挿話
僕の異常と彼女の日常
世界は当の昔にその純然たる機構を奪われ、今はただ水が満ち、崩れ落ちていく砂の城に居合わせているだけ。
共犯者は踊り狂い、戒めにつけた鬼面は未だ身から剥がれること叶わん。
『隠された事実、隠すべき真実』
「世界は可能性に満ちている。人はその中から自分が選択できうる可能性を選び実現させるが、そのたびに他の可能性は確実に減少する。
しかし、可能性は可能性、たとえ極小の可能性でも実現してしまう人間もいる。
そのものは大概、利になるものであれば『幸運』と呼ばれ、負になるものは『不幸』と呼ばれる。
さて、君が出会ったのはこの可能性は、狂喜すべき幸運か、それとも死を誘う不幸か」
予鈴が鳴り、全生徒に教室へ戻れと合図する。
僕は、何事もなかったように読みかけの本を閉じ、机の中に仕舞うと換わりに身にならない物理の教科書を広げた。時間に寸分も遅れることなく若々しい教師が入ってくる。何故彼はこうも時間通りに教室へやってくるのだろう。
それを熱意と呼ぶかどうかは知らない。
はきはきとした口調で、授業を進めていく。
一部に好まれ、一部に疎まれ、そして大半の生徒は「どうでもいい」、実に平均的な教師だった。そのことを彼は実感しているのだろうか、平均的な彼は時折調べたかのように生徒の興味を引こうと話をする。
「えー光交差による干渉縞を発見したのはかの有名なアイザック・ニュートンであり、ええ、リンゴのニュートンですね。この現象はそのまま『ニュートンリング』と呼ばれています。これにより光の波動性についての論議が盛んになったわけですが……
ところで、ニュートンは歴史上最後の錬金術師と呼ばれ、晩年は聖書の研究や、錬金術による真理の追究に没頭したと言われています。近代科学の祖と言われながら、彼は実に多角的な実証を試みようとしたわけですね。
では、予告していた通り練習問題の……」
詰まるか詰まらないかは、本人の自由だろう。
あってもなくてもどうだっていいのだ。
いつから僕はそんな風に考えるようになってしまったのだろうか。
『僕は平凡な人間だ』
これは紛れもない事実だ。
全てが全体に対する平均とは言わないが、それは平凡の中からの小さな振幅に収まっていて、いずれも秀逸への領域には達しない。
どこまでいっても、それは永遠に平凡に変わりなく、人生のレールの上に乗って生きるというような、少々可哀想ではあるが非凡な生活もどこにもなく、端が見え難い道をとぼとぼと歩いている、そんな大多数の人間の一人が僕なのである。
小さな頃には誰しも万能感というものがあったのだろう。
正義のヒーローに憧れるよりも先に、正義のヒーローに自分のいつかはなれる、という漠然とした期待感が自分の可能性を埋め尽くしていると思い込む。
そしてそれはいつか現実という名前の狩り手によって奪われ、時にシステムに過ぎない社会に反抗し、自己の才能というあるのかどうかもわからないものに反抗し、ゆっくりと平凡に落ち着く。
ぼんやりとノートに数式を書きとめながら、そんなことを考えていた。
誰よりも平凡を認めながら、僕はやはり他の平凡な人と同じように、『いつかは』とか『もしかしたら』とかいうような実現もしない空想を持っていた。
目に見えている点では、僕が空想的な小説を好む傾向がある、ということだろう。
こういった小説に出てくる人間はどこかしたら平凡を逸脱し、巻き込まれたとしてもとても平凡とは思えない発想や隠れた力を発揮する。決して羨んでいるのではなく、単純に僕には手に入らないだろう世界を眺めているだけだ。
休憩の間も本を読んでいた。
人を操り、人の持つ可能性を貪り棲息する『傀儡師』と、それと同じ理屈でありながら、傀儡師を憎み、排除せんがため自己の肉体そのものを操る『自律士』の争いの物語だった。主人公は、最初はこの戦いに偶然巻き込まれながら、周りの人を守るため、自律士と手を組む、というあまり冴えない高校生だった。まだ最後まで読んでいないからわからないが、結局彼らが傀儡師に勝つのだろう、そうでなくては物語としての収拾がつかなくなる。
