エピローグ「さよならなの?」

 十月中旬、ミュンヘン。

 この出来事から、およそ三週間後。

 彼は、広い部屋の赤い絨毯に、右膝をつけて、腰を屈めている。

 シュヴァンデンの正装である純白のコートを着ている。

「貴方の報告は受けました」

 会議室、という表現はあまりしっくりとくるものではないだろう。というのも、その広さは、テニスコートを四面に広げた程度の規模であるからだ。両端に立てば、互いの顔を認識するので精一杯だろう。

 その部屋の中央には、円卓がある。

 そこに腰を掛けるのは、十三人。

 使節を取りまとめる、使節十三席の場所だ。

「至急、こちらから、情報部を動かし、事態の把握に努めます」

 円卓ではなく、玉座に腰を下ろす人物が落ち着いた声で言う。昔聞いたときは、もう少し威圧的な雰囲気だったような気がする、とミハエルは思っていた。

「顔を上げなさい、騎士ミハエル」

 ミハエルが声に従って、顔を上げる。

 眼前の相手は、自分よりも年下に見える、金髪の女性だった。

 使節十三席の頂点にして、宣託者『月巫女』のイーアス。

 それが、彼女の役職であり、名前だ。

 向こうからの喚問がなければ、会うことも、声をかけることも許されていない。彼女は、使節の意思決定者であり、象徴そのものなのだ。

「質問があります」

 彼女は、声をほんの少し柔らかくして、ミハエルに聞いた。

「彼女は、その選択が正しいと信じていましたか?」

 イーアスが問いかけたこと、それは、里見のことだ。

 彼女が、使節の決定に反して、唯を連れ戻そうとしたこと。

 彼女を助けようと、自分の命を投げうったこと。

 それが、彼女にとって真実取るべき選択だったのか、とイーアスは聞いている。

「いいえ。ですが、それでも、彼女は選択をしました」

 起こってしまったことの原因を、今問うても結果は変わらない。

 彼女にとっては、それが全てであり、それゆえの結果だったのだ。正しいか、正しくないのか、信じていたのか、信じていなかったのか、彼女には関係がなかったのだと、ミハエルは思う。

 イーアスも、そのことくらいは理解しているのだろう。

「貴方は、それが正しいと思いましたか?」

 質問は、変わってミハエル自身のことに向けられる。

「いいえ。ですが、私は、今でも彼女を評価しています」

 使節の意思に背くこと、ミハエルの本来の価値判断からすれば、それだけでも、彼女の行為は正しくない。

 その上で、彼は、彼女の行為そのものを、評価する。プラスでもマイナスでもなく、ただ、単純に、彼女を評価した。

「そうですか」

 イーアスは、それだけを言った。

 沈黙があり、イーアスが口を開く。

「結構です。騎士ミハエル、貴方には暫くの休暇を与えます。命令があるまで、待機をしていてください」

「了解、すべての力は天のために」

 ミハエルが立ち上がり、ゆっくりと後ろに下がる。

 十数メートル先のドアまで、音も立てずに歩いていく。

 自分がいた場所から、微かな声が聞こえた。

「お疲れ様」

 それは、誰に向かって言った言葉だったのだろうか。

 背を向ける前に、ミハエルは、彼女が涙を溜めているのに気が付いていた。

 それでも、ミハエルは何も言わなかった。自分から声をかけることは禁じられているし、その領域に彼が踏み込むべきではないと思ったからだった。

 ドアに立ち、無言で一礼をして、ミハエルはノブに手をかける。

 彼女は、ミハエルを見ていなかった。

 見えないものを、見ているのかもしれない。

 それは、幻想だ。

 そう思う気持ちも、幻想だろう、とミハエルは思っていた。

 そして、丁寧に、音が鳴らないように重いドアを閉めた。



 ミハエルは自分の居場所へと戻る。

 自分の屋敷、シュヴァンデンの住処だ。

 白い壁、六枚羽の騎士の銅像が、今も自分を見下ろしているホール。

 無表情でそこを抜けて、廊下を歩く。

 大切な誰かと通ったかもしれない廊下。

 自分がその手にかけてしまった、誰かの部屋を横切る。

 誰も入らない部屋は、ミハエルの意思によって未だにそのままにされている。

 通るたびに、自分の罪を再確認するために。

 自室に入り、呼吸を整える。

 壁際の本棚には、古い本が並べられている。ここでは収めきれない本は、地下の書庫に保管されている。任務前に使用人に頼んでおいた本が、机の上に十数冊置かれていた。横には、出かけに置いてきた読み止しの本が、栞を挟められていた。本は、続きを待っている。

 それらを横目で過ごし、そのまま、ミハエルはベッドに倒れこんだ。

 眠気もなく、かといって動くつもりもなく、純白のシーツに顔を埋めてゆっくりと目を閉じる。

 何も変わっていない。

 これからも、何も変わることはないだろう。

 少し、自分の周りにいる人が減っただけだ。

 そんなことは、今まで何度も経験してきたし、これも、その通過点の一つだろう。

 ミハエルはそう思い、全てを過去のものにしようとしていた。

 それが不可能であることは、当の昔に知っているはずなのに、彼は、そうしなければ何もできないと思っていた。

 何かを手に入れることは、何かを失う覚悟を持つこと。

 そう、信じなければ、自分が持たない。

 唯は、何を選択しただろうか。

 里見は、何を求めたのだろうか。

 今となっては、それも想像するしかない。

 彼は、あの時に感じたことを、もう一度頭の中で繰り返す。

 何が終わって、何が始まったのか。

 それは、懐かしい、誰かの声で聞こえたような気がした。

 唯か、里見か、それとも、兄だったのか。

 おやすみなさい。

 目に浮かぶ全てに、ミハエルは、別れの挨拶をする。

 まだ、その答えは出ていない。


 きっと、永遠に出ないだろう。

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