初めてオムツを替える第7話
「っ……サーガ様には近寄らせない……!」
「……ふん」
その男は、無表情のままアタシの威嚇を鼻で笑い飛ばした。
多分、アタシがビビってるのはバレてる。
自分でも笑えるくらい足が震えてる。
恐い。でも、逃げる訳にはいかない。
あのお方との『約束』だ。
サーガ様は、アタシが絶対に守る。
「…………」
あのお方の血に汚れた大剣を肩に担ぎ、男はアタシに背を向けた。
「興味が無い」
「……え……?」
それは、アタシの予想を裏切る言葉だった。
「その赤子を連れて、さっさと俺の前から消えろ」
意味が、わからなかった。
しかし、アタシはその言葉に従うしか無かった。
サーガ様はアタシに抱き上げられると、「う?」という不思議そうな声を上げた。
「睡眠の邪魔をしてしまい、申し訳ありません……」
非常時だ。心苦しいが、仕方無い。
そして、走り出そうとしたアタシに、男はこう言った。
「……『選択』を、誤るなよ」
あの男が何故アタシを、サーガ様を見逃したのかはわからない。
しかし、それを問い質している間に、あの男の気が変わっては不味い。
腑に落ちない事はあるが、何より優先すべきはサーガ様の安全だ。
あのお方が倒れ、その配下もほぼ全員が同様。
それを知れば、これを好機と連中はここに攻めてくる。
アタシ達の居場所を、侵略するだろう。
今まで、アタシ達がそうしてきた様に。
アタシは走った。
いざと言う時の避難ルートは、あのお方から教えられていた。
城を抜け、真っ直ぐに、そのルートへ向かった。
「……!? 何で……!?」
しかし、そのルートは既に連中が網を張っていた。
「ッ……!」
運の悪い偶然か、アタシが自分で思っているよりも数段鈍間だったのか。
最早この際どっちでも良い。
もう、あのお方が残してくれた道は使えない。
樹海を抜け、人目を忍んで夜の町を抜け、更に森の中を走る。
そして、何日か走り続けて、限界が来た。
それもそうだ。
僅かに持ち出せた水と食料は全てサーガ様のために使い、アタシはその間、絶食絶飲だったのだから。
余りにも我が身を顧みな過ぎた。
その結果が、食料や水を探す体力も無く、森の中をフラフラと彷徨い歩くしかないという事態を招いた。
サーガ様は元々、余り泣かない。
だが、今はそういう問題では無く、ただただ衰弱して泣けなくなっている。
まだ一歳と少しなのだ。一日の絶食でも生命に関わるのは当然。
春が始まったばかりという時期柄のせいで、木ノ実の類も見当たらない。
野草を食えない事も無いが、栄養価は限りなく低い。それを咀嚼する体力を使って一歩分でも進んだ方が効率が良い。味が酷いのは言わずもがな、サーガ様は口に含む事も拒むだろう。
近場に水源も無い様だ。
お願い、誰か助けて。誰でも良い。
アタシはいいから、どうか、サーガ様を……
そんな時、アタシの目に、禍々しい光が見えた。
魔力、だ。
アタシは生まれつき、魔力を『見る』事ができる特異な目を持っている。
いわゆる『
向こうに見える、凄まじい魔力。
あのお方程では無いが、あのお方の側近クラスはある。
魔人に違いない。
ならば、サーガ様を助けてくれるはず。
サーガ様の、心強い味方になってくれるはず。
薄れる意識の中、アタシはただただその魔力の方へ歩を進めた。
そして―――
謎の魔人少女と赤ん坊を抱え、ロマンとセレナはリビングへと飛び込んだ。
「んお? 何だ何だ?」
休憩中だったらしいゴウトの間の抜けた声。
その手には、湯気を立てる白い液体の入ったカップ。ホットミルクだ。
「丁度良いです、父さん、それを寄越してください」
「ん、まぁいいが、一体何の騒……、! どうしたんだ、その子」
セレナが抱いている弱りきった赤ん坊に気付き、ゴウトも異常事態を察した。
「とにかく栄養摂取です」
セレナはスプーンを使い、ホットミルクを赤ん坊の口へと流し込む。
赤ん坊は最初、けほけほと少し咳き込んだが、弱々しくも腕を持ち上げ、おかわりを要求し始めた。
……どうやら、赤ん坊の方はギリギリ大丈夫そうだ。
「こっちはどうする?」
「とにかく、ソファーに寝かせておこう……この子もこの子で、かなり衰弱しているな。ロマン、シルビアを呼んで来てくれ。俺は医者を連れてくる」
彼女の治療魔法で応急処置をするつもりなのだろう。
ロマンはゴウトの指示に従い、シルビアの部屋へ向かった。
「うぶ」
流石は魔人、という事なのか。
ミルクを与えて二時間もしない内に、赤ん坊は元気を取り戻していた。
泣く様子は無いが、先程からセレナの腕の中で「あう」だの「うぶ」だの「うっぷす」だの意味のわからん声を上げている。
こちらを見据える子供っぽくない落ち着いた目つきが、何となくふてぶてしい。
