大きな虎から全力で逃げる第2話


 いつの間にか、ロマンは青々しい草々のカーペットの上で大の字に寝転がっていた。


 霞んで見える程の高さを持つ枝葉の天井、そこから疎らに差し込む暖かそうな山吹色の木漏れ日。

 鼻腔いっぱいに充満する草や土と言った自然の匂い。

 全身をひんやりさせるグショ濡れの衣類の感触。


「……………………」


 現状を整理すると、ロマンは全身グショ濡れの状態で、やたらに背の高い木々で構成されている森の中、仰向けに寝転がっている。

 と言う事になる。


「………………は?」


 困惑が留まる所を知らない。

 余りの事に、指一本動かせない所か、瞬きすら忘れてしまう。


「……何故に森?」


 ようやく捻り出せたまともな第一声が、それだった。


 意味がわからん。

 ロマンは、ついさっきまで、橋の上で夕日を眺めていたはずだ。

 だのに、何故か森の中で寝転がってる。しかも、木漏れ日の色から察するに、どう考えても夕方じゃない。


(いや、待て……確か俺……)


 そうだ。記憶がやや混濁しているが、確か、ロマンは橋から落ちたはずだ。

 築年数が軽く四〇年を越え、その間全く整備される事も無く、放置され続けた橋の欄干。しかも、ガキの悪戯の餌食にもなっていた。そこにロマンが体重をかけてトドメを刺し、一緒に小川へと落ちた。


 ロマンは子供の頃、あの小川で姉と一緒に遊んだ記憶がある。子供が安心して遊べる程度には、浅い川だ。そこに、地上数メートルの橋から落下した。

 そしたら森の中に居た? そんな馬鹿な。普通は死ぬだろう。運良く助かっても、全身バッキバキで下流へと流されていくはずだ。


 しかし、ロマンは五体満足。不良共と一戦交えた時の傷以外から痛みを感じる事も無い。

 そして、ここはどうにもあの川の下流と言う感じでは無い。近場に川は無い様だし…何より、こんな馬鹿デカい木々で構成された森、ロマンは見た事が無い。


「……え、何が起きてんの、これ」


 とりあえず、身を起こしてみる。

 やはり、体を動かしても派手に痛みを感じる箇所は無い。

 濡れた衣類が肌に張り付いてちょっと気持ち悪い程度。


「……………………」


 辺りを見渡してみるが、木と草しか無い。見事なモノだと感心するくらい、それ以外に何も無い。

 改めて見ると、木々の背の高さも異常だ。下手な雑居ビルより高い。普段見慣れた木とは規格が違い過ぎて、遠近感がおかしくなりそうだ。一体樹齢何百年物なのか、想像も出来ない。


「おかしい……」


 今更口にする事でも無いだろうが、本当におかしい。

 川から落ちて森にいるって時点で大分おかしいが、まず、あの状況から無傷で生還していると言うのもおかしい。

 何か偶然そうなった、と片付けるには、いくら何でもおかしな点が多過ぎる。いくらシンプルシンキング至上主義のロマンでも看過できない。


「ん? 待てよ、もしかして……」


 そもそも、俺は本当に生きているのか?

 と言う、すごく根本的な疑問がロマンの脳内に浮かぶ。


 確かに、今、ロマンの五感は正常に機能している。

 これは生きている感触と言えるだろう。


 だが、ロマンは当然ながら、今まで死んだ事は無い。なので、死んだ後の事なんて全く知らない。

 もしかして、死後も生前とは感覚が変わらないのでは無いか。そして、この森はいわゆる死後の世界なのでは無いか。

 それなら、色々と辻褄を合わせる事が出来るのでは無いか。


「……………………」


 あ、ヤバい。それっぽいかも。


(ちょっと待て、は? いや、無い。それは無い。あったとしても駄目だろそれ。だって俺まだ一六歳だぞ?)