などとどうでもいいことを考えながら、どうせ憶えてもどこで使っていいものかわからない文字式に数字を当てはめて問題を解いていた。
授業も終わりに近付き、僕の左手は自然とケータイに伸びていた。何をするでもなく、手持ち無沙汰を解消するためにディスプレイを見ていた。特にメールなどの通知は来ていない。
これは自分にとって、明らかに癖になっていた。原因は自分でもわかっていないが、ひょっとしたら『もしかしたら』をどこかで追い求めているせいなのかもしれない。
やる気のない授業が終わり、今日の授業日程全てが終わった。部活に行くなり、誰かと遊びに行くなり、塾に行くなり、真直ぐ家に帰るなり、平凡の選択肢から各々が好きに選び、何気ない日常として実行をする。
僕はその中から、ゲームセンターに寄ってから家に帰るという、まさに平凡極まりないいつもの選択肢を選んだ。
学校を出たあと、いつものゲームセンターに行った。いくつか知っている顔がいて、彼らとゲームをして、一時間ほどで別れた。新しいゲームが入っていなかったので、クレーンゲームにコインを数枚つぎ込んで小さなぬいぐるみを手に入れた。黄色い愛嬌のある熊のぬいぐるみだ。丁度合うように、背中からフックのようなものが飛び出していたので、ケータイのストラップとして繋ぎとめておいた。そういえば前からケータイには何もつけていなかったことに気が付いた。白い折畳式のケータイは落とせば見つからなくなりそうなほどの量産型だ。
夕方で日も落ちかけ、駅から流れてくる人ごみに呑まれるように街を歩いていく。住宅地の街並みは全体のとしての調和を謳い、個を薄めている。
両側に緑地化を狙った広めの公園があり、今は丁度一つの円形の公園を二つに分断するコンクリートの道にいた。不審者が出るなどの噂はないが、安全を考えて夜の人通りは少ない。そうはいえども、一部の人間にとっては最短距離を行くための単なる道であり、僕のその例にもれない。
何をするでもなく、黄色い熊をぶらつかせながらケータイをいじっていた。
と、バイブが機能する。
思わず光る液晶画面に目をやる。
『メール一件受信しました』
何か作業している間にメールが来ていて受信できなかったということもないはずだ。
「ミツケタ」
メールを開き、頭が疑問符で一杯になる。
しかもなぜカタカナなんかを使うのだろうか、ひらがなを打つほうが簡単なはずだし、そもそも何を見つけたのかの意味もわからない。一瞬迷惑メールかとも思ったが、このアドレスでは今までそんなものは来た事がない。
変だ。
変だ。
心のどこかが警告をする。
その原因は、送信元だった。
何も、全く何も、送信元は空欄のままなのである。
ヤバい。
迷惑メールの業者が他人のアドレスで送信元を偽って送ることもあるらしい。だとしても、ただの悪戯でこの一文を送る人間がいるのだろうか。
確認する方法もなく、送るだけで満足する愉快犯がいるだろうか。
違う。
そんなことじゃない。
何よりも自分が気付いている。
崖先に足を近づけているような、あってはならない感覚がどこからか迫ってきている。
二つの警告が心の中から聞こえる。
一つは動くな。
落下する地面、どこに落とし穴があるかわからない、この何かが収まるまで足元を揺らしてはいけない。電灯が弱々しく光る、地面は暗く、本当に穴が開いていてもおかしくない気がする。
もう一つは今すぐ逃げろ。
動かなければ、現状は変わらない。それどころか、ますます悪化するに違いない。何故だかわからないが、それだけはわかる。これは、いいことのわけがない。だから今すぐ逃げろ。
相反する命令が頭を支配する。
どうすればいい。
クァンクァン
耳鳴りがする。
選択肢が選べなければ、自動的に前者になる。
クァンクァン
耳鳴りが、近付いてくる。
一瞬の行動が致命傷になる、そんな気がする。
全て気がする、気がするという判断のはずなのに、何一つ間違っていないと確信できるのだ。
駄目だ、このままいても意味がない。全力で逃げ出すしかない。
足を……
ピーピー
え?
