2「隠しているの?」
唯は一人で街をふらついていた。特に目的があったわけではない。
その途中で、花屋で見かけた花を一束だけ買った。あとで部屋に飾ろうと思ったのだ。
噴水がある広場で、ふう、と息をつく。
そこで正面から待ち合わせしていたかのように真っ直ぐに歩いてくる見知った人物に出会った。
「遅い」
全身を枯葉色で統一している。焦げ茶色の、緩いウェーブがかかった髪も変わらず、後姿だけなら細身の男性のようにも見える。髪の色と同じ澄んだ焦げ茶色の瞳をしていた。「会長?」
「元、だ。久しぶりだな風見」
「北条、先輩」
「それも元、だ。今は大学生」
捕らえどころのない、抑揚があるようでない、そんな声の持ち主だ。その風貌と無駄を排除した口ぶりは、一部の生徒に絶大な人気を誇った、唯の一年先輩である。
「どうして、ここに?」
「ここにいるのに、理由がいるのか? 風見はどうしてここにいる?」
質問を質問で返す、これも北条の常套手段だ。
「私は……」
「そうだな、強いて言うなら風見に会うためだ」
つ、と一歩唯に近付き、腰を少し屈めて唯の顔を正面から見る。
「強くなったな。いや、弱くなったというべきなのか。懐かしい匂いが混じっている」
「何か、知っているんですか?」
唯の存在は、一年の間に少しずつ消滅しているはずだ。同級生が『事故』で亡くなって、学校から去った少女。それだけの存在である。クラスメイトだった人々や先生は覚えているかもしれないが、単なる消息のつかなくなってしまった大勢の一人程度にしか印象はないだろう。
「何も。何もわからない、それを知っている」
会話に意味はない。だが、意味がないという、最大の意味がある。
美咲が、昔、彼女のことを、鏡のようだと言っていたのを唯は思い出す。
今の唯なら多少なりとも意味がわかる。エーテルを、魂魄を薄らと見ることでその人の強さのようなものが掴める。雰囲気とか、そういうものだ。
「そういったものは必要ない」
彼女が言った。
彼女には、そういったものが全くないのだ。幽霊でもない。また里見に教えてもらった、結界というのともまた違う。異種ではないのはわかる。混血というのもでもないようだ。わからない。とにかく、ないのだ。
「そういうものでは、私は見えない。消耗するだけだ」
ひょっとすると、魔法士なのではないだろうか、と唯の頭が考える。
「恐らく風見が考えているのは違う。私は神楽や風見のような種のものはない」
一年以上一緒にいたが、これほどまでに得体の知れない人だとは唯は思ってもみなかった。正体不明、という言葉しか適当なものが見つからない。
「何かを得ることは、何かを失うことと同意だ」
唯が返答に困る。北条は答えを要求していないからだ。
「何かを失うことは、何かを得ることと同意だ」
さっきの言葉を言い換えただけ、何も変わっていない。
「失うことが、怖いか、風見」
ドクン、と言葉が唯の胸に突き刺さる。
「わ、わ、私は」
血の味が口の中に広がる。吐き気がする。頭が急速に力を失う。体が綿になって、スカスカになる。誰かが足先に火をつけて、それがじわりじわりと頭まで上ってくる。
北条の声は唯に響く。誰の声でもなく、唯の声として。
唯の肩が震えている。肩を震わせているのは、唯自身だ。血の味を蘇らせているのも、映像をダブらせているのも、唯自身、他の誰でもない。
失うことで何を手に入れる?
何を失う?
美咲を。
美咲を失うことで手にしたのは?
何のため?
怖いって、何?