 人生を八〇年と考えるなら、まだ四分の一も生きちゃいない。

 それなのに、あんな阿呆みたいなきっかけで死ぬなんて、悪い冗談にも限度と言う物がある。


「……そうか、わかった。夢か」


 そうだ。夢だ。ここは夢の世界だ。

 やたら感覚がリアルだが、きっとそうに違いない。それ以外に有り得ない。


 きっと、欄干に肘を預けたままうたた寝…いや、そもそも今日一日の出来事が全て丸々夢だろう。

 目が覚めれば、ベッドの上だ。で、スマホの画面を確認して「遅刻じゃねこれぇぇ!?」と叫び飛び起きる。

 そんな朝が待っている。だから早く目を覚ますんだ。


 そう強く念じながら、ロマンは自身の頬を全力でつねる。

 超絶痛い。めっちゃ痛い。半端なく痛い。そろそろ勘弁してくれ。


「…………………………」


 駄目だ、覚醒の時は来ない。


(そうだ、姉貴! 姉貴にモーニングコールを頼もう!)


 と言う訳で、スマホを取り出してみる。……電源が入らない。

 今流行りの格安スマホだ。当然、防水機能は鼻クソ程度。普通に死んでやがる。


「あー……うん、もうアレだ。ちょっと待ってくれ」


 駄目だ。本当に駄目だ。

 ロマンは目眩を覚え、頭を抱えて俯いてしまう。


 自分でもわかる。確実に混乱している。

 冷静に状況を整理しても、何の答えにもならなくて混乱が加速していく。


(落ち着け……目の前の事実だけを整理しろ……考えるのは今やるべき事だけで良い……!)


 自分に言い聞かせる。

 そうだ。例えば、目が覚めて周りが火の海だったとする。

 何故、自分が火の海の中心にいるのか、必死に考えてその原因を突き止めたとしても、安全な場所にワープできる訳では無い。

 その状況でまず考えるべきは、『原因』では無く『対策』、つまり火の海から脱出する方法。


 ロマンの現状も同じだ。

 考えるべきは、何故自分がここにいるのか、ここは一体どこなのかでは無い。

 可及的速やかに、自分が理解できる状況へと至るための方法だ。


 まず、シンプルに、必要最低限の情報整理を行う。

 混乱に陥らない様に、本当に最低限の情報だけを抽出する。


 ここは森。ロマンは五体満足。

 森は大地の上にあり、大地があれば、ロマンは歩ける。

 この世に無限に続く森は無い。歩き続ければいずれ森は切れる。

 森が切れれば、何がある? 普通に考えれば森以外の何かだ。

 草原、荒野、海……人里。


「……よし……!」


 まずは森を出る。そうすれば状況は動く。

 今はそれ以外の事を考えるな、混乱するだけだ。


 目の前の事、今やるべき事さえはっきりすれば、ロマンは動ける。

 一〇年以上もそうやって生きて来た。いわば得意分野だ。


「っしゃぁ! そうと決まれば……」


 勢い良くロマンが立ち上がった、まさにその時だった。


 ロマンの目の前に、何かが降って来た。

 とてつもなくデカい何かが、高い木の上からロマンの前に飛び降りてきたのだ。


「……………………」


 ずぅん……と腹の底にまで振動が伝わる地響き。

 踏み散らされ、舞い上がる緑の草々。

 視界を覆い尽くす、黒と黄色のストライプ。


「ごうぁぁ……」


 獣らしい低い唸りを上げたそれは、どこからどう見ても、虎だった。

 しかも、デカい。虎と言うのはネコ科の中でもデカい奴だが、もうこれはそう言う次元の話じゃない。

 まるで山だ。見上げるのがしんどいと思う程に巨大。ロマンが二人いても、一口で両方飲み込まれてしまうだろう。


「あ、あははは、あはははははは……」

「ごうあ」


 ロマンと虎の視線が交差する。

 その時、ロマンはある事を思い出した。

 それは、ロマンが通うトキメキ学園に住み着いている野良猫のトラジロウの事。


 ロマンがメロンパンの袋を開けた時、トラジロウは「おうおうおう、もしかしてそれ美味いモンと違うか?」と、そのくりっくりのお目目を期待で輝かせていた。

 今、目の前にいる虎の瞳の輝き方は、トラジロウのアレと一緒だ。


 要するに、ご馳走を目の前にしたネコ科の目。


「あはははは、あぁあああぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁあああぁぁッッッ!?」


 と言う訳で、ロマンは全力で踵を返し、走る。


 この虎は一体なんなんだ、デカ過ぎるだろお徳用か。


 もうそんなんどうでも良い。今、何よりも優先すべき事は逃げる事だ。一考するまでも無い。

 戦おうなんて欠片も思わない。生物としての性能差が一目瞭然過ぎる。小手先の体術でどうにかなる次元の差じゃない。

 ロマンは確かに常人の三倍くらいは血の気が多いが、死にたがりと言う訳では無いのだ。

 走るべき時は、走る。


「ごるぁッ!」


 何逃げとんねん!

