3 山神の巫女

 驚愕の怒鳴り声に思わず振り返ると、一人の兵士が鎧をガシャガシャと言わせながら走って来ていた。襟元の徽章は俺より一つ上位の組織への所属を、つまり王国軍の一般兵であることを示していた。

 そして驚いていたのはその兵士だけではなかった。もう一度目の前の少女を見て、俺は開いた口が塞がらなかった。

「ライラ、様? や、山神の巫女の……?」

この時ほど血の気が引く思いをしたことはない。国の守護神たる山神に仕え、その声と姿を知ることのできる唯一無二の存在。知らなかったとはいえ、王に並ぶほど神聖視されている人に、ぞんざいな態度を取ってしまったのだ。

 素直に謝罪すれば死刑ぐらいは免れられるだろうかとか、下手すると王国軍にいる親類も糾弾されるのではとか、確かそんなことを数秒の間に考えたと思う。

 だが実際はこの通りだ。冷静になれば、その兵士は向かい合っている様子しか見ていないし、幼いライラ様が告げ口という発想に至ると思えないことも、すぐ分かっただろうにな。


「あー、そこのお前は警備の幼年兵か?」

「は、はいっ!」

「見回りご苦労。ライラ様が外にいらっしゃったことは他言無用だ。こちらでお部屋へ連れ帰るから、通常任務に戻れ」

「はっ!」

 これで終了だった。兵士が来た時、ライラ様に目線を合わせようと跪いたままだったのも、お咎め無しで済んだ理由の一つだったかもしれない。当時はそう考えて片付けた。……今なら、本当の理由は察しがつく。

「さあ、戻りますよ。もうすぐお祈りの時間です」

「……はい」

ライラ様の手を引く兵士は、せかせかと歩いて行った。ライラ様は身長差で引っ張り上げられながら、ほとんど走っていた。時々躓いていたようにも思う。

(あれでは大変だろう。急ぐのは分かるが、もう少し合わせれば良いのに)

そう思うだけで何もしなかった俺も、兵士と同じだった。

 上辺だけの敬意で、ライラ様のことを何一つ思い遣っていなかった。結局一度もライラ様が感情を出さなかったことすら、気づかないほどに。あの場に今の俺がいたら、間違いなく兵士共々張り倒していた。


 だがまあ、その日の任務が終わって神殿の門をくぐった際、一つ気づいたことだけは幸いだった。

(出てすぐの所に咲いているじゃないか、レーベンリンドウ。何が「知らない」だ)

門柱のすぐ横に見慣れた小さな花があった。敷地から一歩出ただけで見つけられる物を、見たことがないなど有り得ない。せっかく嫌な喩えを使ってまで答えたのに、完全否定されたことを少々根に持っていた。子供相手にと思うだろうが、俺はそれほど我慢強い性格でも子供好きでもないからな。

 だから翌日、レーベンリンドウの造花を懐に隠して任務に行ったのは、ほんの気紛れだった。もし偶然会ったなら、花にも「あお」はあるのだと証拠を見せようという、子供っぽい憂さ晴らしのつもりだった。それぐらいなら失礼にはならないだろうと。普段なら気にも留めないことに拘って行動したのは、何だったのか。


 やはり巡回中に、空を見上げている小さな人影を見つけた。足音に気づいて振り向く動作も、昨日と全く同じだった。俺も同じ様に、膝を折って目線を合わせた。

「また会いましたね。今日は外に居ても良いのですか?」

昨日の兵士の様子から察するに、本当は一人で建物から出てはいけなかったのだと思った。だから一応確認してみたのだが、ライラ様は少し俯いただけで何も言わなかった。恐らくあの後叱られたのに、また出てしまったのだろう。

 中へ戻るよう促す前に、俺は用事を済ませようと造花を取り出した。目の前に差し出すと、目を瞬かせて食い入るように見つめていた。

「……あお」

「そうです。これは作り物ですが、昨日言っていた花ですよ」

心なしか目を輝かせているように見えた。同じぐらいの年頃の少女たちは、よく飽きもせず摘んでは喜んでいたので、ライラ様も好きだろうぐらいの単純さで考えていた。

「青い花。見たこと、あったでしょう?」

 ほんの少し、得意気に言ってみせた。俺の言ったことは嘘ではないと教えてやりたかった。だがそんな些細な復讐は、失敗に終わった。


「……ない。はじめて」

 返って来た言葉が嘘だとは、なぜか思えなかった。

「かわいい。……おそと、いっぱいある?」

 なぜなら、初めて、笑ったんだ。よく見なければ分からないほど小さく口角が上がっただけだったが、そんな些細な変化すら劇的に思えるほど、それまでは何も無かった。


 それを嬉しいとは思わなかった。むしろ知らない方が良かったことに気づいてしまって、後悔したぐらいだった。昨日の事はあれで終わりにしておけば、ライラ様を取り巻く環境への疑問など、一生抱くことはなかっただろう。

(外に出たことが、無いのか。すぐそこに咲く花すら見たことが無くて、世の中に「あお」はありふれたものだということも、知らないのか)

 予感はあった。子供らしくない無表情。抑揚の無い声。だが昨日の時点までは、変わった子供だという認識で済ませていた。高貴な存在が引き摺られるようにして連れ戻される理由など、知れば面倒な事になるのは目に見えている。避けるべく、無意識に深く考えないようにしていたというのに、なぜ俺は余計な事をしたのだろうと、数分前の自分を責めた。


「……これは差し上げますから、中へ戻りましょう?」

 外について教えるのは、きっと残酷なことだろうと、あえて問いには答えなかった。


―――――

「なんか昔のロイド、冷たくないか? あ、でもライラのために教えないってことは、優しいのか? うーん」

「性格がだいぶ変わった自覚はある。あの頃は余裕が無かったからな」

「ヨユー?」

「……ライラ様に深く関わりたくなかったのも、それが理由だ。正確には、背後にいる国に目を付けられたくなかった。ただでさえ妙に名が広まっていたからな」

―――――

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