一度に処理しきれないほどの思考が唯の中に流れ込む。どれかを考えようとしても、他の思考が現れて、元の思考が弾けていく。
そこから沸き立つのは、ただ純粋な、何もないという不安感だけだ。
何もなければ、不安もないはずなのに、何もないと考えてしまうことは不安だ。
考える限り不安は付きまとう。
不安なら考えない方が良いのか。
そう考える不安が生じる。
思考だけが、宙を舞い、意識が、純度の高い不安を汲み上げる。
それは、恐怖だ。
絶対的な、『存在する』という恐怖。
『消失』を自覚する恐怖。
「怖い、どうしようもなく、怖い」
絞り出すように、震えながら答える。
力の抜け切った肩を北条が頭を数回、ポンポンと叩く。
数分、そのままで時が止まったように動きを止め、それから思い出したように唯が北条から離れる。
「何ですか、今の」
「心理学の応用だ。思考連鎖と言う。大学で心理学を専攻している」
「嘘」
「嘘だ。本当は哲学を専攻している」
「それも、嘘です」
「ああ、嘘だ。嘘は苦手だ」
北条の悲しそうな笑顔に、唯が笑う。
今の北条の顔は、鏡だ。
「勿忘草か」
北条が唯の右手に持つ花束を見て言う。
「神楽の好きな花だ」
「はい」
「花言葉を知っているな」
北条の問いかけに、静かに唯が返す。
「私を忘れないで」
恋人のために川べりに咲く花を摘もうとした騎士がいた。そして、その騎士は、足を滑らせて川へと落ちてしまう。最後に、流されていく騎士は、その花を恋人へと投げてこう言う。私を忘れないで、と。
「花言葉はもう一つある」
記憶を辿ってみるが、唯にはこれ以上の知識はなかった。
「……知りません」
「真実の恋、だそうだ」
「そうですか」
「これは、どちら側の言葉だ? 騎士か、恋人か」
真実の恋を持っていたのは、命を投げ打ってまで恋人のために尽くそうとした騎士なのか、それとも、後生大事にその花を持っていた恋人か。
「どちらもじゃ、ダメですか?」
表情には出さず、しばらく、北条は考えていたが、途中で息を吐いたところで思考を止めたようだ。
「そうだな、悲しい話だが、そうかもしれない」
北条は腑に落ちないようでも、納得したようでもなく、曖昧な返答をした。
「だとすれば、真実とは残酷だ」
二人はまた黙り、小さな花弁を見つめる。商品として時期外れに咲かせられた花は、一体何を思っているのだろうか。遠い地に眠る、騎士と恋人を思っているのだろうか。
「北条先輩」
「何だ」
「前から聞きたかったんですけど、どうして私と、美咲を誘ったんですか?」
入学式の翌日、二人のいるクラスに突然現れて命令のように、「来るべきだ」と言った。流されるまま、二人は生徒会に入った。生徒会の仕事自体は地味で、他の誰が入っているかはさほど気にもされず、会長一人が目立っていた。
「私は、孤独が何なのか知っている」
「孤独、ですか?」
「孤独とは、何もないことではない。どこにも行けないことだ。どこにも立てないことではない。どこにも動けないことだ。誰にも知られないことではない。誰にも触れられないことだ。一人きりになることではない。他人をみてしまうことだ」
「よく、わかりません」
「わかってはいけない。わかるということは、すなわち孤独だということだ」
抽象的な言い方で、意味はない。答えを用意していない。
「私は孤独だ。だから鏡だ」
神楽の言葉を、北条は知っていたのだろうか。それとも、自分で気が付いていたのか。唯には判断がつかないし、聞くべきではない気がした。
「鏡にも心があるなら、二人を見てこう思っただろう。あれは対だ、と」
「ツイ?」
「溶ける氷を自分に映して楽しんでいた。孤独を紛らわす詭弁だ」
扇子を取り出し、小さく円を描く。
「それでも、私には充分過ぎた。それに」
「それに?」
「今は、対が完成している」
完成、と言う北条に唯の鼓動が反応する。美咲が、唯に何をしたのか、その本質を知っていなければ言えるはずがない。
「先輩! 先輩はやっぱり」
「私は何も知らない。私が何かを知っているように見えるなら、それは風見が知っている、ということだ」
彼女は悲しい笑顔をした。
「単純に言えば、私は羨ましかった」
唯の目を捉え、自然を促すように空へと向ける。
「私は、神楽が好きだ。だから、風見に嫉妬していた」
北条の独白は続く。
「それと同じくらい、私は風見が好きだ。同じように神楽に嫉妬していた」
不意の言葉に、唯がどきりとする。
「孤独から抜け出したくて、孤独を再確認していた。知るということは、残酷だ」
抑揚のない声が、一瞬、小石を投げたとき水面に波紋が広がるように、揺らぎを見せた。
「風見に言うことはもうない。すなわち、私にもない」
北条の言う通り、唯にそれ以上言うべき言葉は見つからなかった。他愛もない世間話や近況報告は、彼女との間には影響を持たないということもわかっていた。
「じゃあな、風見」
背を向けて、北条がいなくなろうとする。
「先輩、また会えますか?」
「望めば。だが、そんな必要はない」
両手をポケットに突っ込みながら、ふらふらと、けれどしっかりとした足取りで北条がその場を後にする。彼女は唯が知っている人間で、最も真っ当で、一番奇妙な人間だったのかもしれない。
一度、勿忘草を見つめ、美咲のことを考える。
騎士と恋人、どちらが真実の恋を手にしていたのか、客観的な事実では測れず、恐らく、二人とも何も考えなかったに違いない、と唯は思った。
騎士は美咲、恋人は自分だろうか。それならば、一体、真実の恋を手にしていたのはどちらだったのだろうか?
それとも、これを恋と呼んでもいいのだろうか?
思考は、延々と続いた。
嘔吐感はなくなっていた。
喉を過ぎて胃に入り、消化してしまったかのように。
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