 そう言わんばかりの咆哮と共に、ズシンズシンと言う巨大な足音が背後から追ってきた。


 ヤバい、絶対に追ってきてるこれ。

 ああ、あの時、トラジロウに迫られた俺のメロンパンはこんな気持ちだったのか。


 ロマンはメロンパンの気持ちを涙が出そうなくらいに理解した。


「チクショウ! 何だこの仕打ちは! 神様は俺の事が嫌いか!?」

「ごぉああ」


 そうかもね、と虎が応えてくれた気がした。ふざけんな。


「ごあ! ごうあごあ! にゃごらぁ!」

「クソ、クソ! チクショウ! がっつきやがって肉食系がッ!」


 普通に考えて、ネコ科の移動速度にヒト科が勝てる訳が無い。

 しかも相手はあの巨躯だ。一歩一歩で進む距離が桁違い。

 ロマンに逃げ切れる希望など皆無。


 逃走劇が始まって僅か一〇秒程で、虎の凶爪がロマンを仕留めるべく振り上げられた。

 射程範囲内、当てられる。そんな確信を以ての一撃。


 自身を覆う虎の影の動きで、ロマンもそれを察した。


 ああ、これは死ぬ。絶対に死ぬ。


「ッ、がぁあああぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!!」


 最後の足掻きに、ロマンは跳んだ。

 気分的には、既に捕球済みの大柄キャッチャーが待つホームへと飛び込む小柄な三塁走者。九割九部九厘の死が待つ絶望のクロスプレー。

 それでも、一厘の生還を信じて、跳んだ。


「……え?」


 不意に、ロマンの視界が暖かな山吹色の光で埋め尽くされた。

 全身を這う奇妙な感触。下から、ふんわりと押し上げられている様だ。

 実際、何か妙な力が働いているらしい。ヘッドスライディング体勢のまま、ロマンはプカプカと浮かんでいた。


「え、えぇえ……えぇえええぇぇぇ……?」


 全方向、どこを見ても山吹色の光。

 優しい色合いだが、ここまで来ると目に喧しくも思えてしまう。


 背後を見ても、山吹色の光に満ちた謎空間がただ静かに広がっている。

 森も、虎も、僅かな名残すら残さず、不思議な光に塗り潰されていた。


「何だ、ここ……」


 とりあえず、いつまでも浮いているのもアレだ。

 モノは試しに、足を下ろしてみる。足元も光に満ちていて、目に見える大地は無い。だが、足の裏にしっかりとした感触を感じた。立てる。足踏みも出来る。


「おめでとうございます」

「!」


 不意に響いたのは、大らかそうな印象を受ける女性の声。ほんわかした感じだが、しっかりした何かも感じる。包容力に満ちた優しい声だ。


「よくぞ、この『渇望の森イヒヴェル・バルト』を踏破クリアし、私の元へと辿り着きましたね」

「く、りあ……?」


 声に続き、光の空間に人影が現れた。


「!」


 美的感性に富んでいる訳でも無い…むしろ貧相な部類のロマンですら、思わず息を飲んでしまう。

 とても美しい。例えるなら、磨き抜かれた宝石。そんな女性が、そこにいた。きっと、この人の美しさはどれだけの時を経ようと枯れる事は無いのだろう。何故か、そう思わされる。

 これだけ美しいならもう物理法則なんて軽く捻じ曲げてしまえるんじゃないか。素でそう思えてしまうくらい、神秘的なのだ。


「私はこの森の女神……人は私を『便利な神ゼンノウ』と呼びます」


 ゆっくりとした口調での自己紹介。

 不思議な声だ。さっきまで混乱の連続で台風の海みたいな状態だったロマンの心が、半ば強制的にリラックスさせられる。

 冷静になって、いや、冷静にされていく。


「さぁ、あなたの願いを言いなさい」

「え?」


 女神を名乗るその女性は柔らかな微笑みを浮かべ、ロマンに告げた。


「『私の元に辿り着いた者の願いを叶える』……それが、私の役目です」


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