8「考えているの?」

 壁に立て掛けられた物々しい時計の針が、静かに世界が動きつづけていることを告げている。二人の距離を縮めさせないために、互いの脆弱な呼吸を確認させているかのようでもあった。

 唯は、一人で自分の部屋に戻った。

 きっと、独りきりで考えたいことがたくさんあるのだろう、と里見は思った。

 ああは言っていても、唯が迷っていることは里見も重々承知している。きっと、自分達のことを思って、言ってくれた言葉だったのだろう。

 里見はそう思い、反対はしなかった。

 素直に、嬉しいとさえ思った。

 多分、今でなければ、抱きしめてしまうほどに。

 唯に与えた情報は、一晩で詰め込むには、多すぎた。

 里見は、イーアスとの話し合いの中で、もちろん、この件に限ってはほぼ彼女に一任されていたとはいえ、彼女の限りなく真実に近い情報については先送りにすることに決めていた。

 特に、唯が第六元素の保有者であり、そのために神楽の継承者が亡くなったという事実は伏せておくつもりだった。前者はともかく、それに付随して導き出される後者の結論は、彼女の引き金を一気に引いてしまう恐れがあったからだ。

 そして、そうなった場合、圧倒的なまでの確率で、自我が崩壊して厄災が生じる。

 第六元素は、人間の根幹を担っている第五元素とは根本的に異質な存在だ。

 まず、肉体が耐え切れない。

 次に、精神が耐え切れない。

 数少ないが存在するどの文献にも、どの口承でも、第六元素を使いこなした人間はいない。何度か登場はするが、彼らの物語は例外なく、悲劇的な結末で終わる。結果として、それを持っているが故に、不幸になってしまった人間だけが、保有者になれる素質なのではないかと疑うほどなのだ。

 何らかの原因によりスイッチが入ってしまうとそれで終わり、それが、人間が第六元素を持つ、ということの意味を、圧倒的なまでに歴史が証明していた。

 第六元素を所持していた人間を完全に使役できた魔術師も存在しない。一人の人間には、もしくは人間という存在そのものにでさえ、その資格は与えられていないと言われているかのように、桁が違っていた。

 だから、里見は唯が第六を発現させることに、少なからず不安を抱いていた。美咲のことを説明すれば、きっと彼女は混乱し、自分を見失ってしまうだろうとも思っていた。

 しかし、彼女は、きっと自分が思ったよりも強い女の子だった。

 今なら、まだ今なら、彼女はそう思っている。計算上の確率を、何とか、それこそ、『奇跡』に近いもので、防げると願っている。

「これで、良かったのでしょうか?」

「彼女が決めたことよ」

 ミハエルの呟きを、里見はあっさりと返した。

「私達がそうなるように誘導したのでは?」

「ミハエル、最近貴方良く喋るようになったんじゃない?」

「そうかもしれません」

 微笑を作り、ミハエルは答える。それは、肯定とも否定とも、どちらとも取れる返し方であった。

「しかし、私が正確な報告をすれば、サトミさんは審問会送りです。『彼女の選択に委ねられている』? それはあまりに」

「ミハエル、今は私が上なのよ」

 名前を強く、里見が言う。

 ミハエルは、一呼吸置いて、唇を曲げる。

「ですから、この際に言わせてもらいましょう。言いたくはありませんが、私は、使節を司る『剣』の一つです。剣は、虚偽を許されていません」

「黙秘は許されている?」

 おどけているのか投げやりなのか、自嘲気味な顔の里見に、ミハエルは肩を竦めた。

「恐らく、評議会をこう決定したでしょう。『彼女を宝物と交換し、帰還せよ。追って、本部から彼女を含めた彼らの討伐隊を派遣する』と」

「完璧すぎる模範解答ね。それでも、一つ抜けているのは、思い浮かばなかったから? それとも、貴方の気持ちからかしら?」

 ミハエルの推測は、八割以上当たっている。使節に身を置くものならば、この程度の推察ができてしかるべきだ。それが、使節十三席の一つである騎士団の次期総長候補ともなれば、なおさらである。

 しかし、ミハエルは、二人にとって、もっとも大事な箇所を言わない。里見は二択を用意したが、そんなことは、彼らにとっては明白である。

「異変があれば、即刻彼女を処分せよ」

「ご名答」

 指を立てて、ミハエルの言葉を、正解とした。

「それを理解した上で、貴方は彼女を連れ戻すというのですか?」

「そうよ」

 ミハエルが何を言うつもりなのか、里見にはわかっている。

 評議会の決定は、使節の人間にとっては絶対のものである。それが仮に、現場の人間には、どうしても納得がいかないことであっても、覆すことは認められていない。駒は駒であり、使命を遂行するために用意された、剣の一つでしかない。

 行為によっては、背信の疑いをかけられて、審問会に送られる可能性もある。どれほどの地位があっても、これを踏み越えれば、審問という名目の断罪場へと向かわなければいけない。

 それは、ミハエルであっても、里見であっても同じことだ。

 騎士としての権利を有していたとしても、彼は、彼女の同調者とされるかもしれない。評議会に自分の父親がいるとしても、それを完全に免れるほど、使節は甘くはない。

「サトミさんは、本気で彼女のことを」

 だからといって、ミハエルは里見に問いかけているのではないのだろう。

 そういうことに対して、彼は何より、自分の命でさえ、無頓着といってもいい。いや、そういう場合、彼は、死に急いでいるといった方がいいとさえ、数年間をともにしてきた里見は思っていた。

「本気、真実、そういうものはわからないわよ、誰を観察点にするかによるわね」

「貴女の、率直な気持ちで構いません」

 ミハエルが求めているのは、人によっては馬鹿げていると思われかねない、『気持ち』そのものだった。とうの昔に、壊れてしまった、何かを求めている。

「ミハエル」

「何でしょう?」

「貴方、後悔している?」

「何についてでしょう?」

「貴方が後悔していることについて、よ」

「それは答えるまでもないでしょう。後悔していることに対して後悔しているか、という質問はナンセンスです」

 即座に、ミハエルは当たり前に返した。

「そうね」

 まるで彼の意見を聞き流したかのように、里見はそっけなく言った。里見は、彼にそんなことを聞いているわけではない。

沈黙は短く、ミハエルは体重を預けていた壁から身を離す。

「後悔を押し込めることは、決して難しくありません。使命のために自身を偽ることも、容易です」

 ミハエルは一度、そこで言葉を区切り、

「ですが、私は、一度たりとも、私を許したことはありません」

 と言い切った。

「それが貴方の行動原理、というわけね」

 里見が、確認するようにミハエルに問う。

 ミハエルは、里見を見つめるだけで、肯定はしなかった。否定もしていない。

「サトミさんのターンです」

 指を回して、交代を表現した。

「そうね、これが、私に決められた、一片の濁りもない『ルール』だとしても、私は、自分の気持ちを信じている。それで良いかしら?」

 これはルール。

 里見も、形の上では知っている。

 自分が生まれる前から、取り決められ、組み込まれているルール。

 理解はしているつもりだ。

『永比の鳥』という、永遠に満たされない自分。

 それを理解していて、それ以上に、自分は自分であると思いたかった。

「十分です。我が剣を、我が主のために」

 ミハエルはそんな里見に了解したのか、忠誠を誓う言葉を述べる。

「これで、二人とも異端者かしら?」

「元よりそうですよ。我々は」

「そうだったわね。じゃあ、少しくらいおかしなことをしても許されるというものね」

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