風の声
朝海 有人
1
ドドドドド。
ガタンゴトンガタンゴトン。
ガヤガヤガヤガヤガヤ。
喧騒に喧騒を重ねた街の中。
そこから離れたところにある小高い丘が、少女の居場所だった。
見下ろした先に見えるのは、木々のように立ち並ぶビルと忙しなく動き回る人の群れ。そのどれもが灰色にくすんでいて、そしてうるさい。
小高い丘の上から街を見下ろす少女は、自分の住む街を眺めながらいつもそう思っていた。バシャバシャと絵の具の筆を洗った水のように、ザアザアと雨が降った後に出来るグラウンドの水たまりのように、街はいつも一点の清らかさもなく汚れている。
この丘に訪れた時だけ、少女は自分の住む街が嫌いになる。こんな汚い空間の中で、自分はご飯をモグモグと食べ、スヤスヤと寝ているのかと思うと気が気ではなくなるのだ。
だけどそれも、この丘にいる時だけの話だ。ギラギラと照りつける太陽の姿が消え、キラキラと輝く星が顔を出す前に、少女は嫌でも汚い街に戻らなければならない。顔をしかめ、耳を塞ぎ、汚い空気を取り込まないように息を止めて足早に家に帰らなければならない。
しかし、街に足を踏み入れた瞬間、丘にいた時の気持ちを全て忘れてしまう。嫌っていたはずの街の中にいるはずなのに、それが当たり前であるかのようにスースーと汚い空気を吸い込み、トテトテと家を目指して歩いていく。
丘を訪れる度に、少女は「またか……」とため息をついてしまう。汚い世界を受け入れ、毒されている自分がいることをこの丘にいると自覚してしまう。どんなに走っても逃れられない、どんなに反抗しようとしても抗えない。汚い世界に身をゆだねている自分が、少女はとにかく嫌いだった。
だから少女は、そんな自分がいることを自覚させてくれるこの丘の上が好きだった。街の中にいては絶対に気づけない、汚いものに毒されていない本当の自分。それを感じることが出来るのは、この丘の上だけだった。
丘はいつも、ピュウピュウと風が吹いている。少女の髪をフワッと吹き上がらせ、足元の草花をサラサラと揺らし、木々の葉をガサガサと生い茂らせるその風は、いつも気まぐれでいたずら好きだ。
そして少女は、この風が誰よりも好きだった。いつもフラフラとしていて、注意しても色んな人にちょっかいを出すのを辞められない、そんな風と話す時間が、少女は何より好きだった。
「ねえ、風さん」
少女が話しかけると、風はまたいつものように少女の髪をフワッと吹き上げる。
「どうしたの?」
「聞いてくれる? 私ね? 今日で十八歳になったんだ」
「そうなんだ、おめでとう! そうだ、歌を歌ってあげるよ!」
そう言って、風は嬉しそうに少女の周りをピュンピュンと飛び回る。それに反応して、足元の草花や木々の葉達も少女を祝福するようにサラサラと、ガサガサと一緒に歌い始めた。
皆の大合唱を聴き終えた少女は、パチパチと拍手した。こんなにもたくさんの声に祝福されたことが、少女は何より嬉しかった。
「皆、ありがとう。すっごく嬉しいよ」
「ねえ、一年前の事覚えてる?」
歌い終わった風は、また彼女の周りをピュンピュンと吹き始めた。
「一年前?」
「うん、一年前もこんな感じでお祝いしたよね? その時、僕にお願いした事、覚えてるよね?」
「え……?」
風の声に、少女は言葉を詰まらせた。
一年。たったそれだけの過去の事を、少女は思い出せずにいた。一年前、本当に自分は今日と同じようにこの丘に来ていたのか、それすらも思い出せない程、少女の記憶は穴が空いたように不鮮明になっていた。
そして何より、風に言われるまでその記憶が全く表に出てこなかった事が、少女を何より混乱させた。
「ねえ、もしかして……覚えてないの?」
「そ、そんなことないよ!」
悲しそうにしている風に混乱を悟られないよう、必死にごまかす。苦しい言い訳に聞こえるかもしれないと不安だったが、風はすぐにいつもの調子に戻っていた。
「そっか! じゃああの時のお願い、僕が今まで見てきた世界の事、いっぱい話してあげるからね!」
そう言って、風は自分の冒険譚を話し始めた。ある時は冷たい風として、ある時は乾いた風として、世界各地を旅しながらたくさんのものを見て、たくさんの事を感じたと、風はとても楽しそうに話している。いつの間にか、風の冒険譚を草花や木々の葉達も興味津々な様子で聞き入っている。
しかし少女だけは、その言葉に心が躍らなかった。普段なら、見たこともない世界の話をする風の言葉に心が躍っていたはずなのに、今はそれを聞いても何も感じない。ピュンピュンと自分の周りを吹いて回る風の言葉に、心が躍るどころか氷を入れられたかのように熱が冷めていくのを感じた。
その時少女は、初めて「寒い」と感じた。自分の周りを吹く風が、自分の体温を少しずつ奪っていくのを感じ取っていた。
「でね! その時はね! ……あれ?」
風が喜々として話をしている途中、少女は立ち上がって街を見下ろした。太陽は少しずつ沈み始めているが、星が光り始めるにはまだ早い。まだ、少女がいつも帰る時間にはなっていない。
それなのに、少女の足は自然に嫌悪している汚い街へと向かっていた。足元の草花を踏みつけ、木々の葉が生い茂る音を煩わしく思いながら、少女は街へと向かっていく。
「ねえ!」
突然、後ろから声をかけられた。それが風の声なのか、草花の声なのか、木々の葉の声なのかは、もう分からない。
「……来年も、来てくれるよね?」
その言葉に、少女は何も返さずに街へと走り去っていった。
***
喧騒に喧騒を重ねた街の中。そこが彼女の居場所だった。
木々のように立ち並ぶビルと忙しなく動き回る人の群れ。そのどれもが灰色にくすんでいて、そしてうるさい。
鳴り止まない工事現場の音、高速で行き交う電車の音、何を話しているのか分からないたくさんの人間の音、そのどれもが彼女を包み込んでいる。そして彼女は、それに一切耳を傾けない。
街の中は、音で満ち溢れていた。目につくもの全てが音を発し、それら全てが混ざり合い混沌と化している。もはやそれらは、音と呼ぶにはあまりに邪悪なものであり、ただの情報でしかない。
情報は耳から伝わり、脳へと到達してその情報を処理する。しかしその大半は必要がないものとされ、忘却の彼方へと消え去り二度と表に出てくることはない。
毎日のように行っていた、汚い街を見下ろせる丘にはもう行っていない。彼女は理解していた、あそこに行ったところでもうこの街を汚い空間だとは思わない。この空間の中でご飯を食べる事も、睡眠を取っていることも当然の事だと感じるだろう。
空を見上げると、既に太陽は地平線の向こうに沈み、月だけが夜空を照らしていた。
もうそんな時間か、と彼女は足早に自宅へと向かう。
その時、冷たい風が彼女に向かって吹いてきた。日が沈み、冷たくなった風が彼女を囲むようにずっと吹いている。
「ふう、寒くなってきたわね……早く帰ろう」
小さく呟いて、冷たい風に身を震わせながら彼女は家路に着いた。
もう、彼女は風の声が聞こえない。
風の声 朝海 有人 @oboromituki
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