3「忘れているの?」
「ただいまー」
唯が買物からホテルに戻り、自分の部屋で帽子を投げたあと、開けっ放しの里見の部屋に入り込んだ。そこには、静かに椅子と一体化し、本を読んでいるミハエルがいた。
「おかえりなさい」
唯を確認し、ミハエルが返す。
「あれ、里見さんは?」
「用事があって出掛けました。私は、その間留守番を任されています」
「ふーん」
ミハエルの言葉を聞いて、唯も椅子に腰を掛ける。今日は帽子のせいか、普段とは反対に、癖のある毛は丸まっていた。腕をテーブルへ伸ばして、一枚一枚包装されたクッキーの包みを破る。
本を横に置いて、ミハエルは唯のための紅茶を用意する。
「たまたま学校に居たときの、先輩に会ったよ」
「そうですか」
「すごく不思議な人。何でも知っているみたいなのに、何でもすぐに言おうとしないの」
北条の大体のニュアンスを、唯はミハエルに伝えた。それがどの程度正確かは自分にもわからないが、ミハエルは何も言わなかった。
「そう言えば、私が今どこで何をしているかって、一言も聞かなかった。連絡先も言わなかった」
湯気が立っている紅茶に、一つ角砂糖を落とす。
「ねえ、ミーちゃん」
「何でしょう」
「魂魄って、誰にでも在るモノなんだよね?」
「ええ、そうですね。その存在が暫定の生命ですから」
生命あるものに魂魄があるのではなく、魂魄あるものが生命なのである。どんな小さな虫や、植物でも、全体の大小や比率こそあれ、魂魄はあるものなのだ。
「その人、全然それが見えなかったの」
無意識の自覚で、唯もエーテルを何気なく見るように心がけている。元から、継承者が目覚める前から勝手に見えるようになってはいたのだが。
「本当ですか?」
意味を確認するように、ミハエルは軽く語尾を上げて聞く。
「うん、それで、私もう少し目を凝らしてみたの。でもやっぱりダメだった。そんなことってあると思う?」
体を温めるために、紅茶のカップに両手を添える。茶色い液体が、円を描いた。
「方法がないわけでもありません。今、私のそれが見えますか?」
ミハエルは唯の正面で、自分を見るよう言う。
じっと、目の焦点を一箇所に集中しないように、全体を一つとして眺める。
単純な色では表現できないが、唯の目には、ミハエルの周りの揺れが見える。それは、無秩序のようで、鼓動に合わせて振幅している。
「大体」
「それでは」
出来るだけゆっくりと、ミハエルが呼吸を整える。
振幅していたものが止まり、消える。唯の目にはミハエルが映っているが、その姿は微かで、その先まで見えてしまいそうだ。
「え、え?」
奇妙な現象に、唯が声を上げる。注意深く見ようとするが、全く意味をなさない。
「これは何年も訓練すればできるようになります。シュヴァンデン独自の技なので訓練の方法は教えられませんが」
『無心』という、自分の存在を無に変換してしまう技。
「その人は、このような感じでしたか?」
唯が北条の姿を思い出しながら答える。
「うん、近いと思う」
「そうですか」
大きく息を吸って、ミハエルが無心を解く。
「それで?」
「もし唯さんの勘違いではなく、その人が私のように訓練をして会得したのでもないのであれば、天然でやっているということですね」
「それってすごいこと?」
唯の質問に、明らかに返答に困った顔をした。
「すごいかすごくないかで言えば、相当にすごいことです。ただし」
「なに?」
「それは生命であることを拒否することに他なりません。自己に対しての思考を止められるということです。それがどういう意味か、その人を見ればわかりますね」
「……うん」
北条は自分のことを鏡だと言っていた。美咲も同じことを言っていたし、唯も、その意味を感覚的に理解した。
彼女の底にあるのは、感情などではない。
どこにも指標がない、絶対的な無。
ない、もないのだ。
「しかし、本当にそんなことができるのでしょうか」
ミハエルは、正直に言って、完全には信じ切っていないようだ。才能云々のレベルではない、生命としては決してやってはいけないことが北条にはできているのである。
「うーん、なんだろう」
「『起点回避』を自然に会得している。もしかしたら私はその人と気が合うかもしれません」
自嘲気味にミハエルはそう言った。
「あー、うん、かも」
北条とミハエルが同じ場所で、会話をしているのを想像して、唯は少しおかしくなる。
「それにしても、サトミさんは遅いですね」
