紙片

紬 蒼

紙片

『もう私ダメかも……ごめんね。私馬鹿だから、こんなことしか思いつかなくて……どうしていいか分からなかったの。本当にごめんね』


***


「自殺だね」

 読み終えてきっぱりと彼女は断言した。


 僕もそう思えた。

 ルーズリーフに走り書きのような汚い字でそんなことが書いてあった。

 それがアパートの階段に落ちていたのだ。

 それを偶然大家さんが拾い、偶然その場に居合わせてしまった間の悪い僕は大家さんの部屋でこうしてこの紙切れについて議論することになった。


 ワイドショーはかかさず見る大家さんは、典型的なオバサンで、とにかく毎日そんなことで頭がいっぱいなのだ。

 僕はすぐにでもここから逃げ出したかったが、大家さんにはいろいろと弱みを握られているので逆らえない。


「二〇二号室の細谷さんかしらねぇ。最近、挨拶しても覇気がないのよぉ」


 うちのアパートは三階建で、各階に三部屋ずつある。

 一階の一番奥が大家さんの部屋で、一〇三号室。僕はその真上の二〇三号室。だから細谷さんは僕のお隣さんだ。

 彼女は大学一年生で、他県から引っ越して来たらしく、ここには友達が全くいないことを不安に思っているようだった。


「でも、意外と一〇一号室の戸田さんかしら? 柄悪いし、どこで何やってるのかいっつも朝帰りなのよぉ」

「でも戸田さんって男の人でしょ? この字とか言葉遣いって女の人じゃないですか?」

「あら、知らないの? 戸田さんってああ見えて女の人なのよぉ。何て言うの? ほら、身体は女だけど中身は男だっていう……アレなのよ」

 知らなかった。どこからどう見ても男の人だとばかり思ってたけど。

「でも、それだったら中身は男なんだから男っぽい言葉遣いになるんじゃないですか? それに落ちてたのは階段の踊り場なんですよ? 戸田さんは一階だから階段は使わないでしょ?」


「それもそうねぇ。じゃあ、あと女の子っていったら三〇二号室の池田さんだけよ? 彼女はすごく明るい子だし、愛想もいいからねぇ。彼氏も友達もいっぱいいるみたいじゃない」

「分からないですよ? 最近はちょっとしたことでもすぐに自殺しちゃう人いますからね。若い子はあんまり分かってないんじゃないですか? 死ぬってことに現実味がないんですよ、きっと」

「オジサンの発言ねぇ。まだ若いくせに」

 僕は苦笑する。社会人になると学生がとても子供のように感じてしまうのだ。学生の時はすごく大人になった気でいたのに。


「だったら一番可能性が高いのは細谷さんねぇ。嫌よ、部屋で自殺なんて。次に誰も入らなくなるんだから」

 大家さんはそう言ったが、それが本心ではないことは知っている。すごく情に脆い人なのだ。


「……そう言えばお友達ってことも考えられない?」

「友達?」

「誰かの友達が落として行ったのかもしれないわ」

 それも充分考えられる。

 でも考えだけなら。


「そもそも自殺じゃないかもしれませんよ?」

 あら、どうして? と大家さんは不意を突かれた表情で、僕を見返した。

「何か大失敗をして、迷惑をかけてごめんなさい、程度のことかもしれないじゃないですか?」


 僕はふと思いついたことを言っただけだったが、口に出してみるとそれもありえる話だった。

 大家さんもそうねぇ、と何度も呟いて、そこで話は落ち着いた。酷く楽観的な結論だったけど。


 それから数週間が過ぎた。

 まだアパートの誰も死んでいない。

 近所で自殺があったという話も聞かない。

 だから、多分、あれはそういうことだったのかもしれない。


 でも。


 大家さんは週に一度、回覧板だの果物のおすそわけだのと理由をつけて、アパートの住人にちょくちょく話かけるようになった。

 僕も新聞とテレビのニュースは毎日目を通すようになった。


 結局、今もあの紙切れの持ち主もその真相も分からずじまいだけど、今日も僕のアパートとその周辺はとりあえず平和です。

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