メールの受信。
もう何がなんだかわからない。
見てはいけないもののような気がするのに、今見なければいけないという強迫観念を強く感じる。まるで他人の手のように、ケータイを持つ左手がこちらを向き、頭が下がる。
「ミツケタ」
さっきと同じ文。
送信先も空欄のまま。
ピーピー
メールを受信しました。
連続的にメールが届く。
「ミツケタ」
「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」
どれだけ次のメールに行ってもさらに新しいメールが届く。
「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」「ミツケタ」
……
足の力が急速に抜けていく。
膝を付いた瞬間が負けだ。だがもう心のどこかが安心している。
自分は罠に完全に嵌まっているのだから。
メールの受信が止まった。
まだ見ていないメールは一通だけ。
負けの宣告をされるだけ、そう思っていても手が動く。
「モウオワリ?」
「がぁ!」
読み終わると同時に左手が灼熱に包まれる。
見た目には何の変化もない、しかし焼きごてを押し当てられたかのような痛みが手首の付近を覆う。反射に任せてケータイを投げそうになったが接着剤で張り付いたかのように離れない。
ピーピー
「イタイ?」
ボタンも押さないのにメールが勝手に開きだす。それは言葉を交わしているのとほとんど同じだ。
「マダダヨ」
言葉は続いていく。
文字を見るたびに焼けるような痛みが手を襲い、肘、肩、と少しずつのっそりと何かが這いながら痛みを加えていく。
「マダ」
「マダシナナイ」
「イタイノ」「イタイノ」「トンデケー」「クスクス」「ツギハミギテ」「ミギアシ」「ヒダリアシ」「アハハハ」「イタイッテ」「タノシイ」「アソボウ」「イッショニ」
直感的にわかった。
これは喰っているんだ。
頭を最後に回しているのは、それを死ぬ寸前まで認識させるためだ。
もう駄目だ。
何にもしていないのに、ここでゲームオーバーだ。
理由も、原因も、正体も、目的も、何もかも、わからないまま終わる。
これは、平凡だから。
僕は、死ぬ。
膝が付いた。
ぐにゃりという感触がして、地面に膝がめり込んでいく。
ゆっくりと、目を閉じた。
何だか、終わるのも悪くないと諦めてしまった。
「とぉー!」
空から妙な声がして何かが降ってきた。それが地面にタン、と着くと周りの温度が急激に上昇していく。そのおかげか、体中を覆い尽くそうとしていたあの気配がすっと引いていった。
「はぁー危なかったねぇ」
間の抜けた声で、立っている人物が漏らした。声の調子からいって少女だろうか。どこから降ってきたのだろうか、この周囲には木しかないはずだ。
現状がどうなったかわからないが、全身に痛みが多少残るものの、あの絶望的な感覚はなくなっている。
「助かった、のか」
「うーんと、まだだねぇ」
こちらが緊迫しているのを知らずか、立っている女はふわふわとした口調で続けている。
膝を付けたままで、顔を上げ、その人物を確かめる。
髪は腰の辺りまで、濃紺の地味なセーラー服、近所の学校の制服だろうか、少なくとも自分は知らない。
「とんでもないのに関わっちゃったねぇ」
少女、と呼んだ方がいいのか、年齢から言えば同じくらいの女性が左手に持っているものにペンライトを当てる。
自分も少し落ち着いてきたのか、弱まった足を伸ばして立つ事ができた。目の前に立っているのは自分よりも多少背が低いくらいだから、160センチ以上はあるのだろう。左手のガラスらしきものに光を当てながら、周りを見渡している。
「それは……?」
左手の薬指にはシルバーの指輪が嵌められていた。
こちらの視線に気が付いたのか、少女が振り向く。優しげな細めの瞳で、端正な顔立ちは、かわいいというよりは美しい部類に入るのだろう。テレビや雑誌で見たとしても違和感がないほどの美しさを、彼女は持っている。