壁掛け時計に目をやり、ミハエルが溜息混じりに言う。時刻は、七時を回っていた。
「何時に帰ってくるって言っていたの?」
「ええ、遅くても六時半には戻ってくると言っていました」
「じゃないと、ご飯食べに行けないよね」
ここ数日、三人はともに食事をしていた。特に何もなければホテルのいくつかあるレストランへ、里見は元々この付近の地理に詳しかったらしく、思い出したように懐かしい店にも連れていってくれた
「連絡がないとすれば、夕食をどうするかですね」
二人とも、彼女がいないことに対してそれほどの心配をしていない。
「待とうかー、ここのレストランは結構遅くまでやってるみたいだし」
「そうですね」
唯の提案にミハエルも賛成する。
二人は紅茶を注ぎ足して、時間を潰すことにした。唯は背伸びをしながら、ミハエルは手持ちの本をまた眺めながら、里見が帰ってくるのを待つことにした。
唯が立ち上がり、柔らかなソファの方へ移る。今日は荷物がないので、たっぷり一人分が横になれるソファに満足げに転がった。
大きく息を吸い、手を頭の上に、体を棒にする。そのまま、少しうとうとしかけていた。
横になると眠くなるのは、いつでも寝れるときに寝れる、という点では非常に好ましいことなのだが、実際は無駄に寝てしまうことの方が多い。
顔をソファに押し付けて、寝てしまわないようにバタ足をする。
桜下町での事件以来、唯は深く眠ることが多くなっていた。それも一度眠りにつくと、誰かに呼ばれても簡単に起きないほどだった。
彼女は夢を見ていた。いや、夢と呼ぶには語弊があるのかもしれない。正確に表現しようとするのなら、闇に漂う夢だった。現実ではない何かを見ることが夢であるとするのなら、これは夢ではない。ただ、何かを考えることができるだけで、音も光もない世界だった。ほとんどがその状態で、たまに現れる映像といえば、粗末な木で作られた椅子が置かれている夢だった。そこに一人きりでいる夢である。自分も見ることができないため、自分自身がいるとも確証が取れなかった。
当然、美咲の姿はなかった。
良いことなのか、悪いことなのか、唯は判断がつかなかった。
判断しようとも思わなかった。
彼女にとっては、美咲が夢に出てこない、ただそれだけが問題だったのである。
いつものように、目が醒めて自分が涙を流している、ということはなく、それがかえって目覚めたあとの涙を誘っていた。
現実のような夢は既に見なくなり、夢のような現実もなかった。
「んー」
里見が帰ってきたあと起きなかったら困ってしまうため、眠らないように努めていた。
「ミーちゃん」
顔だけを横にずらして、ミハエルを見る。ミハエルは、こちらに背を向けて本を読んでいた。唯の声に半呼吸間を置いて、ミハエルが振り向く。
「なんでしょう?」
「ミーちゃん、勿忘草の話、知ってる?」
「ワスレナグサ、ですか?」
「そう、ワスレナグサ」
ミハエルが唯の発音を反復して、頭の中で単語に変換する。
「申し訳ありません。それはどのような草なのでしょうか」
「えーとね、あれ」
唯の部屋の片隅に挿した花を指さす。
「ああ、ええ、わかりました。名前は知りませんが、それが、何かあるのでしょうか」
「うん、その花言葉の話なんだけど」
いっそ、最初から伝説自体を話してしまった方が早いと唯は結論付けた。
「勿忘草、フォーゲットミーノットよ」
ドアの近くで、声がして、唯がミハエルがそちらを見る。
そこには、腕を組みながら左足に重心を置いて立っている里見がいた。
唯はだらけて半分眠りかけていたから気がつかなかったが、ミハエルも里見が静かに入りすぎていて全く気配を感じなかった。
「里見さん、いつのまに」
「フォーゲットミーノット、花言葉は私を忘れないで」
唯の質問は無視し、里見が繰り返す。
合点がいった顔で、ミハエルが頷く。
「なるほど、ええ、知っています、私の国の伝説ですから」
「そうなんだ」
ミハエルと唯の会話を聞いているのかいないのか、里見は一人で椅子に腰を掛けた。外が寒かったのか、それとも喉が渇いていたのか、ポットからお湯を出して紅茶を用意している。
「それが、どうかしましたか」
「さっきの友達に言われたんだけど……」
「何、誰かに会ったの?」
紅茶に口をつけようとした手を止めて、視線だけで唯を見る。それはほとんど睨んでいると言っても良い。
「ん?」
「まさか、唯ちゃん」