ジト目、と言うのだろうか。見る対象を完全に舐め腐っている様な感じがする。「赤ん坊らしい可愛さ」というモノを損なっている気がしないでも無い。
まぁそれでも総合的に可愛いか可愛くないかで言えば、断然前者ではあるとロマン的には思うが。
一方、少女の方は未だ意識不明だ。
ゴウトが急いで、と言うか半ば拉致する様な勢いで連れてきた町医者は「まぁ、様子を見るしかないですね」と点滴を施して帰ってしまった。
ただの空腹と疲労による気絶では、医者の出番は無い、そうだ。
現在は点滴と並行し、シルビアの魔法で少女の身体能力を底上げ、覚醒を促している状態だ。
そんな中、「だぼん」と今までと毛色の異なる声を上げた赤ん坊。
何やらロマンの方を指差している。
「だぼん」
「……俺はそんな名前じゃねぇぞ」
ロマンは自分の名前に誇りを持っている。
そんな呼び名は断じて認めない。
「やう」
「やうでもねぇ」
「だぼん」
「………………」
「だぼん、だぼん」
誰か「だぼん」の意味を教えてくれ、とロマンは溜息。
なんだか無性に気になってきた。
「どうやらロマンさんに興味がある様ですね」
「俺に?」
変わった赤ん坊だ。とロマンは思う。
自慢では無いが、ロマンは生まれてこの方、特別赤ん坊に好かれた事は無い。
嫌われる訳では無いが、今まで出会った赤ん坊の中で、あえてロマンに寄ってくる子はいなかった。
つまり、赤ん坊界共通のセンス的に、彼は非常にナンセンスと言う事だ。
そのロマンをご指名とは、変わり者以外の何者でも無いだろう。
まぁ何だ。ロマンが何を言いたいかと言うとだ。
良いセンスしてるじゃないかお前、と言う話だ。
不思議と、さっきよりも可愛らしく思えてきた。
「ちゃんとお尻を抑えて抱っこしてくださいよ」
「ああ、何だっけ、足を宙ぶらりんにさせてると、腰が抜けやすくなるとかだっけか?」
「その辺は知りませんが、赤ん坊的にもそれが楽でしょう」
そんなやり取りをしながら、ロマンは赤ん坊を受け取り、抱いてみる。
思っていたよりも、赤ん坊には重量感があった。
それにどこを触ってもプニプニとしていて何だか心地よい。体温も良い具合に暖かいという感じ。
うん、悪くない。とロマンはちょっとした満足感を覚える。
「何か嬉しそうだな、ロマン」
「ん? あぁ、いや、まぁ…なんつぅか……」
「ヤンキーは大概、小さい生き物が好きですからね」
「誰がヤンキーだコラ」
小さい生き物が好きだと言う事は否定できないが。
「…………んぶ」
「おい、何だその『何か思ってたのと違うけど、まぁいいや』的なリアクションは……」
一体、この赤ん坊はロマンに何を期待していたのだろうか。
「のう、だぼん」
「おい、尻尾でぺちぺちすんのやめろ」
何やら、赤ん坊は小さな尻尾でロマンの手を連打し始めた。
一応、何かを伝える様に「だぼん」とか「んち」とか言っているのだが、当然ロマンには何言っているのかさっぱりわからない。
その時だった。
不意に赤ん坊が黙り、小刻みに震えだした。
……そして、すっきりした様な表情を顕にする。
「……んち」
……ああ、今回ばかりは何が言いたいかわかった。
「つぅか、どこから排泄物を錬成したんだお前……」
二時間程前までは餓死寸前だった癖に。
「そんな事を言ってる場合ですか」
「あ、そうだな」
今赤ん坊の尻はスクランブルした排泄物で汚れてしまっているだろう。
早めに対処してやらなければ、モチモチだろうお尻がかぶれてしまう。
「でもよセレナ、この家、紙オムツあるのか?」
「ある訳無いでしょう」
それはそうだ。
赤ん坊もいない家に、オムツなんぞあるわけ……
「あるぞ」
そう言って、ゴウトは一枚の紙オムツを差し出して来た。
「……聞いといてあれだが、何であんすか」
それも、そんなスっと取り出せる状態で。
「そこのお嬢ちゃんの身元がわかりそうなモン探してたら、出てきた」
「はぁ? 何でまた、紙オムツなんて持ち歩いてんだ……?」
それも出てきたのは一枚や二枚どころじゃ無かったらしく、彼女が眠っているソファーの下に何枚か積まれている。
「つぅかそもそも、何でこの子は赤ん坊を抱えて行き倒れなんぞしてたんだ?」
ここでロマンは最大の疑問を口にする。
「わからん。……だが、時期的に大よその見当は付く。多分、『魔王軍』の関係者だろう」
「魔王軍って……魔王の軍隊って事か?」
言葉の響き的に、そう考えるのが妥当だろう。
「魔王を討った連中が、魔王だけを潰したとは考えにくい。魔王を討つために、城や、その周辺の集落にある戦力も潰したはずだ」
「乗じて、国も動いたはずです。魔王軍を完全に叩き潰すために」
「それから逃げるために、必要なモンを持てるだけ持って飛び出して来た、って所だろうな」