それが、正体がわからないが、一先ずはこの現状を救ってくれたようだ。
「これ、これはねぇ、ニュートンリングを見ているの」
物理の教師が言っていた、アレだ。それに彼女はペンライトの光を当てながら縞模様を観察している。
「うんうん、やっぱりエーテルの濃度がおかしいと思ったから来てよかったみたい」
「なに?」
「あなたが出会ったあーいうものを見分けるための装置だよ。ニュートンさんっていうえらい人が考えたの。あなたはどうも大変なことになっていたみたいだけど、一旦は引いてくれたみたいだね」
楽しそうに、何事もないように相変わらずの拙い舌運びで言う。
「……あ、あれはなんだ? あんたは一体?」
絞り出した言葉を、彼女は優しく微笑みながら、首を振った。その仕草に美しさとは対照的な可愛さを感じ、不謹慎にも心臓が大きく鼓動した。
「あれはあなたが感じた通り、人が遭ってしまってはいけないもの。ざんねんだけど私が誰で何かは教えないし、知らないほうがきっとあなたのため」
少しだけ、悲しそうな声で彼女は質問に応えてくれた。
「ただ、あなたはきっと守って見せるから」
「守るって?」
クァンクァン
またさっきの耳鳴りだ。
「来たよ」
「え? え?」
「伏せて!」
言われるよりも速く、頭を掴まれて地面に落とされる。不意を突かれたとしても、想像以上に彼女の力は強い。
頭を地面に打ち付けた瞬間、『何か』が上を通り抜けていった。
恐る恐る顔を上げると、彼女が何かを目で追って空中を見上げていた。
僕の頭を掴んだ白皙の左手から、鮮血が滴っている。僕を避けさせたせいだ。
「大丈夫!?」
「んー女の子の肌の代償は高いよー」
場違いなセリフのように聞こえるが、この現状に場違いなのは、間違いなく彼女ではなく僕なのだ。
「はんげきはんげきー」
右腕をくるくる回している。それがどんな効果があるのかは知らないが、小さな子がムキになっているときにそっくりだ。どこかの成長過程を飛ばしてその年になってしまったかのような雰囲気を出している。
回していた腕を止め、右手で電灯の上付近を捕らえる。
「あらしがくるい
あらしはなみをむちでたたき
なみはふんぬのあわをふき
ぼうだちになり はくすいのやまやまが
いきもののようにみをくねらせる」
言えているのかも判別できないほどの舌足らずの口調と早口で、詩のようなものを口ずさんでいる。
全てを一息で述べたあと、くっ、と息を止めて腕を引いた。
そして、つい、と右手を開き電灯へ向けて押し出す。
「あらしのゆみ」
舞いを思わせる戸惑いのない滑らかな動き、それに僕が感心する間もなく電灯のガラスが弾ける音が響いた。
彼女は驚いていない、他でもない彼女が何かしたのは明白だ。
「ありゃ、外したー」
呑気なことを抜けた調子で言う。
「ま、魔法?」
素っ頓狂で常識外れのその言葉に反応して、彼女が僕の顔を覗き込む。
「そう、私はまほーつかいなの」
笑顔で、そう言った。
「え?」
自分で聞いたくせにそう言われると変すぎて、僕は聞き返してしまった。
「ほうきに乗って、まほーをつかう、まほーつかい」
万能感を持って、テレビを見ながら魔法のステッキを振り回す、小さな女の子のセリフと何も変わらない。
そんな物語みたいなことが信じられるわけもないが、この現状といい、彼女のしたことといい、信じられなくても事実として認めないわけにはいかないだろう。
「本当に、一体何者なんだ?」
「それはね、きかないやくそく。それに話をするひまはないみたい」
メールを見たときのような圧迫感が広がる。潰れそうになる胸を腹筋に力を込めて抑える。彼女の言う通り、僕を襲ったものはどうやら逃げるつもりはないらしい。
「ひとはこうきであれ
なさけぶかく
ぜんりょうなれ
それのみぞ