「わかってるよ」
「あ、そう」
少しむくれ顔で答えた唯に、素っ気無く里見が返す。
「わかってるならいいのよ」
唯が今何をしているのか、どこにいるのか、連絡を取るのにはどうしたらいいのか、一般人には知らせてはいけない。それを知ることができるのは同じ使節の人間のみ。それが使節のルールなのである。極力他との接触を断ち、闇に生きることを確約させるのだ。
それは、本人の危険性を減らすと同時に、その情報を知る一般人の危険性も減らすことになるのだ。いざというとき、他人を守ってやる余裕などないことが多いのだ。可能性のある危険は可能な限り減らす、使節の行動原理の大前提である。
「少し、きつく言い過ぎでは……」
「私は遊びでいるわけじゃないのよ。それくらい当然」
「しかし」
語気を強めず、丁寧に意見を述べようとする。
「いいよ、ミーちゃん。本当のことだから」
半分まぶたを閉じて、唯が背伸びをする。
「そうそう」
急に思い出したように、里見が言う。
「貴方達、帰国の準備をしておきなさい」
「え?」
「本部から連絡があったわ」
バッグから一枚の紙を取り出し、上から下へ読み眺めたあと、もう一度頭の中で概要を掴む。
「内容は?」
紙を丸めて潰す。この紙を見る事ができるのは、連絡員の里見だけなのだ。
「私は魔法士の任を解除、通常任務に復帰。騎士ミハエルはフランスでの事件にランスローと当たること」
「ランスロー、ですか」
ランスローはミハエルと違う騎士団に所属する人間、もっと限定して言えば、妹を溺愛してやまない、ティフェレーの兄である。それぞれに作業分担があるのだが、それが混合、もしくは混合される事態が予想される場合には、騎士団をまたいでの活動が行われる。
ミハエルもランスローも騎士団では継承権を持つ高位の存在だから、次に指定された事件は、それに応じた事件となる。
「管理部も同行するわ」
管理部は、使節を構成する戦闘員ではない集合体の一つである。
「それは、宝物に関する事件ですか」
その管理部の仕事は、ミスリルなどの希少金属の保管と、魔術師が作り出し世界中に散らばった人の目に触れてはいけないモノ、言い換えれば、使節以外が保有すると都合の悪い、総称を宝物というモノ、の補完である。
魔術師と一般の研究員から構成され、情報部に続いて使節員でもあまりお目にかかることのない存在だ。
「さあ、私は今回の件については聞かされていないわ。貴方が言う言葉は一つだけ」
知っているのかそれとも知らないふりをしているのか、里見は頭を振った。
「『了解』しました」
ミハエルが肩をすくめる。
「里見さん、私は?」
「魔法士風見は、本部にて別命あるまで待機」
魔法士と言われたことに対して、ムスッと明らかな不満を唯は見せたが、里見は気にかけるどころか唯の顔さえ向いていなかった。
「出発は三日後、飛行機の手配は完了してあるわ。以上、質問はないわね」
丸めた紙を、足元にあったゴミ箱に落とす。その姿勢は、意見を言うことを最初から否定していた。
「それじゃ、私はもう寝るわ」
二人の顔を意識的に見ないようにしているのか、そのまま里見は寝室へ行こうと足を向けていた。
もはや背中しか見えない里見に、唯が声をかける。
「ちょ、じゃあ、ご飯は?」
「あーパス。貴方達二人で食べてきて」
振り向かずに里見は答えた。唯はミハエルを見たが、ミハエルも納得はいっていない顔をしていた。何か皮肉を言ってやろうかと唯が向きを直したが、里見がドアを閉める音がするのと同時だった。
ソファでぐるんと反転し、唯は天井を見上げた。
「なにあれ、感じ悪いー」
性格はきつい方だとは思っていたが、今日のは一段と酷い。不機嫌であることを言葉に出していないだけで、今まで唯が見たことがなかったほどイライラしていた。
「ミーちゃん、どうしようか」
「サトミさんの理由はわかりませんが、私達にできるのは食事を取ることだけのようですね」
時刻は八時を回っていた。
「そうだね」
足を上げ、反動をつけて、腕の力で飛び上がる。自分の体を覆う魂魄の存在を実感するようになると、運動能力が飛躍的に向上する。筋力が上昇しているのでなく、どこを、どの程度まで引き出せるか、肉体のリミットを意識的に調節することが可能になるのである。
くねった髪を手で簡単に直して、ミハエルの側まで歩く。
と、床に何か黒いものが落ちているのが目の端に止まった。
腰を屈めてそれを取る。
「ケータイだ」