「……!」
魔王は危険。魔王軍も危険。間違っても再建などしない様、徹底的に叩き潰す。
そうした殲滅戦の戦禍から逃れるため、この少女は逃げ回っていた。
こんな少女が、赤ん坊を抱いて、怯えながら放浪していた。
必死に、必死に、力尽きて倒れてしまうまで、ずっと。
そうせざるを得ない状況だった。
魔王の死が、そんな状況を作り上げた。
「……………………」
ロマンは、魔王を倒そうとしていた。魔王を倒したいと、心の底から願いながら日々鍛錬を積んでいた。
こんな状況になる事を、自分は願ってしまっていたと言うのか。
「……ッ……」
心臓が、静かに軋んだ気がした。何かが、胸の奥に刺さった様な感触を覚える。
抱きかかえた赤ん坊の重みが、少女の苦しそうな寝顔が、更に胸の奥まで抉り込んで来る。
「ロマンさん……? 体調でも悪いんですか?」
「ぁ、いや……」
「……ロマン、お前今、妙な事を考えてるだろう。魔王の事で」
「…………!」
流石は人生経験豊富な中年と言った所か。
ゴウトはロマンが何を考えているのか、大体察したらしい。
「何を勘違いしてるんだ、お前は」
「え……?」
「お前の目的は、魔王を倒す事だろ? 魔王を倒すだけなら、こんな事にはならなかったはずだ」
ロマンの目的は、あくまで『魔王を倒す事』。ロマンは、魔王を『倒す』だけで良かった。
ゼンノウも言っていたが、魔王を殺さずとも「負け」を認めさせてしまえば、ロマンは元の世界に帰れたのだ。
ロマンがやろうとしていた事は、決してこの少女や赤ん坊を追い詰める行為では無い。
「お前が自分を責めるのはお門違いって事だ。気に病む事は何も無い」
「……あ、あぁ……」
ゴウトが気付かせてくれたおかげで、ロマンは胸に覚えた痛みから解放される。
「んち!」
と、ここで赤ん坊が催促する様に声をあげた。
「っと、忘れてた」
いつまでも尻が汚れたままでは、赤ん坊も落ち着かないだろう。
「んち! んち! んち!」
「忘れて悪かったって。尻尾ですげぇペチペチすんのやめろ」
さっさとオムツを替えてやるとしよう。
しかしながら、ロマンは赤ん坊のオムツを替えた経験など無い。ノウハウは皆無。
なので、二児の父であるゴウトに赤ん坊をパス……しようとした。
「……おい」
「うぶい」
赤ん坊は小さな手でロマンの袖を掴み、更には尻尾をロマンの手首に巻きつける。
離すものか、という気概が伝わってくる。
「何の真似だこの野郎」
「だぼん。てう!」
……何だろうか、「一度は抱いたんだから責任取ってよ!」的な目をしているのは、ロマン的には気のせいだという事にしたい。
大体、それならセレナだって抱いたでは無いか。
小学生間のお菓子のゴミ的なノリだろうか。最後に触った奴が責任持つ感じのアレ。
「どうやら、お前にやって欲しいみたいだな」
「いぃ!? 俺オムツなんて替えたこと無いんすけど……」
「なら教えてやろう。ほれ、タオルケット敷くから、まずそこにその子寝かせろ」
「お、おう……」
と言う訳で、ロマンは初めてのオムツ替えに挑戦する事になった。
数分後、無事オムツを替え終わり、赤ん坊は満足げに「なう」と鳴いた。
「……………………」
思っていたより、臭かったな。とロマンは溜息。
オムツを開放した瞬間、軽く
まぁ、そりゃあ臭いだろう。腹の中で発酵したミルクの成れの果てなんだから。
セレナもやや眉が歪んでいたので、同様の感想を抱いているはずだ。
ゴウトだけが「おーおー結構出てるな」と余裕綽々だったのは、やはり経験の差か。
「だぼん」
またロマンを指差している。
だぼんは、ロマンを差す際、もしくは「お前、俺を抱いてみろよ」のどちらかの意図で使われるらしい。
「……ったく……」
人に苦行を強いて置いて、何様のつもりだ赤様め。
そう思いつつも、やはり赤ん坊に求められると嬉しい訳で。ロマンはそそくさと赤ん坊を抱き上げる。
「うい」
まるで「苦しゅうないぞ」とでも言いた気だ。
実に生意気でふてぶてしい。だのに何故か可愛い。悔しい、でも愛でちゃう。
こんなの反則だ。
「辟易とした溜息吐きつつも、どこか幸せそうだな」
「やはり、ロマンさんは雨の日に捨て犬や捨て猫に傘をあげて自分は濡れて帰るタイプですね」
「なっ、なんでそんな事までわかんだよ……」
確かにそれやった事あるけども。
「ぶぃー」
「お、何やら眠そうですよ」
「よし、ロマン。揺すれ。優しく繊細にな。今からお前はただの揺り篭だ。それ以外の何者でも無いぞ!」
「え、えぇ? あ、いや、お、おうよ!」
こうして、ロマンは揺り篭になった。
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