われらのしる
あらゆるそんざいより
ひとをくべつする」
また別の詩を彼女が口ずさむ。彼女は動いていいのかどうかもわからない僕を左手で自分の背中に押した。僕が守られる形になっているのだろう。
「けいへき」
伸ばした彼女の手の付近で乾いた音が広がり、彼女の足が後ろに滑る。僕の胸と彼女の背中が触れそうになった。
「思ったより重い」
呟いた彼女は、焦った様子もなく僕を見ずに言葉を発した。
「さがって。このまま後ろに走って」
彼女に言われるまま、数年ぶりに働かせたようにすら感じる鈍い足を動かす。全身の体力が尽きかけているのか、僕の精一杯の走りは普段の急ぎ足よりも遅い。
十メートルも離れないうちに、僕の両足を止めるネジは抜けてしまった。崩れかかるのを堪えてぎりぎりのところで足を立たせる。
空気が悪いのか、むせ返るような臭いが息を吸い込むたびに肺に入る。一人きりになって何かと交戦中の彼女を見た。
向こうの出方は全く見えないが、彼女が怪我をしていない右手で何かを弾いているところを見ると、防戦一方というところなのだろう。苦戦をしているのかどうかさえ、ほんわかしている彼女の表情からは読み取れない。
一度彼女が右手を大きく振り被り、こちらにも感覚としてわかるほど彼女が相手と接触をした。弾かれた体勢になり、九の字に彼女が曲がる。がら空きになった胴に衝撃を受けたのか。
相手の姿さえ見えない僕にはどうしようもない。
数メートル先の彼女を支えることもできないのだ。
痛みを感じていないのか、そのまま彼女はこちらを向いた。
「たいきゃくー」
そして全速力で僕の方へ走り始めた。
困惑を浮かべる前に、僕の手を掴み、強引に引きずり始めた。
そこから二十メートルほど、短距離走でも出したことのないようなくらいの速さで一人の少女に引きずられていく。
僕たちの後ろからは、何かが地面を這いながら追ってきている。僕にもそれがわかるのは、「何か」の軌跡が濡れているのが見えるからだ。何の液体かは暗くて色もわからないが、電灯に照らされて微かに煌めいているのが見える。
僕を連れて距離を取った彼女は、急に足を止めて勢いを増してくる何かに向きなおした。
少し、彼女にしては大人びた声で僕の見えない相手に言う。
「逃げるのにはね、二種類があるの。他に手がないから退くためか、それとも相手を誘い込んで罠に嵌めるためか」
駆ける彼女の足が止まる。今走り抜けた道を振り返り、正面を見据え左手を突き出した。
地面を擦る音が急速に近付いてくる。
あれが迫っているのだ。
「わたしたちはたんそくでいっぱいだ
しせんでいっぱいだ
わたしたちはわらいでいっぱいで
ときおりおまえたちのかおをのせている
わたしたちはおまえたちからとおくない
おまえたちのちがどれほどたいりょうにたちのぼり
わたしたちをそめたのか
だれがしろう
わたしたちがなくとき、どれほどおまえたちのなみだがそそがれたのか
だれがしろう
わたしたちをかたちづくったのがどれほどおおくのあこがれだったかを」
先ほどよりも速い、五秒とかかっていないだろう。聞き取って理解しようとしても次の言葉が発せられている。けれど、それは確実に頭の中に浸透している。これが呪文というものの通常の速度なら、僕は一生かけても言えそうにない。
その時、ガシっと何かが壁にぶつかる音がして、近付いてくるものの嫌な擦る音が消えた。刹那の間を置いて、ドンドンと壁を叩く音が僕らの空間に広がった。それは悲痛な叫びのようでもあった。
「わたしたちはしのえんぎしゃで
おまえたちをやさしくしになれさせる
よるよるになにひとつまなばないみじゅくなおまえたち
おおぜいのてんしをさずかっているのに
おまえたちにはそれがみえないのだ」
歌が終わり、彼女がゆっくりと静かに息を吸う。
彼女の視線の先に、薄らと何かが姿を現し始めた。
