広がる樹木達を睨み付けたままだ。

 ま、弟のマシューはこの数日間ずっとこうだから、どうでもいいけどね。


「ねえ、ほろを空けていい? わたし、外の空気が吸いたい」


「いいわよ。でも暑いから、すぐに閉めなさいね」

 返事よりも早く、私の真横に設置されていた回転棒をくるくると回す。

 ほどなく布で出来た天井が音を立てて動き始めた。

 見上げると、白色の生地だけだった光景が青と緑へと移り変わっていく。

 縦横無尽に伸びた梢の隙間から大空が顔を出し、大白鳩シェバトの群が、我が物顔で飛び回っている。それを見た途端、私のお腹は可愛い物音を立てた。

 ……美味しそう。

 大白鳩シェバトはこの大陸では鶏馬ルロの次に食べられている一般的な食材だ。

 何度か間近で見たけど、大きな翼と大きな足が特徴の丸々太った鳥だ。

 子供くらいなら抱えて飛べそう、と思ったけど臆病な性格らしく、自分からは人間には近づかないらしい。

 ……その割には良く食べられているけれど。なんか、見てたらお腹空いてきた。


 大白鷲シェバトから目を離し、身体を持ち上げると霧が私の顔を濡らしていく。お母さんは暑いと言っていたけれど、そんなことはない。


 息抜きがてら伸びをしてみると、二頭の馬を操るおじさんと目が合い、一礼してきた。私も慌てて小さく会釈する。

 私達が乗る馬車の周りには、碧色の景色が広がっていた。

 見わたせば大小様々な木々。それはどれも苔むしていて、老木だけど力強さを感じる。

 馬車は鬱蒼うっそうとした木々の間を縫う様に張り巡らされた空中通路を進んでいた。

 けれどその道は地面じゃない。


 大きな木の枝の上を私達は馬車で走っていた。


 枝っていっても、その道自体はかなり広く作られている。

 元々は枝と枝の間を移動しやすいようにと橋を架けたのが始まりだったらしいんだけど、その橋は苔やツタ、木の枝が絡みついて今はすっかり自然と同化してしまっている。

 遠くの方を見ると、霧が光に当てられて森の色と混じり、幻想的な碧色が広がっている。


「もう太陽が真上だよ。まだ着かないの?」

 生い茂る葉っぱの影に潜んでいる太陽の位置を確認しながら、私は自分の腰を浮かして痺れきったお尻を摩る。

 このまま揺られていたら、私のお尻はお皿みたいに真っ平らになっちゃいそう。


「もうすぐのはずよ。我慢しなさい」

 木漏れ日の光を頼りに、手帳から目を離さないお母さん。そんなんだから目を悪くしちゃうんだ。


「僕、もう帰りたい」

 残念なことだけど、私の弟として生まれて来たマシューが絶対に無理なお願いを口にする。


「まだ新しい家に着いてもいないでしょ」

 私がたしなめると、黒色の髪をわさわさと掻きむしり、分かりやすくふてくされながら続けた。


「こんな田舎嫌だ。王都ルスランがいい!」


「ここも一応、王国ルスランでしょ。無茶言わないで。もう前の家は無いのよ」


「嫌だ。僕、お父さんと暮らす」


「お父さんも、こんな我が儘ばっかりのガキんちょとふたりでなんて暮らしたくないでしょ」


「うるさい、ババア!」


「うるさい、クソガキ!」


「あ、また眉間に皺寄ってる。しわくちゃソフィア!」


「誰の所為だと思ってんの!?」


「もう、ソフィアもいい加減にしなさい! マシューも機嫌直しなさい! お父さんとはもう、暮らせないって言ったでしょ!」

 お母さんからの一声で社内がしん、と静まりかえる。


 言葉だけだ。マシューと目が合うと、舌を出しながら威嚇してきた。


 ホント、ムカつく。ホント、死んでもらいたい。よりによって十三歳の乙女に向かってババアだ!? ホント、ムカつく。四つも年下の癖に口の利き方すら知らないのか。


「ほら、見えてきたわよ。……あれが新しいお家よ」

 お母さんの言葉を受けてマシューは飛びはね、身を乗り出して進行方向を見る。

 ぶつくさ言ってた割に気にしてんじゃない。


 枝の道を降り、森が雑木林に変化してきている。

 その場所に近づくにつれ、碧の霧が薄れていき、代わりにツタに覆われた石造りの建物が徐々に姿を見せ始めた。


 雑木林に紛れるように、その建物はひっそりと佇んでいた。


 斜塔付きのこぢんまりしたお家、だけど、三人で暮らすには十分な広さはありそう。

 家の周りは当然の様に手入れはされていない。草や花々が生え放題になっているけれど、綺麗に刈り取れば結構、広い遊び場になるかも。

 少し離れた場所に四角い木の屋根が着いたレンガ壁の休憩場所があり、その下には長いすも設置されている。

 ランタンも吊るされているので、ここで夜にのんびり森の風景を眺めることも出来そうだ。


 まるで田舎の教会聖堂をそのままお家にしたような場所。……というよりも、その言葉どおりなんだけどね。

 お母さんのお父さん、私からしたらおじいちゃんになる人が若い頃に、金山で稼いだお金が沢山あって、売りに出ていた古い教会聖堂を買ったことがあるんだって。

 教会聖堂が売りに出るなんて滅多にないっていうか今だと禁止されていることなんだけど、五十年前の当時は今より人も法律も色々と穏やかだったみたいだ。

 おじいちゃんも友達の勧めで買ったらしいんだけど、自分のお屋敷がルスランにあったし、避暑地に使うには遠すぎるという理由で、使い道がなくほったらかしていたみたいだ。

 だったら売ってしまえばいいのに。改装とかもしていたらしいんだけど、勿体ない話だよね。


 元々、私達はルスラン王国の城下町、王都に住んでいたんだけど、お母さんとお父さんがそれはもう一言では語れない程の大喧嘩をしてしまい、色々あってお家を売りに出さなきゃいけなくなっちゃった。

 それなら、ってことでおじいちゃんのほったらかしていた家を思いだしたお母さんは、丁度良いかと私とマシューを連れて移り住むことを決めてしまった。

 王都から遠く西にあるノカって名前の田舎町にね。

 森の町ノカ。町って言っても、なあんにも無い田舎町だよ。

 けれど、森の町っていうくらいだから、古くて背の高い木々と同化したような街並みが広がっている。その景色は王都では絶対見られないくらい綺麗なもので、貴族の中にはわざわざ観光に行く人達もいるみたい。私も、王都に居たころに耳にしたことがあるくらい有名な町だ。

 私も最初は楽しみにしていた。行く前はね。

 もう見飽きたけど。

 だってさぁ、王都から五日もかけて森の中に入って、そこから町まで二日だよ。その間、ずーっと同じような光景。やっと町らしいところにたどり着いたと思ったら、私達のお家は更に遠く、馬車で半日揺られるような離れた場所にあった。

 ほんと、ここで生活していけるか今から心配。

 愚痴言っててもしょうがないけど。


 なんせ、今の私は一人では何もできない、十三歳の女の子だ。


 住む家と食べる物があるだけ、幸せなんだろう。


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