それは、ストラップも付いていない、メーカーもわからないような真っ黒いケータイだった。ケータイを掴み、ミハエルに見せる。
「いいえ、私のものではありません」
ミハエルが里見から渡されていたものでないとすれば、唯の手の中にあるのは里見のものだということになる。さっきの動作のどこかで落としてしまったのだろうか。
「ユイさん、あまりそういう行為は」
「わかんないよ」
唯が適当にケータイを触る。学生時代、彼女は自分では持ったことはなかった。神楽の家に世話になっていた以上、それほどわがままを言うつもりはなかったし、何より一番話したい人は、常に横に並んでいたのだ。
唯にとっては、これも銃と同じ玩具のようなものなのだ。
「ん?」
「どうしました」
里見のケータイの着信履歴には、公衆電話からと非通知が連続している。が、その間を縫って同じ番号から連絡が入っていた。ケータイではなく、03からの発信だ。それが示すのは、発信先が東京都の区内と、それに付随するいくつかの地域だけしかない。
合計八桁の番号を頭の片隅に入れながら、
「何でもない」
とだけ返した。
食事はミハエルと唯の二人だけで、しばらくは慣れていたはずなのに、唯にとってはなんだか味気ないものに感じられた。ミハエルも同じ気持ちだったのだろう、二人は口数も多くなく、食事が終わると無言のままそれぞれの部屋へと戻った。
ミハエルは部屋に入って、静かに荷物の整理を始めていた。元から気が向けば整理をする、里見とは反対の気質の持ち主だったから、数日間で買い集めた本のうち、まだ読みきっていない本と、ティフィへのお土産を詰めて、あとは部屋の隅に退けておいた。
唯は、一人で部屋を抜け出していた。部屋から出るときはどちらかに連絡をしなければいけないはずだったのだが、これからすることは、誰にもいうわけにもいかなかった。
時間はとうに夜を過ぎている。電話の先にかけても誰もでないかもしれない。電話をかけることに意味はないかもしれない。
それでも、唯は受話器を取っていた。財布から小銭を取り出し、入れる。
プルルル、プルルル
電話は相手を探して、どこかでベルを鳴らしている。
プルルル、プルルル
誰も出ない。
あと三回、カウントしたら受話器を置こう。そう唯は決めた。
プルルル
第一、自分が何をやっているのか、全く説明できない。里見が知れば怒るのは目に見えていたし、だからミハエルにも何もないと嘘をついた。だが、自分の中の何かが、そうしろと命じている気がする。それは強迫観念ではなく、無意識の魔法にかけられたようだった。
プルルル
あと一回で止める。
そう、これはちょっとした悪戯だったのだ。
カチャ
電話の先に変化があった。
『はい』
その声は、落ち着いた、大人の女性といった雰囲気だった。
『担当は?』
里見が感情をコントロールしているタイプなら、電話の先は感情を自分で選んでいる、そんな感覚だ。
「あ、え」
電話をかけたのは唯だったのだが、いざ相手が出ると、何を言っていいのか頭が回らなかった。里見とはどういう関係ですか、などど尋ねるのも何かおかしい。
「少々お待ちください」
いっそのこと切ってしまおうかと悩んだ瞬間、電話の女性は電話口を離れた。耳を澄ませると、女性が誰かと話しをしているのが僅かに聞こえる。
『課長、お電話です』
『誰?』
『わかりません』
『シノノメ君、わからないじゃわからないんだけどなあ』
『事実です。ではこちらで処理しましょうか』
『嘘だよ、誰かはわかっている』
ガタガタと音がして、それから音が消えて静まり返った。
『ああ、はいはい、穂波です』
電話の男が、親しげに話し掛けた。
若い男で、ミハエルよりは子供っぽいような、動物でいえば中型犬のような、人懐っこい声だ。
「あの」
何だか唯は拍子抜けしてしまった。里見へ電話をしていたのだから、使節関係かとも思って緊張していたのだが、電話の穂波という男は全く緊迫感というものが欠片もない。
「あの、私」
そこまで言い掛けて、何を説明したらよいものかと唯は言葉を止めてしまった。向こうの男が何を知っているのかわからない以上、何をどこまで言っていいのかもわからない。
そう悩んでいる間に、男は唯に話し掛けた。
思ってもみない言葉で。
『はじめまして、風見唯さん』
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