向こう側が透けて見えるほどだったのが、次第に色味を帯びていき、人らしき姿を確認できるほどになった。
初めて僕の目に見えたそいつは、真赤な舌をだらんと垂らして、顔の左側が溶けて崩れていた。長い髪の毛が溶けた顔に絡みつき、まぶたのない剥き出しの目がこちらを睨んでいる。元は人間だったかもしれないが、心の底に眠る正体不明の嫌悪感を具現化しているような気がして吐き気がする。
見えない方がいいこともある。
本の中で『傀儡師』が確かそんなことを言っていた。
隠された真実は、隠すべき理由があって隠されているのだ、と。
安穏の世界に生きているものは、見えないのではなく、見ようとしないのだ、とも。
主人公は反抗していたはずだ。
真実を知ってこそ判断されうるべきだ、と。
『自律士』も叫んでいた。
それは単なる可能性の放棄だと。
だが、もし自律士や主人公が正しいなら。
彼女は、普段からこんなものが見え続けているのか。だとしたらそれは拷問のようではないのか。
彼女は、普段からこんなものと戦い続けているのか。だとしたらそれは不幸の可能性を背負い続けているのではないのか。
「だいじょうぶ、もう動けないから」
目を背けることもできず、僕はその塊を見ていた。
何もできない、ただの普通の人間の僕は、立ちつくすしかない。
動きを止められたそれは、小さく丸まりながら真っ白い指を地面に擦りつけている。
あーあー、と唸り声を上げながら、地面を掘る。肉が捲れ、骨が砕け、それでもコンクリートを掘り続ける。意味のないことだというのに気が付かないのだろうか、それとももう自分が何をしているのかわからないのか。
横に立つ彼女に、あれが何なのか聞こうと思ったが、教えてくれなそうなので止めることにした。多分知っても僕には理解ができないか、意味のないことなんだろう。
「あれは、人のナレ」
彼女が向こうをじっと見つめながら、口に出してもいない僕の疑問に応えた。
「かつては人であったもの、人のわきまえを外れ、人であろうとするもの。出来損ないのあれは自己を守るため常に人を喰らう」
何故だろう、彼女は難しいことを言うときは急にさらりとした口調で言う。そういうものとして暗記しているのだろうか。
あれはこちらを見ていない。
永遠に、きっともう誰も見えないのだ。
「可哀想だ」
そう、口をついて出てしまった。
「何を」
彼女の細い目線が僕を向いた。そこには優しさはなく、魔法使いのような怪しさもなく、戦士のような力強さもなく、ただ、虫を潰すときの無意識に似た表情だった。
「あれは、生きたいからそうしているだけなんだろ?」
「そう、でもあれはうつせみにあってはならないもの。それが人を喰う。私は排除し、被害を押し止める存在」
「生きたい、っていうのは当然なんじゃないのか」
自分は何を言っているんだ。
現に喰われかけて、そして彼女に助けられたんじゃないか。
それでも、安っぽい同情心でも、目の前の肉塊が哀れに思った。
「ふうしん」
彼女は僕の言葉には何も返さず、ただ一つの魔法を唱えた。
肉塊は粉々よりも細かく、煙が風に吹かれるように渦に巻き込まれながらその姿を消した。
彼女は振り返り、一歩こちらに近付いた。あれに背中を向けたということは、全てが終わった証拠なのだろう。
「私は自分が間違ってはいないと思うけど」
僕の前に立ち、そう前置きをした後で、
「あなたと同じことばを、きっとあの人もいうとおもう」
と言った。
「あの人?」
彼女は最初に会ったときよりも、嬉しそうに目を細めて微笑みながらこう言った。
「私のだいじな人」
何だか不躾な質問をしてしまったようで、こちらが恥ずかしい気持ちになった。
「とっても強くて、真直ぐで、自分が痛い目を見たのに、すぐにその相手を心配してしまう、もろくて弱い人」
幸せに満ちた顔で、ああ、本当に彼女はその人のことが好きなんだろうな、と思った。そしてその相手にちょっとだけ嫉妬をしてしまった自分がいた。
「じゃあね、私も帰る。あなたの中にある傷は数日もすればなおるよ」
「うん、助けてくれて、ありがと。これ」
僕は自分のケータイにつけてあった、ぬいぐるみのストラップを外して差し出した。僕にはそれほど必要がなく、彼女もあまり喜ぶとも思わなかったのだが、予想に反して彼女の目は輝いていた。
「本当に?」
「ああ、うん」
丁寧にぬいぐるみを受け取ると、彼女は嬉しそうにフックを掴んで熊の顔と睨めっこをしていた。
「ありがとう」
「こちらこそ」
「どーいたしましてー」
トン、とつま先を地面に叩いて鳴らし、彼女がふわりと宙に舞った。
彼女は来たときと逆に、上へ飛んでいってしまった。
僕と別れるその時まで、やっぱり彼女は魔法使いだった。
気が付いたら朝で、自分の部屋で自分のベッドにいた。ご丁寧に毛布まで掛けられている。
昨日のことは夢だったのだろうか。夢にしては生々しい気がするが、現に昨日の出来事をトレースしても、普通に家に帰って、ご飯を食べ、お風呂に入って寝た記憶がある。夢が現実なら記憶が嘘で、記憶が正しいならやはり夢だ。こんなときどちらを選択するべきか、平凡な僕自身が一番よくわかっている。
夢、だったんだ。
そう思えば安心もする。今思い起こそうとしても、徐々に薄くなる。きっと誰も信じてはくれないし、自分もあと数日経てば思い出せなくなるだろう。
今日も学校だ。視線を動かして時計代わりのケータイを見る。下に降りるには充分な時間だろう。
痛い。
体のどこにも傷はついていなかったが、全身が筋肉痛になったようにギシギシという変な痛みがある。寝ぼけてどこかにぶつけたんだ。そう決めるしかない。
勢いをつけて体を起こす。
窓に寄り、カーテンを開ける。
昨日は夜中に雨が振ったんだ、地面が朝露に濡れる草のように日の光を浴びてキラキラと反射をしている。
家の近く、見下ろすとそこにはこちらを見上げている少女がいた。
それは夢で見たはずの彼女と同じ、腰まである長い髪に、濃紺のセーラー服。胸ポケットには、僕があげた黄色い熊がちょこんと顔を出しているのが見えた。
あ。
彼女はこちらと目が合ったのを感じたのか、あの優しげな笑みを浮かべて小さく傘を持っていない右手を振った。
それは朝の挨拶の意味ではなく、
「バイバイ」
というものだった。
僕はどうしていいのか一瞬判断に迷ったが、彼女に合わせて手を振った。それを確認したのか、彼女はもう一度笑ってその場を立ち去っていった。
その先を目で追ったが、彼女が十字路に差し掛かったところで、大きく手を振っている同じ制服の少女を見つけ、嬉しそうに駆けていった。二人は向かい合い、彼女は目の前の少女に何か指を指されて笑われていた。ぬいぐるみのことだろうか。そして何か会話をしたあと、とても楽しそうに、少し日に焼けた髪の短い、いかにも活発そうな少女とどこかに行ってしまった。この時間で彼女たちなら、二人の通う学校なのだろう。
もしかしたら、彼女の言っていた相手は、横にいた少女なのではないだろうか。もしかしたら、だけど。
呆然とその様子を眺めたあと、僕はいつもと同じように着替えを始めた。
彼女と会うことはもうないだろう。偶然街のどこかで会ったとしても、僕は話し掛けないし、彼女も話し掛けることはないはずだ。
この経験は誰にも語ることなく、いつか過去になり、僕自身もたまに何かの拍子に、小さなころの怪談を思い出すように、そういえばそんなようなこともあったかもしれない、と思うようになるのだろう。
僕はそれでいいと思う。
僕は平凡で、決して関わってはいけない、僕には関係のない世界の出来事なのだから。
僕は、僕の生きる世界で何ができるかを考えるだけだ。
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